2011年9月28日
坂北駅(JR篠ノ井線)・・・青柳宿・石組用水路・本陣跡・・・大切通し・小切通し・・・(長野自動車道)・・・麻績大橋(麻績川)・・・第4西街道踏切(篠ノ井線)・・・道標跡柱・国道403号・・・嫁の泣き石・・・高札場跡・南麻績学校跡・・郷倉跡・・・下井堀(麻績)一里塚跡⑫・・一口坂・稲荷社・・道標跡柱・・駒が石・・・麻績神社・・・ガッタリ・・・姨捨山遥拝所・・・麻績宿・本陣跡瀬戸屋・旅籠花屋・本陣跡中橋・高札場跡・・(国道403号)・・麻績番所跡・・・道標跡・筑北中学校・・・・市野川番所跡・・・間の宿市野川・市野川一里塚跡⑬・・市野川神社鳥居・高札場跡・・・市野坂・・・大峠お仙の茶や・・・馬の水飲み場跡・・・聖湖・猿ケ馬場峠・村境碑・・・念仏石・・・馬塚・・・猿飛池・・・火打石茶屋跡・・・松崎茶屋跡・・・火打石一里塚跡⑭・・・のぞき・・・くつ打ち場・・・日本廻国供養塔・・・梨久保池・・・(長野自動車道)・・・開眼寺・・・第5西街道踏切(篠ノ井線)・・・七曲りの松(和田酒造)・・・和田橋(佐野川)・・・間の宿桑原・番所跡・天満宮・本陣柳澤家跡・伴月楼記念館・・・治田神社上宮鳥居・・・稲荷山一里塚跡⑮・・・(国道18号)・・・西京街道道標(治田町交差点)・・・蛇枕石・極楽寺・・稲荷山宿・本陣跡・稲荷山城址・谷街道稲荷山起点・蔵し館・・・善光寺道道標・・・長谷寺常夜灯・・・天用寺・・・康楽寺・・・浄信寺・・・聖徳橋(聖川)・・・(長野自動車道)・・・姫吉神社・・・塩崎一里塚跡⑰・・・篠ノ井追分宿跡碑・善光寺街道(北国街道)合流地点・・・第3北国街道踏切(しなの鉄道)・(長野新幹線)・・・篠ノ井駅(JR篠ノ井線)
【ル-ト地図】
青柳宿から大小の切通しを抜け、姨捨山を眺めながら麻績宿へ入る。ここから最後の難所の猿ケ馬場峠越えとなる。途中のお仙の茶屋跡手前で稲荷山宿まで行くという、名古屋のS氏と出会い、所々で一緒の歩きとなった。猿ケ馬場峠は刈谷原峠、立峠よりは開けていて上り安かった。むしろ下りの方がぬかるんでいる所があり苦労した。
峠下の小さく静かな聖湖で一休みして間の宿桑原へと下り、善光寺西街道最後の宿、稲荷山宿を通り、先月来たばかりで見覚えのある、善光寺街道(北国街道)篠ノ井追分宿との合流点に着いた。少し善光寺街道を進み、新幹線沿いに篠ノ井駅に向かった。ここからは長野駅が近いのだが、明日は五千石街道を歩くので松本駅に戻る。普通電車はまたも行ったばかりで、奮発して特急に乗り、しばし心地よいまどろみを楽しんだ。
*この先、善光寺までは『善光寺街道③④』に続く。
写真をクリックすると拡大します。
石組用水路 《地図》
坂沿いの石垣に通された用水路。今でも水が流れている。
青柳宿説明板
本陣跡
青柳城址の城山山頂の笠松が目立つ。麓の清長寺が青柳氏の居館跡。

本陣の冠木門
城主青柳氏の一族が大庄屋になり、問屋も兼ねていた。
左折して大切通しに向かう。
里坊稲荷神社では7年に1回、「狐の嫁入り」が行われている。守り神の狐のために、青柳宿では犬は飼わない不文律があるそうだ。たしかに急に飛び出し、吠えかかってくる犬には出会わなかった。
史跡案内
大切通し【ル-ト地図】の①
鎌倉の切通しのようだ。
上はノミで削った跡で、「いい仕事してるねえ」。下は昭和30年頃に車道にするために削岩機で削った傷跡、「粗っぽい作業だねえ」か。
小切通し
説明板
のどかな風景の中を行く。
麻績大橋(下井堀大橋)を渡る。
明治2年の麻績騒動では一揆の集合場所となったという。
案内図
第4西街道踏切を渡ると、道標跡の標柱が立っている。
道標跡標柱(右)
「右ハ さくは道 左ハ いせ道」、さくは道は「作場」で農作業の道か?
左へ短い旧道へ入る。
嫁の泣き石(右)
花嫁が行くのが嫌だと泣いてすがった石だとか。嫌われて何の変哲もない石にまで名をつけられた婿さんも可哀そうだ。
案内図①
②
高札場・協志学校跡(南麻績学校)跡
すぐ先が郷倉跡
下井堀一里塚跡⑫
コスモスに飾られた一里塚跡碑
一口坂を左に上る。【ル-ト地図】の②
笹を一口食べて元気を取り戻したという、パンダみたいな木曽義仲の馬に由来。
坂名碑
由来
歩き安い未舗装の道が続いている。
駒が石
蹄の跡はどれ?
説明板
麻績(おみ)神社の新しい石燈籠
麻績神社
周辺は弥生時代から古墳時代にかけて集落があった所。
ガッタリ
説明板
やっぱり笹を食べただけでは馬力にならなかったか。人参でなきゃな。
姨捨山遥拝所
現在、ここ麻績村と千曲市の両地域とも『月の里』を名乗っている。明治時代には「冠着山復権運動」が起こり、ここに碑などが建てられた。
説明板
姨捨山(1252m)
電線ととんがり屋根が目障りだ。
麻績宿に入る。
周辺の史跡
説明板①
木曽義仲初陣の地でもある。

②
姨捨山がよく見える。
宿場図①

②
本陣瀬戸屋臼井家
江戸後期に2軒あった本陣の一つ。
説明板
「うす井」の庵看板
昔ながらの商店
本陣中橋臼井家(左)・旅籠花屋(右)
本陣中橋
塀から伸びる松は麻績騒動で畳を建て掛けられて放火された跡を残しているそうだ。
旅籠花屋
塀の前の「更科紀行」の句碑
「身にしみて 大根からし 秋の風」・「ひょろひょろと なほ露けしや をみなえし」
大和屋(造り酒屋)
今は営業していないようだ。
麻績番所跡(左に標柱)
この先の筑北中学校に沿って左折して、猿ケ馬場峠へと上って行く。
猿ケ馬場峠へ 《地図》
右は「筑北きのこ培養センター」
車道の下を旧道が通っているので歩き安い。
蛇が日向ぼっこか。じりじりと焼けてくるぞ。
市野川番所跡 【ル-ト地図】の③
麻績番所へ移る前の番所跡のようだ。
案内図
市野川一里塚跡⑬
通称「一里塚の家」や、「一里山」の屋号の家があるそうだ。
碑
市野川神社一の鳥居
奥に見えるのが社殿だろう。遥拝で済ます。最近は遥拝が多過ぎやしないか。すぐ先が高札場跡。猿ケ馬場峠を控え、間の宿市野川には、明治初期まで5軒の旅籠があったという。
案内図
番場節
(猿ケ)馬場峠、弘法清水、お仙の茶屋、火打石などが歌われている。
旧家の低い塀沿いを上る。
市野坂(坂下方向)を上る。
旧道に入り振り返る。
お仙の茶や
国道沿いの現在の休憩所。
馬の水飲み場跡
人も飲めそうな水が流れ落ちている。
お仙の茶屋跡・弘法清水
説明板
弘法清水
芭蕉の追体験、「さざれ蟹足這いのぼる」をしたかったが、蟹は見当たらなかった。
聖湖
馬場池、夜ケ池と呼ばれていた自然湖。湖というより大きな池の感じだ。
猿ケ馬場峠 《地図》
①村境碑(前)・②北国西街道改鑿紀念碑(後ろ)
①は「従是北更科郡八幡村」(明治28年)で、村境は長く争われ、それまで峠を少し北に下った馬塚(馬捨て場)が麻績村と八幡村の境だったが、ここ峠と確定された。
説明板
峠を下る。
案内図
注意しないとそのまま国道403号を進んでしまう。国道を330m行くと勘違いするのだ。自分は国道をかなり進んでしまい、引き返す途中でやはり間違ってやって来た名古屋のS氏に出会った。330mとあるがそんなにはないだろう。
ここを国道から分かれ左に入る。駐車場風で標識はない。
しばらく行くと標識がある。
この先ぬかるんだ山道に入り下って行く。
念仏石
「南無阿弥陀仏」の名号は磨滅と苔で見えず。
説明板
馬塚碑
ここがもとの麻績村と八幡村の村境。麻績村の石で積み上げた馬塚(馬捨て場)があった所。
説明板
ちょっと分かりにくい文と思うが。いや我の読解力のなさだろうよ。
猿飛池
火打石茶屋跡(左)
小休本陣の格式の茶屋「名月屋虎蔵」があった。燧石(すいせき・ひうちいし)を利用して建てられていてこの名で呼ばれた。
説明板
芭蕉句碑
「をばすては これからゆくか かむことり」
説明板には『更科紀行』で詠んだ句とあるが、この句はない。
松崎茶屋跡
井戸の名残か。
説明板
火打石一里塚跡⑬
東塚が残る。
説明板
のぞき
姨捨道との分岐で、有料の遠眼鏡が置いてあり、川中島古戦場、善光寺が望めたという。
姥捨道にはロープが張られ、通行止めになっている。
くつ打ち場
これから峠へ向かう人馬が身支度を整えた所。
説明板
梨久保池沿いを行く。
この先で一般道に出る。
第5西街道踏切を渡る。西街道踏切はこれが最後だが、ゴールはまだ遠い。
和田酒造(長野銘醸) 《地図》
塀は崩れかけている。純米「オバステ正宗」がある。
七曲り松(和田酒造内)
説明板
和田酒造の敷地内
善光寺平が見える。
番所跡を左折し、天満宮を右折し間の宿桑原に入る。
間の宿桑原 《地図》
長屋門(堀内家)
本陣柳沢家跡
稲荷山宿が上田藩領のため、松代藩は私宿として本陣を置いた。
平成12年の本陣跡柳沢家の写真
伴月楼(ばんげつろう)記念館
安政年代(1854~59)に建築された、松代藩士、関家の武家屋敷を資料館とした。佐藤一斎(佐久間象山の師)によって伴月楼と命名されたそうだ。
治田神社鳥居
延喜式内の古社で、更科郡の総社。天文年間(1532~54)に諏訪大社の祭神を配祀し、武田・上杉両軍の戦火から免れたともいう。
ここから500~600mだが割愛、遥拝。
今様道祖神か?
稲荷山一里塚跡⑮ 《地図》
車道に面した木柱に「史蹟 稲荷山一里塚跡」と書かれている。車に乗っている人は見やしないのに。歩行者は車に注意して見るのに一苦労だ。「いい加減な仕事しているねえ」か。
ここは一里山という地名で、近くに一里山集会所もある。
治田町交差点 《地図》
右に西京街道道標が立つ。
「右 西京街道」・「左 八幡宮道」
西京は京都で、明治以降に建てられたもの。八幡宮は武水別神社(やわたの八幡さま)のこと。
地蔵堂(正面)
地蔵さん
地蔵堂の前
「史跡 旭橋」、蟹澤川とは? これも何だか分からない中途半端な仕事だ。 次ぎの蛇枕石の説明板に「かに沢」が出てくるが。
蛇枕石(極楽寺門前の左下)
昔、篠山の雨池に大蛇が昼寝の枕にしていた石。
日照りで困ると里人はこの石に縄をかけ雨乞いをした。すると必ず「おしめり」があったという。ある干ばつの年、あまり動かしすぎたため、大蛇が怒り大雨となり、「かに沢」「荏沢」が大洪水となって、小坂、元町の家や畑が押し流されて、蛇枕石はここに流れついた。(由来板から)
由来
神田商店
古い家並みを右にカーブして行く。どれも廃屋寸前という感じだが。 《地図》
「清明丹」の看板を掲げるが、廃業してしまったようだ。
稲荷山宿本陣跡松木家 【ル-ト地図】の④
街道には面していない。問屋を兼ねていて前の通りを問屋小路といった。
稲荷山城址 《地図》
ここは全くの平地だ。
説明板
谷街道口(北信濃ろまん街道)起点(稲荷山郵便局前)
稲荷山→矢代→松代→須坂→小布施→中野→飯山→十日町(新潟県)
街道は郵便局前を枡形を北(左)に曲がって行く。
清水家
稲荷山宿蔵し館 《地図》
生糸輸出の先駆者で「松源製糸」の松林邸を修復・再生して公開している。
大庄屋清水家?
上田藩松本領の庄屋を務めた。塩崎小学校が陣屋跡。
道標
分岐の木の前に立つ。ここは左へ行く。
「左 ぜんこうじ道」
長谷寺参道常夜灯 《地図》
日本三所長谷観音の一つで、信濃観音霊場の第18番はここを左折し、篠ノ井線を越えた所にある。街道は右折し、すぐ左折する。
天用寺
「譜代松平旧領主位牌所」とある。
康楽寺
開基の西仏坊海野幸長は、奈良興福寺の文章博士となり、木曽義仲の軍師として転戦し、親鸞の浄土真宗創始に協力するなどの活躍をしたという傑物。また、平家物語の作者、信濃前司行長入道と同一人物とする説もある。
説明板
塩崎一里塚跡⑯or⑰ 《地図》
前の稲荷山一里塚跡⑮からは、ここまで約5.5kmあり長過ぎる。麻績村の『善光寺街道ウォーキング』の「善光寺街道の一里塚」では、この間に上町一里塚跡⑯があったとしている。そうすると⑮と⑯の間、⑯と⑰の間とも短過ぎる。さあどうだったのだろうか?
説明板
善光寺街道(北国街道)合流地点 【ル-ト地図】の⑤
篠ノ井追分宿跡碑(右)が立つが正式な宿ではなかった。
矢代の渡し方向
第3北国街道踏切を渡り、新幹線沿いに篠ノ井駅に向かった。
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