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2011年11月30日 (水)

中津街道①(常盤橋→苅田駅)

2011年11月14日

常盤橋・・・魚町銀天街・・・旦過市場前・・・(平和通り・都市モノレール小倉線)・・・古船場町交差点・・・中津口門跡・中津口橋(砂津川)・・・(国道3号)・・・足立インター交差点(北九州都市高速)・・・神岳橋・・・県道264号・・・本通寺・・・開善寺・・・湯川交差点・旧道・・・湯川水神社・・・葛原八幡神社・・善ケ追池・・・茶屋本邸御茶屋跡・山寺川・・・(九州自動車道)・・・寺迫北交差点・・・唐戸橋(竹馬川)・・・西迎院・・・新田橋(貫川)・・・庚申谷踏切(日豊本線)・・・帝踏岩・・・始覚寺・・・朽網橋(朽網川)・・・国道10号・・・狸山古戦場跡あたり・・・宇土交差点・・・郡境碑・苅田町・・・松山入口交差点(新北九州空港連絡道路)・・・神田町交差点・旧道・・・里程標・・・浄厳寺・・・木実原神社・・・苅田駅(日豊本線)→小倉駅・・・平和通り・・・森鴎外旧居・・・上砂津橋(砂津川)・・・冨野口交差点・・・大田町・・・へへり坂・・・天疫神社・・・教育大付属中学校・・・小倉駅

 中津街道は周防灘沿いに、小倉城下と中津城下を結ぶ北九州の主要道で、現在では日豊本線、国道10号が走り、けっこう旧道も残っていて見所も多い。部分的に歩いたことがある道で、中津は今回で3度目となり、気分的には楽な街道歩きだ。ゆっくりと3日間かけて歩こう。晴天の下、昨日と同じく常盤橋を出発した。苅田駅まで進み小倉へ戻り、明るい内にちょこっと坂道散歩を追加した。

  【ル-ト地図】(25.0km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5929旦過市場前 《地図

ここを左折し、次の角を右折して行く。

Img_5930昭和館

レトロな映画館前を通る。

Img_5937中津門口跡(砂津川中津口橋) 【ル-ト地図】の①

昨日歩いた門司往還には、砂津川下流の門司口橋に門司口門があった。

Img_5940説明板

Img_5894中津門口の大石

今は小倉城内の八坂神社の参道入口に移されている。この細川の大石(小笠原の割石)の故事が説明板にある。また明治になって小倉へ来た中津や築上の青年達が、この大石をにらむと成功するといわれ、目をむいてにらんだので「大石にらみ」、大石を見上げて「出世して人から見上げられる人物になるぞ」と誓ったので「出世石」ともいったそうだ。

Img_5897大石から小倉城

Img_5944足立インター交差点で左に入り、北九州高速道路をくぐる。《地図

Img_5953中津街道の説明板が立っている。(正面左・足原1-8?)

説明板には「この付近はいくらか昔の面影をとどめている」とあるが、道の曲り具合ぐらいだけか。

Img_5955説明板

Img_5965本通寺 《地図

もとは細川忠興の家来の大隈市正(願覚)の建てた浄光寺。

Img_5972右に寺院の楼門?

「バーデンハウス 北九州健康センター」だが、閉店してしまったようだ。

Img_5977開善寺

福聚寺が建立されるまで小笠原家の菩提寺で、もとは馬借町にあった。境内には享保大飢饉(享保17年(1732))の供養塔の「保享印塔」(宝篋印塔で、享保を逆にして命名した)があるというが、番犬(蕃犬・駄犬か)がぎゃんぎゃん吠えるので、うんざりして引き返した。

Img_5982説明板

Img_5979開善寺裏手からの眺め

Img_5987湯川水神社 【ル-ト地図】の②

Img_5988縁起・由来碑

Img_5989一生池

道鏡により足の筋を切られた和気清麻呂を癒し、たせた温泉跡。背後の足立山の由来で、足湯の元祖とか。

****2005年5月5日に足立山に登った時の写真(2枚)****

Dsc05541和気清麻呂像(足立山登り口の妙見神社内)

好々爺という感じだ。

Dsc05554足立山(598m)から戸上山(518m)への縦走路から、門司市街、関門海峡方向

***************************************

Img_6008葛原八幡神社 《地図

和気清麻呂の嗣子真綱が勅使として宇佐八幡宮へ参内した帰途、この地に弘仁8年(817)創建したと伝える。

Img_6007社殿の背後に足立山

Img_6004和気清麻呂像

白鹿(湯川水神社の縁起碑)ではなく、猪が尻を突き合わせている。

Img_6005葛原新町楽説明板

Img_6016茶屋本邸御茶屋跡 【ル-ト地図】の③

茶屋本氏の姓は藩政時代の御茶屋名跡を示す。茶屋本家には、藩主御成りに際して使用された抹茶碗、傷や病に特効があったという藩主御狩りの「猿の手」が伝えられているそうだ。この奥に家屋がある。

Img_6026塩が奉納されている。何の石塔か? 曽根は製塩が盛んで「曽根の塩浜」で知られていたというが。

Img_6043西迎院 《地図

このあたりは人馬を備えた下曽根の宿場町で、唐戸橋の東のたもと一帯に本宿が置かれていたそうだ。

Img_6054日豊本線の特急「ソニック」が行く。

Img_6066帝踏岩(たいとういわ) 【ル-ト地図】の④

景行天皇が貫山(禰疑山)の土蜘蛛を討つため、この岩を蹴って神意を占ったという、『日本書紀』の伝説地。もっと小高い所にあるのかと思っていたが、JR線の踏切を越えた平地の住宅地の一画だ。貫山(712m)は南西方向にあり、「企救富士」とも呼ばれ親しまれている。

Img_6068岩の上から

Img_6080始覚寺 《地図

ここにあった「堂上の松」(クロマツ)は枯れてしまったようだ。

Img_6087くさみ温泉

温泉の成分が濃くて「臭味」ではない。「朽網」(くさみ)はここの地名。日豊本線の朽網駅もある。

Img_6093狸山古戦場跡方向(このあたり(朽網東6丁目)の北方の丘陵地)

応永の戦乱では松山城を巡って激しい攻防戦があり、長野や貫の国人たちが「狭道の合戦」で敗退したという。また慶応2年(1866)には小倉藩が塁を築いて長州軍と戦った所でもある。

Img_6097郡境碑 【ル-ト地図】の⑤

ここは街道(国道)から左に入った民家の敷地内で庭先に洗濯物が干してある。説明板もあるようだが、これ以上入るのは遠慮して遠方から撮った。「従是西企救郡」・「従是東京都郡」と刻まれているようだ。かつてはここに中津街道が通り、ここが企救郡と京都郡の境だった。現在は小倉南区と苅田町の境。右後方が松山城跡か。

Img_6102高速道路、モノレールではなく、三菱マテリアルの物資輸送設備か?

Img_6106里程標(神田町2丁目)

「従是久保新町迄四里」・「従是椎田迄四里半」・「従是小倉迄三里半」・「従是大里迄四里半」

Img_6113浄厳寺 《地図

文化7年(1810)伊能忠敬一行は、苅田村の庄屋家林田五郎衛門宅と、この寺に泊まったそうだ。

木実原神社の先で左折し、苅田駅に向かった。

****ここからは小倉に戻っての坂道散歩****

Img_6127森鴎外旧居 《地図

Img_6126説明板

Img_6146へへり坂 《地図

大田町から小文字通りに抜け、教育大付属中学校へ上る坂。坂沿いに放屁を芸とする奇人が住んでいたという。

この坂について記載があったHPは削除されてしまったようで、違っているかも。

Img_6149坂上近く

左は天疫神社、先の右に教育大付属中学校。

Img_6152坂下方向

Img_6154天疫神社

Img_6153由緒

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2011年11月28日 (月)

門司往還

2011年11月13日

北九州空港→小倉駅・・・常盤橋(紫川)・・・京町通り・(銀天街)・小倉中央商店街・・・コレット・・・(浅香通り)・・・西顕寺・・生往寺・・・砂津港通り踏切(鹿児島本線)・(新幹線)・・・門司口門跡・門司口橋(砂津川)・・・貴船神社・・・岩松助左衛門生家跡・・・閻魔堂・・・国道199号・・(企救の長浜・松並木跡)・・・新赤坂橋(延命寺川)・・・延命寺架道橋(鹿児島本線)・・・宝樹寺・・・赤坂一丁目東交差点・国道3号・・・手向山公園・・・国道3号・・・大里新町交差点・・・大里松原跨線橋(鹿児島本線)・・・松竹橋・・・中原橋(高田川)・・・門司赤煉瓦プレイス・・長崎番所跡・・大里(だいり)宿・・一里塚跡・・人馬継立所跡・・高札場・南郡屋跡・・脇本陣重松彦之丞屋敷跡・・仏願寺・・脇本陣永野九助屋敷跡・・本陣跡・・八坂神社・・御番所跡・・大里渡海口・・庄屋石原宗祐屋敷跡・・大専寺・西生寺(踏絵寺)・・・石原町通り踏切(鹿児島本線)・・・黄金塚古墳跡・・・柳の御所跡(御所神社)・・・風呂の井戸跡・風呂の地蔵・・・門司駅(鹿児島本線)

 今回は九州五街道の門司往還、中津街道、唐津街道(前回の続き)を歩く。まずは門司往還だ。起点の常盤橋に昼過ぎに着いた。ここから大里宿の本土渡海口までは10kmほどか。夕方までちょうど手頃な足慣らしになるだろう。

  【ル-ト地図】(11.7km)

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Img_5919常盤橋 【ル-ト地図】の①

九州の五街道の起点で、九州の「日本橋」だ。

Img_5922説明板

Img_5923京町通りを抜け、銀天街を横切り、平和通りを渡って行く。

Img_6122コレットの婦人物売り場を、脇目も振らず真っ直ぐ突っ切る。

Img_5907浅香通りを渡り、西顕寺に沿って進む。

Img_5683
西顕寺 《地図

幕末から明治維新にかけ、灯台の建設に奔走した庄屋岩松助左衛門の墓がある。

隣の生往寺には高田又兵衛(槍の又兵衛)、方円流の創始者の直方円斎の墓がある。

Img_5682説明板

Img_5690門司口門跡 【ル-ト地図】の②

往還は門を出て、門司口橋(写真)を渡り、「企救の長浜」へと向かっていた。

Img_5692説明板

Img_5697貴船神社

左は「企救の長浜(高浜)」の万葉歌碑。説明板の一首目の歌が刻まれている。

Img_5699説明板

Img_5701岩松助左衛門生家跡

Img_5705閻魔堂

Img_5704説明板

Img_5708松並木(跡)

このあたりは白砂青松の「企救の長浜」だった。

新赤坂橋を渡って右折し、鹿児島本線をくぐり、国道3号に出る。

Img_5729手向山公園地図

宮本伊織ら宮本家代々の墓の脇から散策路を上る。

Img_5739宮本武蔵の碑

武蔵の養子の宮本伊織が建てたもの。名文だそうだが、とても読む気はしない。まあ読もうと思っても無理だが。

Img_5738説明板

Img_5742佐々木小次郎の碑

Img_5741説明板

Img_5755展望台から関門海峡の眺め

左奥に小さな巌流島(舟島)の一部が霞んで見える?

Img_5749説明板

Img_5759手向山砲台説明板

Img_5782門司赤煉瓦プレイスの間を抜けて行く。《地図

旧サッポロビール醸造棟

Img_5793赤煉瓦交流館(旧サッポロビール九州工場倉庫)

左角に「長崎番所趾」碑が立つ。玄界灘に出没する密貿易船の取り締まりと、対唐貿易の保管中継所として、寛政11年(1799)に長崎奉行所により設置された。

Img_5797門司麦酒煉瓦館(旧サッポロビール九州工場事務所棟)

Img_5799大里(だいり)宿の入口(赤煉瓦交流館前)

宿の案内絵図が立っている。

Img_5806絵図①

広南国(ベトナム)から将軍吉宗に献上された象が描かれている。大里の本土渡海口から赤間関(下関)に渡り、山陽道→東海道→中山道→美濃路→東海道→姫街道→東海道と歩んで江戸に入ったのだろう。姫街道の引佐峠には象鳴き坂も残っている。東京中野区の宝仙寺にはこの像の頭骨と牙が納められ供養されていたと伝わる。『中野区の坂①

Img_5809絵図②

本土渡海湊口から船に乗った象さんが見える。

Img_5813大里宿趾碑

直線5町52間(約646m)の町並みだった。寿永2年(1183)、源氏に追われた平家が太宰府、芦屋を経てこの地に(柳の)御所を定めたことからこの地は内裏(だいり)と呼ばれるようになり、江戸時代に大里と書かれるようになった。

Img_5815一里塚標石趾碑(レンガ塀の先の電柱脇)

2つの塚の上に木を植えた「一里塚」ではなかったようだ。

Img_5819人馬継所跡

問屋場のこと。

Img_5821高札場・南郡屋跡(左に標柱)

郡屋は藩役人の事務所。

Img_5826重松彦之丞屋敷家跡(右に標柱)

脇本陣で文化7年(1810)には日本全国を測量した伊能忠敬一行が止宿したそうだ。前が肥前屋脇本陣跡。

Img_5831仏願寺 《地図

右は脇本陣永野九助屋敷家跡

Img_5833縁起

Img_5834脇本陣永野九助屋敷家跡

庄屋役と各藩の御用を務めていた。前掲の大里宿絵図には「岡永野脇本陣跡」とあり、往還の海岸よりに「浜永野脇本陣跡」と描かれている。

Img_5838本陣(お茶屋)跡 【ル-ト地図】の④

Img_5849御番所跡(左に標柱)

この通り(御成小路)の海側に御番所があった。本土への渡海口で、ここの在番役人は船の出入り、人馬の切手改め、荷役の取締りなどを行っていた。

Img_5854本土渡海口あたり 《地図

ここから関門海峡を赤間関(馬関・下関)に渡っていた。

Img_5857庄屋石原宗祐屋敷家趾(左に標柱)

Img_5860説明文

凶作は享保の飢饉のことか、天明の飢饉の時か?仏願寺の縁起には天明の飢饉の際に救助米の放出を行ったとあるが。

Img_5865西生寺(踏絵寺) 

左下に「判行寺石碑趾」碑が立つ。毎年3月に踏絵が行われていた判行寺。もとは本陣の所にあった寺。

Img_5867説明板

Img_5868判行寺石碑説明板

ここから先、平家ゆかりの所などに寄り門司駅に向かう。

Img_5876黄金塚古墳跡 《地図

人骨、剣、中国古銭などが出土したというが、石槨の一部で造られた記念碑が道路脇に残るのみ。でもここは黄金町だ。

Img_5878柳の御所跡(御所神社) 【ル-ト地図】の⑤

安徳天皇の行宮跡という。それで、ここ柳が浦が内裏(だいり)と呼ばれ、江戸時代に大里と書かれるようになったそうだ。

Img_5879説明板

Img_5881歌碑

2つとも説明板に載る歌と違っているのが面白い。「君住め(ま)は・・・」は柳の御所の説明板にある。

Img_5880説明板

Img_5883キリメン様の石室(御所神社境内)

石室内に安徳天皇と平宗盛の木像が安置されていたという。

Img_5882説明板

Img_5889風呂の井戸・風呂の地蔵  【ル-ト地図】の⑤

ここも平家、安徳天皇ゆかりの伝承地。風呂→不老となり、「不老町」・「不老通」などにその名を残している。

Img_5887説明板

門司往還から北に進めば門司港レトロの街並みから和布刈神社、古城山(門司城址)へと続く。(以下は2003年12月20日に歩いた時の写真)

Dsc05308門司港駅

Dsc05296レトロな洋館

Dsc05297

Dsc05298和布刈神社地図

和布刈神事は松本清張の『時間の習俗』にも登場する。

Dsc05302関門海峡

絶え間なく行き交ういろんな船を見ていると飽きることなく、時間の経つのも忘れてしまう。

Dsc05305古城山(門司城址・標高175m)から関門橋、関門海峡、壇之浦(関門橋の対岸下あたり) 《地図

山陽道(長府駅→下関駅)』では、関門人道トンネルと唐戸連絡船で関門海峡を2回往復した。

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2011年11月12日 (土)

房総往還⑥

2011年11月8日

上総湊駅(JR内房線)・・・国道127号・・・湊橋(湊川)・・・(内房線)・・・旧道・・・住吉神社・・・国道127号・・・十夜寺(松翁院)・・・竹岡IC交差点・・千歳橋(白狐川)・・・延命寺・・・燈籠坂・・(内房線)・・燈籠坂大師・・・(内房線)・・・国道127号・・・竹岡マリーナ・・・黄金井戸・皇神社・・・打越トンネル・・・洞口トンネル・・・富貴橋・・・丑山トンネル・・・旧島戸倉トンネル・・・金谷マリーナ・・・大日トンネル・・・浜金谷駅(内房線)

房総往還⑦』へ続く。

  【ル-ト地図】(11.1km)

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Img_5503湊橋へと下って行く。

Img_5505湊橋から湊川 《地図

湊川は薪炭や房州石を運搬する渡海船の船溜まりだった。橋が架けられたのは明治に入ってからで、それまでは渡し船で渡っていた。

Img_5508内房線を越えて海側に出る。

Img_5510右へ十宮地区への旧道に入る。

Img_5512住吉神社(右) 【ル-ト地図】の①

正面の鳥居の前は東京湾。

Img_5521社殿の後ろの巨岩

自然崇拝の巨石信仰からくる神社の古い形態を伝えている。

Img_5526住吉神社近くから北方向

正面に小さく東京湾観音が見える。

Img_5531内房線と東京湾(浦賀水道)の間を進む。

Img_5539十夜寺(松翁院) 【ル-ト地図】の②

菱川師宣の父(菱川吉左衛門)の作の釈迦涅槃図がある。

Img_5538庚申塔

承応2年(1653)建立の富津市内最古の庚申塔。

Img_5537説明板

Img_5541義民岩野平左衛門の墓

海を背にして立っている。

Img_5540説明板

竹岡IC交差点を左折し、内房線をくぐった先の竹岡小学校が竹ヶ岡(百首)陣屋跡

Img_5546造海(つくろうみ)城跡(別名を百首(ひゃくしゅ)城) 【ル-ト地図】の③

千歳橋(白狐川)から。真里谷武田氏によって築かれた山城。

Img_5553燈籠坂トンネルの手前で、左へ燈籠坂大師参道の門をくぐる。

Img_5557隧道を抜ける。

Img_5558隧道内

Img_5561さらに岩を穿った手掘りの隧道が続く。

Img_5563手掘りの跡が残る?

Img_5565内部

Img_5566トンネルを抜けて大師堂へ石段で上る。

なぜか鳥居が立っている。

Img_5571燈籠坂大師堂 【ル-ト地図】の④

Img_5555縁起

Img_5573内房線を渡る。踏切はない。「危険」の標識が2つも立っている。《地図

Img_5574左に津浜トンネル、右に燈籠坂トンネルが迫り確かに危険だ。渡っている時にトンネルから列車が出てきたら怖いだろう。

Img_5585黄金井戸(左の鳥居の上)・皇神社(右の鳥居の上) 【ル-ト地図】の⑤

Img_5587説明板

Img_5590黄金井戸

ヒカリモが群生し、春になると水面に浮かび黄金色に輝くというが、水はそれほどきれいではない。

Img_5601洞口トンネル

トンネルが多くなる。まだ短いトンネルで通りにくくはないが。

Img_5602浦賀水道の名のとおり、三浦半島が近い。

Img_5610洒落た洋館

Img_5617東京湾フェリーが金谷港へ入って行く。

Img_5621島戸倉トンネルを抜けようと思ったら右に旧トンネルが残っていた。

Img_5622旧トンネル 《地図

工事中のようで作業中の人に通行可能か尋ねると、ここの土地の所有者だった。猪がこの上の竹藪を荒らす話、東京から移り住んできた来た会社勤め人がトンネルの上の木で首つり自殺をした話、ダンプがこのトンネルに入り出られずバックした話など色々と聞いた。対向車が来なければダンプでも抜けられるのにと思ったが、通ってみて納得した。

Img_5623出口に建物のような物が立っている?

Img_5626なるほどこれではダンプは抜けられない。

Img_5631砲台山(左) 《地図

旧日本軍の金谷砲台があったそうだ。

Img_5636金谷港

さっきの東京湾フェリー「しらはま号」

Img_5638鋸山ロープウエイ地図

Img_5642浜金谷駅

この先、房総往還は海岸沿い安房国に向かうが、旧道が残る所は少なく、幾つかのトンネルを抜けて行かねばならない。また湊から百首を経て、鋸山の東側を越えて安房に入る道筋もあったようだ。次回は房総往還からははずれ時間もかかるが、歩き安く見所も多く景色もいい、鋸山(329m)を越えるハイキングコースを通り、保田へと向かうとするか。

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2011年11月11日 (金)

房総往還⑤

2011年11月7日

青堀駅(JR内房線)・・・国道16号・・・青木八坂神社・・・福恩寺・・・大乗寺・・・東福寺・・・富津交差点・県道255号・・・医光寺・富津陣屋跡・・・富津交差点・・・長秀寺・・・川名交差点・国道465号・・・川名地蔵堂・・・川名橋(川名川)・・・磯部大神宮・・・新田踏切(内房線)・・・(大貫駅)・・・岩瀬橋(岩瀬川)・・・(内房線)・・・弁天山古墳・小久保藩藩邸跡・弁財天社・・・小久保交差点・旧道・・・公園踏切(内房線)・・・獅子堀川(小久保川)・・・海老田踏切(内房線)・・・国道465号・・・洗心坂・・・花御堂橋(内房線)・・・(佐貫町駅)・・県道265号・・・八幡街道踏切(内房線)・・・川崎橋(染川)・・・圓鏡寺・・・県道256号・・・笹毛踏切(内房線)・・・慈眼寺・・・長浜橋(世入川)・・・国道127号・・・上総湊海水浴場・・・上総湊駅(内房線)

  【ル-ト地図】(21.5km)

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Img_5370大乗寺 【ル-ト地図】の①

小林一茶とも親交のあった女流俳人の織本花嬌の墓がある。

Img_5368花嬌の墓

Img_5367説明板

Img_5375富津交差点

房総往還はここを左折するが、直進して富津陣屋跡へ行く。

Img_5378富津陣屋跡あたり(医光寺付近) 【ル-ト地図】の②

説明板などなし。江戸時代末期、上総・安房の江戸湾防備を命じられた松平定信は、梅ヶ丘陣屋、松ヶ丘陣屋、竹ヶ岡陣屋のいわゆる「松竹梅」陣屋を置いた。文政4年(1821)に富津陣屋が置かれ、海沿いの房総往還が整備され、主要ルートになった。明治になってこの先の富津岬の先には元洲堡塁砲台が築かれた。現在は富津公園になっている。

  富津交差点まで戻り、房総往還を進む。

Img_5385川名地蔵堂 【ル-ト地図】の③

地蔵が何体が並んでいる。

Img_5390はかりめ祭(富津市)

「はかりめ」とは、東京湾で獲れる天然の「あなご」のこと。

Img_5395大貫駅近くの街並み

寂しいねえ。

Img_5402弁天山古墳・小久保藩藩邸・藩校跡 【ル-ト地図】の④

小久保藩は明治元年に立藩し、明治4年の廃藩置県までの短期間存続した。藩校の盈進館(えいしんかん)は大貫小学校の元となった。

Img_5403説明板①

Img_5404

Img_5401小久保藩邸説明板

Img_5407竪穴式石室天井石

縄掛突起は向う側にもある。

Img_5405説明板

Img_5411前方部から

前方中央に東京湾観音の後ろ姿が見える。

Img_5416弁天社(古墳の下)

「西上総之国小久保村弁財天」の額が掛かっている。

 小久保交差点で国道465号から分かれ、左に進み公園踏切(内房線)を渡り、大貫小学校の前を右折し南下する。

Img_5431旧道

東京湾観音が近づいてきた。

Img_5447洗心坂 【ル-ト地図】の⑤

右へ東京湾観音へ上る坂。

Img_5450ちょっと上っただけ。

Img_5448説明板

花御堂橋(内房線)を渡り、佐貫町駅前を通り、八幡街道踏切を渡り、新舞妓海水浴場の方へ進む。

Img_5462房総往還(県道256号)は直進し、海の方へ向かうが左折して像法寺から圓鏡寺方向に進み南下する。
地図

Img_5470馬頭観音(左)と不動明王(右)

像法寺と圓鏡寺が建てた新しい石像。

Img_5472東京湾観音の正面の姿。

Img_5480圓鏡寺(上総国薬師如来霊場の1番)

この上の観音堂(新上総国三十三観音霊場の15番)の脇には怪しげな石造物が置いてある。

Img_5485切通しの坂を上って下り、県道256号に合流する。

Img_5493慈眼寺 《地図

上総国薬師如来霊場の3番。

Img_5494起伏のある道を行く。車が少ないのがありがたい。

Img_5495下って国道127号に合流し、上総湊へと向かう。

Img_5499上総湊海水浴場 《地図

今日は帽子を持たずに来たため、一日中前方から陽射しを受けまぶしくて疲れ、気分が悪くなってきた。街道歩きには一年中、帽子と傘は必需品ということだ。ベンチで横になりしばし休息し、上総湊駅に向かった。

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2011年11月 9日 (水)

房総往還④

2011年10月27日

木更津駅(JR内房線)・・・第2館山街道踏切・・・田面通り・・・選擇寺(こうもり安の墓)・・・愛染院・・・光明寺(切られ与三の墓)・・・(与三郎通り)・・・旅籠町通り・・八釼八幡神社・・・厳島神社・・・成就寺・・・證誠寺・・・證誠寺橋(矢那川)・・・延命寺・・・(国道16号)・・・諏訪大橋(島田川)・・・専念寺・・・桜井バス停・旧房総往還分岐点・・・光福寺・・・厳島神社・・・(館山自動車道)・・・浅間神社・・・畑沢橋(畑沢川)・・・(君津市)・・・人見バス停・道標・・・大正坂・・・人見神社・・・中橋(小糸川)・(富津市)・・大堀交差点・国道16号・・大堀神明社・・・足立の坂・・大堀踏切(内房線)・・・内裏塚古墳・・・国道16号・・・上野塚古墳・青堀駅(内房線)

 房総往還③』からの続きです。

 【ル-ト地図】(15.9km)

 写真をクリックすると拡大します。

Img_5023こうもり安の墓(選擇寺) 《地図

歌舞伎『与話情浮名横櫛』の「切られ与三郎」の仲間。実際は強請(ゆすり)を働くようなごろつきではなかったという。

Img_5021説明板

Img_5034舞鶴松(光明寺)

Img_5037切られ与三郎の墓(光明寺)

Img_5038何てのもあるが、写真に撮るほどの通りではない。

「しがねえ恋の情けが仇(あだ) 命の綱の切れたのを  どう取り留めてか 木更津から・・・」のお馴染みの科白の顔か。「♪死んだはずだよ お富さん♪」、春日八郎の『お富さん』、懐かしいねえ。古いね俺も。

光明寺の先を左折し、旅籠町の通りに入るが往時の面影はない。

Img_5041八釼八幡神社

境内には「源頼朝手植えの蘇鉄」、「嶺田楓江寿碑」などがある。

Img_5044五大力船絵馬(木更津船)

江戸幕府から物資輸送の特権を与えられた、木更津港~江戸の木更津河岸間の輸送船。

Img_5050厳島神社 《地図

「白弁天」で社殿は白い。

Img_5054成就寺

門の左は大菩薩峠(中里介山)に登場する剣豪、中村一心斎の供養塔。

Img_5056説明板

Img_5057證誠寺 【ル-ト地図】の①

童謡『証城寺の狸囃子』の寺。どうも「分福茶釜」の茂林寺『千人同心日光道⑥』と混同してしまう。木更津駅の発車メロディにこの曲が使われている。やっぱり『お富さん』は無理だろうな。

Img_5059説明板

Img_5061狸塚

狸囃子合戦で、腹を破って死んでしまった大狸の供養のために作られたという。

Img_5065落花生の鈴市商店

Img_5072旧房総往還分岐点 《地図

この先の交差点を左折し、内陸部を通り佐貫へ向かう道が古くからの房総往還。海沿いの道は地域の人々の生活道路だったが、江戸湾防備政策により、文政4年(1821)に富津陣屋が建造されてからは、人や物資の運搬のために拡充整備され主要道となった。海沿いといっても今は海からはだいぶ離れている。

Img_5074分岐点の「平政御菓子司」

「お富與三郎最中」、木更津名物か?

Img_5078光福寺参道前

右は木食観正名号塔(文政3年(1820))で、正面に「南無遍照金剛」、右面に「誕生に望をかくる極とは 月のかたふく西なる処」

Img_5081厳島神社(仲町公会堂の所)

水神様、弁天様とも呼ばれ、祭神は市杵島姫命(弁財天と習合し同神とされる)で、女性の信仰が厚いという。

Img_5089浅間神社 【ル-ト地図】の②

『歴史の道調査報告書 房総往還』には、富士山も一望できるとある。期待して長い石段を上るが、参道からもてっぺんの社殿からも海側は木に覆われ何も見えず、がっくり。

Img_5088説明板

Img_5094社殿

Img_5101畑沢橋を渡り君津市に入る。単調な車道歩きが続く。

Img_5104左に小祠(人見バス停の少し先) 《地図

Img_5108後ろの大師像?の台座は道標になっている。

「右 きさら津みち」・「左 ?ふ津みち」、近くの分岐点から移されたものだろう。 「?ふ津」は富津ではないだろう。

Img_5111大正坂を上って裏参道から人見神社に向かう。 【ル-ト地図】の③

大正時代に開かれた坂か?

Img_5113坂上方向

この先で人見神社の石段を上る。

Img_5116坂上近くから眺め

Img_5122人見神社

ここからは海が見える。長い裏参道を上った甲斐があった。例祭で「神馬(おめし)」が行われる。

Img_5118小糸川漁港方向

Img_5120うっすらと見えるのは三浦半島か。

Img_5124表参道の急な石段を下る。手すりがなくバランスが取りにくい。「神馬」で上るのは大変だろう。

Img_5126最後の絶壁のような石段

踏み面(づら)が狭く、横向きになって下った。

Img_5131中橋から人見神社の丘 《地図

橋を渡れば富津市だ。

Img_5135大堀神明社

Img_5136旧家

 今日は青堀駅までだが、電車の時刻まで少し余裕があるので内裏塚古墳まで行く。

Img_5153足立の坂を上って内裏塚古墳へ向う。【ル-ト地図】の④

傾斜は緩い。坂名の由来分からず。

Img_5151内裏塚古墳 《地図

関東で3番目の大きさの前方後円墳。標識と説明板が立つが、今はここからは入れない。参考:『房総の古墳を歩く

Img_5159墳丘図

Img_5145後円部から前方部方向

Img_5143珠名塚神社跡(後円部上)

Img_5150珠名塚碑

万葉集にも歌われた古代房総の2人の美女。市川真間の手児奈は清純で可憐な乙女、ここの珠名は豊かな胸、くびれた細い腰のグラマーで妖艶な女性だったようだ。どちらも男を迷わすことには古今東西変わりなしか。

Img_5144説明板

Img_5157上野塚古墳 【ル-ト地図】の⑤

青堀駅前にある帆立貝形前方後円墳の「駅前古墳」

Img_5158説明板

Img_5160墳丘図

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2011年11月 6日 (日)

久留里道②

2011年11月3日

馬来田駅(JR久留里線)・・・久留里街道(県道166号)・・・(圏央道造成中)・・・山王神社・・・(下郡駅)・(君津市)・・・旧道・・殿の下井戸・・・飯高神社鳥居・・・円明院・・・久留里街道(国道410号)・・・神明神社・・・旧道・・・三田の道標・・・国道410号・・三田交差点・・・(小櫃駅)・・・御腹川橋(御腹川)・・・白山神社・白山神社古墳・・・第四久留里街道踏切・・・俵田交差点・俵田の道標・(俵田駅)・・・第五久留里街道踏切・・・君津青葉高校・・・境界石・・・久留里市場交差点・・・久留里商店街・・高澤の水・・・久留里城址・城山神明社・・火薬庫跡・・お玉ケ池・・薬師曲輪跡・・雨城八幡神社・・二の丸跡・久留里城址資料館・・男井戸・女井戸・・本丸・天守閣・・堀切跡・・・国道410号・・・雨城庵の井戸・・・久留里神社・・・久留里駅

  【ル-ト地図】(14.0km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5178山王神社(右)

休日で車の往来も少なめか。

Img_5181神様の小祠と観世音菩薩像(元禄4年(1691))が仲良く並んでいる。

Img_5189旧道らしき道が所々に残っている。

Img_5192左に旧道に入る。

山本の「殿の下井戸」と「舟塚山」の標識が立つ。舟塚山(船塚山152m)は山頂に船塚神社があり、西側の展望が見事らしい。

Img_5197殿の下井戸 【ル-ト地図】の①

名前の由来は、かつてこの地に里見氏の臣下、山本由那之丞の居城があったことからだが、井戸が掘られたのは昭和62年と新しい。水天宮の石柱が立ち、賽銭箱が設置されている。

Img_5196説明板

Img_5201ここにもう一つある。

同じ説明板が立っている。

Img_5212飯高神社鳥居(左)

社殿はここから東にかなり上った所にある。少し行きかけたが遥拝で済ます。最近はすっかり「遥拝おやじ」になってしまったか。

Img_5221神明社(奥)・地蔵祠

Img_5226三田の道標案内板

右折し旧道に入る。

Img_5225道標前の旧家

Img_5229正面に道標 【ル-ト地図】の②

ここを左折して行く。

Img_5230三田の道標(文化2年(1805))と地蔵 

Img_5235説明板

「かさもり」は長南町の笠森観音(笠森寺)、「たかくら」は木更津市矢那の高倉観音(高蔵寺)、「あ称さき」は姉崎。説明板は五井からの久留里道の「中往還」を書いている。

Img_5239今日も久留里線がゆっくりとマイペースで走っている。我も見習うべしだ。

Img_5245案山子の集団がぐるっと取り囲んでいる。人数分の効果はあるのだろうか?

Img_5254白山神社

祭神の一人は壬申の乱で敗れて東国に逃れ、この地で自刃したとされる大友皇子。房総往還には福王神社・おふごの森(袖ヶ浦市)など大友皇子ゆかりの所がある。『房総往還③』 「小櫃」も大友皇子の亡骸をおさめた棺からついた地名という伝説も残る。『君津市の歴史』 各地に残る義経伝説と同様に、判官びいきのなせる技だろう。社殿の後方が白山神社古墳。

Img_5250説明板

Img_5260白山神社古墳(前方部から後円部) 【ル-ト地図】の③

被葬者を大友皇子とする伝えがあるが、築造時期はもっと古く、馬来田国造かその系統の地域の首長のものか。この古墳の奥にある円墳が、大友皇子の墓だともいわれている。

Img_5263第四久留里街道踏切を渡って、久留里線の東側に出る。

Img_5266俵田の道標(俵田交差点) 【ル-ト地図】の④

右の建物の脇

Img_5268道標(元禄2年(1689))

笠付き六角地蔵石幢で、地蔵の下の道標文字はかすれていて読みにくい。

Img_5267説明板

「江戸おかみち」は、北へ久留里道の中往還を通り、五井で房総往還に合流し江戸に向かう陸路で、久留里藩の参勤交代の道。「江戸ふなみち」は、俵田の川岸から小櫃川を船で下り、木更津から木更津船(五大力船)で海路、江戸に至る物資輸送、生活経済の道。

Img_5280君津青葉高校を過ぎ坂を下る。このあたりに「雨城楊枝」の森氏宅がある(あった)ようだ。(雨城は久留里城の別称) 《地図

Img_5286_2境界石(大正4年建立・坂を下る途中の右側)

右は「従是北千葉縣君津郡小櫃村」・左は「従是南千葉縣君津郡久留里町」

Img_5290久留里商店街通り 《地図

右は上総掘りの自噴井戸だが、ここのは飲めない。 前方のアーケードの上に久留里城の模型を乗せている。

Img_5291生きた水・久留里」説明板

Img_5335上総掘りの井戸掘り櫓(久留里城址資料館に展示のもの)

Img_5333説明板

Img_5294久留里商店街の家並み

木村屋金物店

Img_5296割烹旅館大島屋

もう営業していないようだ。

Img_5298吉崎酒造

斜め向いに「高澤の水」がある。自転車ツーリングの連中が美味そうに飲んでいた。

Img_5301紙屋金物店

Img_5305久留里城跡へ

トンネルの手前で左に旧道に入る。城山神明社からトンネルの上を通り、二の丸跡、本丸跡へと通じている。

Img_5309城山神明社

Img_5306由来

Img_5310狛犬

愛嬌のある顔だ。向いの相棒は鼻がつぶれていた。

Img_5311石段下から荒れている道を上る。本丸は標高152mある。けっこうな上りで汗を拭き拭きの上りとなった。この先に火薬庫跡がある。《地図

Img_5319お玉ケ池

「城主の里見義堯の命を受け、家臣の兵馬が水源の池を掘っていた時に兵糧庫が焼失した。火の不始末の疑いで、兵馬は捕らわれ打ち首となった。城将小川秀政の娘の「お玉」は、これを哀れんで、代わりに池を掘りはじめた。その後、兵馬の疑いが解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったという」 女手で池を掘るとは、お玉はよほど兵馬に惚れていたのか。

Img_5323薬師曲輪から

下が三の丸御殿跡・中央あたりが大手門跡・右上が里見と北条の古戦場跡。

Img_5327雨城八幡神社

左の後ろ向きの像は新井白石。白石の父は久留里藩の目付を務めていた。久留里小学校の敷地内に居宅があった。

久留里城址資料館に寄り、天守閣へと向かう。

Img_5337男井戸・女井戸

Img_5336説明板

Img_5338_2久留里城天守閣(模擬天守) 【ル-ト地図】の⑤

Img_5343堀切跡

平時には木橋が架けられていたそうだ。トンネルを抜け、城外へ出て国道に戻る。

Img_5349雨城庵の井戸(自噴井戸)

個人所有の井戸を開放しているそうだ。

Img_5345久留里神社

治安元年(1021)に上総介平忠常の創建と伝える。もとは細田妙見といわれ、両総(千葉)六妙見の一社。祭神は天御中主命ほか4柱。

Img_5347本殿には明治彫刻界の先駆をなした小倉惣次郎の青年時代の作品があるそうだ。

無事に久留里道を歩けたことを感謝し、久留里駅まで戻る。

Img_5350久留里駅

バラックのような駅舎だが、右隣には城郭のような新しいトイレが建っている。

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2011年11月 3日 (木)

久留里道①

2011年10月27日

木更津駅(JR内房線)・・・房総往還・・・畳ケ池・久留里道分岐点・・国道410号(房総横断道路)・・・(県道270号)・・・(国道16号)・・・祇園駅(JR久留里線)・・・旧道・・第一祇園踏切・・・須賀神社・・・安養寺・・・国道410号・・・(上総清川駅)・・・(東京湾アクアライン連絡道)・・・景清陣屋跡(景清宮)・・・高千穂踏切・・・菅生神社・・・(東清川駅)・・・(袖ヶ浦市)・・・(館山自動車道)・・・(久留里線)・・・国道409号・・・中川橋(小櫃川)・・・熊野神社・・・横田地区・・・(横田駅)・・・(東横田駅)・県道167号・・・(国道410号)・・・(木更津市)・・・第三久留里街道踏切・・・諏訪神社・・・真里谷交差点・国道410号・・馬来田駅(JR久留里線)

 久留里道には2つの主要ルートがある。①五井で房総往還と分かれ、久留里に達する道と、②木更津で房総往還と分かれ、横田を経て馬来田で①の道と合流する道だ。①には西往還・中往還・東往還があり、中往還は久留里藩の参勤交代の道、「殿様街道」で、房総半島を南北に貫く政治の道の一つだった。②は房総半島を東西に貫く生活経済の道で、久留里方面の物資は小櫃川や久留里道を利用して木更津へ運ばれ、さらに五大力船(木更津船)で江戸の木更津河岸へと運ばれた。今回は木更津からの②の道筋をたどり、2回で久留里城跡までを歩く。

 【ル-ト地図】(15.5km)

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4921久留里道分岐点 【ル-ト地図】の①

房総往還は左へ、久留里道は直進。間に畳ケ池がある。

Img_4922畳ケ池

挙兵して兵を募りつつ北上する源頼朝に、木更津の人々が水辺に畳を敷きつめてもてなしの宴を開いたという。また、頼朝はこの池の葭を箸の代わりに用いたところ、誤って葭で唇を切ってしまい、その葭を池に捨てた。爾来、この池には葭が生えなくなったという。

Img_4928祇園駅(久留里線)

おもちゃのような、絵本に出でくるような駅だ。駅とは気づかず、うっかり通り過ぎそうになった。

Img_4933庚申塔の祠(左)

Img_4934庚申塔

上下に割れてしまったようだ。

Img_4935須賀神社 【ル-ト地図】の②

承和年間(834~847)に京都の八坂神社(祇園神社)を勧請したと伝える。ここ祇園の地名の起こりという。三間社流れ造りの本殿は県指定文化財。

Img_4940久留里線沿いに国道410号を進む。歩道も見所もなく歩きづらい。久留里道は明治の中頃までは、小櫃川べり、丘陵の麓を通る曲線の自然道だった。現在は直線の国道410号で、ダンプの往来の激しく「ダンプ街道」ともいわれる(いわれた?)そうだ。確かに時折、ダンプが連なって脇を通って行った。

Img_4942小櫃川

正面は万年橋

上総清川駅を過ぎ、東京湾アクアライン連絡道をくぐり、菅生交差点の先で左に入る。
Img_4947
長屋門の旧家

Img_4950景清陣屋跡(景清宮) 【ル-ト地図】の③

右に小櫃川が流れる。平景清にまつわる伝承、事蹟は各地にある。説明板には夷隅郡大原町千光寺谷で生まれたとある。いすみ市長志に千光寺があるが。落語『景清

このあたりは弥生から古墳時代にわたる集落跡の菅生遺跡で、古代水路を中心に多くの住居群と大量の木器、木製品、土器などが出土したそうだ。

Img_4953説明板

Img_49582輛の久留里線がゆっくりと通る。

Img_4960菅生神社の参道は久留里線に分断されている。

Img_4962菅生神社 【ル-ト地図】の④

馬来田国造の創建と伝える古社。

Img_4961由緒

Img_4978中川橋から小櫃川 《地図

対岸の丘陵地は滝の口・上村横穴(竪穴?)古墳群というが、詳細は分からず。

Img_4981熊野神社

Img_4984横田の旧家

横田は継立場だったが、昔の面影は薄い。わずかに残る旧家と横田上宿交差点がその名残りか。

Img_4986旧家

Img_4991旧家

Img_4993庚申塔(右の石塀の間・横田上宿交差点)

Img_4994庚申塔

元禄9年(1696)の古いもの。

Img_5001小祠(小路第二公会堂脇)

Img_5000馬頭観音か何かの神像か?

Img_5003右手に耕地整理紀念碑を見ながら単調な車道を馬来田駅へ急ぐ。

Img_5004久留里線が行く。廃線になるなよ。

Img_5011諏訪神社 【ル-ト地図】の⑤ 

この前の真里谷交差点で五井から来る①の久留里道の中往還と合流し、久留里へと南下して行く。

Img_5013由来板

「誉田別命(ほむたわけのみこと)」を「よだべつのみこと」と読んでいる。

Img_5015説明板(馬来田駅前)

真里谷(上総)武田氏真里谷城

Img_5018乗客もまばらな久留里線にのんびりと揺られて木更津駅に戻った。

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