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2011年10月30日 (日)

土気往還②

2011年10月25日

誉田駅(JR外房線)・・・県道20号・・・恕閑塚・・・(千葉外房道路)・・・越智新田歩道橋(外房線)・・・県道20号・・・地下歩道(外房線)・・土気駅・・・市民センター前交差点・・・旧道・・・白山神社・新宿会館・・・道標・・・(土気トンネル)・・・房総鉄道陸橋跡・・善勝寺・・・貴船神社・・・馬頭観音・・・土気城址・・・クラン坂・・・(外房線)・・・水資源機構・・・県道20号・・・日吉神社・・・池田一本松・・・水神社・・・(大網駅)・・・寄合橋(小中川)・・・大網本宿・・新宿・・・大網駅(外房線)

  【ル-ト地図】(15.5km)

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Img_4794恕閑塚 【ル-ト地図】の①

徳川幕府に弾圧され処刑された、不受不施派の蓮照院恕閑日浄らの墓。西方には処刑した刀を洗った「血洗いの池(刀洗いの池)」があったそうだ。

Img_4793説明板

Img_4798県道から右へ離れ、越智新田歩道橋で外房線を越える。

Img_4803単調な車道歩きで、見所もない。

Img_4807地下道をくぐり、土気駅の北側に出る。土気は人馬継立場だったが、ここは土気の旧中心部からは離れている。鉄道により町の繁栄が奪われると思われていたことと、鉄道により好ましくない人物が村に入り込んで来ると考えたためという。

Img_4812ここを左折してすぐ右折し細い道を上り、白山神社に寄り、土気の旧中心街へ出る。県道を直進すれば中心部を通らず大網に達する。

Img_4816白山神社へ 《地図

薄暗い参道が残っている。ここは土気往還の道筋ではないが。

Img_4817白山神社


新宿会館の名の通り、このあたりは新宿だった。

Img_4821新宿の旧家

土気往還沿いの旧中心街は住宅街になっている。

Img_4822道標(右のガードレールの切れ目) 《地図

このT字路を左折し北宿に入り、すぐ右折し土気城址を目指す。

Img_4826道標(大正5年)の右側面に「正面土気停車場千葉道」、左側面に「←小食土 池田 大網道」。(←は指差し)

Img_4827土気城址方向への広い道。このあたりは松原宿と呼ばれていたそうだ。

Img_4828道標(右) 《地図

ここを右折し下り、外房線の土気トンネルの上を通り、房総鉄道陸橋跡から善勝寺へ寄る。

Img_4829道標(大正5年)

「→当町を経テ停車場に至ル ←金谷 南玉 大網道」

Img_4831_2房総鉄道陸橋跡 【ル-ト地図】の②

明治29年に千葉→大網間が開通し、この区間は深い谷となっていて陸橋が架かっていた。昭和47年に外房線の電化に際し、新たにトンネルが掘られ廃線となった。現在は谷は埋め立てられている。正面が善勝寺の社叢。

Img_4833善勝寺山門

「善勝寺ぐるわ」として土気城の一角をなしていた。

道標まで戻り、土気城址へと進む。

Img_4841貴船神社

Img_4840貴船城(土気古城碑)(石段の下)

Img_4843馬頭観音の小祠と土気城跡の説明板(正面左)

Img_4846馬頭観音

やけに大きい馬頭だが。

Img_4844土気城跡説明板

「日本航空研修センター」は現在、「ひまわりの郷」(高齢者専用賃貸住宅)になっている。

Img_4845城郭図

Img_4848空堀跡(ガードレールの下)

Img_4851二の丸跡

Img_4853本丸跡 《地図

「ひまわり郷」の敷地で入れず。

Img_4847ひまわりの郷

Img_4857クラン坂(クラミ坂) 【ル-ト地図】の③

ここが今日のハイライト、唯一の目玉だ。「クラン」の由来は、①昼なお暗いので「暗ン坂」、②坂上に倉があったので「倉ン坂」、③矢倉の「クラ」、など諸説ある。

ここは土気城本丸東方の搦手口で落城の際の「金谷口」への逃げ道で、所々にある横穴は中世の横穴墓の矢倉ともいう。

Img_4858切通しの上に架かる倒木

Img_4867シダに覆われた切通しの坂を下る。

Img_4873けっこう荒れている。

Img_4877分岐点を右に行く。

Img_4879外房線を渡る。

Img_4883一般道に出て県道20号(大網街道)へ向かう。

Img_4884水資源機構「房総導水路管理所」脇を上って小食土バス停の所へ出る。《地図

Img_4887大網白里町に入る。車が多く歩道がなく歩きにくい。

Img_4888日吉神社 《地図

徳川家康が鎧を掛けたという「御茶屋松」があったという。

Img_4890池田一本松 【ル-ト地図】の④

3代目の松

Img_4892説明板

Img_4895水神社 《地図

このあたりで野良犬?に声を掛けたら後をついて来た。首輪はついてなかったが、毛並のいい日本犬で飼われているのだろう。

Img_4906大網本宿の通り 《地図

近世の大網は交通の要所、近傍の中心的立場で、九十九里浜方面からの海産物、近隣の農産物が集められた。現在は大網駅からはかなり離れ、活気のない寂しい通りになっている。

Img_4904尾張屋

「せともの 漆器」の店(だったか)

Img_4907京葉剥製店

「美術剥製」とガラス戸に書かれている。

Img_4918大網城址方向 【ル-ト地図】の⑤

登城の道筋が見当たらない。①大網小学校(正面)の校庭内裏から城跡の日吉神社へ上れるようだ。また、②本宿バス停から民家の敷地内を通って主郭あたりの浅間神社へ上れるらしい。いずれも後日調べて分かったことで、あえなく落城、後の祭りだ。名のある坂なら「坂道散歩」の面目丸潰れだが、城だからね、まあいいか。

Img_4913新宿の通り 《地図

ここもぱっとしない通りだ。

Img_4912旧家

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2011年10月29日 (土)

土気往還①

2011年10月24日

本千葉駅(JR内房線)・・・房総往還・・・旧東金街道分岐点(大和橋交差点)・お茶の水跡・(猪鼻城跡)・・・病院坂・・・千葉大医学部・七天王塚・・・青葉の森公園・舟田池・旧東金街道・・県道20号・・・(京葉道路)・・・道標地蔵・松ケ丘バス停・土気往還分岐点・・・(松ヶ丘小学校)・・・鎌池公園・・・千葉東病院・・・県道20号・・・鎌取配水池・・・鎌取十字路・・・(鎌取駅)・・・(JR外房線ガード)・・・野田上宿・・野田十字路・・誉田八幡神社・・中宿・・五日堂・・・誉田駅(外房線)

 千葉市中央区の大和橋(都川)を渡って左折し房総往還から分かれ、鎌取、誉田(野田)から土気、大網までの土気(とけ)往還を2回で歩く。かつては外房、九十九里海岸からの海産物などの重要な輸送路だったが、今はさほど面白味のある道筋ではない。

 参考:『歴史の道調査報告書 土気往還』(千葉県教育委員会) ・ 『房総往還②』にも記事あり。

 【ル-ト地図】(13.2km) 

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Img_4728土気往還説明板(青葉公園内設置のもの)

Img_4691旧東金街道分岐点 【ル-ト地図】の①

房総往還は直進、旧東金街道(途中までは土気往還と同じ道筋)は左折し、お茶の水跡の前を通り、旭橋交差点を右折し、病院坂を上って行く。

Img_4696病院坂を上る。【ル-ト地図】の②

千葉大医学部付属病院方向へ上る坂。正面奥は猪鼻(千葉)城跡千葉市立郷土博物館

Img_4702七天王塚①(千葉大構内) 《地図

猪鼻城の大手口に千葉氏にゆかりの北斗七星の形に配したとも、千葉氏兄弟の墓ともいう。また平将門の「七騎武者の墓」という伝承もある。

Img_4701説明板

Img_4707七天王塚②(千葉大構内)

Img_4710七天王塚③ (街道沿い)

残りの4つは探さず。

Img_4711説明板

Img_4722青葉の森公園案内図(南北が逆・旧東金街道の道筋の標示がある)

土気往還(旧東金街道)は、舟田池の右側(南側)を通っていた。旧道の一部が残り保存されている。今日は中央博物館の休館日で、右下の入口は閉まっていた。

Img_4714舟田池 【ル-ト地図】の③

Img_4725旧東金街道(土気往還)

青葉の森公園はもとは畜産試験場で、街道の一部がほぼ当時のままで残っていた。(案内図の道)

Img_4739土気往還・旧東金街道分岐点近く(松ヶ丘バス停) 【ル-ト地図】の④

右の塀の窪みに道標地蔵が分岐点から移され保存されている。

Img_4737地蔵の右側に「これより右とけ道」、左側に「これより左とうかね道」。

Img_4748千葉東病院の敷地にぶつかり左へ迂回して県道20号に出る。病院の南角には椎の木があり、「一里塚」といわれていたそうだ。《地図

Img_4751単調な県道を鎌取駅の方へ南下する。

Img_4757道祖神(右)・大師小祠  (鎌取駅前)

鎌取は継場ではなかったが立場で、一膳飯屋などがあったという。

Img_4759大師像

後ろの額に「新四国八十八箇所」とある。

Img_4764野田上宿の家並み

野田村には大網、本納方面、東金方面から内房に送られる物資が集まる継立場だった。今は往時の面影はなく、バス停の上宿、食堂「かみじく」に名をとどめるか。

Img_4770誉田八幡神社 《地図

祭神の「誉田別命」(応神天皇)は、ここ誉田の地名となった。

Img_4776中宿の旧家

Img_4777旧家

Img_4781左右にくねる道が昔の街道の名残りか。

Img_4782旧家の門

Img_4784五日堂 【ル-ト地図】の⑤

寛永12年(1635)9月5日に処刑された、不受不施派の日浄上人の首を葬った所に建てられた堂。

Img_4785説明板

Img_4786五輪塔

日浄を祀る供養塔

Img_4787誉田小学校の手前で県道から離れ右に入る。別に見所はない。《地図

Img_4790誉田駅(JR外房線)

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2011年10月13日 (木)

五千石街道

2011年9月29日

平田駅(JR篠ノ井線)・・・国道19号・・・善光寺西街道合流地点(平田南交差点)・道祖神・・・平田橋(田川)・・・ポリテクセンター松本・・・百瀬陣屋跡・・・耳塚古墳・・・正念寺・・・(百瀬諏訪神社)・・・小池神社・・・宝蔵寺跡・・・小池・・・出城砦跡・・・砦橋(塩沢川)・・・赤木下の宮・・・赤木1号橋(北洞川)・・・赤木公民館・・・弘長寺・・・赤木上の宮(諏訪神社)・・・赤木3号橋(南洞川)・・・君石・・・君石橋(小場ケ沢)・・北熊井郵便局・馬頭観音群・・・五千石集会所・五千石バス停・・・道標・宮村交差点・・・大沢橋・・・(長野自動車道)・・・南熊井諏訪神社・・・南熊井城址・・松林寺・・・五千石街道道標・・・(国道20号塩尻バイパス)・・・高山正雄生家・・・住吉神社・・・中山道(塩尻宿)合流地点・・・三州街道・・・鍋中橋(四沢川)・・・三嶋山神社・・・金井橋(田川)・・・みどり湖駅(JR中央線)

 今回の街道歩きの最終日は、五千石街道を半日で歩く。

  【ル-ト地図】(15.4km)

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Img_4463善光寺西街道合流地点(平田南交差点) 《地図

五千石街道(塩尻市のサイト)は交差点を右折し、平田橋を渡って行く。

Img_3395交差点右角に五千石街道(松本市のサイト)の道標と道祖神が立っていたのだが、工事中で道祖神(文化7年(1810))のみが残る。

Img_4470旧家

Img_4472見事な塀が続く。前の門の家だろう。

Img_4473百瀬陣屋跡 【ル-ト地図】の①

高島藩諏訪氏は東五千石領のうち二千石を弟に分割し、ここに陣屋が置かれた。

Img_4475百瀬陣屋の門

Img_4477耳塚古墳 《地図

前面に2本の大ケヤキがそびえている。

Img_4480説明板

首塚のいわれは碑面の通り」とある。耳塚=首塚なのか?

Img_4482首塚碑

かすれていて読めない。

Img_4478耳の聞こえがよくなるようにと、穴の開いたお椀が奉納されているは、中山道塩尻宿の先の耳神社と同じだ。

Img_4493正念寺

Img_4495説明板

Img_4492本尊の阿弥陀如来像と脇侍仏

Img_4507小池神社 《地図

Img_4506説明板

Img_4509宝蔵寺跡

左端が元禄6年(1693)銘の弥勒菩薩像。

Img_4508説明板

Img_4513北アルプスの山並み

今日は晴れてはいるが霞んでいる。

Img_4518小池

Img_4519出城砦跡 【ル-ト地図】の②

Img_4521説明板

Img_4531赤木下の宮(諏訪社と津島社の合殿) 《地図》    

Img_4533説明板

Img_4539旧家

Img_4542案内図(赤木公民館前)

街道は赤木下の宮→公民館→弘長寺→諏訪神社(赤木上の宮)へと進む。

Img_4543弘長寺(あじさい寺) 《地図

寺号に年号を許されたのは極めて稀なことだそうだ。

Img_4544説明板

Img_4551本堂

Img_4553薬師堂

Img_4557赤木上の宮(諏訪神社)

Img_4558本棟造り、雀踊りの旧家

Img_4562君石 【ル-ト地図】の③

交差点を渡った右に小祠。弘長寺の旧位置のようだ。

Img_4563君石

Img_4564説明板

Img_4569馬頭観音群(北熊井郵便局の先の左側)

Img_4577五千石地区に入る。

Img_4587五千石集会所

Img_4586「五千石」の文字を見て一安心?

Img_4589_2五千石バス停もあるよ。といっても本数はご覧のとおり。

Img_4590念仏塔道標(左・宮村交差点) 《地図

Img_4591_2道標

南無阿弥陀仏の左右下に、「左 松本 右 牛伏寺

Img_4599左に旧道に入る。

Img_4601諏訪神社 《地図

Img_4605旧家の長い黒板塀

Img_4612南熊井城址 【ル-ト地図】の④

Img_4614空堀跡

Img_4608松林寺

Img_4618五千石街道道標(電柱前)

Img_4628「向南北通称五千石街道 右松本 左塩尻」

通称は余計と思うが。

Img_4624旧家

Img_4636法医学者高山正雄旧宅

近くにフランス文学者の吉江喬松の生家があるのだが見逃した。高山正雄氏とは従兄弟だそうだ。

Img_4642住吉神社の小鳥居

小祠の後ろに蠺玉神塔

Img_4645蠺玉(こだま)神

蚕の神様

Img_4648中山道合流地点 【ル-ト地図】の⑤

25日に歩いたばかりの地点に到着。『中山道(下諏訪宿→洗馬宿

Img_4649五千石街道道標

ここから東に少し行き三州街道に入り、みどり湖駅まで行く。

Img_4655三州街道入口(電柱下に道標) 《地図

信濃と三州(三河)を結ぶ街道で、伊那街道、「中馬の道」とも呼ばれる。中山道塩尻宿を起点に、天竜川沿いに伊那谷を南下し、下伊那の駒場・根羽を経て、三州の岡崎で東海道に合流する街道。

Img_4661車、人影のない静かな通りを行く。

Img_4664三役の揃い踏みか

Img_4666三嶋山神社 《地図

Img_4672みどり湖駅(JR中央線)

小さな無人駅でうっかり跨線橋を渡って行ってしまいそうになった。この駅からの乗車客は我一人。3分ほどで上り電車が来る、グッドタイミングだった。下諏訪駅で特急あずさに乗り換え、明るい内に帰京した。

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2011年10月11日 (火)

善光寺西街道(北国西街道)③

2011年9月28日

坂北駅(JR篠ノ井線)・・・青柳宿・石組用水路・本陣跡・・・大切通し・小切通し・・・(長野自動車道)・・・麻績大橋(麻績川)・・・第4西街道踏切(篠ノ井線)・・・道標跡柱・国道403号・・・嫁の泣き石・・・高札場跡・南麻績学校跡・・郷倉跡・・・下井堀(麻績)一里塚跡⑫・・一口坂・稲荷社・・道標跡柱・・駒が石・・・麻績神社・・・ガッタリ・・・姨捨山遥拝所・・・麻績宿・本陣跡瀬戸屋・旅籠花屋・本陣跡中橋・高札場跡・・(国道403号)・・麻績番所跡・・・道標跡・筑北中学校・・・・市野川番所跡・・・間の宿市野川・市野川一里塚跡⑬・・市野川神社鳥居・高札場跡・・・市野坂・・・大峠お仙の茶や・・・馬の水飲み場跡・・・聖湖・猿ケ馬場峠・村境碑・・・念仏石・・・馬塚・・・猿飛池・・・火打石茶屋跡・・・松崎茶屋跡・・・火打石一里塚跡⑭・・・のぞき・・・くつ打ち場・・・日本廻国供養塔・・・梨久保池・・・(長野自動車道)・・・開眼寺・・・第5西街道踏切(篠ノ井線)・・・七曲りの松(和田酒造)・・・和田橋(佐野川)・・・間の宿桑原・番所跡・天満宮・本陣柳澤家跡・伴月楼記念館・・・治田神社上宮鳥居・・・稲荷山一里塚跡⑮・・・(国道18号)・・・西京街道道標(治田町交差点)・・・蛇枕石・極楽寺・・稲荷山宿・本陣跡・稲荷山城址・谷街道稲荷山起点・蔵し館・・・善光寺道道標・・・長谷寺常夜灯・・・天用寺・・・康楽寺・・・浄信寺・・・聖徳橋(聖川)・・・(長野自動車道)・・・姫吉神社・・・塩崎一里塚跡⑰・・・篠ノ井追分宿跡碑・善光寺街道(北国街道)合流地点・・・第3北国街道踏切(しなの鉄道)・(長野新幹線)・・・篠ノ井駅(JR篠ノ井線)

  【ル-ト地図】(25.0km)

 青柳宿から大小の切通しを抜け、姨捨山を眺めながら麻績宿へ入る。ここから最後の難所の猿ケ馬場峠越えとなる。途中のお仙の茶屋跡手前で稲荷山宿まで行くという、名古屋のS氏と出会い、所々で一緒の歩きとなった。猿ケ馬場峠は刈谷原峠、立峠よりは開けていて上り安かった。むしろ下りの方がぬかるんでいる所があり苦労した。

 峠下の小さく静かな聖湖で一休みして間の宿桑原へと下り、善光寺西街道最後の宿、稲荷山宿を通り、先月来たばかりで見覚えのある、善光寺街道(北国街道)篠ノ井追分宿との合流点に着いた。少し善光寺街道を進み、新幹線沿いに篠ノ井駅に向かった。ここからは長野駅が近いのだが、明日は五千石街道を歩くので松本駅に戻る。普通電車はまたも行ったばかりで、奮発して特急に乗り、しばし心地よいまどろみを楽しんだ。

 この先、善光寺までは『善光寺街道③④』に続く。

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Img_3997石組用水路 《地図

坂沿いの石垣に通された用水路。今でも水が流れている。

Img_3999 青柳宿説明板

Img_3998本陣跡

青柳城址の城山山頂の笠松が目立つ。麓の清長寺が青柳氏の居館跡。

Img_4003
本陣の冠木門

城主青柳氏の一族が大庄屋になり、問屋も兼ねていた。

Img_4011左折して大切通しに向かう。

里坊稲荷神社では7年に1回、「狐の嫁入り」が行われている。守り神の狐のために、青柳宿では犬は飼わない不文律があるそうだ。たしかに急に飛び出し、吠えかかってくる犬には出会わなかった。

Img_4012史跡案内

Img_4016大切通し【ル-ト地図】の①

天正8年(1580)、青柳伊勢守頼長によって一丈(約3m)開削され、その後、水野氏が享保元年(1716)、飯島代官所が明和6年(1769)、松本役所が文化6年(1809)と、3回に渡って切り開かれた。
「是に 依よりて、 旅人并たびびとならびに牛馬の 往来聊おうらいいささかも 煩ハわずらわしき事なく、野を越え山を越つつ麻績宿に至る」(「善光寺道名所圖會」)

Img_4018上はノミで削った跡で、「いい仕事してるねえ」。下は昭和30年頃に車道にするために削岩機で削った傷跡、「粗っぽい作業だねえ」か。

Img_4027小切通し

Img_4026説明板

Img_4029のどかな風景の中を行く。

Img_4033麻績大橋(下井堀大橋)を渡る。

明治2年の麻績騒動では一揆の集合場所となったという。

Img_4041案内図

Img_4038第4西街道踏切を渡ると、道標跡の標柱が立っている。

Img_4044道標跡標柱(右)

「右ハ さくは道 左ハ いせ道」、さくは道は「作場」で農作業の道か?

Img_4050左へ短い旧道へ入る。

Img_4054嫁の泣き石(右)

花嫁が行くのが嫌だと泣いてすがった石だとか。嫌われて何の変哲もない石にまで名をつけられた婿さんも可哀そうだ。

Img_4063案内図①

Img_4064

Img_4067高札場・協志学校跡(南麻績学校)跡

すぐ先が郷倉跡

Img_4074下井堀一里塚跡⑫

Img_4075コスモスに飾られた一里塚跡碑

Img_4078一口坂を左に上る。【ル-ト地図】の②

笹を一口食べて元気を取り戻したという、パンダみたいな木曽義仲の馬に由来。

Img_4077坂名碑

Img_4079由来

Img_4082歩き安い未舗装の道が続いている。

Img_4090駒が石

蹄の跡はどれ? 

Img_4088説明板

Img_4097麻績(おみ)神社の新しい石燈籠

Img_4100麻績神社

周辺は弥生時代から古墳時代にかけて集落があった所。

Img_4106ガッタリ

Img_4107説明板

やっぱり笹を食べただけでは馬力にならなかったか。人参でなきゃな。

Img_4108姨捨山遥拝所

現在、ここ麻績村と千曲市の両地域とも『月の里』を名乗っている。明治時代には「冠着山復権運動」が起こり、ここに碑などが建てられた。

Img_4110説明板

Img_4111姨捨山(1252m)      

電線ととんがり屋根が目障りだ。

Img_4114麻績宿に入る。

Img_4119周辺の史跡

Img_4117説明板①

木曽義仲初陣の地でもある。

Img_4118

Img_4125姨捨山がよく見える。

Img_4148宿場図①

Img_4149

Img_4131本陣瀬戸屋臼井家

江戸後期に2軒あった本陣の一つ。

Img_4134説明板

Img_4133「うす井」の庵看板

Img_4136昔ながらの商店

Img_4138本陣中橋臼井家(左)・旅籠花屋(右)

Img_4142本陣中橋

塀から伸びる松は麻績騒動で畳を建て掛けられて放火された跡を残しているそうだ。

Img_4140旅籠花屋

Img_4141塀の前の「更科紀行」の句碑

「身にしみて 大根からし 秋の風」・「ひょろひょろと なほ露けしや をみなえし」

Img_4154大和屋(造り酒屋)

今は営業していないようだ。

Img_4163麻績番所跡(左に標柱)

この先の筑北中学校に沿って左折して、猿ケ馬場峠へと上って行く。

Img_4168猿ケ馬場峠へ 《地図

右は「筑北きのこ培養センター」

Img_4175車道の下を旧道が通っているので歩き安い。

Img_4184蛇が日向ぼっこか。じりじりと焼けてくるぞ。

Img_4187市野川番所跡 【ル-ト地図】の③

麻績番所へ移る前の番所跡のようだ。

Img_4186案内図

Img_4193市野川一里塚跡⑬

通称「一里塚の家」や、「一里山」の屋号の家があるそうだ。

Img_4194

Img_4196市野川神社一の鳥居

奥に見えるのが社殿だろう。遥拝で済ます。最近は遥拝が多過ぎやしないか。すぐ先が高札場跡。猿ケ馬場峠を控え、間の宿市野川には、明治初期まで5軒の旅籠があったという。

Img_4199案内図

Img_4197番場

(猿ケ)馬場峠、弘法清水、お仙の茶屋、火打石などが歌われている。

Img_4204旧家の低い塀沿いを上る。

Img_4212市野坂(坂下方向)を上る。

Img_4215旧道に入り振り返る。

Img_4219お仙の茶や

国道沿いの現在の休憩所。

Img_4224馬の水飲み場跡

Img_4225人も飲めそうな水が流れ落ちている。

Img_4236お仙の茶屋跡・弘法清水

Img_4233説明板

Img_4235弘法清水

芭蕉の追体験、「さざれ蟹足這いのぼる」をしたかったが、蟹は見当たらなかった。

Img_4240聖湖

馬場池、夜ケ池と呼ばれていた自然湖。湖というより大きな池の感じだ。

Img_4253猿ケ馬場峠 《地図

①村境碑(前)・②北国西街道念碑(後ろ)

①は「従是北更科郡八幡村」(明治28年)で、村境は長く争われ、それまで峠を少し北に下った馬塚(馬捨て場)が麻績村と八幡村の境だったが、ここ峠と確定された。

Img_4247説明板

Img_4257峠を下る。

Img_4260案内図

注意しないとそのまま国道403号を進んでしまう。国道を320m行くと勘違いするのだ。自分は国道をかなり進んでしまい、引き返す途中でやはり間違ってやって来た名古屋のS氏に出会った。320mとあるがそんなにはないだろう。

Img_4261ここを国道から分かれ左に入る。駐車場風で標識はない。

Img_4264しばらく行くと標識がある。

この先ぬかるんだ山道に入り下って行く。

Img_4267念仏石

「南無阿弥陀仏」の名号は磨滅と苔で見えず。

Img_4270説明板

Img_4275馬塚碑

ここがもとの麻績村と八幡村の村境。麻績村の石で積み上げた馬塚(馬捨て場)があった所。

Img_4273説明板

ちょっと分かりにくい文と思うが。いや我の読解力のなさだろうよ。

Img_4276猿飛池

Img_4278火打石茶屋跡(左)

小休本陣の格式の茶屋「名月屋虎蔵」があった。燧石(すいせき・ひうちいし)を利用して建てられていてこの名で呼ばれた。

Img_4279説明板

Img_4281芭蕉句碑

「をばすては これからゆくか かむことり」

説明板には『更科紀行』で詠んだ句とあるが、この句はない。

Img_4286松崎茶屋跡

井戸の名残か。

Img_4283説明板

Img_4288火打石一里塚跡⑬

東塚が残る。

Img_4289説明板

Img_4295のぞき

姨捨道との分岐で、有料の遠眼鏡が置いてあり、川中島古戦場、善光寺が望めたという。

姥捨道にはロープが張られ、通行止めになっている。

Img_4296くつ打ち場

これから峠へ向かう人馬が身支度を整えた所。

Img_4300説明板

Img_4303梨久保池沿いを行く。

この先で一般道に出る。

Img_4309第5西街道踏切を渡る。西街道踏切はこれが最後だが、ゴールはまだ遠い。

Img_4312和田酒造(長野銘醸) 《地図

塀は崩れかけている。純米「姥捨正宗」の醸造元。

Img_4320七曲り松(和田酒造内)

Img_4319説明板

Img_4326和田酒造の敷地内

Img_4331善光寺平が見える。

番所跡を左折し、天満宮を右折し間の宿桑原に入る。

Img_4342間の宿桑原 《地図

Img_4343長屋門(堀内家)

Img_4351本陣柳沢家跡

稲荷山宿が上田藩領のため、松代藩は私宿として本陣を置いた。

Img_4349平成12年の本陣跡柳沢家の写真

Img_4347伴月楼(ばんげつろう)記念館

安政年代(1854~59)に建築された、松代藩士、関家の武家屋敷を資料館とした。佐藤一斎(佐久間象山の師)によって伴月楼と命名されたそうだ。

Img_4355治田神社鳥居

延喜式内の古社で、更科郡の総社。天文年間(1532~54)に諏訪大社の祭神を配祀し、武田・上杉両軍の戦火から免れたともいう。

ここから500~600mだが割愛、遥拝。

Img_4357今様道祖神か?

Img_4360稲荷山一里塚跡⑮ 《地図

車道に面した木柱に「史蹟 稲荷山一里塚跡」と書かれている。車に乗っている人は見やしないのに。歩行者は車に注意して見るのに一苦労だ。「いい加減な仕事しているねえ」か。

ここは一里山という地名で、近くに一里山集会所もある。

Img_4370治田町交差点 《地図

右に西京街道道標が立つ。

Img_4371「右 西京街道」・「左 八幡宮道」

西京は京都で、明治以降に建てられたもの。八幡宮は武水別神社(やわたの八幡さま)のこと。

Img_4374地蔵堂(正面)

Img_4376地蔵さん

Img_4375地蔵堂の前

「史跡 旭橋」、蟹澤川とは? これも何だか分からない中途半端な仕事だ。 次ぎの蛇枕石の説明板に「かに沢」が出てくるが。

Img_4378蛇枕石(極楽寺門前の左下)

昔、篠山の雨池に大蛇が昼寝の枕にしていた石。
日照りで困ると里人はこの石に縄をかけ雨乞いをした。すると必ず「おしめり」があったという。ある干ばつの年、あまり動かしすぎたため、大蛇が怒り大雨となり、「かに沢」「荏沢」が大洪水となって、小坂、元町の家や畑が押し流されて、蛇枕石はここに流れついた。(由来板から)

Img_4379由来

Img_4385神田商店

Img_4394古い家並みを右にカーブして行く。どれも廃屋寸前という感じだが。 《地図

Img_4396「清明丹」の看板を掲げるが、廃業してしまったようだ。

Img_4398稲荷山宿本陣跡松木家 【ル-ト地図】の④

街道には面していない。問屋を兼ねていて前の通りを問屋小路といった。

Img_4403稲荷山城址 《地図

ここは全くの平地だ。

Img_4402説明板

Img_4405谷街道口(北信濃ろまん街道)起点(稲荷山郵便局前)

稲荷山→矢代→松代→須坂→小布施→中野→飯山→十日町(新潟県)

Img_4407街道は郵便局前を枡形を北(左)に曲がって行く。

Img_4411清水家

Img_4415稲荷山宿蔵し館  《地図

生糸輸出の先駆者で「松源製糸」の松林邸を修復・再生して公開している。

Img_4419大庄屋清水家?

上田藩松本領の庄屋を務めた。塩崎小学校が陣屋跡。

Img_4425道標

分岐の木の前に立つ。ここは左へ行く。

Img_4426「左 ぜんこうじ道」

Img_4432長谷寺参道常夜灯 《地図

日本三所長谷観音の一つで、信濃観音霊場の第18番はここを左折し、篠ノ井線を越えた所にある。街道は右折し、すぐ左折する。

Img_4434天用寺

「譜代松平旧領主位牌所」とある。

Img_4443康楽寺

開基の西仏坊海野幸長は、奈良興福寺の文章博士となり、木曽義仲の軍師として転戦し、親鸞の浄土真宗創始に協力するなどの活躍をしたという傑物。また、平家物語の作者、信濃前司行長入道と同一人物とする説もある。

Img_4442説明板

Img_4452塩崎一里塚跡⑯or⑰ 《地図

前の稲荷山一里塚跡⑮からは、ここまで約5.5kmあり長過ぎる。麻績村の『善光寺街道ウォーキング』の「善光寺街道の一里塚」では、この間に上町一里塚跡⑯があったとしている。そうすると⑮と⑯の間、⑯と⑰の間とも短過ぎる。さあどうだったのだろうか?

Img_4454説明板

Img_4457善光寺街道(北国街道)合流地点 【ル-ト地図】の⑤

篠ノ井追分宿跡碑(右)が立つが正式な宿ではなかった。

Img_4459矢代の渡し方向

第3北国街道踏切を渡り、新幹線沿いに篠ノ井駅に向かった。

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2011年10月 9日 (日)

善光寺西街道(北国西街道)②

2011年9月27日

松本駅 バス→伊深・・・堂田遺跡・・・馬飼峠分岐・・仇坂・刈谷原峠・・・地蔵清水・・・こじき岩・・・㊆馬頭観音・(猿飛岩あたり)・・・刈谷原一里塚跡あたり⑦・・・庚申塔・道祖神・・刈谷原宿・玉成学校跡・脇本陣跡・・・(国道143号)・横山不動王・・・(神明社)・・・(洞光寺)・・・油坂・・・板場一里塚跡⑧・・・善光寺道道標・・(県道302号)・・・保福寺橋(保福寺川)・・・浄雲寺・・・黒姫龍神社・・・日本廻国供養塔・・・会田大橋(会田川)・・会田宿・下問屋跡・上問屋跡(本陣跡)・津島牛頭天王社・・善光寺常夜灯・・・松沢家長屋門・・・岩井観音堂・・・岩井堂一里塚跡⑨・うつつの清水・・・馬頭観音・花川原峠分岐・・・立峠・茶屋跡・・・石畳(芭蕉の小径)・・・間の宿乱橋・高札場跡・・・赤豆坂・綿の実道祖神・・中峠・物種太郎塚・・・馬の水飲み場・・・中の峠一里塚跡⑩・・・山伏塚入口・・・野口炭鉱事務所跡・・・(JR篠ノ井線)・・・皿吊しの道祖神・・・間の宿西条・・観音寺・高札場跡・茶屋本陣跡・・東條川・・・刈谷沢神明宮鳥居・・・第3西街道踏切・・・山清酒造・・・坂北歴史民俗資料館・長田一里塚跡あたり⑪・・・腰神様・・・坂北駅(JR中央線)

 今日は刈谷原峠を越え刈谷原宿に下り、会田宿から立峠へ上り、間の宿乱橋から小さな中峠を越えて間の宿西条に下って、青柳宿の入口の坂北駅まで進もう。 

  【ル-ト地図】(20.0km)

 写真をクリックすると拡大します。

Img_3591常田遺跡あたり

今日もすきっりした快晴の下、刈谷原峠を目指す。

Img_3594説明板

Img_3599刈谷原峠(直進)・馬飼峠(左へ)分岐点

馬飼峠は刈谷原峠より70m低く、明治初期に馬車も通れる有料道路が開通し利用されていた。

Img_3605仇坂を上れば峠は近い。

あだざかをのぼれば、身にあせし、暑さにえたえで、峰遠み麓をたどる旅人の 身にあだ阪ぞあゆみくるしき」『わかこころ』

もう耐えられないほどの暑さではないが、汗を拭き拭き上って行く。仇坂の由来は何なのか?

Img_3608馬頭観音がずらっと並ぶ。17基というが数えなかった。もっと多いか。

Img_3610刈谷原峠

3軒の茶屋があったという。

Img_3611説明板

Img_3613井戸跡か?

Img_3615地蔵清水

峠越えの貴重な水場だった。江戸中期の丸彫りの地蔵  (右)と刈谷原町の銘の浮き彫りの地蔵(左)が並ぶ。少し左側を水が流れている。

Img_3622こじき岩(後ろ)

前に弘法大師像(左)と馬頭観音(中・右)が2基か?

Img_3623㊆馬頭観音

峠の北に㊆、南に六の銘入りの馬頭観音が幕末に建てられた。

菅江真澄は、背後の谷の向うの猿飛岩に群猿を見ている。今は木が茂って岩は見えないようだ。

Img_3626刈谷原一里塚跡あたり⑦

杉林の中に標柱が立っているというが見逃した。

Img_3636庚申塔・道祖神

ここは刈谷原宿の入口だ。

Img_3634庚申塔(左)、道祖神(右)

Img_3633説明板

Img_3639刈谷原宿 【ル-ト地図】の①

直線の坂沿いの、善光寺西街道で最も小さな宿場だった。篠ノ井線の開通までは多くの家が馬宿や茶屋をしていたという。北西の城山(895m)に刈谷原城があった。

Img_3637峠茶屋(通所介護施設)

Img_3642旧家

左隣が玉成学校跡で、松本の開智学校より1年前に開校した。

Img_3644脇本陣跡

下問屋も兼ねていた。この手前が上問屋を兼ねていた本陣跡のようだ。

Img_3647宿はずれを右折して行く。

Img_3649養蚕家?

Img_3652横山不動王(正面の鳥居)・道祖神(右)

Img_3661神明社参道

ここは城山の麓、石畳風の参道が続いている。遥拝で済ます。

Img_3664洞光寺 《地図

絹本著色真言八祖像」、刈谷原城主の墓、弘法大師伝説の犬石などがあるが、ここも門前で失礼。

Img_3663説明板

Img_3668油坂を上って下る。《地図

油のように滑らかの坂の意か?

Img_3674車も少ない気持ちいい坂だ。

Img_3669油坂バス停

Img_3680板場一里塚跡⑧ 【ル-ト地図】の②

西の民家は「えのき屋」(一里塚の榎)というそうだ。

Img_3683この先で国道143号を横切り、保福寺橋を渡って行く。

Img_3687善光寺道道標

石碑は表面がはがれ、木の標柱も剥げている。

ここで国道を渡る。

Img_3693コスモス街道か

Img_3697浄雲寺 《地図

漆黒の木造阿弥陀如来立像を安置。

Img_3702黒姫龍神・雲清龍神の小祠

雨水の守り神か。

Img_3703右に日本廻国供養塔

会田宿へと緩やかに下って行く。

Img_3706

Img_3708化石館福寿草群生地の標識 

Img_3714会田宿 【ル-ト地図】の③

新町の旅籠街だった通り。

Img_3718旅籠信濃屋

Img_3721会田宿交差点を左折し中町に入る。善光寺道の道標が立つ。

Img_3727萬屋・大阪屋

Img_3733ここを右折して本町の坂沿いの家並みに入る。上部の欠けた道標が立っている。

Img_3734少し上った左が下問屋跡でその隣が上問屋跡。

Img_3741上問屋跡堀内家

江戸後期には本陣も兼ねていた。

Img_3746「つるや」(左)から振り返る。

Img_3748若松屋

Img_3750善光寺常夜灯

立峠へ上って行く。右は虚空蔵山。《地図

Img_3751説明板

Img_3755道祖神の新しい祠

Img_3756馬頭観音も新築の祠で快適そうだ。

Img_3765松沢家長屋門

寺子屋と剣術指南をしていたという。

Img_3769芭蕉句碑

右の石碑の後ろ

Img_3770句碑

身にしみて 大根からし 秋の風」、『更級紀行

Img_3771説明板

Img_3780岩井観音堂へ左へ上る。

Img_3813「入山禁止」

いたる所に貼り紙がしてある。観音堂にお参りに行くだけよ。

Img_3782露岩沿いの道を上る。

Img_3788岩井観音堂 《地図

信濃観音霊場の第20番。菅江真澄は「堂のかたはらの窓より法師さしのぞき・・・」と法師と話をしているが今は無住。

Img_3779説明板

Img_3787本尊の千手観音坐像

Img_3784磨崖仏

Img_3783説明板

Img_3800岩井堂一里塚跡⑨・うつつの清水(跡)・水留の石

ここに茶店があり、旅人は休憩してのどを潤して立峠へ向かった。

Img_3797説明板

Img_3791水留の石

Img_3794説明板

Img_3804虚空蔵山(1139m・正面奥)

会田富士と呼ばれ、中腹や山頂が虚空蔵城跡

このすぐ先が登山口で「うつつの清水」の源泉。

Img_3810馬頭観音(花川原峠への分岐点)

「善光寺(西)街道中、一番大きく美しい像」というが、苔に覆われ、像形がはっきりしない。と思ったがこれは裏面で、正面は旧街道側(廃道)に向き、こちらには背を向けて立っている。後日、調べてがっくり、納得。同じ過ち?を犯している人のHPを見て、少しは安堵、同情した。

この前から立峠への急登が始まる。

Img_3809説明板

Img_3812「立峠(0.6km) 急な上り(足元に注意!)」の標識が立つ。

確かきつい登りで、汗が噴き出し息が荒くなった。

Img_3816途中からは傾斜も少しは緩くなる。

Img_3818立峠近くから会田宿、刈谷原峠方向(A)

Img_3821説明板 【ル-ト地図】の④

唐鳥屋城跡の主郭まではここから約500m。

Img_3824猿ケ馬場峠方向(B)

明日越える峠だ。(AとBは写真が逆かも。いい加減だな、俺も。いつものことよ)

Img_3835石畳(芭蕉の小径)

もとは道普請の苦役を軽減するために村人が敷いた石畳。

Img_3833説明板

Img_3836案内図

Img_3841間の宿乱橋へと下って行く。

Img_3847間の宿乱橋(みだればし)

明治時代に規制がなくなると、立場茶屋が宿屋を開業し栄えた。乱橋は弥陀の橋から転じたという。

Img_3853高札場跡

Img_3855旅籠古久屋跡

Img_3859旅籠大黒屋跡

正岡子規が泊まった大黒の鬼瓦の宿屋か。今は空き家だ。

Img_3860中峠への上りとなる。小さな峠で赤豆(あずき)坂ともいう。

Img_3861乱橋宿・立峠方向を振り返る。

Img_3864中峠近くから乱橋宿、立峠方向

Img_3870綿の実道祖神(赤豆坂の途中)

Img_3868綿の実道祖神

握り合う手の上に綿の実。綿伸し場の地名があるなど、江戸時代には綿栽培が盛んだった。

Img_3866物種(ものくさ)太郎塚(中峠)

昔話『物くさ太郎』。ストーカーの成功譚みたいな話だ。物くさ太郎の旧跡は数か所あるそうだ。

中峠から下って行く。

Img_3874馬の水飲み場(跡)

Img_3878小さな集落を抜けて行く。

「聖湖16.9km」の中部北陸自然歩道の標識が立つ。

Img_3877傍らに「善光寺街道・北国西街道碑」もある。

Img_3879中の峠一里塚跡⑩

右に傾いた標柱が立つ。

この先に山伏塚入口、野口炭鉱事務所跡がある。岩井観音堂の裏山から年間7千トンの石炭を掘り、索道で西条駅まで運んでいたそうだ。

Img_3887小石灯籠・小祠

ここは何だったのか?

Img_3889篠ノ井線の線路にぶつかる。

歩行者用通路を進み、篠ノ井線のガードをくぐる。

Img_3891雑草に覆われた道でちょっと心配になる。

Img_3893ガードをくぐって振り返るとちょうど篠ノ井線が通過中だった。

Img_3898崖下に馬頭観音

もとは崖上にあったのだろう。

Img_3904崖上の皿吊し双体道祖神

道路を何度も掘り下げたためこんな上に取り残された。「皿吊し」とはどういう意味か?

Img_3911間の宿西条に入る。【ル-ト地図】の⑤

Img_3913旧家

Img_3918観音寺地図

馬頭観音が本尊で、馬の寺として信仰を集めた。千頭の馬が描かれた絵馬に一頭だけ牛が交っていて、「見つけた者は幸せになるが、口外すると効力が無くなる」といわれている。境内に馬の銅像が見える。近年まで草競馬が行われていたそうだ。

門前が高札場跡。

Img_3928茶屋本陣跡

Img_3929旧家

Img_3930旧家

Img_3934この先で東條川を渡る。

Img_3938刈谷沢神明宮鳥居

お田植え祭り」が行われる。

Img_3940街道に張り出す松

Img_3943第3西街道踏切を渡り、青柳宿へ向かう。《地図

Img_3955山清酒造

Img_3959坂北歴史民俗資料館 《地図

明治33年建築の旧坂北村役場。 (筑北村考古資料館に名称が変わったようだ)

このあたりが長田一里塚跡(11)だが標柱などは見当たらず。

Img_3960「縣道西街道」

Img_3964道祖神と横を向いた獅子

これも道祖神か?

Img_3967頭部のリアルなイケメン案山子

横溝正史の小説なら、これは人間の生首で、金田一耕助が下駄をならして駆けてくるだろう。

Img_3969腰神様?

白い布を巻きつけて拝むと腰の痛みが取れるという。

Img_3972案内板の立つ辻を左折して坂北駅に向かった。

街道は右にカーブして行く。

Img_3975坂北駅

松本行の電車はちょっと前に発車したばかりで、1時間ほど待つ。駅の隣の駐車場脇で寝転んで休憩。風は涼しいが傾いた太陽の陽射しはまだ強かった。

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2011年10月 7日 (金)

善光寺西街道(北国西街道)①

2011年9月26日

洗馬駅(JR中央線)・・・中山道(県道304号)・・・分去れ道標・善光寺西街道(県道294号)・・・常夜灯(旧分去れ)・・・中原交差点・・・太田一里塚跡①・・・サラダ街道標識(郷原工業団地交差点)・・・諏訪稲荷社・・郷原宿・庄屋山城屋・上問屋(郷原簡易郵便局)・下問屋・郷福寺・・・堅石三社(帯代道祖神)・・・原新田交差点・・原新田追分道標(塩尻道分岐)・・・原新田一里塚跡②・津島神社・・・牛屋(島木赤彦下宿家)・・・第1西街道踏切(JR篠ノ井線)・・・国道19号・・・(長野自動車道)・・・旧道・・・村井宿・神明宮・口留番所跡・高札場跡・脇本陣跡・本陣跡・・・村井下町交差点・国道19号・・・芭蕉富士塚・村井一里塚跡③・・・五千石街道合流地点(平田南交差点)・・・多賀神社・・・出川差矢場地跡・・・寺子屋跡・・・盛業学校跡地(出川公民館)・・・庄屋中田家・・・出川(信楽)一里塚跡④・・・豊田橋(出川)・・・貞享義民刑場跡(出川刑場)・・・奥山半僧坊大権現・・・城見橋(がっくり橋)・・・栄橋(薄川)・・・十王堂跡・・松本宿・緑橋(袖留橋)・本陣跡・野麦街道道標・牛つなぎ石(千国街道(塩の道起点))・・善光寺道道標・中町通り・中町蔵シック館・源智の井戸・瑞松寺・・国道143号・・・大橋(女鳥羽川)・・・二つ井戸小路碑・・・捨堀の土塁跡・・・宝栄寺前・旧道・・常法寺小路碑・・・安原町碑・・・十王堂跡・・・安原一里塚跡⑤・番所跡あたり(萩町交差点)・・・千国街道(塩の道)分岐店・・・五差路の庚申塔・・・岡田神社参道・・岡田宿・南木戸跡(地蔵祠)・本陣跡・・枡形・・口留番所跡・道標・・・北木戸跡(蓮台場跡)・・・伊深一里塚跡⑥・・・(国道254号)・・・伊深バス停→松本駅

 善光寺西街道を中山道洗馬宿の分去れから、篠ノ井追分宿の善光寺街道合流点までを3日で歩く。概ねJR篠ノ井線沿いの道となるが峠越えも4つある。晴天の下、ハイキング気分で行くとしよう。

 今日は郷原宿、村井宿から松本の中心部の松本宿を抜け、刈谷原峠を控えた岡田宿までの行程だ。

  【ル-ト地図】(27.2km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_3224現在の分去れ 《地図

右が中山道(県道304号)、左が善光寺西街道(県道294号)。分岐点に道標が立つ。

Img_3192説明板

Img_3193道標

旧分去れから移されたもの。

「右 中山道」・「左 北国往還 善光寺道」

Img_3225旧分去れ

右が旧中山道で肱松の坂の途中に肱懸松があった。道標は移され、今は常夜灯(説明板の後ろ)のみが立つ。

Img_3226説明板

Img_3240太田一里塚跡①(右に標柱)

一里塚は日本橋を起点とする。ここは中山道の平出一里塚(59)からは遠すぎる。牧野一里塚(60)からは適当な距離だ。今はぶどう畑になっている。

Img_3245サラダ街道の標識(郷原工業団地交差点)

Img_3254_2諏訪稲荷神社 《地図

日露戦争の戦利品の砲弾が奉納?されている。

Img_3258郷原宿入口

消防設備のシャッターに狐の親子とぶどうの絵。伝説の玄蕃丞狐と桔梗ケ原ワインを表わしている。

『民話玄蕃丞狐』・『塩尻玄蕃祭り』 広丘駅の南東には玄蕃稲荷神社がある。

かつては道の中央に用水が流れていた。桔梗ケ原は南北朝時代には宗良親王と小笠原長基が、戦国時代には武田信玄と小笠原長時が戦った古戦場跡でもある。

ここから枡形などはなく直線状に、郷福寺まで郷原宿が続く。

Img_3259説明板①

Img_3306説明板②(郷福寺前に設置)

Img_3265川上屋

本棟造り、雀おどり(おどし・返し)の棟飾り

Img_3270山城屋

大庄屋で本陣と呼ばれていた赤羽家。

Img_3268上問屋 《地図

問屋業を引き継ぎ郷原簡易郵便局となっている。

Img_3272入口に「問屋」の表札

Img_3283古井戸

Img_3282説明板

共同で掘った3つの深井戸の一つ。20mほどの深さという。

Img_3288下問屋

Img_3294旧家

Img_3298旧家

Img_3300屋号「上総屋」

Img_3301屋号「あめや」

Img_3318郷福寺 

右に明治天皇も飲んだ古井戸、その後ろが薬師堂

Img_3309縁起

Img_3316芭蕉句碑

那須野が原で詠んだ『奥の細道』の句を「桔梗ケ原」に当てはめて建てられた。

Img_3320堅石三社

祭神は伊弉冉尊、建御名方命、軻遇突智命の三柱。

境内奥に帯代道祖神が佇む。

Img_3322帯代道祖神(天保15年(1844))

Img_3324裏面に「金五両帯代」と刻まれている。

①道祖神の嫁入りといい、松本平に盗みが流行したため、高額な結納金を刻み盗難を防止した。『北国街道を歩く』(岸本豊)・②道祖神そのものを盗むのを予防した。『信州朝日村の道祖神』の「道祖神ぬすみの話」

5両は安過ぎやしないか。50両、100両と刻まれたものもあるそうだ。「嫁入道祖神」と呼んだ方が親しめるか。

Img_3325彼岸花もちらほら

Img_3328堅石の旧家

堅石は古代の東山道の宿駅「覚志駅」の最有力な比定地という。

Img_3330原新田追分 《地図

右下に道標

Img_3331「右 京いせ きそ通」・「左 東京 いな すわ道」(明治2年)

Img_3342津島神社

Img_3335原新田一里塚跡碑 【ル-ト地図】の①

Img_3337説明板

Img_3340原新田一里塚跡

説明板によると、この筑摩野精器の敷地内。

Img_3348旧家

明治天皇広丘小休所跡

Img_3350牛屋

島木赤彦下宿宅

Img_3353短歌おやき 」店 《地図

食べると短歌が上手くなる、旨いおやきか?

この先に「塩尻短歌館」がある。

Img_3354第1西街道踏切(JR篠ノ井線)を渡る。《地図

この先、篠ノ井追分宿の間に第5西街道踏切まである。(第2は渡らず) しばらくは単調な国道歩きとなる。

Img_3359左に旧道に入り村井宿に向かう。《地図

Img_3364村井番所・高札場跡 《地図

Img_3366
説明板

Img_3369高札場跡

Img_3371村井宿の家並み

宿の南に飲食店の茶屋などがあって呼び込みをし、「むかで町」などといわれていた。

Img_3377説明板

Img_3376脇本陣跡山村家

問屋を兼ねていた。

Img_3379本陣跡中村家

問屋を兼ね、脇本陣と半月交替で伝馬業務をしていた。

Img_3381明治天皇村井御小休所跡

口留番所役人を務めた山村五兵衛家

村井下町交差点で国道19号に出る。

Img_3388村井一里塚跡③・芭蕉富士塚 《地図

富士とは信濃富士と呼ばれた有明山(2268m)のことだそうだ。

Img_3387説明板

Img_3390_2五千石街道分岐点(平田南交差点) 【ル-ト地図】の②

ここを右折して中山道塩尻宿の追分までの12~13kmほどの街道。善光寺西街道終了後、29日に歩く予定。

Img_3395道祖神(文化7年(1810))

もとは分岐の角の道路沿いにあったが、工事中でここへ移されたようだ。一緒に並んでいた五千石街道の石柱はどこへ行ったやら?

Img_3404多賀神社 《地図

「延命長寿」の信仰が篤く、祭りの時には長寿餅が売られている。

Img_3406味噌醤油の「丸正醸造」の大樽

Img_3407出川差矢場跡地

広さが東西30間、南北110間の通矢の訓練場があったそうだ。

すぐ先が寺子屋跡で、出川公民館の所が盛業学校跡(明治6年開校)

Img_3417中田家住宅地図

Img_3423説明板

Img_3421
明治天皇信楽御小休所碑が立つ。

Img_3426玄関の鶴亀の破風飾り

大庄屋の中田家は玄関を持つことを許されたそうだ。

Img_3418旧家

Img_3428出川(信楽)一里塚跡③ (柳橋交差点の手前)

右のガード内に石柱

Img_3429一里塚跡柱

念仏供養塔が並ぶ。

Img_3432豊田橋を渡って街道から離れ、出川沿いに進み。

Img_3433貞享義民刑場(出川刑場)跡碑 【ル-ト地図】の③

前の河原が処刑場だろう。

Img_3444城見橋

北に松本城が見えたという。南に渡れば出川刑場で、「ガックリ橋」とも呼ばれた。

Img_3446栄橋の手前

橋を渡って松本宿、松本城下へ入って行く。

Img_3449十王堂跡の北向観音 《地図

松本藩は城下町の南北に十王堂を置いた。北の安原町には標柱のみが残る。

Img_3452緑橋

江戸時代には袖留橋と呼ばれていた。大坂夏の陣の際の『袖留橋伝説』がある。袖にすがって引き留めた乳母の手を振り払って出陣した小笠原忠脩はあえなく戦死してしまった。

Img_3453松本宿本陣跡 《地図

問屋を兼ねていた倉科家は明治になって郵便局となった。郵便配達像の「郵便局発祥の地」碑が立つ。

Img_3460野麦街道分岐点・千国街道(塩の道)起点(中央2丁目交差点) 《地図

安原町の分岐点まで「塩の道」と同じ道を行く。

Img_3463牛つなぎ石(交差点を渡った所)

敵に塩を送った上杉謙信の故事にちなむ。

Img_3464説明板

Img_3467善光寺街道道標の所で右折し、中町商店街通りに入る。

蔵造りの店が並んでいる。

Img_3473カレーの店デリー

インド人もびっくりか。

Img_3477伊原漆器店・食い飲み屋「BUN」

Img_3482中町蔵シック館地図

近くの造酒店の母屋・土蔵・離れを移築し、町づくりの拠点とした。

Img_3484samsara

世界各国の手工芸品店

Img_3485中町商店街

中町は本町・東町とともに松本城下の「親町三町」の町人街で、善光寺街道筋の問屋街として発展した。明治21年の松本大火の後、耐火建築の土蔵造りが多く建てられた。

Img_3490源智の井戸 《地図

Img_3491由来

Img_3494新しい「辻井戸」

国道143号に出て北に進み、大橋を渡って行く。

Img_3499ヒカリヤ

明治20年建築の質屋「光屋」の建物。今は「ニシ」と「ヒガシ」がある高級?料理店。

Img_3508萬年屋

江戸後期創業の麹屋。なまこ壁の前に「捨堀土塁跡」の説明板が立つ。松本藩石川家の改易の一因になったともいう堀の土塁跡が残っているそうだ。

Img_3509説明板

Img_3510「肉のきらく」とセブンイレブンの間を左折する。右は宝栄寺の参道。 《地図

Img_3512常法寺小路

あちこちに名のついた小路が残っている。

Img_3516案内板

Img_3518信濃屋海苔店の前を右折。

右に安原町碑が立つ。

Img_3520十王堂跡

ここ松本城下の北は標柱のみ。

この先の萩町交差点あたりが木戸・番所・安原一里塚跡で、説明板が立っているのだが見逃した。

Img_3528千国街道(塩の道)分岐点 【ル-ト地図】の④

「塩の道」は武井砂糖店の先を左折して行く。松本の初市は塩市と呼ばれていたが、飴も多く作られ飴市の方が通用するようになったそうだ。塩も砂糖も大事にされたのだろう。

Img_3527塩の道(千国街道)

この道もいずれ歩くつもりだ。

Img_3524安原一里塚跡? 

右の信州大付属松本小学校校庭の滑り台になっている塚を一里塚の名残りとする人もいる。

Img_3530五差路の庚申塔 《地図

ここは左へ進む。

Img_3531庚申塔

Img_3543岡田神社参道の大ケヤキ 《地図

この先で国道143号にぶつかり参道は途切れる。岡田神社は延喜式内の筑摩郡三社の一つ。

Img_3541説明板

Img_3545岡田宿南木戸跡

左に地蔵の小堂、道の中央に用水が流れていたそうだ。宿の北のはずれには北木戸跡の蓮台場がある。

近くに浅間温泉があり旅籠は10軒と少なかった。

Img_3546
説明板

Img_3547地蔵(享保6年(1721))

Img_3552岡田宿説明板 

Img_3554宿場図

Img_3556本陣・問屋跡の敷地か

岡田宿公園になっている。

Img_3555所家

養蚕全盛期の建築で気抜きの小屋根がある。所家は問屋兼務で本陣を務めていたそうだ。

Img_3557枡形を右折して行く。

Img_3559岡田口番所跡・江戸道道標 《地図

Img_3563説明板

Img_3566年号は刻まれていないが、「江戸道」は正徳6年(1716)以前の表記方。

Img_3574蓮台場(北木戸跡)

右が聖徳地蔵の小堂。

Img_3569説明板

「連隊と間違えて来る人があった」とは面白い。

Img_3573聖徳地蔵(享保6年(1721))

南木戸の地蔵と同じ年の建立だ。

Img_3575伊深一里塚跡⑥  【ル-ト地図】の⑤

左の物置?に説明板

Img_3577説明板

Img_3584道祖神・馬頭観音(説明板の先の左側)

Img_3580右端の道祖神の裏面

「一里塚中」と刻まれている。

Img_3587刈谷原峠方向

国道254号を横切る。もう4時半過ぎだ。少し進んで右折し、国道沿いのセブンイレブンそばの伊深バス停から松本駅へ戻った。

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2011年10月 5日 (水)

中山道(下諏訪宿→洗馬宿)

2011年9月25日

下諏訪駅(JR中央線)・・・駅前交差点・国道20号・・・旧道・・・魁塚・・・諏訪大社春宮石灯籠・・・富士見橋(砥川)・・・旧道・・・旧渡辺家住宅・・・平福寺・・・長地・東堀交差点・伊那道道標・・・(国道20号)・・・東堀一里塚跡(56)あたり・・・大橋(横河川)・・・明治天皇今井御膳水碑・今井番所跡・・小休本陣今井家・・・丸山坂・・・岡谷IC(国道20号)・・・石船観音・鳴沢清水・・東坂・・大石・・・塩尻峠・・・茶屋本陣跡・・・親子地蔵・夜通道碑・・・東山一里塚跡(57)・・・牛馬守護神塔・・・(国道20号)・・・柿沢橋(長野自動車道)・・・永井坂・・・首塚・胴塚・・・塩尻(柿沢)一里塚跡あたり(58)・・・岩鼻橋(四沢川)・・・永福寺観音堂・永福寺・・・仲町交差点・塩尻宿・阿礼神社御旅所・三州街道分岐点・口留番所跡碑・十王堂跡・五千石街道分岐点・・小野家住宅・上問屋跡・高札場・下問屋跡・本陣跡・脇本陣跡・・鉤の手跡・・・阿礼神社・・・堀内家住宅・・・道祖神など・国道153号・・・塩尻橋(田川)・・・下大門交差点・・・大門神社・・・耳塚神社・・・(JR中央線)・・・平出一里塚跡(59)・・・第一中道踏切(JR中央線)・・・中仙道一里塚交差点・国道19号・・・肱懸松・肱松の坂・・・常夜灯・旧分去れ・・・分去れ道標(現分去れ)・・・邂逅(おおた)の清水・・・洗馬宿・洗馬学校跡・本陣跡・貫目改所跡・脇本陣跡・・・洗馬駅(JR中央線)

  【ル-ト地図】(20.5km)

 今回は①中山道を下諏訪宿から洗馬宿まで行き、②洗馬宿の分去れから善光寺西街道(北国西街道)を篠ノ井追分宿の善光寺街道(北国街道)との合流地点まで歩く。そして③五千石街道を善光寺西街道との合流地点から中山道の塩尻宿の合流地点まで歩く。

 先月は雨の降り続く善光寺街道歩きだったが、今回は好天の下、絶好の街道歩きとなるだろう。これも善光寺にお参りしたお蔭か。いや、お天道さまは誰にでも公平ということよ。

 下諏訪宿は『甲州街道(金沢宿→下諏訪宿)』に記載。

 写真をクリックすると拡大します。

Img_2907駅前交差点から国道20号を少し西に進み、左に旧道に入ると魁塚がある。

Img_2912_2魁塚地図

赤報隊士の墓。中山道の追分宿には隊士らが処刑された追分原刑場跡がある。『善光寺街道①』に記載。時代(明治維新)の「魁」(さきがけ)の意で、ここ魁町の地名にもなっている。

Img_2909説明板

Img_2917こんなに細くなってしまった中山道。これが天下の五街道とは・・・・。《地図》(道の標示はない)

Img_2918砥川に突き当たる。

簀之子(すのこ)橋は跡形もなく、富士見橋を渡り、少し進み左折し旧道の跡をたどる。

Img_2923路地のような道を行き、十四瀬(とうしせ)川を渡り岡谷市に入る。

Img_2926旧渡辺家住宅(長野県宝) 《地図

渡辺千秋ら3人の大臣を輩出した出世一家か。ノーベル化学賞を受賞した野依良治は縁戚にあたるそうだ。

Img_2927説明板

Img_2935平福寺

日限地蔵尊(おひぎりさま)の寺

Img_2938伊那道道標(長地・東堀交差点を渡った所)

Img_2940「右中仙道 左いなみち」(寛政3年(1791)建立)

「いなみち」は伊那街道で、飯田へ通ずる道。

Img_2941端正な生垣が続く街道。

 国道20号を横切った50mほど先が東堀一里塚跡(56)で、右手に石碑が立っているのだが見逃した。

Img_2962今井番所跡

手前に「明治天皇今井御膳水碑」が立つ。

Img_2964小休本陣今井家 《地図

Img_2965説明板

Img_2969門から中を失礼。

Img_2970丸山坂を上る。右に道標と案内図。

Img_2972道標

「右 しもすは 左 しほじり峠」、これから塩尻峠へ向かうのだ。

長野ICの分かりにくい所を通り、旧道を上って行く。

Img_2991岩船観音堂 【ル-ト地図】の①

足腰にご利益ありで、わらじ、松葉杖、ギブスが奉納?されている。

Img_2989岩船観音

本尊は船の形をした石に乗っている馬頭観音だから右だろう。船の形はよく分からないが。

Img_2993鳴沢清水

岩船観音堂脇から流れ落ちている。

Img_2996諏訪湖の眺め

Photo英泉画「塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望」

Img_2997大石

昔から「大石」と呼ばれていて、「木曽路名所図絵」にも「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約6m)ばかり、横幅二間余(約3.6m)」と記されているそうだ。

《伝承》 昔、この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲った。ある時、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され、大石のたもとに埋められた。雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い炎がチロチロと燃えていたという。またこの辺は昔よくムジナが出て、夜歩きの旅人を驚かし、そのすきに旅人の持っている提灯のロウソクを奪ったという。(ムジナはロウソクの油が大好物だとか)

この先、峠までは舗装された東坂の急坂が続く。

Img_3008塩尻峠(1060m) 【ル-ト地図】の②

松本領、諏訪領の郡境として祀られた富士浅間神社の石祠。左奥には御嶽遥拝所があるようだ。

Img_3013塩尻峠展望台から諏訪湖、右奥に富士山、左奥に八ヶ岳連峰が霞んでいる。

 塩尻宿へと下って行く。

Img_3014茶屋本陣跡

皇女和宮もここで休憩したそうだ。

Img_3019親子地蔵

天明3年(1783)の大飢饉の折り、塩尻峠で行き倒れになった旅人たちを弔うという。

このあたりは夜通道(よとうみち)と呼ばれる、夜道もいとわぬ逢瀬の恋路だ。

Img_3020説明板

Img_3021東山一里塚跡(57)

南塚が現存

Img_3022説明板

この先の「犬飼の清水」はうっかり通り過ぎてしまった。国道20号に出て、すぐに右の旧道に入る。

Img_3027コスモスが咲き乱れる気分のいい道

Img_3029牛馬守護神塔

国道20号をくぐり、長野自動車道を越えて西に進む。

Img_3038永井坂を下ると塩尻の町が見えてきた。【ル-ト地図】の③

途中、左に「首塚・胴塚」の標識がある。

Img_3040_2

Img_3041首塚・胴塚

武田晴信(信玄)軍との塩尻峠の戦いに敗れた小笠原長時軍の戦死者たちを村人が埋葬した塚。この合戦では両軍合わせて1000人以上が死んだという。

Img_3043由来碑

Img_3046柿沢の家並み

この先の下柿沢交差点と仲町交差点の間あたりが塩尻(柿沢)一里塚跡(58)のようだが、何の標示もなかった。

Img_3047本棟造り、雀おどり(おどし)の棟飾りの旧家

Img_3055永福寺観音堂 《地図

木曽義仲信仰の馬頭観世音が本尊。

Img_3057説明板

Img_3060永福寺仁王門

明治29年の建立。

Img_3062説明板

Img_3071塩尻宿へ入る。(仲町交差点)

Img_3067説明板

「・・・塩尻宿の東端に一里塚・・・」とある。距離的には下柿沢交差点と仲町交差点の間あたりに塩尻(柿沢)一里塚(58)があったのだろう。

Img_3099宿場図①

東西が逆になっている。文政と明治の大火で宿場の建物は焼失してしまった。残るは小野家のみか。

Img_3100

Img_3078口留番所跡

Img_3080五千石街道分岐点

この街道も29日に歩く。

Img_3082十王堂跡

遺構はないが庚申塔・双体道祖神などが並ぶ。

Img_3091小野家住宅

右棟は修理中。

Img_3088説明板

Img_3104本陣跡

Img_3108脇本陣跡

Img_3115笑亀酒造(国登録有形文化財)

Img_3117鉤の手(枡形) 《地図

右に曲がって行く。

Img_3121阿礼神社

神社前が塩尻宿の西端。

Img_3122「是より東 中山道塩尻宿」

Img_3126堀内家住宅

豪農の旧名主家。右端は手を握り合う♥♡道祖神。

Img_3130説明板

Img_3132本棟造り、雀おどりの棟飾り

Img_3134旧家

Img_3138蠺玉(こだま)大神・秋葉大神・庚申塔・道祖神 《地図

蠺玉大神は蚕(かいこ)の神。養蚕が盛んだった地域に多い。

Img_3142大門神社地図

樹齢500年?の大ケヤキがそびえる。もとは芝宮八幡社だった。境内に「柴宮銅鐸出土の地」碑が立つ。

Img_3153耳塚神社 (大門神社の隣)

Img_3155穴の開いたおわんを奉納をすると、耳の聞こえが良くなるという。

Img_3158旧家

軒下灯にのマークがついている。簡易郵便局なのか?

Img_3159何の店だったか。

Img_3164平出(ひらいで)一里塚跡(59) 【ル-ト地図】の④

道路を挟んで民家の隣に北塚も残っている。

Img_3167説明板

Img_3166北塚

Img_3171史跡公園・平出博物館標識

平出遺跡

Img_3173この先で第1中道踏切を渡る。

Img_3178左に少し旧道が残っている。《地図

Img_3230肱懸松碑から右へ肱松の坂を下るのが旧中山道。直進すれば道標が立つ現在の分去れ(追分)に出る。

Img_3183説明板

Img_3231_2肱松の坂(相生坂)を下る。【ル-ト地図】の⑤

右が肱懸松跡。細川幽斎がこの松に肱を懸け、風景を堪能し、歌を詠んだという。

Img_3233旧分去れ 《地図

常夜灯の所が善光寺西街道(北国西街道・正式には北国西脇往還)との分岐点。道標は西側の新道との分岐点(現在の分去れ)に移された。

Img_3224現在の分去れ 《地図

分岐に常夜灯の所から移された道標が立つ。明日から左の善光寺西街道を歩く。

Img_3205点線が新道

②が旧分去れ、③が現分去れ

Img_3193道標

「左 北国往還 善光寺道」・「右 中山道」

Img_3192説明板

Img_3221邂逅(かいこう-会ふた-あふた-太田)の清水 《地図

木曽義仲は、幼くして父を失い、信濃権守中原兼遠に木曽の地で、その子兼平とともに養育された。その後、兼平は今井を治めていたが、義仲の旗挙げを知ってただちに馳せ参じ、この清水で邂逅(巡り会った)した。義仲の馬は強行軍にたいそう疲れていたが、兼平が馬の脚をこの泉の水で洗ってやると、たちまち元気を取り戻した。『しおじり学びの道』から

Photo_2広重画 洗馬

邂逅の清水から望んだ奈良井川の夕景ともいう。

Img_3200洗馬宿に入る。

Img_3206案内図

昭和7年の火事で宿内が全焼し、街道沿いに宿場の面影は残っていない。

Img_3204説明板

Img_3213本陣跡

Img_3208貫目改所説明板

Img_3211脇本陣跡

「明治天皇御駐輦之處」が立つ。小休所のこと。

洗馬宿はここまでとし、洗馬駅に向かった。

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