久留里道①
2011年10月27日
木更津駅(JR内房線)・・・房総往還・・・畳ケ池・久留里道分岐点・・国道410号(房総横断道路)・・・(県道270号)・・・(国道16号)・・・祇園駅(JR久留里線)・・・旧道・・第一祇園踏切・・・須賀神社・・・安養寺・・・国道410号・・・(上総清川駅)・・・(東京湾アクアライン連絡道)・・・景清陣屋跡(景清宮)・・・高千穂踏切・・・菅生神社・・・(東清川駅)・・・(袖ヶ浦市)・・・(館山自動車道)・・・(久留里線)・・・国道409号・・・中川橋(小櫃川)・・・熊野神社・・・横田地区・・・(横田駅)・・・(東横田駅)・県道167号・・・(国道410号)・・・(木更津市)・・・第三久留里街道踏切・・・諏訪神社・・・真里谷交差点・国道410号・・馬来田駅(JR久留里線)
久留里道には2つの主要ルートがある。①五井で房総往還と分かれ、久留里に達する道と、②木更津で房総往還と分かれ、横田を経て馬来田で①の道と合流する道だ。①には西往還・中往還・東往還があり、中往還は久留里藩の参勤交代の道、「殿様街道」で、房総半島を南北に貫く政治の道の一つだった。②は房総半島を東西に貫く生活経済の道で、久留里方面の物資は小櫃川や久留里道を利用して木更津へ運ばれ、さらに五大力船(木更津船)で江戸の木更津河岸へと運ばれた。今回は木更津からの②の道筋をたどり、2回で久留里城跡までを歩く。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
房総往還は左へ、久留里道は直進。間に畳ケ池がある。
挙兵して兵を募りつつ北上する源頼朝に、木更津の人々が水辺に畳を敷きつめてもてなしの宴を開いたという。また、頼朝はこの池の葭を箸の代わりに用いたところ、誤って葭で唇を切ってしまい、その葭を池に捨てた。爾来、この池には葭が生えなくなったという。
おもちゃのような、絵本に出でくるような駅だ。駅とは気づかず、うっかり通り過ぎそうになった。
上下に割れてしまったようだ。
承和年間(834~847)に京都の八坂神社(祇園神社)を勧請したと伝える。ここ祇園の地名の起こりという。三間社流れ造りの本殿は県指定文化財。
久留里線沿いに国道410号を進む。歩道も見所もなく歩きづらい。久留里道は明治の中頃までは、小櫃川べり、丘陵の麓を通る曲線の自然道だった。現在は直線の国道410号で、ダンプの往来の激しく「ダンプ街道」ともいわれる(いわれた?)そうだ。確かに時折、ダンプが連なって脇を通って行った。
正面は万年橋
上総清川駅を過ぎ、東京湾アクアライン連絡道をくぐり、菅生交差点の先で左に入る。
長屋門の旧家
右に小櫃川が流れる。平景清にまつわる伝承、事蹟は各地にある。説明板には夷隅郡大原町千光寺谷で生まれたとある。いすみ市長志に千光寺があるが。落語『景清』
このあたりは弥生から古墳時代にわたる集落跡の菅生遺跡で、古代水路を中心に多くの住居群と大量の木器、木製品、土器などが出土したそうだ。
2輛の久留里線がゆっくりと通る。
馬来田国造の創建と伝える古社。
中川橋から小櫃川 《地図》
対岸の丘陵地は滝の口・上村横穴(竪穴?)古墳群というが、詳細は分からず。
横田は継立場だったが、昔の面影は薄い。わずかに残る旧家と横田上宿交差点がその名残りか。
元禄9年(1696)の古いもの。
この前の真里谷交差点で五井から来る①の久留里道の中往還と合流し、久留里へと南下して行く。
【ル-ト地図】の④
「誉田別命(ほむたわけのみこと)」を「よだべつのみこと」と読んでいる。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2021年11月~2022年6月)追加分(2022.06.20)
- 結城街道⑥(下館駅→日光街道合流地点)(2020.07.02)
- 結城街道⑤(岩瀬駅→下館駅)(2020.06.29)
- 結城街道④(稲田駅→岩瀬駅)(2020.06.23)
- 結城街道③(内原駅→稲田駅)(2020.06.19)
コメント