善光寺街道(北国街道)③
2011年8月23日
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【ル-ト地図】
今日が一番雨の時間が長かったが、千曲川を渡り篠ノ井追分宿まで進んだ。雨で歩きにくいこともあるが、その分涼しいおかげで3日間とも30kmほど歩けた。晴れていればこうは行かないだろう。もう善光寺まではたいした距離ではない。明日は晴れそうだしゆったりした、気分のいい街道歩きになりそうだ。
写真をクリックすると拡大します。
江戸時代初期にたばこの栽培を広めた往海玄古の碑。明治になるまで「玄古たばこ」として、この地の名産品だったそうだ。左端は道祖神。
坂城町の文化活動施設。元は塚田家住宅。この道路向いを入ったあたりに天領中之条陣屋があったらしい。
逆木交差点で右折し、旧格致学校に向かう。
明治初期の擬洋風校舎。現在は歴史民俗資料館。
意外と小さな社だった。
「堂叡山道」とは東方の上田市との境の大道山(1289m)のことだろう。
水野源三(左)歌碑
右は沓掛仲子の「千曲川 ちゞにくだくる 波のうへに うつらふ月の 影の すゞしさ」
その後ろが村上義清の墓所
村上義清墓所
信濃侵攻の武田晴信(信玄)軍を撃破したが、再度、攻められ上杉謙信を頼り、越後へ落ち延びて行った。
坂木宿本陣宮原家門 《地図》
現在は「坂木宿ふるさと歴史館」(旧春日邸)の門。
坂城駅あたりが坂木藩陣屋跡。幕府領→越後高田藩領→坂木藩領→幕府領→明治維新と変遷した。
昭和4年建築の旧春日邸
坂木宿は飯盛女の多い遊興地で、明治に入ってからも坂木遊郭を形成し、坂木甚句が歌われるなど大いに賑わったという。
村上氏居館跡で、村上氏の菩提寺。本尊は鎌倉時代の作という「石造釈迦如来菩薩坐像」(長野県宝)
その上が村上氏の葛尾城跡。
少し戻って右折し、道幅の広い新町に入る。
善光寺常夜灯 《地図》
嘉永6年(1853)に坂端の高橋孫七を世話人に建立。
坂木宿の西口で、ここを右折して行く。
北国街道は右の山腹の断崖沿いを通っていた。「横吹八丁」といわれ、昨日の「岩鼻」と並ぶ難所だった。参勤交代の殿様も駕籠から降りて通ったという。
横吹坂を上り、横吹八丁を通り、榎坂を下って「笄の渡し」あたりに下りたのだろう。
笄(こうがい)の渡し跡 【ル-ト地図】の21
葛尾城落城にまつわる伝説の地。
右の橋は「こうがい橋」
「灯しの松・裾無川・雲井の橋・舟繋石・弘法の八の字・笄の渡・比丘尼石」が「苅屋原の七不思議」だそうだ。「灯しの松」と「比丘尼石」は横吹八丁の真上、葛尾城跡の南方の姫城跡の近くにあるようだ。
泉徳寺 《地図》
裏面に、「夜桜や世に阿類ものの迎馬」のようだ。
岩崎街道踏切を渡り上戸倉宿に入る。
上戸倉宿の家並み 《地図》
下戸倉宿と合わせて一宿として機能していた。毎月、22日から晦日まで宿業務を上戸倉宿が務めた。
無残にも「上戸倉宿本陣」の説明板がゴミ置場に捨てられていると思ったが、ずっと以前からこんな状態で置かれて(放置されて)いるようだ。
ここが本陣玉井家跡で、幕末に小出家に本陣を譲った。
無住のようだ。
廃屋に近いか。
磯部踏切を渡る。
国道18号側に出て左に入る。
この先で国道18号に出る。戸倉交差点の右手が「上の酒屋」とも呼ばれた柳沢本陣跡で、「明治天皇行在所跡」碑が立つというが気づかず。
水上布奈山神社 《地図》
下戸倉宿の鎮守。
下戸倉宿の飯盛女が寄進した石灯籠(右)。左は旅籠屋の主人の寄進。(水上布奈山神社境内の稲荷社)
みんな2文字。
千曲川の向うの佐良志奈神社に向かう。緩やかに上って行くようで、意外と遠かった。
対岸の戸倉上山田温泉方向。
戸倉上山田温泉発祥にまつわる逸話で、赤い「小石」と「恋し」を掛けている。大正橋には100個(99個?)の赤い小石が埋め込まれているそうだ。
佐良志奈神社 《地図》
北朝の永和2年(1376)の銘があるそうだ。南朝方の兵士たちの逆修塚(生前に建てた自分の墓)とも伝えるというが、北朝の年号を刻むだろうか。
「蕎麦料理処萱」もある。「そばきり」で昼食とした。自分ですったわさびが効いて美味かった。
駅入口交差点の右手北側が後の本陣宮本家跡。
「左おばすて・やはた」、月の名所の姥捨山への道。初日の中山道との追分の「分去れ」の碑を思い出した。
この後ろが助問屋跡児玉家らしいが、ブルーシートが掛かっていた。
今井交差点の先で右に旧道に入る。《地図》
ここを右折してしなの鉄道を渡った先の柏王神社にある、宗良親王(信濃宮)の髻塚のこと。この地で病にになり髻(もとどり)を切って快癒を願った。病も癒え髻を地に埋めて旅立ったという。
営業していないか?
千曲駅は気づかずに通り過ぎてしまった。駅の近くに一里塚があったようで、一里塚踏切にその名を残している。
すぐ先の左側に芭蕉塚がある。寂蒔には茶屋本陣があり、千曲川を隔てて姥捨山を眺望した眼鏡場が残っているという。
右手に永昌寺参道を見て、鋳物師屋町を通り、矢代宿へ向かう。
落雷で空洞になったケヤキ
屋代小学校に保存されている擬洋風旧校舎を見るつもりだったが、この先で粟佐交差点から横町交差点に出てしまい、かなり(少しか)通り過ぎてしまったのでパスした。
北国街道松代道の歩き始めに訪れた。ちょうど登校時で、生徒たちに「いい校舎だね」と声を掛けたら、きょとんとした顔で見上げていた。まあ、そんなもんだろう。
藤屋旅館 《地図》
ここを右折し、すぐ先を左折して行く。
右の電柱にに森将軍塚古墳の看板が立っている。ここから1.5kmくらいか。寄って見たかったが、雨だし先が長いのでここもパスだ。まあ北国街道沿いではないから、よしとしよう。
川中島の戦いで上杉謙信軍が夜に千曲川を渡った所で、渡しの跡地には頼山陽の「鞭声粛々夜河を渡る……」の有名な詩碑が建っているそうだ。今の千曲川の流れからはだいぶ離れているようだ。
松代道(北国街道東脇往還)は右へ 【ル-ト地図】の22
江戸時代初期までの北国街道の本街道だった。
「明治天皇屋代御休所」碑が立つ。
この先、矢代の渡し(跡)へ向かう道筋は更埴IC・長野新幹線などで姿を消している。
長い分かりづらい地下道をくぐって国道18号の反対側に出る。屋代小学校の生徒の壁画で飾られている。
ここを出てうっかり長野自動車道へ上る自動車道に入ってしまった。途中でおかしいと気づき引き返す。危ない、危ない。
正面は長野自動車道、上は長野新幹線。
矢代の渡し跡あたりだが説明板はなく、河川敷が広く川の流れは見えなかった(と思う)。本降りの雨となり風も強くなってきて歩きにくい。
新幹線をくぐり、しなの鉄道を渡り、篠ノ井橋まで進む。
篠ノ井橋から千曲川 《地図》
明治天皇の北陸巡幸の際にはまだ橋はなく、軻良根古神社の宮司が天皇を板に乗せ担いで渡ったという。天皇は神だったからまさに御神輿だ。
篠ノ井橋には左右に歩道がついている。右だけにしか歩道はないと思い込み、ずいぶんと遠回りしてしまった。【ル-ト地図】には歩いた経路を示している。対岸に渡って再びしなの鉄道を渡り、新幹線をくぐって軻良根古神社前引き返す。
河川敷が広がっている。右に千曲川の流れが見える。左は新幹線。
①大鼠と壮絶な死闘を演じた唐猫を祀るとも(昨日の鼠宿の所に記事あり)、②「韓根古」で渡来系氏族との関わりがあるとも ③「唐禰子」とも書いて、平安時代以前の貴族の尊称など、いろんな説があるようだ。明治になって養蚕・養種業が盛んになり、ネズミによる被害が死活問題となった。唐猫神社がネズミ除けに霊験あらたかと崇敬され、寄進も多く受けていたという。
ただし、祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)で、長野県神社庁のHPには、(唐)猫のことなどの記述は一切ない。
かつては更科郡の中心地だったのだ。
この先の突き当りで左から中山道の洗馬宿からの善光寺西街道が合流する。
篠ノ井追分宿碑・善光寺西街道(洗馬宿方向) 《地図》
間の宿で正式な宿ではなかったが、追分で矢代の渡しもあり旅人も多く、無許可の旅籠屋もあり結構繁盛していたそうだ。
洗馬宿からここまでは、翌月に『善光寺西街道①~③』で歩いた。
ここからまた新幹線をくぐり、しなの鉄道の踏切を渡って行く。いい加減疲れてきた。
見六の道標(嘉永2年(1849)造立) 【ル-ト地図】の24
指さしの親切な道標。見六橋の架け替え工事中に川の中から発見された。
もとは茅葺だったが、平成16年の台風で被害を受け、何の変哲もない堂に新築されていた。平惟茂の戸隠山の鬼女「紅葉」退治にまつわる縁起の像を安置する。謡曲『紅葉狩』
御幣川五差路・歯瘡医殿 《地図》
交差点向うの左側に歯瘡医殿。北国街道は直進(右斜め)方向。
篠ノ井駅前の通りまで行き、左折して駅に向かった。
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