善光寺西街道(北国西街道)①
2011年9月26日
洗馬駅(JR中央線)・・・中山道(県道304号)・・・分去れ道標・善光寺西街道(県道294号)・・・常夜灯(旧分去れ)・・・中原交差点・・・太田一里塚跡①・・・サラダ街道標識(郷原工業団地交差点)・・・諏訪稲荷社・・郷原宿・庄屋山城屋・上問屋(郷原簡易郵便局)・下問屋・郷福寺・・・堅石三社(帯代道祖神)・・・原新田交差点・・原新田追分道標(塩尻道分岐)・・・原新田一里塚跡②・津島神社・・・牛屋(島木赤彦下宿家)・・・第1西街道踏切(JR篠ノ井線)・・・国道19号・・・(長野自動車道)・・・旧道・・・村井宿・神明宮・口留番所跡・高札場跡・脇本陣跡・本陣跡・・・村井下町交差点・国道19号・・・芭蕉富士塚・村井一里塚跡③・・・五千石街道合流地点(平田南交差点)・・・多賀神社・・・出川差矢場地跡・・・寺子屋跡・・・盛業学校跡地(出川公民館)・・・庄屋中田家・・・出川(信楽)一里塚跡④・・・豊田橋(出川)・・・貞享義民刑場跡(出川刑場)・・・奥山半僧坊大権現・・・城見橋(がっくり橋)・・・栄橋(薄川)・・・十王堂跡・・松本宿・緑橋(袖留橋)・本陣跡・野麦街道道標・牛つなぎ石(千国街道(塩の道起点))・・善光寺道道標・中町通り・中町蔵シック館・源智の井戸・瑞松寺・・国道143号・・・大橋(女鳥羽川)・・・二つ井戸小路碑・・・捨堀の土塁跡・・・宝栄寺前・旧道・・常法寺小路碑・・・安原町碑・・・十王堂跡・・・安原一里塚跡⑤・番所跡あたり(萩町交差点)・・・千国街道(塩の道)分岐店・・・五差路の庚申塔・・・岡田神社参道・・岡田宿・南木戸跡(地蔵祠)・本陣跡・・枡形・・口留番所跡・道標・・・北木戸跡(蓮台場跡)・・・伊深一里塚跡⑥・・・(国道254号)・・・伊深バス停→松本駅
善光寺西街道を中山道洗馬宿の分去れから、篠ノ井追分宿の善光寺街道合流点までを3日で歩く。概ねJR篠ノ井線沿いの道となるが峠越えも4つある。晴天の下、ハイキング気分で行くとしよう。
今日は郷原宿、村井宿から松本の中心部の松本宿を抜け、刈谷原峠を控えた岡田宿までの行程だ。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
右が中山道(県道304号)、左が善光寺西街道(県道294号)。分岐点に道標が立つ。
旧分去れから移されたもの。
「右 中山道」・「左 北国往還 善光寺道」
右が旧中山道で肱松の坂の途中に肱懸松があった。道標は移され、今は常夜灯(説明板の後ろ)のみが立つ。
一里塚は日本橋を起点とする。ここは中山道の平出一里塚(59)からは遠すぎる。牧野一里塚(60)からは適当な距離だ。今はぶどう畑になっている。
サラダ街道の標識(郷原工業団地交差点)
諏訪稲荷神社 《地図》
日露戦争の戦利品の砲弾が奉納?されている。
消防設備のシャッターに狐の親子とぶどうの絵。伝説の玄蕃丞狐と桔梗ケ原ワインを表わしている。
『民話玄蕃丞狐』・『塩尻玄蕃祭り』 広丘駅の南東には玄蕃稲荷神社がある。
かつては道の中央に用水が流れていた。桔梗ケ原は南北朝時代には宗良親王と小笠原長基が、戦国時代には武田信玄と小笠原長時が戦った古戦場跡でもある。
ここから枡形などはなく直線状に、郷福寺まで郷原宿が続く。
本棟造り、雀おどり(おどし・返し)の棟飾り
大庄屋で本陣と呼ばれていた赤羽家。
上問屋 《地図》
問屋業を引き継ぎ郷原簡易郵便局となっている。
共同で掘った3つの深井戸の一つ。20mほどの深さという。
右に明治天皇も飲んだ古井戸、その後ろが薬師堂
那須野が原で詠んだ『奥の細道』の句を「桔梗ケ原」に当てはめて建てられた。
祭神は伊弉冉尊、建御名方命、軻遇突智命の三柱。
境内奥に帯代道祖神が佇む。
①道祖神の嫁入りといい、松本平に盗みが流行したため、高額な結納金を刻み盗難を防止した。『北国街道を歩く』(岸本豊)・②道祖神そのものを盗むのを予防した。『信州朝日村の道祖神』の「道祖神ぬすみの話」
5両は安過ぎやしないか。50両、100両と刻まれたものもあるそうだ。「嫁入道祖神」と呼んだ方が親しめるか。
堅石は古代の東山道の宿駅「覚志駅」の最有力な比定地という。
原新田追分 《地図》
右下に道標
「右 京いせ きそ通」・「左 東京 いな すわ道」(明治2年)
説明板によると、この筑摩野精器の敷地内。
明治天皇広丘小休所跡
島木赤彦下宿宅
「短歌おやき」店 《地図》
食べると短歌が上手くなる、旨いおやきか?
この先に「塩尻短歌館」がある。
第1西街道踏切(JR篠ノ井線)を渡る。《地図》
この先、篠ノ井追分宿の間に第5西街道踏切まである。(第2は渡らず) しばらくは単調な国道歩きとなる。
左に旧道に入り村井宿に向かう。《地図》
村井番所・高札場跡 《地図》
宿の南に飲食店の茶屋などがあって呼び込みをし、「むかで町」などといわれていた。
問屋を兼ねていた。
問屋を兼ね、脇本陣と半月交替で伝馬業務をしていた。
口留番所役人を務めた山村五兵衛家
村井下町交差点で国道19号に出る。
村井一里塚跡③・芭蕉富士塚 《地図》
富士とは信濃富士と呼ばれた有明山(2268m)のことだそうだ。
五千石街道分岐点(平田南交差点) 【ル-ト地図】の4
ここを右折して中山道塩尻宿の追分までの12~13kmほどの街道。善光寺西街道終了後、29日に歩く予定。
もとは分岐の角の道路沿いにあったが、工事中でここへ移されたようだ。一緒に並んでいた五千石街道の石柱はどこへ行ったやら?
多賀神社 《地図》
「延命長寿」の信仰が篤く、祭りの時には長寿餅が売られている。
味噌醤油の「丸正醸造」の大樽
広さが東西30間、南北110間の通矢の訓練場があったそうだ。
すぐ先が寺子屋跡で、出川公民館の所が盛業学校跡(明治6年開校)
大庄屋の中田家は玄関を持つことを許されたそうだ。
右のガード内に石柱
念仏供養塔が並ぶ。
貞享義民刑場(出川刑場)跡碑
前の河原が処刑場だろう。
北に松本城が見えたという。南に渡れば出川刑場で、「ガックリ橋」とも呼ばれた。
橋を渡って松本宿、松本城下へ入って行く。
十王堂跡の北向観音 《地図》
松本藩は城下町の南北に十王堂を置いた。北の安原町には標柱のみが残る。
江戸時代には袖留橋と呼ばれていた。大坂夏の陣の際の『袖留橋伝説』がある。袖にすがって引き留めた乳母の手を振り払って出陣した小笠原忠脩はあえなく戦死してしまった。
松本宿本陣跡 《地図》
問屋を兼ねていた倉科家は明治になって郵便局となった。郵便配達像の「郵便局発祥の地」碑が立つ。
野麦街道分岐点・千国街道(塩の道)起点(中央2丁目交差点) 《地図》
安原町の分岐点まで「塩の道」と同じ道を行く。
敵に塩を送った上杉謙信の故事にちなむ。
蔵造りの店が並んでいる。
インド人もびっくりか。
近くの造酒店の母屋・土蔵・離れを移築し、町づくりの拠点とした。
世界各国の手工芸品店
中町は本町・東町とともに松本城下の「親町三町」の町人街で、善光寺街道筋の問屋街として発展した。明治21年の松本大火の後、耐火建築の土蔵造りが多く建てられた。
源智の井戸 《地図》
国道143号に出て北に進み、大橋を渡って行く。
明治20年建築の質屋「光屋」の建物。今は「ニシ」と「ヒガシ」がある高級?料理店。
萬年屋
江戸後期創業の麹屋。なまこ壁の前に「捨堀土塁跡」の説明板が立つ。松本藩石川家の改易の一因になったともいう堀の土塁跡が残っているそうだ。
「肉のきらく」とセブンイレブンの間を左折する。右は宝栄寺の参道。 《地図》
あちこちに名のついた小路が残っている。
右に安原町碑が立つ。
ここ松本城下の北は標柱のみ。
この先の萩町交差点あたりが木戸・番所・安原一里塚跡で、説明板が立っているのだが見逃した。
「塩の道」は武井砂糖店の先を左折して行く。松本の初市は塩市と呼ばれていたが、飴も多く作られ飴市の方が通用するようになったそうだ。塩も砂糖も大事にされたのだろう。
この道もいずれ歩くつもりだ。
右の信州大付属松本小学校校庭の滑り台になっている塚を一里塚の名残りとする人もいる。
五差路の庚申塔 《地図》
ここは左へ進む。
岡田神社参道の大ケヤキ 《地図》
この先で国道143号にぶつかり参道は途切れる。岡田神社は延喜式内の筑摩郡三社の一つ。
左に地蔵の小堂、道の中央に用水が流れていたそうだ。宿の北のはずれには北木戸跡の蓮台場がある。
近くに浅間温泉があり旅籠は10軒と少なかった。
岡田宿公園になっている。
養蚕全盛期の建築で気抜きの小屋根がある。所家は問屋兼務で本陣を務めていたそうだ。
岡田口番所跡・江戸海道道標 《地図》
年号は刻まれていないが、「江戸海道」は正徳6年(1716)以前の表記方。
右が聖徳地蔵の小堂。
「連隊と間違えて来る人があった」とは面白い。
南木戸の地蔵と同じ年の建立だ。
左の物置?に説明板
国道254号を横切る。もう4時半過ぎだ。少し進んで右折し、国道沿いのセブンイレブンそばの伊深バス停から松本駅へ戻った。
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