善光寺西街道(北国西街道)②
2011年9月27日
松本駅 バス→伊深・・・堂田遺跡・・・馬飼峠分岐・・仇坂・刈谷原峠・・・地蔵清水・・・こじき岩・・・㊆馬頭観音・(猿飛岩あたり)・・・刈谷原一里塚跡あたり⑦・・・庚申塔・道祖神・・刈谷原宿・玉成学校跡・脇本陣跡・・・(国道143号)・横山不動王・・・(神明社)・・・(洞光寺)・・・油坂・・・板場一里塚跡⑧・・・善光寺道道標・・(県道302号)・・・保福寺橋(保福寺川)・・・浄雲寺・・・黒姫龍神社・・・日本廻国供養塔・・・会田大橋(会田川)・・会田宿・下問屋跡・上問屋跡(本陣跡)・津島牛頭天王社・・善光寺常夜灯・・・松沢家長屋門・・・岩井観音堂・・・岩井堂一里塚跡⑨・うつつの清水・・・馬頭観音・花川原峠分岐・・・立峠・茶屋跡・・・石畳(芭蕉の小径)・・・間の宿乱橋・高札場跡・・・赤豆坂・綿の実道祖神・・中峠・物種太郎塚・・・馬の水飲み場・・・中の峠一里塚跡⑩・・・山伏塚入口・・・野口炭鉱事務所跡・・・(JR篠ノ井線)・・・皿吊しの道祖神・・・間の宿西条・・観音寺・高札場跡・茶屋本陣跡・・東條川・・・刈谷沢神明宮鳥居・・・第3西街道踏切・・・山清酒造・・・坂北歴史民俗資料館・長田一里塚跡あたり⑪・・・腰神様・・・坂北駅(JR中央線)
今日は刈谷原峠を越え刈谷原宿に下り、会田宿から立峠へ上り、間の宿乱橋から小さな中峠を越えて間の宿西条に下って、青柳宿の入口の坂北駅まで進もう。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
今日もすきっりした快晴の下、刈谷原峠を目指す。
馬飼峠は刈谷原峠より70m低く、明治初期に馬車も通れる有料道路が開通し利用されていた。
「あだざかをのぼれば、身にあせし、暑さにえたえで、峰遠み麓をたどる旅人の 身にあだ阪ぞあゆみくるしき」『わかこころ』
もう耐えられないほどの暑さではないが、汗を拭き拭き上って行く。仇坂の由来は何なのか?
馬頭観音がずらっと並ぶ。17基というが数えなかった。もっと多いか。
3軒の茶屋があったという。
峠越えの貴重な水場だった。江戸中期の丸彫りの地蔵 (右)と刈谷原町の銘の浮き彫りの地蔵(左)が並ぶ。少し左側を水が流れている。
前に弘法大師像(左)と馬頭観音(中・右)が2基か?
峠の北に㊆、南に六の銘入りの馬頭観音が幕末に建てられた。
菅江真澄は、背後の谷の向うの猿飛岩に群猿を見ている。今は木が茂って岩は見えないようだ。
杉林の中に標柱が立っているというが見逃した。
ここは刈谷原宿の入口だ。
直線の坂沿いの、善光寺西街道で最も小さな宿場だった。篠ノ井線の開通までは多くの家が馬宿や茶屋をしていたという。北西の城山(895m)に刈谷原城があった。
左隣が玉成学校跡で、松本の開智学校より1年前に開校した。
下問屋も兼ねていた。この手前が上問屋を兼ねていた本陣跡のようだ。
横山不動王(正面の鳥居)・道祖神(右) 【ル-ト地図】の10
ここは城山の麓、石畳風の参道が続いている。遥拝で済ます。
洞光寺 《地図》
「絹本著色真言八祖像」、刈谷原城主の墓、弘法大師伝説の犬石などがあるが、ここも門前で失礼。
油坂を上って下る。《地図》
油のように滑らかの坂の意か?
西の民家は「えのき屋」(一里塚の榎)というそうだ。
石碑は表面がはがれ、木の標柱も剥げている。
ここで国道を渡る。
浄雲寺 《地図》
漆黒の木造阿弥陀如来立像を安置。
雨水の守り神か。
会田宿へと緩やかに下って行く。
新町の旅籠街だった通り。
ここを右折して本町の坂沿いの家並みに入る。上部の欠けた道標が立っている。
江戸後期には本陣も兼ねていた。
立峠へ上って行く。右は虚空蔵山。《地図》
寺子屋と剣術指南をしていたという。
右の石碑の後ろ
「身にしみて 大根からし 秋の風」、『更級紀行』
「入山禁止」
いたる所に貼り紙がしてある。観音堂にお参りに行くだけよ。
岩井観音堂 《地図》
信濃観音霊場の第20番。菅江真澄は「堂のかたはらの窓より法師さしのぞき・・・」と法師と話をしているが今は無住。
ここに茶店があり、旅人は休憩してのどを潤して立峠へ向かった。
会田富士と呼ばれ、中腹や山頂が虚空蔵城跡
このすぐ先が登山口で「うつつの清水」の源泉。
「善光寺(西)街道中、一番大きく美しい像」というが、苔に覆われ、像形がはっきりしない。と思ったがこれは裏面で、正面は旧街道側(廃道)に向き、こちらには背を向けて立っている。後日、調べてがっくり、納得。同じ過ち?を犯している人のHPを見て、少しは安堵、同情した。
この前から立峠への急登が始まる。
「立峠(0.6km) 急な上り(足元に注意!)」の標識が立つ。
確かきつい登りで、汗が噴き出し息が荒くなった。
唐鳥屋城跡の主郭まではここから約500m。
明日越える峠だ。(AとBは写真が逆かも。いい加減だな、俺も。いつものことよ)
もとは道普請の苦役を軽減するために村人が敷いた石畳。
明治時代に規制がなくなると、立場茶屋が宿屋を開業し栄えた。乱橋は弥陀の橋から転じたという。
正岡子規が泊まった大黒の鬼瓦の宿屋か。今は空き家だ。
握り合う手の上に綿の実。綿伸し場の地名があるなど、江戸時代には綿栽培が盛んだった。
昔話『物くさ太郎』。ストーカーの成功譚みたいな話だ。物くさ太郎の旧跡は数か所あるそうだ。
中峠から下って行く。
「聖湖16.9km」の中部北陸自然歩道の標識が立つ。
右に傾いた標柱が立つ。
この先に山伏塚入口、野口炭鉱事務所跡がある。岩井観音堂の裏山から年間7千トンの石炭を掘り、索道で西条駅まで運んでいたそうだ。
ここは何だったのか?
歩行者用通路を進み、篠ノ井線のガードをくぐる。
もとは崖上にあったのだろう。
道路を何度も掘り下げたためこんな上に取り残された。「皿吊し」とはどういう意味か?
馬頭観音が本尊で、馬の寺として信仰を集めた。千頭の馬が描かれた絵馬に一頭だけ牛が交っていて、「見つけた者は幸せになるが、口外すると効力が無くなる」といわれている。境内に馬の銅像が見える。近年まで草競馬が行われていたそうだ。
門前が高札場跡。
刈谷沢神明宮鳥居
「お田植え祭り」が行われる。
第3西街道踏切を渡り、青柳宿へ向かう。《地図》
山清酒造(2020年3月に廃業したようだ) 【ル-ト地図】の14
明治33年建築の旧坂北村役場。 (筑北村考古資料館に名称が変わったようだ)
このあたりが長田一里塚跡(11)だが標柱などは見当たらず。
これも道祖神か?
横溝正史の小説なら、これは人間の生首で、金田一耕助が下駄をならして駆けてくるだろう。
白い布を巻きつけて拝むと腰の痛みが取れるという。
街道は右にカーブして行く。
松本行の電車はちょっと前に発車したばかりで、1時間ほど待つ。駅の隣の駐車場脇で寝転んで休憩。風は涼しいが傾いた太陽の陽射しはまだ強かった。
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コメント
善光寺街道を検索したら貴サイトをみつけました。
松本市岡田から千曲市稲荷山のルートで刈谷原峠ー立峠ー中ノ原峠ー猿ヶ馬場峠と峠越えの山道大変ですね。
200年前、伊能忠敬は測量で通りました。齢70才のときです。
測量図と現在の国土地理院地図を重ねてみました。
伊能図は導線法による正確な路線図です。
地理院地図は航空写真測量による地図です。
航空写真では樹木に覆われた山道などは見えないところがあり役場の資料図などで入れているようです。
投稿: roku | 2016年1月31日 (日) 14:58