房総往還④
2011年10月27日
木更津駅(JR内房線)・・・第2館山街道踏切・・・田面通り・・・選擇寺(こうもり安の墓)・・・愛染院・・・光明寺(切られ与三の墓)・・・(与三郎通り)・・・旅籠町通り・・八釼八幡神社・・・厳島神社・・・成就寺・・・證誠寺・・・證誠寺橋(矢那川)・・・延命寺・・・(国道16号)・・・諏訪大橋(島田川)・・・専念寺・・・桜井バス停・旧房総往還分岐点・・・光福寺・・・厳島神社・・・(館山自動車道)・・・浅間神社・・・畑沢橋(畑沢川)・・・(君津市)・・・人見バス停・道標・・・大正坂・・・人見神社・・・中橋(小糸川)・(富津市)・・大堀交差点・国道16号・・大堀神明社・・・足立の坂・・大堀踏切(内房線)・・・内裏塚古墳・・・国道16号・・・上野塚古墳・青堀駅(内房線)
*『房総往還③』からの続きです。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
こうもり安の墓(選擇寺) 《地図》
歌舞伎『与話情浮名横櫛』の「切られ与三郎」の仲間。実際は強請(ゆすり)を働くようなごろつきではなかったという。
「しがねえ恋の情けが仇(あだ) 命の綱の切れたのを どう取り留めてか 木更津から・・・」のお馴染みの科白の顔か。「♪死んだはずだよ お富さん♪」、春日八郎の『お富さん』、懐かしいねえ。古いね俺も。
光明寺の先を左折し、旅籠町の通りに入るが往時の面影はない。
境内には「源頼朝手植えの蘇鉄」、「嶺田楓江寿碑」などがある。
五大力船絵馬(木更津船)
江戸幕府から物資輸送の特権を与えられた、木更津港~江戸の木更津河岸間の輸送船。
厳島神社 《地図》
「白弁天」で社殿は白い。
門の左は大菩薩峠(中里介山)に登場する剣豪、中村一心斎の供養塔。羽村市(東京都)に中里介山の墓がある。『羽村市の坂①』
童謡『証城寺の狸囃子』の寺。どうも「分福茶釜」の茂林寺『千人同心日光道⑥』と混同してしまう。木更津駅の発車メロディにこの曲が使われている。やっぱり『お富さん』は無理だろうな。
狸囃子合戦で、腹を破って死んでしまった大狸の供養のために作られたという。
落花生の鈴市商店
旧房総往還分岐点 《地図》
この先の交差点を左折し、内陸部を通り佐貫へ向かう道が古くからの房総往還。海沿いの道は地域の人々の生活道路だったが、江戸湾防備政策により、文政4年(1821)に富津陣屋が建造されてからは、人や物資の運搬のために拡充整備され主要道となった。海沿いといっても今は海からはだいぶ離れている。
「お富與三郎最中」、木更津名物か?
右は木食観正名号塔(文政3年(1820))で、正面に「南無遍照金剛」、右面に「誕生に望をかくる極とは 月のかたふく西なる処」
水神様、弁天様とも呼ばれ、祭神は市杵島姫命(弁財天と習合し同神とされる)で、女性の信仰が厚いという。
『歴史の道調査報告書 房総往還』には、富士山も一望できるとある。期待して長い石段を上るが、参道からもてっぺんの社殿からも海側は木に覆われ何も見えず、がっくり。
左に小祠(人見バス停の少し先) 《地図》
「右 きさら津みち」・「左 ?ふ津みち」、近くの分岐点から移されたものだろう。 「?ふ津」は富津ではないだろう。
大正時代に開かれた坂か?
この先で人見神社の石段を上る。
平忠頼が上総介として赴任した折に、武蔵国より北辰妙見の神霊を上総・下総各地に勧請したうちに一社。
ここからは海が見える。長い裏参道を上った甲斐があった。例祭で「神馬(おめし)」が行われる。
表参道の急な石段を下る。手すりがなくバランスが取りにくい。「神馬」で上るのは大変だろう。
踏み面(づら)が狭く、横向きになって下った。
中橋から人見神社の丘 《地図》
橋を渡れば富津市だ。
今日は青堀駅までだが、電車の時刻まで少し余裕があるので内裏塚古墳まで行く。
傾斜は緩い。坂名の由来分からず。
内裏塚古墳 《地図》
関東で3番目の大きさの前方後円墳。標識と説明板が立つが、今はここからは入れない。参考:『房総の古墳を歩く』
万葉集にも歌われた古代房総の2人の美女。市川真間の手児奈は清純で可憐な乙女、ここの珠名は豊かな胸、くびれた細い腰のグラマーで妖艶な女性だったようだ。どちらも男を迷わすことには古今東西変わりなしか。
青堀駅前にある帆立貝形前方後円墳の「駅前古墳」
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2021年11月~2022年6月)追加分(2022.06.20)
- 結城街道⑥(下館駅→日光街道合流地点)(2020.07.02)
- 結城街道⑤(岩瀬駅→下館駅)(2020.06.29)
- 結城街道④(稲田駅→岩瀬駅)(2020.06.23)
- 結城街道③(内原駅→稲田駅)(2020.06.19)
コメント