門司往還
2011年11月13日
北九州空港→小倉駅・・・常盤橋(紫川)・・・京町通り・(銀天街)・小倉中央商店街・・・コレット・・・(浅香通り)・・・西顕寺・・生往寺・・・砂津港通り踏切(鹿児島本線)・(新幹線)・・・門司口門跡・門司口橋(砂津川)・・・貴船神社・・・岩松助左衛門生家跡・・・閻魔堂・・・国道199号・・(企救の長浜・松並木跡)・・・新赤坂橋(延命寺川)・・・延命寺架道橋(鹿児島本線)・・・宝樹寺・・・赤坂一丁目東交差点・国道3号・・・手向山公園・・・国道3号・・・大里新町交差点・・・大里松原跨線橋(鹿児島本線)・・・松竹橋・・・中原橋(高田川)・・・門司赤煉瓦プレイス・・長崎番所跡・・大里(だいり)宿・・一里塚跡・・人馬継立所跡・・高札場・南郡屋跡・・脇本陣重松彦之丞屋敷跡・・仏願寺・・脇本陣永野九助屋敷跡・・本陣跡・・八坂神社・・御番所跡・・大里渡海口・・庄屋石原宗祐屋敷跡・・大専寺・西生寺(踏絵寺)・・・石原町通り踏切(鹿児島本線)・・・黄金塚古墳跡・・・柳の御所跡(御所神社)・・・風呂の井戸跡・風呂の地蔵・・・門司駅(鹿児島本線)
今回は九州五街道の門司往還、中津街道、唐津街道(前回の続き)を歩く。まずは門司往還だ。起点の常盤橋に昼過ぎに着いた。ここから大里宿の本土渡海口までは10kmほどか。夕方までちょうど手頃な足慣らしになるだろう。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
九州の五街道の起点で、九州の「日本橋」だ。
京町通りを抜け、銀天街を横切り、平和通りを渡って行く。
コレットの婦人物売り場を、脇目も振らず真っ直ぐ突っ切る。(2019年2月28日で閉店した)
西顕寺 《地図》
幕末から明治維新にかけ、灯台の建設に奔走した庄屋岩松助左衛門の墓がある。
隣の生往寺には高田又兵衛(槍の又兵衛)、方円流の創始者の直方円斎の墓がある。
往還は門を出て、門司口橋(写真)を渡り、「企救の長浜」へと向かっていた。
左は「企救の長浜(高浜)」の万葉歌碑。説明板の一首目の歌が刻まれている。
このあたりは白砂青松の「企救の長浜」だった。
新赤坂橋を渡って右折し、鹿児島本線をくぐり、国道3号に出る。
宮本伊織ら宮本家代々の墓の脇から散策路を上る。
武蔵の養子の宮本伊織が建てたもの。名文だそうだが、とても読む気はしない。まあ読もうと思っても無理だが。
左奥に小さな巌流島(舟島)の一部が霞んで見える?
旧サッポロビール醸造棟
左角に「長崎番所趾」碑が立つ。玄界灘に出没する密貿易船の取り締まりと、対唐貿易の保管中継所として、寛政11年(1799)に長崎奉行所により設置された。
宿の案内絵図が立っている。
広南国(ベトナム)から将軍吉宗に献上された象が描かれている。大里の本土渡海口から赤間関(下関)に渡り、山陽道→東海道→中山道→美濃路→東海道→姫街道→東海道と歩んで江戸に入ったのだろう。姫街道の引佐峠には象鳴き坂も残っている。東京中野区の宝仙寺にはこの像の頭骨と牙が納められ供養されていたと伝わる。『中野区の坂①』
本土渡海湊口から船に乗った象さんが見える。
直線5町52間(約646m)の町並みだった。寿永2年(1183)、源氏に追われた平家が太宰府、芦屋を経てこの地に(柳の)御所を定めたことからこの地は内裏(だいり)と呼ばれるようになり、江戸時代に大里と書かれるようになった。
2つの塚の上に木を植えた「一里塚」ではなかったようだ。
問屋場のこと。
郡屋は藩役人の事務所。
脇本陣で文化7年(1810)には日本全国を測量した伊能忠敬一行が止宿したそうだ。前が肥前屋脇本陣跡。
仏願寺 《地図》
右は脇本陣永野九助屋敷家跡
庄屋役と各藩の御用を務めていた。前掲の大里宿絵図には「岡永野脇本陣跡」とあり、往還の海岸よりに「浜永野脇本陣跡」と描かれている。
この通り(御成小路)の海側に御番所があった。本土への渡海口で、ここの在番役人は船の出入り、人馬の切手改め、荷役の取締りなどを行っていた。
本土渡海口あたり 《地図》
ここから関門海峡を赤間関(馬関・下関)に渡っていた。
凶作は享保の飢饉のことか、天明の飢饉の時か?仏願寺の縁起には天明の飢饉の際に救助米の放出を行ったとあるが。
左下に「判行寺石碑趾」碑が立つ。毎年3月に踏絵が行われていた判行寺。もとは本陣の所にあった寺。
ここから先、平家ゆかりの所などに寄り門司駅に向かう。
黄金塚古墳跡 《地図》
人骨、剣、中国古銭などが出土したというが、石槨の一部で造られた記念碑が道路脇に残るのみ。でもここは黄金町だ。
安徳天皇の行宮跡という。それで、ここ柳が浦が内裏(だいり)と呼ばれ、江戸時代に大里と書かれるようになったそうだ。
2つとも説明板に載る歌と違っているのが面白い。「君住め(ま)は・・・」は柳の御所の説明板にある。
石室内に安徳天皇と平宗盛の木像が安置されていたという。
ここも平家、安徳天皇ゆかりの伝承地。風呂→不老となり、「不老町」・「不老通」などにその名を残している。
門司往還から北に進めば門司港レトロの街並みから和布刈神社、古城山(門司城址)へと続く。(以下は2003年12月20日に歩いた時の写真)
和布刈神事は松本清張の『時間の習俗』にも登場する。
絶え間なく行き交ういろんな船を見ていると飽きることなく、時間の経つのも忘れてしまう。
古城山(門司城址・標高175m)から関門橋、関門海峡、壇之浦(関門橋の対岸下あたり) 《地図》
『山陽道(長府駅→下関駅)』では、関門人道トンネルと唐戸連絡船で関門海峡を2回往復した。
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