善光寺街道(北国街道)④
2011年8月24日
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4日目にしてやっと晴れた。少々暑いが丹波島宿から犀川を渡り、善男善女が行き交う善光寺までの道のりを楽しんだ。
【ル-ト地図】
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隣に蚕神の石塔が並んでいる。
蓮香寺 《地図》
長野オリンピックでドイツのゲストハウスとなったそうだ。
蓮香寺の手前の火の見が立つ所が茶屋本陣跡で、右に入った南原公民館の所に、「明治天皇小休所跡碑」が立っているようだ。
節婦おせんの顕彰碑(右端)は、明治4年に今井村の農民の妻のせんが、東京から来た祈祷師に言い寄られたが撥ね付けたため殺害された。国は金を下賜して表彰したそうだ。
親鸞上人旧跡碑 《地図》
奥が唯念寺
中央に小さな観音像と右に延命地蔵。堂の外に徳本名号碑がある。
慶長16年(1611)、松平忠輝はそれまで松代道(北国東往還)が正式の北国街道であったのを、矢代宿、丹波島宿から善光寺へのコースを正式の北国街道とし、丹波島宿を伝馬宿に指定した。
於佐加神社 《地図》
右は石柱の上に乗せられた秋葉社。洪水で流されるのを防止したのか?
住宅街だが所々に宿場風情が残っている。
舟渡し(綱渡し)→舟橋→木橋→鋼橋→現在の橋と変遷した。
渡し舟の時代:対岸を結んだ綱をたぐりながら舟で渡っていた。
北から裾花川が流れ込んでいる。
帽子を被ったしかめつらをしたおっさんにしか見えないが。
この前に高札場があった。
これもユニークな地蔵さんだ。「安産子育安穏延命長寿」だそうだ。
本尊の吹上如来は善光寺の建築用材を犀川から陸揚げする時、南風を吹かせて木材を揚げやすくしたという。
ここに茶屋があり、そばと餅が名物だったそうだ。
洪水で流されそうになった善光寺造営用の木をこの地の神がこのあたりに留めたという。大ケヤキは弱ってきているようで、「近寄らないで」との注意書きが貼ってある。
建久8年(1197)、源頼朝が善光寺参詣の際に創建。本尊の髻(もとどり)馬頭観音は、頼朝が石橋山の合戦で敗れ、木の洞に隠れた時、白鳩に化身して飛び立ち危難を救ったという。また政子の守仏の厄除正観音菩薩像を安置している。
この先で街道は途切れる。JR線のガードをくぐって反対側に出る。
こうじや
味噌と醤油の店
先月、唐津街道の博多で石童(堂)丸ゆかりの地を通ったばかりで、なんとなく親しみを覚える。『高野街道』にもゆかりの所がある。
石童丸の墓(右)・刈萱上人の墓(中)・千里御前(石童丸の母)の墓(左)
栽松院(島の寮)に沿う、栗田街道「しまんりょ小路」 【ル-ト地図】の28
江戸時代には善光寺参道に芝居小屋が連なり、役者はここで舞台に立てないと佐渡まで回らなければならず、「どさ回り」 という言葉が生まれたとか。
文政11年(1828)の創業。
大門交差点で左右に常夜灯が立つ。
善光寺仁王門
右の石橋跡に源頼朝の馬の蹄が入った穴が残る?
なるほど八百屋お七のような若い娘の優しい顔立ちだをしている。
「善」は牛の顔に見えるか?
「戒壇巡り」は以前やったことがある。真っ暗な中、「極楽の錠前」にさわり本尊の阿弥陀如来と結縁し、地獄行きの片道切符は入手済みだ。
善光寺を題材にした落語『お血脈』
参道近くの市立図書館に寄り、長野駅まで引き返し新幹線で帰京した。
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