中津街道①(常盤橋→苅田駅)
2011年11月14日
常盤橋・・・魚町銀天街・・・旦過市場前・・・(平和通り・都市モノレール小倉線)・・・古船場町交差点・・・中津口門跡・中津口橋(砂津川)・・・(国道3号)・・・足立インター交差点(北九州都市高速)・・・神岳橋・・・県道264号・・・本通寺・・・開善寺・・・湯川交差点・旧道・・・湯川水神社・・・葛原八幡神社・・善ケ追池・・・茶屋本邸御茶屋跡・山寺川・・・(九州自動車道)・・・寺迫北交差点・・・唐戸橋(竹馬川)・・・西迎院・・・新田橋(貫川)・・・庚申谷踏切(日豊本線)・・・帝踏岩・・・始覚寺・・・朽網橋(朽網川)・・・国道10号・・・狸山古戦場跡あたり・・・宇土交差点・・・郡境碑・苅田町・・・松山入口交差点(新北九州空港連絡道路)・・・神田町交差点・旧道・・・里程標・・・浄厳寺・・・木実原神社・・・苅田駅(日豊本線)→小倉駅・・・平和通り・・・森鴎外旧居・・・上砂津橋(砂津川)・・・冨野口交差点・・・大田町・・・へへり坂・・・天疫神社・・・教育大付属中学校・・・小倉駅
中津街道は周防灘沿いに、小倉城下と中津城下を結ぶ北九州の主要道で、現在では日豊本線、国道10号が走り、けっこう旧道も残っていて見所も多い。部分的に歩いたことがある道で、中津は今回で3度目となり、気分的には楽な街道歩きだ。ゆっくりと3日間かけて歩こう。晴天の下、昨日と同じく常盤橋を出発した。苅田駅まで進み小倉へ戻り、明るい内にちょこっと坂道散歩を追加した。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
ここを左折し、次の角を右折して行く。
レトロな映画館前を通る。
昨日歩いた門司往還には、砂津川下流の門司口橋に門司口門があった。
今は小倉城内の八坂神社の参道入口に移されている。この細川の大石(小笠原の割石)の故事が説明板にある。また明治になって小倉へ来た中津や築上の青年達が、この大石をにらむと成功するといわれ、目をむいてにらんだので「大石にらみ」、大石を見上げて「出世して人から見上げられる人物になるぞ」と誓ったので「出世石」ともいったそうだ。
大石から小倉城
足立インター交差点で左に入り、北九州高速道路をくぐる。《地図》
説明板には「この付近はいくらか昔の面影をとどめている」とあるが、道の曲り具合ぐらいだけか。
本通寺 《地図》
もとは細川忠興の家来の大隈市正(願覚)の建てた浄光寺。
「バーデンハウス 北九州健康センター」だが、閉店してしまったようだ。
福聚寺が建立されるまで小笠原家の菩提寺で、もとは馬借町にあった。境内には享保大飢饉(享保17年(1732))の供養塔の「保享印塔」(宝篋印塔で、享保を逆にして命名した)があるというが、番犬(蕃犬・駄犬か)がぎゃんぎゃん吠えるので、うんざりして引き返した。
湯川水神社 【ル-ト地図】の3
道鏡により足の筋を切られた和気清麻呂の足を癒し、立たせた温泉跡。背後の足立山の由来で、足湯の元祖とか。
****2005年5月5日に足立山に登った時の写真(2枚)****
好々爺という感じだ。
足立山(598m)から戸上山(518m)への縦走路から、門司市街、関門海峡方向
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葛原八幡神社 《地図》
和気清麻呂の嗣子真綱が勅使として宇佐八幡宮へ参内した帰途、この地に弘仁8年(817)創建したと伝える。
白鹿(湯川水神社の縁起碑)ではなく、猪が尻を突き合わせている。
葛原新町楽説明板
茶屋本氏の姓は藩政時代の御茶屋名跡を示す。茶屋本家には、藩主御成りに際して使用された抹茶碗、傷や病に特効があったという藩主御狩りの「猿の手」が伝えられているそうだ。この奥に家屋がある。
塩が奉納されている。何の石塔か? 曽根は製塩が盛んで「曽根の塩浜」で知られていたというが。
西迎院 《地図》
このあたりは人馬を備えた下曽根の宿場町で、唐戸橋の東のたもと一帯に本宿が置かれていたそうだ。
景行天皇が貫山(禰疑山)の土蜘蛛を討つため、この岩を蹴って神意を占ったという、『日本書紀』の伝説地。もっと小高い所にあるのかと思っていたが、JR線の踏切を越えた平地の住宅地の一画だ。貫山(712m)は南西方向にあり、「企救富士」とも呼ばれ親しまれている。
始覚寺 《地図》
ここにあった「堂上の松」(クロマツ)は枯れてしまったようだ。
温泉の成分が濃くて「臭味」ではない。「朽網」(くさみ)はここの地名。日豊本線の朽網駅もある。
狸山古戦場跡方向(このあたり(朽網東6丁目)の北方の丘陵地)
応永の戦乱では松山城を巡って激しい攻防戦があり、長野や貫の国人たちが「狭道の合戦」で敗退したという。また慶応2年(1866)には小倉藩が塁を築いて長州軍と戦った所でもある。
ここは街道(国道)から左に入った民家の敷地内で庭先に洗濯物が干してある。説明板もあるようだが、これ以上入るのは遠慮して遠方から撮った。「従是西企救郡」・「従是東京都郡」と刻まれているようだ。かつてはここに中津街道が通り、ここが企救郡と京都郡の境だった。現在は小倉南区と苅田町の境。右後方が松山城跡か。
高速道路、モノレールではなく、三菱マテリアルの物資輸送設備か?
「従是久保新町迄四里」・「従是椎田迄四里半」・「従是小倉迄三里半」・「従是大里迄四里半」
浄厳寺 《地図》
文化7年(1810)伊能忠敬一行は、苅田村の庄屋家林田五郎衛門宅と、この寺に泊まったそうだ。
木実原神社の先で左折し、苅田駅に向かった。
****ここからは小倉に戻っての坂道散歩****
森鴎外旧居 《地図》
へへり坂 《地図》
大田町から小文字通りに抜け、教育大付属中学校へ上る坂。坂沿いに放屁を芸とする奇人が住んでいたという。
この坂について記載があったHPは削除されてしまったようで、違っているかも。
左は天疫神社、先の右に教育大付属中学校。
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