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2011年9月11日 (日)

房総往還③

2011年8月30日

姉ヶ崎駅(JR内房線)・・・県道287号・・妙経寺・・・大手橋(椎津川)・・・修来館(藩校)跡・鶴牧藩陣屋跡・・・県道24号・・・長遠寺・・・稲荷社・・・姉崎橋(椎津川)・・・八坂神社・(椎津城跡)・・・行伝寺・・・瑞安寺(徳川義軍兵士の墓)・・・(袖ヶ浦市)・・・成龍寺・・・馬場踏切(内房線)・・弘法清水・水神宮・金毘羅神社・・・長浦駅(内房線)・・・密蔵院・蔵波八幡神社・愛宕神社・蔵波城跡・・・蔵波橋(蔵波川)・・・巡礼坂・・・県道287号・・・(内房線)・・・神明社・・・国道16号高架橋(内房線)・・・県道87号・・いぼとり地蔵・・・おふごの森・大六天神社・・・福王神社・・・喜光院・・・袖ヶ浦駅入口交差点・・旧道・・・満蔵寺・・・坂戸橋(浮戸川)・・・旧道・・若宮神社・・・坂戸市場交差点・県道270号・・小櫃橋(小櫃川)・・旧道・・水天神社・・・県道270号・・・(木更津市)・・・(東京湾アクアライン連絡道)・・・高柳八幡神社・・・旧道・・・福寿寺・・・長須賀踏切(JR久留里線)・・・日枝神社・・・薬師堂・・・畳ケ池・・久留里道合流地点・・・観音堂地蔵堂・木更津駅(JR内房線) 

  房総往還②』からの続きです。 『房総往還④』へ続きます。

  【ル-ト地図】(20.9km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2657妙経寺地図

元禄8年(1695)の「おたけ騒動」の儀僕市兵衛の墓と其角の句碑があるというが分からず。

Img_2659鶴牧藩陣屋跡 【ル-ト地図】の①

右の空き地が藩校の修来館跡で、正面の姉崎小学校が陣屋跡。周辺には藩士邸が軒を連ねていたという。今は何の標示もないが手前の大手橋(椎津川)にその名を残すか。

Img_2660用水桶のある旧家

江戸期の姉崎村は房総往還の継立場として栄えた。

Img_2662旧家

Img_2674八坂神社 《地図

右は3本の大ケヤキ。この裏山が「城山」の椎津城跡。椎津三郎の築城とも伝え、天文7年(1538)の国府台合戦以降は真里谷(まりやつ)武田氏の拠点となった。その後、里見氏が支配したが、北条氏政に攻められ、さらに天文18年(1590)徳川軍によって落城した。『歴史の道調査報告書 房総往還』

Img_2670由緒

Img_2672天王さまの大銀杏(八坂神社境内)

樹齢700年以上というボリュームたっぷりの大木。ぎんなんが沢山とれるだろうか。

Img_2675説明板

Img_2679瑞安寺(ずいあんじ)

入口右に百番札所道標、入って左に徳川義軍の墓碑、文殊堂がある。

Img_2682百番札所道標(文政元年(1818))

右側面に「かさがみ道八丁」・左側面に「ここよりちばてら四里八丁」。「かさがみ」はどこか?、「ちばてら」は千葉寺だろう。

Img_2684戊辰戦争での徳川義軍に参加した鶴牧藩士5名の墓碑

Img_2685椎津のカラダミ」(空荼毘)

裏の説明を読まなかった。

Img_2688内房線沿いの道になる。けっこう車の往来があり、歩道は狭く雑草がはびこっていて歩きにくい。昔は内房線あたりが波打ち際だったという。単調な道で陽射しも強く蒸し暑い。雨で涼しかった善光寺街道が懐かしい。

Img_2693成龍寺参道 《地図

この上(南方)あたりが久保田城址で、天文7年(1538)以降に上総椎津城に入った武田(真里谷)信政の築城といわれる。天文21年(1552)に里見義堯・義弘が椎津城を攻略した時に落城し、里見氏の支配下になり、さらに小田原北条市の家臣松田尾張守により落城したという。『歴史の道調査報告書 房総往還』

Img_2701弘法清水(復元) 【ル-ト地図】の②

江戸時代はここは海で、海中から真水が湧いていたそうだ。

Img_2699説明板

Img_2706水神宮・金毘羅社(弘法清水そば)

埋め立てられた地に村内の他所から移転した。

Img_2708蔵波城址 《地図

この城も里見氏に対する備えとして、武田(真里谷)信政が築いた椎津城の出城といわれる。密蔵院、八幡神社、愛宕神社がかつての城域にある。

Img_2713蔵波八幡神社

この上が愛宕神社、下の密蔵院には本多作左衛門重次の墓と伝える宝篋印塔の一部があるというが見当たらず。重次は一時、上総国古井戸に蟄居していた。市原市「潤井戸」、君津市「小糸」ともいう。後に下総国に知行替えとなり、その地で死去した。墓は取手市にある。『取手市の坂

Img_2720巡礼坂(御輿の坂)

ここを左折して上る。手前に地蔵が2体。

Img_2737地蔵

1体は首が欠けている。 造立年代は不詳。

Img_2722坂上方向 【ル-ト地図】の③

昔、この坂で死んだ巡礼者を村人が手厚く葬り、地蔵を建立したという。飽富八幡神社や蔵波八幡神社の御輿が浜に下る時に通った坂で、御輿の坂ともいった。

Img_2727坂下方向

正面に東京湾が見える?

Img_2728坂上近くにも地蔵が立つ。

Img_2730右前の地蔵が文化10年(1813)の造立で、その後ろの欠けているのが天明○年の造立、左側の2体は新しいようだ。 

この先は街道は内房線より海側を通っていたという。

Img_2748神明社 《地図

このあたりが海岸線だったそうだ。境内に置かれた大きな釜に湯を沸かし、そこへ隈笹をひたして参詣者に振りかけ、疫病退散を祈願する「湯立」が行われる。

Img_2755いぼとり地蔵(左)  【ル-ト地図】の④

左上が「おふごの森」で大六天神社がある。

Img_2756いぼとり地蔵 

道標になっていて、右の地蔵  には「右かさもり うしく道 左江戸道」、左の地蔵  には「右うしく かさもりミち 左江戸道」。「かさもり」・「うしく」はどこのことか?

Img_2768大六天神社

かつてはここから海が見え、下を通る船は帆を下げて通ったという。手前の塚が「おふごの森」(福王森)の長見塚か?

壬申の乱で敗れた大友皇子が上総へ逃れ、皇子の一人「福王丸」がこの地に居を構え、死去後に墓が造られたという伝説がある。その墓は長見塚ではないようだが。

Img_2763「おふごの森長見塚」碑

Img_2772福王神社への急な石段

Img_2773福王神社

祭神は福王丸で、「おふごの森」から延宝2年(1674)に当地へ移したという。

Img_2777東京湾アクアライン連絡道が見える。

Img_2782喜光院 《地図

上総国薬師如来霊場の16番で、本堂の右手に薬師堂がある。

奈良輪村は姉崎村の次の継立場で、袖ヶ浦駅入口交差点あたりに問屋場があったという。

Img_2786袖ヶ浦駅入口交差点の先で左に旧道?に入る。すぐに県道に戻ってしまうが。

Img_2787坂戸橋(浮戸川)

手前に地蔵の祠

Img_2790地蔵さん

ちょっと着せられ過ぎで暑苦しいか。

Img_2794旧道

もう夏休みは終わったのか?

Img_2797小櫃(おびつ)川を渡る。(正面は内房線)

かつては渡し舟で渡った。「小櫃」も大友皇子の亡骸をおさめた棺からついた地名という伝説もあるようだ。『君津市の歴史

Img_2801木更津市へ入り、東京湾アクアライン連絡道をくぐって行く。

ここから先、木更津駅までは見所は少なく、蒸し暑くてバテてきた。

Img_2804高柳八幡神社 《地図

Img_2807久留里線を渡れば木更津の市街地は近い。

Img_2812薬師堂 【ル-ト地図】の⑤

Img_2814畳ヶ池 

挙兵して兵を募りつつ北上する源頼朝に、木更津の人々が水辺に畳を敷きつめてもてなしの宴を開いたという。また、頼朝はこの池の葭を箸の代わりに用いたところ、誤って葭で唇を切ってしまい、その葭を池に捨てた。爾来、この池には葭が生えなくなったという。

すぐ先で、木更津から久留里に至る『久留里道』に突き当たり右折して、踏切の手前から木更津駅に向かった。

Img_2818観音堂・地蔵堂(木更津駅東口前)

まだ時間は早いが、木更津駅周辺は次回とした。

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