土気往還②
2011年10月25日
誉田駅(JR外房線)・・・県道20号・・・恕閑塚・・・(千葉外房道路)・・・越智新田歩道橋(外房線)・・・県道20号・・・地下歩道(外房線)・・土気駅・・・市民センター前交差点・・・旧道・・・白山神社・新宿会館・・・道標・・・(土気トンネル)・・・房総鉄道陸橋跡・・善勝寺・・・貴船神社・・・馬頭観音・・・土気城址・・・クラン坂・・・(外房線)・・・水資源機構・・・県道20号・・・日吉神社・・・池田一本松・・・水神社・・・(大網駅)・・・寄合橋(小中川)・・・大網本宿・・新宿・・・大網駅(外房線)
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
徳川幕府に弾圧され処刑された、不受不施派の蓮照院恕閑日浄らの墓。西方には処刑した刀を洗った「血洗いの池(刀洗いの池)」があったそうだ。
地下道をくぐり、土気駅の北側に出る。土気は人馬継立場だったが、ここは土気の旧中心部からは離れている。鉄道により町の繁栄が奪われると思われていたことと、鉄道により好ましくない人物が村に入り込んで来ると考えたためという。
ここを左折してすぐ右折し細い道を上り、白山神社に寄り、土気の旧中心街へ出る。県道を直進すれば中心部を通らず大網に達する。
白山神社へ 《地図》
薄暗い参道が残っている。ここは土気往還の道筋ではないが。
土気往還沿いの旧中心街は住宅街になっている。
道標(右のガードレールの切れ目) 《地図》
このT字路を左折し北宿に入り、すぐ右折し土気城址を目指す。
道標(大正5年)の右側面に「正面土気停車場千葉道」、左側面に「←小食土 池田 大網道」。(←は指差し)
土気城址方向への広い道。このあたりは松原宿と呼ばれていたそうだ。
道標(右) 《地図》
ここを右折し下り、外房線の土気トンネルの上を通り、房総鉄道陸橋跡から善勝寺へ寄る。
「→当町を経テ停車場に至ル ←金谷 南玉 大網道」
房総鉄道陸橋跡 【ル-ト地図】の⑤
明治29年に千葉→大網間が開通し、この区間は深い谷となっていて陸橋が架かっていた。昭和47年に外房線の電化に際し、新たにトンネルが掘られ廃線となった。現在は谷は埋め立てられている。正面が善勝寺の社叢。
善勝寺山門
「善勝寺ぐるわ」として土気城の一角をなしていた。
道標まで戻り、土気城址へと進む。
やけに大きい馬頭だが。
土気城跡説明板
「日本航空研修センター」は現在、「ひまわりの郷」(高齢者専用賃貸住宅)になっている。
本丸跡 《地図》
「ひまわり郷」の敷地で入れず。
ここが今日のハイライト、唯一の目玉だ。「クラン」の由来は、①昼なお暗いので「暗ン坂」、②坂上に倉があったので「倉ン坂」、③矢倉の「クラ」、など諸説ある。
ここは土気城本丸東方の搦手口で落城の際の「金谷口」への逃げ道で、所々にある横穴は中世の横穴墓の矢倉ともいう。
水資源機構「房総導水路管理所」脇を上って小食土バス停の所へ出る。《地図》
日吉神社 《地図》
徳川家康が鎧を掛けたという「御茶屋松」があったという。
3代目の松
水神社 《地図》
このあたりで野良犬?に声を掛けたら後をついて来た。首輪はついてなかったが、毛並のいい日本犬で飼われているのだろう。
大網本宿の通り 《地図》
近世の大網は交通の要所、近傍の中心的立場で、九十九里浜方面からの海産物、近隣の農産物が集められた。現在は大網駅からはかなり離れ、活気のない寂しい通りになっている。
「せともの 漆器」の店(だったか)
「美術剥製」とガラス戸に書かれている。
大網城址方向 【ル-ト地図】の⑧
登城の道筋が見当たらない。①大網小学校(正面)の校庭内裏から城跡の日吉神社へ上れるようだ。また、②本宿バス停から民家の敷地内を通って主郭あたりの浅間神社へ上れるらしい。いずれも後日調べて分かったことで、あえなく落城、後の祭りだ。名のある坂なら「坂道散歩」の面目丸潰れだが、城だからね、まあいいか。
新宿の通り 《地図》
ここもぱっとしない通りだ。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2023年11月~)追加分(2023.12.14)
- 「歩いた坂」追加分(2023.12.10)
- JR京浜東北線を歩く①(2022.10.22)
- 大落古利根川・中川を歩く(2023.11.22)
- 柴又街道②(2023.11.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント