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2011年10月29日 (土)

土気往還①

2011年10月24日

本千葉駅(JR内房線)・・・房総往還・・・旧東金街道分岐点(大和橋交差点)・お茶の水跡・(猪鼻城跡)・・・病院坂・・・千葉大医学部・七天王塚・・・青葉の森公園・舟田池・旧東金街道・・県道20号・・・(京葉道路)・・・道標地蔵・松ケ丘バス停・土気往還分岐点・・・(松ヶ丘小学校)・・・鎌池公園・・・千葉東病院・・・県道20号・・・鎌取配水池・・・鎌取十字路・・・(鎌取駅)・・・(JR外房線ガード)・・・野田上宿・・野田十字路・・誉田八幡神社・・中宿・・五日堂・・・誉田駅(外房線)

 千葉市中央区の大和橋(都川)を渡って左折し房総往還から分かれ、鎌取、誉田(野田)から土気、大網までの土気(とけ)往還を2回で歩く。かつては外房、九十九里海岸からの海産物などの重要な輸送路だったが、今はさほど面白味のある道筋ではない。

 参考:『歴史の道調査報告書 土気往還』(千葉県教育委員会) ・ 『房総往還②』にも記事あり。

 【ル-ト地図】 

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4728土気往還説明板(青葉公園内設置のもの)

 

Img_4691旧東金街道分岐点 【ル-ト地図】の①

房総往還は直進、旧東金街道(途中までは土気往還と同じ道筋)は左折し、お茶の水跡の前を通り、旭橋交差点を右折し、病院坂を上って行く。

 

Img_4696病院坂を上る。

千葉大医学部付属病院方向へ上る坂。正面奥は猪鼻(千葉)城跡千葉市立郷土博物館

 

Img_4702七天王塚①(千葉大構内) 《地図

猪鼻城の大手口に千葉氏にゆかりの北斗七星の形に配したとも、千葉氏兄弟の墓ともいう。また平将門の「七騎武者の墓」という伝承もある。『将門マップ

 

Img_4701説明板

 

Img_4707七天王塚②(千葉大構内)

 

Img_4710七天王塚③ (街道沿い)

残りの4つは探さず。

 

Img_4711説明板

 

Img_4722青葉の森公園案内図(南北が逆・旧東金街道の道筋の標示がある)

土気往還(旧東金街道)は、舟田池の右側(南側)を通っていた。旧道の一部が残り保存されている。今日は中央博物館の休館日で、右下の入口は閉まっていた。

 

Img_4714舟田池 【ル-ト地図】の②

 

Img_4725旧東金街道(土気往還)

青葉の森公園はもとは畜産試験場で、街道の一部がほぼ当時のままで残っていた。(案内図の道)

 

Img_4739土気往還・旧東金街道分岐点近く(松ヶ丘バス停) 

右の塀の窪みに道標地蔵が分岐点から移され保存されている。

 

Img_4737地蔵の右側に「これより右とけ道」、左側に「これより左とうかね道」。

 

Img_4748千葉東病院の敷地にぶつかり左へ迂回して県道20号に出る。病院の南角には椎の木があり、「一里塚」といわれていたそうだ。《地図

 

Img_4751単調な県道を鎌取駅の方へ南下する。

 

Img_4757道祖神(右)・大師小祠  (鎌取駅前)

鎌取は継場ではなかったが立場で、一膳飯屋などがあったという。

 

Img_4759大師像

後ろの額に「新四国八十八箇所」とある。

 

Img_4764野田上宿の家並み

野田村には大網、本納方面、東金方面から内房に送られる物資が集まる継立場だった。今は往時の面影はなく、バス停の上宿、食堂「かみじく」に名をとどめるか。

 

Img_4770誉田八幡神社 《地図

祭神の「誉田別命」(応神天皇)は、ここ誉田の地名となった。

 

Img_4776中宿の旧家

 

Img_4777旧家

 

Img_4781左右にくねる道が昔の街道の名残りか。

 

Img_4782旧家の門

 

Img_4784五日堂 【ル-ト地図】の③

寛永12年(1635)9月5日に処刑された、不受不施派の日浄上人の首を葬った所に建てられた堂。

 

Img_4785説明板

 

Img_4786五輪塔

日浄を祀る供養塔

 

Img_4787誉田小学校の手前で県道から離れ右に入る。別に見所はない。《地図

 

Img_4790誉田駅(JR外房線)

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