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2011年12月22日 (木)

下田街道④

2011年12月13日

伊豆急下田駅→河津駅 バス→慈眼院前・・・小鍋橋・・・小鍋神社・・・小鍋峠上り口・・・普門院分岐点・・・小鍋峠(290m)・・・子安地蔵祠・・・道標・・・大楠・・・法雲寺・・・国道414号・・・北の沢橋・・・下河原橋・・・蛇地蔵・・・旧道・・・西峰橋・・・あずさ山の家・・・目金(めがね)橋・・・国道414号・・・日枝神社・・・宮の前橋・・・竜巣院・・・米山薬師・・・落合橋・・・志戸橋・・・満昌寺・・・お吉ヶ淵・・・向陽院・・・河内温泉・・・立野橋・・・仏源寺・・・本郷橋(稲生沢川)・・・竹麻神社・・・反射炉跡バス停・・・福泉寺・・・伊豆急下田駅・・・稲田寺・・・神明宮・・・海善寺・・・宝福寺・・・下田八幡神社・・・吉田松陰投宿の跡・・・黒船橋・了仙寺・御獅子神社・・・安直楼跡・・・弁天橋・・・下田港・ペリー上陸の碑・・・稲荷神社・・・伊豆急下田駅

  河津駅から8時40分の修善寺駅行きの始発バスに乗る。慈眼院の前のガードレールの切れ目から下り、旧道に出て小鍋神社に寄る。今日の武運長久を願い小鍋峠へ向かう。昨日の二本杉峠のこともあり、ちょっと不安だったが難なく峠を越せた。後は下田港に向かって車道を行くだけだ。下田の市街地に入ると、さすが観光客の多い。あちこちと立ち寄り下田港のペリー上陸の碑の前に立った。しばし海を見ながら小休止して、昔風情の残る家並みの間を通り下田駅に向かった。

  【ル-ト地図】(20.6km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8640小鍋神社 【ル-ト地図】の①

源氏再興にまつわる源頼朝と文覚上人の伝承と、小鍋、大鍋の地名由来がある。

Img_8641由来

Img_8642右に小鍋峠へ

Img_8643説明板

Img_8648山道となる。

Img_8653地蔵(文政10年(1827))

頭は丸石が乗せてある。

Img_8657普門院分岐(左折)

道標(元文2年(1737))には、「従是下田道」・「従是普門院道」。普門院は鎌倉公方足利持氏の開基といい、末寺49寺を有していたという。

小鍋峠は直進する。

Img_8660石仏

Img_8668小鍋峠(290m)

下田から江戸へ向かうハリス一行もここを通った。いくつかの石造物がある。

Img_8667題目塔(安政6年(1859))

後ろに峠の一本杉が立っていたそうだ。

Img_8670地蔵か

Img_8672歌碑?

読めない。

Img_8675峠からの下り

Img_8677気分のいい道だ。

Img_8678明るい道となる。

Img_8681舗装された道となり下って行く。

右は塞(さい)の神の石祠。古くなったお雛さまを供える慣わしがあるという。

Img_8682子安地蔵の祠 

Img_8688道標(安政2年(1855)))

「左 三しま 右下川津東浦 道」 

Img_8689ハリスの見た大楠の孫?

この先で国道に出る。

Img_8695蛇地蔵

石の前に小地蔵が2体。石の上に蛇に似た溝があるのでこう呼ばれているそうだ。

Img_8696溝に水が溜まっている。この水が涸れると干ばつになるという。その上にも溝がありそっちの方が蛇に似ているか。そこに水はないから干ばつになるかも。

Img_8710つちたつ酒店

いろんな銘柄の酒がぎっしり。

Img_8712深根城跡方向(龍巣院の南方)

下田街道①で訪れた願成就院に足利茶々丸の墓があるが、深根城跡の近くにも茶々丸の墓と伝える宝篋印塔あるようだ。ここまで落ち延びて来たという判官びいき伝承だろうか。

Img_8715米山薬師

行基が山芋と茶がらで作ったといわれる薬師如来は、日本三大薬師の一つというが。

Img_8716由来

Img_8749お吉地蔵・お吉ケ淵 【ル-ト地図】の② 

唐人お吉が身を投げたという淵(稲生沢川)。今は浅くて入水自殺は無理だろう。

Img_8745_2説明板(お吉地蔵)

Img_8736池の向うに小堂(お吉ケ淵の前)

Img_8739小堂前

Img_8735今にも身投げしそうな鴨ちゃん。

Img_8751お吉ケ淵交差点で右に旧道に入る。

Img_8757河内温泉の一軒宿金谷旅館地図

千人風呂が有名のようだ。

Img_8769下田富士(187m) (本郷橋から)

全国で一番低い富士。器量が悪いとか。『富士山三姉妹の民話

Img_8770伊豆急が走る。もう下田のゴールは近い。

Img_8771竹麻神社と旧家

Img_8772反射炉跡バス停

韮山反射炉の前に、このあたりに反射炉を築いたのか? 遺構などは残っていないようだ。

Img_8784稲田寺(とうでんじ) 《地図

宝福寺に次ぐ仮奉行所跡。その後、安政2年(1855)に中村に約1万坪の田地を埋め立て、1万6千両の建設費を投じて、堀や塀をめぐらせた奉行所が完成した。(下田市東中14)

下田歴史散策

Img_8786津なみ塚(嘉永7年(1854))

安政元年(1854)の東海地震の津波犠牲者供養塔

Img_8785説明板

Img_8791海善寺 (伊豆88ヶ所霊場の41番)

あじさい寺として有名で、博徒の伊豆の金平の墓があるそうだ。

Img_8793宝福寺

Img_8792「唐人お吉」こと、斎藤きちはこの写真通りの美人だった。

Img_8794説明板

Img_8799吉田松陰投宿の跡 【ル-ト地図】の③

Img_8800黒船橋・了仙寺

この寺で日米和親条約の細則を定めた下田条約を締結した。

Img_8806安直楼 【ル-ト地図】の④

お吉が営んだ小料理屋跡

Img_8808説明板①

Img_8807説明板②

Img_8818ペリー上陸の碑 【ル-ト地図】の⑤

Img_8813説明板

Img_8823松本旅館

Img_8826旧家

Img_8831旧家(前の写真の家の側面)

2人は当方とは関わりなし。

Img_8634寝姿山

Img_8833伊豆急下田駅

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2011年12月20日 (火)

下田街道③

2011年12月12日

修善寺駅(伊豆箱根鉄道)バス→昭和の森会館・・踊子歩道・・井上靖旧邸・・・山神社・・太郎杉分岐・・・天城ゆうゆうの森・踊子歩道二本杉歩道分岐点・・二本杉峠上り口・・・二本杉峠(830m)・・・六趣能化尊・・・地蔵・・・峠の茶屋跡・・・林道・宗太郎園地下り口・・・(伐採作業中)・・・宗太郎園地・踊子歩道合流地点・・宗太郎杉並木・・・猿田淵・・・釜滝(河津七滝)・・・国道414号・・・河津七滝ループ橋・・・梨本橋・・・梨本神社・・・慈眼院 バス→伊豆急下田駅(伊豆急行)

  【ル-ト地図】(12.4km)

  今日は厄日だった。二本杉峠(旧天城峠)への上りで道を間違え引き返し、かなりのロスタイムだ。二本杉峠からは荒れている山道を下り、いったん林道に出てやれやれと思ったら、そこから宗太郎園地までの下りが伐採作業中で通行止めだ。林道で迂回しようとして進んだが行き止まりになるようで(未確認)、伐採作業中だろうが開き直って本来の道を行くことにした。倒木が道を塞ぎ荒れているし、沢を幾度も渡り返し注意深く進むが、分かりづらい箇所が多く何度も道を間違えそうになる。その内に伐採木が道を覆い行く手を阻む。木の上によじ登ったり、木の下をくぐったりしながらの難行苦行となった。作業車輛が通った道は掘り返されてどろんこの不良馬場となっている。途中、作業用の道が何本か分岐していて、ついそっちに入ってしまい引き返す。やっと宗太郎園地にたどりついた時は、靴とズボンは泥んこだった。結局、二本杉峠の上り口からここまで標準タイム+20分ぐらいで来たのだが、気分的には3倍くらい疲れた。

 踊子歩道を河津七滝(ななだる)へ向かう。釜滝への下り口に、落石で七滝の遊歩道は通行止めの標識が掛かっている。釜滝へは行けるようだ。昨日、旭滝と浄蓮滝を見ているし、七滝めぐりが目的でもなし釜滝だけで十分だと己に言い聞かせる。釜滝のしぶきを浴びながら小休止して、遊歩道に張られた落石通行止めのバリケートを横目に、絶壁のような石段を上り国道へ出た。

 国道を下り、いくら進んでも前へ進まない蟻地獄のようなループ橋を通り、ハリスの宿泊地の慈眼院へ着いた。今日の予定はこの先の小鍋峠を越えるのだが、また峠越えの山道に入る気分にはなれない。ここからは湯ケ野温泉が近く、そこに泊まった方が明日は楽なのだが、下田駅近くに宿を予約してある。ちょうど下田駅行きの直通バスが来る時間でグッドタイミングだった。明日は小鍋峠越えがあり予定より距離はあるが、下田街道歩きの終点とする下田港までは明るい内には着くだろう。夜は下田駅近くの居酒屋で今日の反省と明日の英気を養った。店の人とも話をしながらけっこう飲んでかなり酔った。明日は大丈夫か、ケセラセラよ。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8487井上靖旧邸(昭和の森会館敷地内) 【ル-ト地図】の①

湯ヶ島から移築したもの。

Img_8498太郎杉分岐

二本杉峠は直進、太郎杉へは右折し橋を渡る。

Img_8512踊子歩道分岐(左へ)

『伊豆の踊子』(川端康成)・『天城越え』(松本清張)に登場する旧天城トンネルへは踊子歩道を進む。現在では旧天城峠というと、明治38年に完成し昭和44年まで続いた旧天城トンネルのことを指すようだが、江戸期の下田街道の天城峠は二本杉峠のこと。それ以前は古峠を越えていた。二本杉峠へは直進する。

Img_8514二本杉峠上り口

このあたりは大川端キャンプ場(跡)か。

Img_8515二本杉峠から宗太郎園地へは下れるようだ。

Img_8518山道となる。

Img_8522いったん林道に出て、指道標で山道に入る。

Img_8524けっこう荒れている。

Img_8526崩れた橋

Img_8536二本杉峠(830m・旧天城峠) 【ル-ト地図】の②(正確ではない)

正面に二本杉。文政2年(1819)に梨本村板垣仙蔵により、河津側よりこの峠に至る道が開かれ、以後明治38年の旧天城トンネル完成までこの道が天城越えの主要路(下田街道)だった。

Img_8540二本杉

Img_8539二本杉歩道を下る。

Img_8542六趣能化尊(宝暦11年(1761))

六道能化地蔵と同じ意か。もとは6体あったらしい。

Img_8546地蔵(文政3年(1820))

首が下に置いてある。新道完成記念で造立されたか。

Img_8547倒木が道を塞ぎ、道が分かりにくい。

Img_8548路肩の狭い所も多い。

Img_8549峠の茶屋跡

二本杉峠への道が完成した、文政2年に開業した茶屋跡。

Img_8551まるで障害物競争のようだ。

Img_8552沢を右岸、左岸と渡り返す。道筋がはっきりしない所が多い。

Img_8554壊れた橋で、ここが道であることが分かる。

Img_8558林道に出てやれやれ、小休止だ。

Img_8559案内板

林道は「行止め×」の標示

Img_8560「伐採作業中」・「立入禁止」だが、ここを下るしかない(と思った)。

Img_8561迂回路があるなら、詳しい案内図を掲示すべきだ。

Img_8564沢沿いを注意深く、幾度も右、左へと渡り返す。

Img_8570道らしい所に出てほっとするのもつかの間。

Img_8572伐採木が道を覆う。

Img_8573伐採木をまたいだり、くぐったりの障害物競争が続く。木が被さり道筋も分かりづらい。地震でも起きて木が動いたらアウトだ。

Img_8574指道標を見つけると一安心だ。

Img_8576作業車が掘り返した泥んこ道となる。実際伐採作業をしている箇所もあった。通行禁止なのに通ってきて怒られるのは覚悟していたが、「気をつけて行ってください」といわれ助かった。うっかり山道から分岐した作業用の道に入ってしまい、引き返す消耗戦もくり返した。

Img_8579やっと宗太郎園地に出た。橋の向う側に通行止めの標識が架かっている。ここで旧天城トンネルを抜けて来る踊子歩道と合流する。今はそっちを通るハイカーが多く、本来の下田街道の天城峠(二本杉峠)越えの道は荒れてきているのだろう。橋向うは休憩所になっている。踊子歩道を通って来た人と情報交換し、しばし休憩した。彼は河津七滝の遊歩道が落石で通行止めなのを知っていた。

Img_8582石仏に無事を感謝。

Img_8585宗太郎杉林(宗太郎人工杉学術参考保護林)を行く。《地図

江戸時代より行われた冥加植栽(お礼杉)の名残で、ここの杉は明治初期に植えられた。宗太郎とは、この地を開発した人の名の名だろう。

Img_8489お礼杉説明板

Img_8594猿田淵

Img_8593説明板

Img_8600七滝遊歩道前

もう強行突破する気はない。

Img_8601釜滝(22m) 【ル-ト地図】の③

河津七滝(ななだる)の最上流部にある。流量が豊富で迫力がある。

あとの6滝はあきらめ、絶壁のような石段を上り国道に出る。

Img_8611国道を下る。本来の下田街道からははずれるが致し方なし。

Img_8612河津七滝ループ橋(全長1064m)に入る。【ル-ト地図】の④

Img_8617グルグルと回わらせられる。その間、前には進まないからやり切れない。人間の歩く道ではない、と思ったら途中にバス停があった。歩く人もいるのだ。

Img_8621やっと蟻地獄を抜ける。

Img_8625梨本神社

ここまでたどり着けたことを感謝し小休止。

Img_8624由緒

Img_8630慈眼院 【ル-ト地図】の⑤

右に「ハリス公使舊蹟」の石碑。ハリス一行は翌日(10月8日)は天城越えをして、湯ヶ島の弘道寺に泊まっている。

Img_8645説明板

旧道への下り口を確認し、慈眼院前バス停から下田駅に出る。

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2011年12月19日 (月)

下田街道②

2011年12月11日

修善寺駅(伊豆箱根鉄道)・・・修善寺橋(狩野川)・・・湯川橋・・・(水神社)・・・不越ケ坂・・・国道136号・・・旭滝口バス停・・・龍泉寺・・・大平神社・旭滝・龍源寺跡・・・国道136号・・・軽野神社・・・柿木橋(柿木川)・・・(狩野城跡)・・・龍爪神社・(狩野ドーム)・・・子安神社・旧道・・・国道136号・・・船原橋(船原川)・国道414号・・・月ヶ瀬温泉・・小戸橋・旧道・・・国道414号・・・嵯峨沢橋(狩野川)・・・市山交差点・・・明徳寺・・・国道414号・・・称宜沢川・・旧道・・・国道414号・・簀子橋(長野川)・・旧道(しろばんばの里)・・しろばんば文学碑・・上の家(井上本家)・・・弘道寺・・天城神社・・・国道414号・湯ヶ島温泉口・・・猿橋・・・与市坂・・・与市坂橋・・・梅ノ木橋・・・三本松橋・・・天城山荘・・・旧道・・・浄蓮の滝・・・踊子歩道・・・国道414号・・・道の駅天城越え(昭和の森会館)バス→修善寺駅

  【ル-ト地図】(19.9km)

  快晴の下、修善寺駅から二本杉峠(旧天城峠)への上り口、「道の駅天城越え」まで進みバスで修善寺駅まで戻った。ここまでは予定通りだ。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8295城山(248m) 《地図

山頂に修善寺城があった。かつては城山ロープウェイが通じていた。

Img_8300旧家

Img_8302左に狩野川が流れる。

Img_8303廃屋が並んでいる。

Img_8307道祖神?

Img_8311不越ケ坂(こえじがさか) 【ル-ト地図】の①

昔はもっと急坂だったのだろう。左に道祖神

Img_8315国道を横切り少し上り、民家の間を通り再び国道へ下る。

Img_8318中宿あたり

右に道祖神が見守る。

旭滝入口バス停から旭滝に向かう。

Img_8325大平神社

Img_8324説明板

Img_8331旭滝(全長105m) 【ル-ト地図】の②

もっと流量があれば見事だろう。惜しいね。

Img_8329説明板

Img_8339_2滝の上部

Img_8334虚無僧の墓(滝のそば)

ここは普化宗の龍源寺跡。

Img_8333説明板

鈴法寺跡(れいほうじ)には、『青梅街道⑤』で訪れている。もう一つの総本山は、『水戸街道』の小金宿の一月寺。

Img_8342瀧落之曲」碑

旭滝で作られた尺八の名曲

Img_8346軽野神社 《地図

旧道は神社と狩野川の間を通っていた。そのため社殿は国道を背にして狩野川側に向いて建っている。社殿の後ろの大岩がもとの崇拝の対象だったか。

このあたりに「雲金の渡し」があったそうだ。

Img_8348由緒

Img_8349狩野城跡(正面) 【ル-ト地図】の③

狩野派発祥の地」の看板が立っている。狩野派の初代狩野正信は、氏祖の維景から16代目の孫という。

Img_8357狩野ドーム地図

伊豆市の大型総合体育館

Img_8372狩野川沿いに進み、月ヶ瀬温泉に入る。右は慶応大学リハビリセンター。

Img_8383地蔵?

Img_8388紅葉が眩しい国道沿い。この先で嵯峨沢橋を渡る。

Img_8403明徳寺参道の草餅屋

ここの草餅は美味いよ。車で買いに来る人もいる。

Img_8398明徳寺地図

東司(便所)の神、うすさま明王を祀る。

Img_8400うすさま明王堂

右端は「喜心石」で「おさすり」するそうだ。「おまたぎ」する木もある。どうもなじめないね。

Img_8408旧道に入りほっとする。《地図

Img_8413左に「しろばんばの里」に入る。《地図

Img_8420上の家(井上本家)

Img_8424弘道寺 

安政4年(1857)江戸へ向かうハリス一行が宿泊した。伊豆八十八ヶ所霊場の第二番。

Img_8426説明板

Img_8428天城神社

Img_8438与市坂 【ル-ト地図】の④

Img_8448天城山荘

日曜でバイクツーリングの連中が多い。

Img_8451旧道に入り浄蓮の滝へ。

Img_8457浄蓮の滝 《地図

高さは25mと旭滝には及ばずだが流量が豊富だ。それよりもこんなに有名になったのは石川さゆりの♪『天城越え』♪のお蔭だろう。

Img_8467踊子歩道に入り上って行く。 【ル-ト地図】の⑤

Img_8471気分のいい道だ。

Img_8476木漏れ日の杉林の間を行く。

この先で車道に出れば、道の駅天城越えはすぐだ。

Img_8483道の駅天城越え(昭和の森会館) 《地図

バイクと車で賑わっている。

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2011年12月18日 (日)

下田街道①

2011年12月10日

三島駅(東海道新幹線)・・・三嶋大社・東海道分岐点・・・伊豆国分尼寺跡碑・・・言成地蔵堂・・・妻塚観音堂・・・間眠神社・・・(国道1号)・・・二日町踏切(伊豆箱根鉄道)・・・手無地蔵堂・・・左内神社・・・大場橋供養塔・大場橋(大場川)・・・広渡寺・・・清水寺・・・観音橋(宮川)・・・(県道11号)・・・国道136号・・・蛇ヶ橋(来光川)・・・天満宮・・・(伊豆の国市)・・・一色踏切・・・牛鍬大路跡・・・原木交差点・道標・荒木神社・・・八坂神社・道祖神・・・隣光院・・・韮山駅・・・江川邸・・・城池・・熊野神社・韮山城跡・・・蛭ケ小島(源頼朝配流地)・・・時代劇場・・・踏切・・・成福寺・・・伝堀越御所跡・・北条政子産湯の井戸跡・・・光照寺・・・願成就院・・・古川橋・・・反射炉交差点・・・反射炉踏切・・・富士見橋・・・上中橋(韮山古川)・・・韮山反射炉・・・横山坂・・・宗光寺橋(宗光寺川)・・・(第六天神社)・・・随応寺・・・守木3号踏切・・・六角堂跡・・・白山神社・・・御門塞神社・・・踏切・・・田京駅・・・広瀬神社・・・深沢橋(深沢川)・唯念名号塔・・・西光寺・・・吉田松陰宿泊地碑・・・江戸屋(本陣)跡・・・大仁踏切・・・水晶山・大仁橋(狩野川)・・・大仁金山跡あたり・・・昌徳院・・・横瀬愛童将軍地蔵・修善寺橋(狩野川)・・・修善寺駅(伊豆箱根鉄道)

  【ル-ト地図】(29.3km)

  三嶋大社の鳥居の前で東海道と分かれ南へ、伊豆半島の中央を天城峠、小鍋峠を越えて縦断し下田へ至る下田街道を、ペリーの上陸地の下田港まで4日で歩く。今日は江川邸、韮山城跡、韮山反射炉などに寄り道しながら修善寺までの行程だ。快晴で「振り向けば富士」の雄姿を楽しみながらの1日だった。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7986三嶋大社

ここを直進(南進)する。三嶋大社は『箱根の坂②』に記載。

Img_7990伊豆国分尼寺跡碑(大社町郵便局の手前)

左端に「史蹟伊豆国分尼寺跡」の石柱が立つ。

Img_7992振り返れば富士

Img_7994言成地蔵 【ル-ト地図】の①

大名行列の前を通り、惨(むご)くも切り捨てにされた幼女小菊ちゃんの悲しく、やり切れない由来話。

駿河一国百地蔵尊の第99番。境内に近くにあった見付橋(三島宿の南見付)の石材が保存されている。

Img_7995由来

Img_8003妻塚観音堂 《地図

頼朝と間違われ夫の大場景親に殺された景親の妻を供養する塚とその上の堂。

Img_8002由来碑

Img_8000間眠(まどろみ)神社

源頼朝が三島大社への参詣の途中、松の根元でまどろんだという伝説がある。この前の道が頼朝の代参が安久の在庁屋敷から三島神社へ参詣する時に通った在庁道。

Img_8001縁起

二日町踏切を渡り、伊豆箱根鉄道の西側に出る。

Img_8012

Img_8015手無地蔵堂 【ル-ト地図】の②

化けて若侍の髪を引き、左手を切り落とされた地蔵で、60年に一度開帳されるそうだ。左手はどうなっているのか見たいものだが。また一説には、「ちちなしの明神」が祀られていて、「ちちなし」→「父無」→「ててなし」→「てなし」と変化したとも。

Img_8016説明板

取って付けたように、「若侍は源頼朝であるという言い伝えもある」と追記してある。何でも頼朝に結び付けたがる、さもしい根性が丸見えか。まあ伝説だから若侍を誰にしようが勝手だが。

Img_8017左内神社 《地図

三嶋大社の守護神。御殿川を挟んだ西側に右内神社がある。

Img_8019大場(だいば)橋供養塔(文化15年(1818))

大場橋の修復作業中に亡くなった人夫の供養塔。

Img_8024大場川から 《地図

Img_8028侠客大場の久八の墓(広渡寺) 《地図

品川沖に「お台場」を築いた親分だ。やっぱり「やくざ」と「侠客」は違うようだ。

Img_8031説明板

Img_8039蛇ケ橋 《地図

源頼朝が三島大社への参詣の折、大雨のため渡ることができなかった。すると蛇が現れ橋となり頼朝を渡したという。

Img_8049牛鍬大路跡 《地図

『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180)8月、頼朝が山木兼隆襲撃に際し、閑路である蛭島通を避けて大道の牛鍬大路を通ったという。

今は蛭島通の方が広くて大道だ。

Img_8060原木交差点 《地図


火の見の下に道標と道祖神

Img_8051道標(大正11年)

「右 三島 二里 左 沼津 二里」

Img_8054荒木神社

「原木」の地名の由来になったという。

Img_8058大楠

Img_8055由緒

Img_8066道祖神(八坂神社の道路沿い)

伊豆地方は単座丸彫りの道祖神がほとんどか?

下田街道からはなれ東方の江川邸、韮山城跡、蛭ケ小島跡に寄る。

Img_8069江川邸表門 《地図

TV「篤姫」のロケに使われたようだ。

Img_8070主屋

Img_8074米蔵

Img_8084城池から韮山城跡

Img_8086説明板

Img_8099韮山城跡から 《地図

Img_8112蛭ケ小島跡 《地図

20年にも及ぶ頼朝の配流地。西方の北条氏宅の政子と出会い結ばれた地。

Img_8114説明板

Img_8118頼朝と政子像

Img_8119蛭ケ小島近くから

Img_8121時代劇場

芝居でもやっているのかと思ったが、韮山文化センターだった。

Img_8122成福寺(じょうふくじ) 《地図

右の門柱に「北條氏菩提寺」とある。

Img_8123説明板①

Img_8124説明板②

Img_8133伝堀越御所跡【ル-ト地図】の③

Img_8125周辺案内図

①北条氏邸跡(円成寺跡)・②伝堀越御所跡・③成福寺・④守山八幡宮・⑤願成就院・⑥満願寺跡・⑦真珠院

Img_8137北条政子産湯の井戸 《地図

今でも底に水を溜めている。

Img_8140石塔(明暦元年(1655))

Img_8141説明板

ここを右折すれば願成就院

Img_8143願成就院

北条時政、足利茶々丸の墓がある。茶々丸は伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められこの寺で自刃したとも、甲斐国あるいは伊豆の深根城で捕われ自害したともいう。深根城の近くに、茶々丸の墓と伝える宝篋印塔があるようだ。

Img_8147願成就院跡

七堂伽藍の大寺院だったという。後ろが北条時政により建立された南塔跡。

Img_8144説明板

国道に出て反射炉交差点を左折し、反射炉踏切を渡り韮山反射炉へ寄る。

Img_8165韮山反射炉地図

来た道を戻り、反射炉踏切手前の交差点を左折し、かつては天城峠以北で第一の難所といわれた横山坂へと進む。

Img_8176横山坂(坂下) 【ル-ト地図】の④

左は観音堂で、その後ろにさまざまな石造物が並ぶ。

Img_8177_2如意輪観音・地蔵・馬頭観音・庚申塔・順礼供養塔など。

Img_8178ここを入る。私人の敷地内のようで入りにくいが。

Img_8184本日の秀逸の景観か

狩野川、国道、その下に伊豆箱根鉄道

Img_8193坂上近く

この道は明治に開かれた新道で、難路といわれた昔の横山坂はもっと東方へと上っていたようだ。

Img_8199坂沿いに百番観世音菩薩供養塔、唯念名号塔?などが並ぶ。

Img_8203下って車道へ出る。

宗光寺橋→(第六天神社)→随応寺→守木3号踏切と進む。長傳院あたりが宗光寺跡らしい。随応寺の先の曲り角にあるという、伊豆八十八ヶ所霊場の第十番「蔵春院」への道標は見当たらず。

Img_8218六角堂跡 《地図

Img_8222説明板

Img_8228白山神社前

右は狩野川台風殉難者供養塔

Img_8231唯念名号塔(右)・三界万霊(中)・徳本念仏塔(左)

白山神社境内

Img_8234説明板

Img_8233説明板

この先の狩野川の土手近くに、平安時代に全国を巡歴後、六角堂の所にあった久昌寺で大供養を行い、塚を築き経を埋めた来朝坊の来朝塚があるようだ。

Img_8227_2御門塞神社

Img_8240広瀬神社 《地図

狛犬ならぬ狛馬が一頭。

Img_8238説明板

Img_8246唯念名号塔(安政3年(1856))

深沢橋のそば

Img_8253城山(じょうやま・342m) 《地図

城があったのか?

Img_8255吉田松陰宿泊地(大仁郵便局) 《地図

大仁(おおひと)村の名主杉村氏宅跡で、植込みに小さな記念碑が立つ。安政元年(1854)4月、下田から江戸へ護送される松陰が宿泊したそうだ。

Img_8256記念碑

Img_8259江戸屋跡(菊池米店あたり)

別号を本陣といい、名主の杉村氏とともに通行人の接待にあたった。左端は芭蕉句碑で、「霧時雨富士を見ぬ日ぞおもしろき」だそうだ。

この先で大仁踏切を渡る。

Img_8264水晶山南麓の石造物群

中央は狩野川水死者供養塔(大正4年)

Img_8268
水晶山 《地図

狩野川には渡船があった。今は大仁橋で渡る。

Img_8272大仁(瓜生野)金山跡

大久保長安により、慶長2年(1597)に瓜生野山(「万福福笑の湯」の裏山)に開かれた金山。

Img_8275昌徳院 《地図

石段右は唯念名号塔

Img_8278南無阿弥陀仏碑(昌徳院)

「慶長年中大久保石見守殿」・「大城角右衛門」の名が刻まれているという。大久保石見守は大仁金山を開いた大久保長安で、大城家は金山で働く人夫などが収容されていて、金山屋敷と呼ばれていた。

Img_8281長屋門

Img_8285横瀬愛童将軍地蔵 【ル-ト地図】の⑤

Img_8289由来 

北条時政を鬼より残酷と罵り、頼家に同情したやけに思い入れの強い感情的、一方的な文章だ。

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2011年12月15日 (木)

伊南房州通往還①

2011年11月27日

浜野駅(JR内房線)・・・房総往還分岐点(浜野交差点)・・・下諏訪神社・第六天神社・・・県道14号・・・浜野跨線橋(内房線)・・・古市場交差点(国道16号)・・・(館山自動車道)・・・馬頭観音・・・熊野神社・・・草刈交差点・・・旧道・・・草刈堰・弁財天社・・・行光寺・・・新橋(村田川)・・・千原団地入口交差点・・・旧道・・・道標(潤井戸新田青年館)・・・県道21号・・・白幡神社・・・泰行寺・・・潤井戸三叉路・・・光福寺・・・道標(潤井戸青年館・子安社)・・・県道14号(茂原街道)・・・長柄町・和楽の湯・・・旧道・・道標・・大多喜街道追分・・・県道14号・・・六地蔵地区・地蔵祠・・県道14号・六地蔵堂・・六地蔵バス停・旧道・・・薬師堂・・・道脇寺地区・・熊野神社・・・鼠坂・・長柄小学校・・・県道14号・・・国府里神社・・・茂原市・・(圏央道建設中)・・・旧道・・稲荷神社・・・県道14号・・・酒盛塚跡(茂原高校)・・・茂原公園・藻原寺・・・鷲山寺・・・どうびょう橋(豊田川)・・・高師八幡神社・・・茂原駅(外房線)

  内房回りの房総往還の次は、外房回りの伊南房州通往還に取り掛かる。伊南とは東上総海岸沿いの夷隅地方が、伊南荘・伊南領の名で慣習として呼ばれていたことによる。房総往還との分岐点は浜野とその先の八幡宿で、潤井戸で合流し茂原→上総一宮→大原→御宿→勝浦→小湊→鴨川→和田→丸山と進み、館山で再び房総往還と合流する。途中往還からははずれるが、風光明媚な外房の海岸沿いや山沿いのハイキングコースなども織り交ぜながら館山を目指すつもりだ。

  参考:『伊南房州通往還 Ⅰ・Ⅱ』(千葉県教育委員会)

  * 伊南房州通往還②』へ続く。

  【ル-ト地図】(31.0km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9940房総往還分岐地点(浜野交差点) 【ル-ト地図】の①

伊南房州通往還は正面方向へ進み、内房線を越えて行く。手前左から右へ進むのが房総往還。浜野は重要な継立場だった。

Img_5655馬頭観音(イエローハットの角) 《地図

Img_5656馬頭観音(安永9年(1780))

風化が激しいが車の排気ガスの中、よく頑張っている。

Img_5660旧家

Img_5664村田川沿いを進む。このあたりは江戸期には上総国市原郡と下総国千葉郡の境で、今は市原市と千葉市の境だ。

Img_5670往時の街道の面影が残る草刈の家並み

Img_5673旧家

Img_7422草刈堰 【ル-ト地図】の②

元和年間(1615~23)に干害を防ぐため村々を動員し、村田川より引水して開いた約8千㎡の堰。

Img_7427取水口

この手前が村田川

新橋(村田川)を渡り、浜野・八幡宿と茂原の間の継立場だった潤井戸地区へと進む。元和5年(1619)から寛永3年(1626)までは永井氏の潤井戸藩があった。

Img_7439この先の左に潤井戸新田青年館がある。

Img_7445道標(青年館敷地内に移設されたもの) 《地図

右(享和2年(1802))は、「北 浜のむら 江戸ミち」、
左も享和2年で、「北 のふまん 五井 あねか崎」(のふまんは能満)

Img_7453白幡神社(右)前の通り

Img_7455白幡神社前の旧家

Img_7469道標(潤井戸青年館に移設されたもの) 《地図

左(享和3年(1803))は、「此の方 せんだかさもり犬成村 てうなんもばら道」で、(てうなんは長南)

右は昭和3年の昭和天皇即位式を記念して地元の青年団が建てたもの。

Img_7479ジャパンフーズの手前で旧道(右)に上る。

Img_7480道標(右) 《地図

Img_7481道標

「潤井戸 茂原」は読める。もとはすぐ先の追分にあったものなのか?

Img_7483大多喜街道追分(右) 【ル-ト地図】の③

道標と庚申塔があったというが両者とも見当たらず。

Img_7486六地蔵地区に入り、ここを左折する。《地図

六地蔵村は潤井戸と茂原の間の継立場だった。地名の由来は、①千葉秀胤が妾の冥福を祈るために当村の路傍に造立した六地蔵に人々の参詣が絶えなかった。②その昔、当村には住民がいなかったが道の傍らに6つの地蔵を安置して以来、人々が集まり住むようになったから。

Img_7487地蔵と道祖神の祠

左折しすぐの左上

Img_7489吊るし柿?

Img_7492茅葺き屋根の関家

江戸後期の建築という。県道から少し上った裏山に六地蔵堂がある。

Img_7493六地蔵 《地図

この前に六地蔵堂もある。 

Img_7496六地蔵バス停の所で、旧道(左)に入る。《地図

Img_7501薬師堂

Img_7498薬師如来像(元禄7年(1694))

Img_7502車も通らない静かな道を行く。

Img_7504ここを右に進み道脇寺地区に入る。《地図

道鏡の開基という道脇寺は、かつては100以上の坊を有する大寺院だったという。寺の百坊を巡って犬が食を求めるので、鐘を合図に百坊が同時に食事をしたところ犬は姿を消し(餓死したとも)、その夜、大洪水が起こり寺は流失したという説話が残る。現在は日蓮宗に改宗した道脇寺が長柄小学校の南東にある。

Img_7507熊野神社

Img_7508静かな道を行く。

Img_7509風化してとろけそうな庚申塔

Img_7515鼠坂の下りとなる。

Img_7519鼠坂 【ル-ト地図】の④

日本武尊がこの坂に至り、弟橘姫を追懐してられず、不寝見坂が鼠坂に転訛したとか。

Img_7520坂下方向

Img_7527長柄小学校を過ぎさらに下る。

Img_7533国府里神社

国府里(こうり)地区の産土神。国府里は上総国長柄家の所在地だった。東隣(茂原市)は国府関という地名だ。

Img_7542旧家

大正年間に横浜の洋館を模して建てられた医院。

この先で国道に出る。二宮神社に寄ろうとして途中で右折したら、大きく道を間違えてどこを歩いているのか分からなくなった。

Img_7551長屋門

ここは本来の往還沿いではない。

かなり南方向に迂回する形で、なんとか茂原高校へたどり着く。1時間ほどのロスタイムか。いくつかの見所も見落とすはめとなった。なお、【ル-ト地図】には正しい(と思われる)道筋を記載してある。

Img_7560酒盛塚跡(茂原高校内) 【ル-ト地図】の⑤

Img_7556由来碑(酒盛塚の碑)

この他、源頼朝がこの地を通った時、前途を祝福して塚の上で酒宴を開いたとも。

こっちもいい加減疲れてきた。もう切り上げて酒宴と行きたいところだ。

Img_7561藻原公園の弁財天池・弁財天堂

Img_7567藻原寺山門

竜宮造り、多宝塔型式。茂原は中世には日蓮宗の古刹の藻原寺、鷲山寺の門前集落として発展していた。

Img_7569鷲山寺

Img_7575説明板

Img_7570元禄津波供養塔

元禄16年(1703)の元禄大地震の津波による犠牲者の供養塔。

Img_7571説明板

Img_7573側面

Img_7579高師八幡神社 《地図

高師と茂原は、六地蔵村と一の宮村の間の継立場だった。両村は近接しているため、駄賃稼ぎの継立の権利をめぐって紛争が絶えなかった。現在は茂原の市街地として連続している。

今日は早めに出発したが、道を間違え疲労困憊といった感じだ。もう5時近くで暗くなり始めてきた。

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2011年12月 9日 (金)

房総往還⑧

2011年11月26日

岩井駅(JR内房線)・・・国道127号・・・市部交差点・県道258号・・・平郡街道踏切(内房線)・・・(富津館山道路)・・・富山中前バス停(富山登り口①)・・・八幡神社道標・・・福満寺(富山登り口②)・・・旧道・・・県道258号・合戸バス停・・旧道・・・大日如来祠・・・県道258号・・・白井商店前バス停(富山登り口③)・・・地蔵石祠・・・犬掛交差点・県道88号・・・犬掛お堂・・・川坂橋(平久里川)・馬頭観音・・・犬掛古戦場跡・・・里見氏の墓・・・八房伝説の地・春日神社・・・県道88号・・・旧道・・・白山神社・・・県道88号・・・滝田城址(虎口・武者溜・見晴し・二の丸跡・曲輪・城門跡・本丸跡・櫓台・展望台・大手口)・・・県道88号・・・瀧田神社・・・庚申塔・・・道の駅三芳村・・・三芳橋(平久里川)・旧道・・・横峰大橋(平久里川)・・・府中地区・・・宝珠院・・八坂神社・・・(館山市)・・・県道88号・・・鵜登川橋(滝川)・・・館山高校・・・(館山バイパス)・・・官庁通り・・北町の庚申塔・・海雲寺・・不動院・・塩蔵寺・・神明神社・・北条藩陣屋跡・・・南町交差点(伊南房州通往還合流地点)・・・館山駅

  房総往還歩きの最終日だ。岩井から館山(北条)への道筋は、①木の根峠越えの最短距離の道、②内陸に入り富山南麓から平久里川に沿う道、③海岸沿いの道、があった。①は一部は廃道になっているようだ。③はトンネルが多く気分的に疲れる。距離は長いが②のルートをたどり館山を目指すことにした。『南総里見八犬伝』と里見氏ゆかりの地を訪ねる道筋でもあった。

  【ル-ト地図】(22.4km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7586市部交差点 《地図

市部は継立場で、交差点の左手前には旅宿の角屋があったそうだ。

ここを左折し、内房線を渡る。

Img_7595富山方向へ向かう。

正面は富津館山道路

Img_7597富山登山口① 《地図

『南総里見八犬伝』で、伏姫と愛犬の八房が暮らした、伏姫籠穴入口。

Img_7603福満寺前の道標(大正元年) 【ル-ト地図】の①

富山登山口②で、「富山表参道」・左側面に「麓ニ里見伏姫之籠窟アリ」と刻む。

Img_7609合戸青年館前で旧道に入る。

Img_7612石仏

Img_7614旧道を小さな峠を越すような感じで緩やかに上る。

Img_7616石積みの祠

Img_7617「オデンサマ」と呼ばれている大日如来像か? 神像にも見えるが。

Img_7623県道258号に出て下って行く。

Img_7631富山登山口③(白井商店前バス停)

登山口①から登り、ここへ下りて来てもよかったのだが、館山まで歩くには時間的にはきついか。

Img_7633地蔵祠

古墳の石室のようで頑丈だ。

Img_7643犬掛お堂 《地図

中には地蔵らしき石像がある。

Img_7647川坂橋を渡って犬掛古戦場跡、八房伝説地へ。

Img_7654犬掛古戦場跡 【ル-ト地図】の②

里見氏の血族同士の争い。安房里見氏は名前に「義」がつくし、『南総里見八犬伝』の里見氏と虚実が入り混じってややこしい。

Img_7652説明板

Img_7653古戦場碑

朽ちかけているのがなんともいいね。

Img_7659里見氏の墓

Img_7656説明板

Img_7657五輪塔

義通と義豊の墓というが、どっちがどっちだったか。

Img_7661八房伝説の地 【ル-ト地図】の③

Img_7667説明板

Img_7665八房と八房を育てた狸像

精悍で凛々しい姿、顔立ちの像だ。

Img_7672白山神社 《地図

Img_7675旧道を行く。

ほっとする道だ。

県道88号に出て滝田城址へ向かう。

Img_7685旧家

滝田城址への途中で、このあたりは根古屋地区。大手橋、馬場などの地名も残る。

Img_7689上り口(案内図の「現在地」)

猪などの動物除けの防護柵を開けて入る。今年の7月に設置されたばかりで、柵を開けると猪が飛び出して来るのではと、ちと心配になる。ここからけっこうな上りとなる。

Img_7687案内図

右側のJA上滝田支店から上って行く。上滝田は馬継場だった。

Img_7692虎口

Img_7694「見晴らし」からの眺め

Img_7697二の丸跡

Img_7700本丸跡 【ル-ト地図】の④

Img_7722説明板

Img_7707櫓台(標高140m)

八幡台と呼ばれ、左に八幡の小石祠、「城代一色九郎の居城 南総里見八犬伝発祥の地」の木柱が立つ。

Img_7719展望台・伏姫と八房像

Img_7718ブロンズ像

Img_7714展望台から三芳野方向

Img_7721大手口(案内図の「案内板」の方)へ下る。

途中、道が分かりにくい所がある。

Img_7725大手口から滝田城址を振り返る。

Img_7728瀧田神社 《地図

Img_7732県道のコンクリート壁に馬頭観音、庚申塔が祀ってある。

Img_7733馬頭観音(左端)は文化14年(1817)の造立

道の駅三芳村で遅い昼食をとり、一休みした。

Img_7741三芳橋の手前で右に、平久里川沿いに進む。《地図

Img_7742平久里川(左)沿いを行く。

黒いシートを被っているのは土嚢か?

Img_7744横峰大橋(正面)を渡る。

Img_7746府中地区の直線道路 《地図

安房国府は宝珠院の境内あたりにあったという。さらに南方の国分には安房国分寺がある。

Img_7750宝珠院

Img_7751観音堂の扉は開いていて、安房国観音霊場の第23番札所の十一面観音像(千葉県有形文化財)が拝める。

Img_7756やっと館山市に入って一安心。

鵜登川橋を渡り、館山高校沿いを進み、館山バイパスを渡り、官庁通り(市役所通り)に入る。

Img_7762北町の庚申塔 《地図

「北條村若者中」の建立。

Img_7764説明板

Img_7775北条藩陣屋跡(左) 【ル-ト地図】の⑤

館山警察署、北条病院、館山消防署あたり一帯。

Img_7778外房回りの伊南房州通往還との合流地点(南町交差点) 《地図

伊南房州通往還は房総往還と浜野(または八幡宿)で分かれ、外房沿いに館山に至る道。

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2011年12月 8日 (木)

房総往還⑦

2011年11月25日

浜金谷駅(JR内房線)・・・金谷川・・・天王川ガード(内房線)・・・鋸山裏登山口・・・観月台・・・石切場跡分岐・・・日本寺北口管理事務所・・百尺観音・・地獄のぞき・・鋸山展望台・・西国観音・・二天門・・百体観音・・あせかき不動・・千五百羅漢道・・大仏・・大黒堂・・表参道管理事務所・・仁王門・・・表参道・・・小磯川・・・JRガード・・・保田駅・・・国道127号・・・保田橋(保田川)・・・七面橋(七面川)・・・磯邊神社・・・保田漁港・・・吉浜橋(吉浜川)・・・(菱川師宣記念館)・・道の駅きょなん・・・砂田橋(砂田川)・・・竜島バス停・・・神明神社・・・源頼朝上陸地碑・八王子神社・・・極楽寺・・・(安房勝山駅)・・・勝山橋(佐久間川)・・・加地山神社・・・勝山交差点・・・下佐久間交差点・旧道・・・大乗院・白幡神社・・・持福寺・・・国道127号・・・勝岩トンネル・・(南房総市)・・・岩井橋(岩井川)・・・岩井駅(内房線)

  【ル-ト地図】(保田駅→岩井駅)・(浜金谷駅→鋸山→保田駅は、『鋸山日本寺案内図』)

 房総往還⑥』からの続きです。

 房総往還は海岸沿いを通って安房国に入るが、鋸山を越えて保田駅に下り、房総往還に出て岩井駅まで行く。快晴だし鋸山からの展望がいいだろう。  

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7978鋸山(330m)登り口(裏登山口)

長い階段が続く。

Img_7972岩場の道となる。

Img_7960観月台から金谷、金谷港、浦賀水道、三浦半島

 

Img_7948苔むした石の上を上って行く。

 

Img_7941ここから先は日本寺の境内で拝観料を払う。

 

Img_7940「地獄のぞき」を見上げる。

 

Img_7936百尺観音

世界戦争戦士病没殉難者供養と交通犠牲者供養のために、6年の歳月をかけて昭和41年に石切場跡に彫られた磨崖仏。航海、航空、陸上交通の安全を守る観音像。

Img_7920地獄のぞき

Img_7907東京湾フェリーが金谷港から久里浜港に向けて出港した。約40分で着くそうだ。

Img_7903二天門をくぐり下る。

Img_7902百体観音

廃仏毀釈で頭部を落とされた観音像が多い。千五百羅漢も首を欠かれて荒廃し、「羅漢様お首つなぎ」などの復興作業中。

Img_7892あせかき不動

白く剥落しているのが「汗」か?

「身の罪の 重きを恨みたきつせの 不動の力 たのむうれしさ」とある。

Img_7878大仏

総高31mで日本一。日本寺の本尊の薬師瑠璃光如来で、左手に薬壺を持っている。露座の大仏が本尊なのは鎌倉の高徳院の大仏(阿弥陀如来)と同じだ。

天明3年(1783)に大野甚五郎英令が27人の門徒と岩山を3年かけて彫刻したものが原型で、昭和41年から4年かけ修復・復元された。

Img_7881説明板

表参道管理事務所から仁王門、表参道を通り保田駅に出て、房総往還(国道127号)に復帰する。

Img_7854保田漁港 【ル-ト地図】の①

Img_7851菱川師宣記念館 【ル-ト地図】の②

師宣は(現)鋸南町の生まれ。記念切手を蒐集し始めた頃、切手趣味週間の「見返り美人」は垂涎(すいぜん)の的、高値の花だった。今では1枚、6千円位するようだ。

Img_7847亀ケ崎

橋が架かっている。

Img_7829源頼朝上陸の地 【ル-ト地図】の③

石橋山の合戦で敗れ、伊豆の真鶴崎から 小船で脱出し、この地に上陸したという伝承地。

Img_7830説明板

Img_7832上陸の地から三浦半島

真鶴崎(岬)はその向こうの伊豆半島の付け根の相模湾沿いだ。ここから60km位はあるだろう。

Img_7841八王子神社

頼朝が上陸の際に祈願したという。

Img_7826極楽寺

正面の木が文化3年(1806)の竜島村大火の際の焼け跡が残っているというビャクシンか?

Img_7822勝山橋から大黒山(75m) 【ル-ト地図】の④

山頂に展望台がある。四方の眺めがよさそうだがパスした。

Img_7819加地山神社

もとは牛頭天王社で、村内の12社を境内社として合祀している。

Img_7816商店街通りの南側?の住宅地一帯が安房勝山藩陣屋跡だそうだ。遺構は井戸跡しかないようだが。

Img_7810大乗院 【ル-ト地図】の⑤

中世の平群郡の豪族、安西氏の居館跡と伝える。

Img_7815庚申塔(大乗院の隣の白幡神社境内)

右端が説明板の山王系庚申石祠だろう。

Img_7813説明板

Img_7802富山方向

南総里見八犬伝』ゆかりの山だ。明日は山麓を通って館山に向かう。

Img_7787勝岩トンネルを抜け鋸南町から南房総市へ入る。

旧道は手前で左折し、内房線を渡り大きく迂回し県道89号に出て、トンネルの先の二部交差点で国道に合流するのだがうっかり通り過ぎた。

岩井橋を渡り岩井駅に向かった。明日は房総往還の最終日だ。館山まで頑張ろう。

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2011年12月 7日 (水)

唐津街道⑧(浜崎宿→唐津城下)

2011年11月18日

浜崎駅(JR筑肥線)・・・県道347号・虹の松原・・・新茶屋跡・・国境石・・・大老の松(跡)・・・二軒茶屋跡・・・(寝起きの松)・・・松浦橋(松浦川)・・・国道202号・・・百人町交差点・・・佐用姫橋(潮分川)・・佐用姫岩・・・東町・・船宮町・・水主町・・新大橋(町田川)・三ノ丸辰巳櫓・・・旧唐津銀行本店・・・大名小路・・・時の太鼓・二ノ門堀・・・唐津城・・・石垣の道・・・武家屋敷門・・・旧高取邸・・・西の浜刑場跡(西の浜海水浴場)・・・唐津藩藩校中門・・唐津神社・・・浄泰寺・・・近松寺・・・自南寺・・大聖院・・浄土寺・・・唐津駅

  【ル-ト地図】(14.4km)

 天気予報どおり朝から風雨が強い。5kmにも及ぶ虹の松原内の国道を抜けて行く。歩道がなく雨、風、車の三重苦だ。膝から下と靴の中はびしょ濡れだが、気温が高めなのと、松林が風除けになるのが救いだ。松浦橋を渡り佐用姫岩に寄り、東町から唐津城下を散策し、今回の九州の街道歩きの打ち止めとした。博多に戻りもう一泊し、帰京することにしよう。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7232虹の松原 【ル-ト地図】の①

左は国境石で「従是東對州領」。対州(対馬)領と唐津藩の国境で、ここから糸島市の大入あたりまでが、文政元年(1818)に幕府領から対馬領になったそうだ。このあたりは新茶屋跡。                          

Img_7235大老の松(跡)

松喰虫にやられ切り倒された。すぐ先が二軒茶屋(跡)で、山頭火の句碑「松に腰掛けて松を観る」があるのだが、傘をさしていて気づかず通り過ぎてしまった。

「寝起きの松」の表示板もあったが、どの松かは分からず。

Img_7241海からの風で傾いた松

虹の松原を抜け、東唐津交差点から南に松浦橋を渡る。

Img_7251松浦橋

右奥に唐津城、昔は渡し船で渡っていた。

Img_7267佐用姫岩 【ル-ト地図】の②

伝説の佐用姫が鏡山(領巾振山(ひれふりやま))から飛び降りたという岩。足跡が残っているというが、この雨の中、確かめに行くほどの物好きではないので。

Img_7266_2説明板

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Dsc05390鏡山(284m)から唐津湾2003年12月21日撮影)

朝鮮出兵の戦勝を祈願して、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれ、別名は佐用姫伝説による領巾振山(ひれふりやま)。

Dsc05394鏡山神社

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Img_7271船宮町の家並み 《地図

Img_7273旧家

宮島醤油の邸宅だそうだ。

Img_7293三ノ丸辰巳櫓 【ル-ト地図】の③

唐津城築城の際、三ノ丸の東南の町田川下流沿いに、見張りや防御のために建てられた櫓(矢倉)。明治になって解体されたが、平成5年に復元された。

Img_7295旧唐津銀行本店 《地図

大名小路から二の門堀へ出て唐津城に向かう。

Img_7311時の太鼓 【ル-ト地図】の④

今はからくり人形が出てきて、午前7時から午後7時までの時報を告げているそうだ。

Img_7312説明板

Img_7309二の門堀

Img_7308説明板

Img_7319唐津城

城主は寺沢氏(12万3千石)→大久保氏→松平氏→土井氏→水野氏→小笠原氏と変遷した。明治の廃藩時には6万石だった。

この雨では天守からの眺めも霞んでいると思い、今回は天守への登城はしなかった。

Dsc05422天守からの眺め2003年12月21日撮影)

松浦川、新舞鶴橋、松浦橋、唐津湾(左)、虹の松原、鏡山(正面)

Img_7317説明板

Img_7333石垣の道を進む。 【ル-ト地図】の⑤

けっこう長く続いている。

Img_7336武家屋敷門 《地図

名護屋城の解体資材を使った藩家老屋敷の門。現在は旅館水野の門になっている。

Img_7334説明板

Img_7340旧高取邸

炭鉱王として成功した高取伊好(たかとりこれよし)(1850~1927)の旧宅。

Img_7347西の浜刑場跡あたり 《地図

左奥に唐津城が見える。ここは西の浜海水浴場だ。夏場は大勢の善人が、処刑された者たちの血を浴びた砂の上で、甲羅干しをしているのだろう。『虹の松原一揆』の首謀者の冨田才治らもここで処刑された。

Img_7353唐津藩藩校中門(唐津神社の北隣)

Img_7354説明板

Img_7361唐津神社地図

11月の秋の例大祭「唐津くんち」は日本三大くんちの一つ。日本といっても3つとも九州だが。

Img_7366浄泰寺地図

本能寺の変で織田信長に槍をつけたという、安田作兵衛の墓がある。死んだ日は織田信長と同じ、6月2日という。

Img_7367説明板

Img_7368近松寺(きんしょうじ)

名護屋城の資材を移したという山門。

Img_7371説明板

Img_7375近松門左衛門の墓

墓は大阪市中央区、兵庫県尼崎市の広済寺にもあり、出生地についても越前、長門国の萩、ここ唐津、淀藩説など他にも諸説あるようだ。

Img_7376説明板

Img_7381舞鶴園

曽呂利新左エ門の作というが。

Img_7386織部燈籠(キリシタン燈籠)①

中津城下の自性寺で見たばかりだ。『中津街道③

Img_7391

Img_7399自南寺

虹の松原一揆の首謀者の冨田才治が妻子と最後の別れをした所という。

境内には「種植えて土に戻るや土くじり」という辞世の句と首塚があるという。このあたりは西寺町で寺が並んでいる。

Img_7402首塚上の才治地蔵か? たぶん違うだろうな。

Img_7409浄土寺

Img_7415唐津駅前の唐津くんちの曳山像

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2011年12月 5日 (月)

唐津街道⑦(前原宿→深江宿→浜崎宿)

2011年11月17日

筑前前原駅(JR筑肥線)・・・前原宿・・追分石・関番所・西構口跡・・・国道202号・・・丸太池・・・筒井町西交差点・旧道・・・東荻ノ浦踏切(筑肥線)・・・猿田彦塔・荻浦村碑・・・(美咲が丘駅)・・・荻浦橋(多久川)・・・古野際踏切・・・国道202号・・・赤坂・口留番所跡あたり・赤坂橋・・県道572号・・・(加布里駅)・・旧道・・・地蔵堂・・・県道572号・・・西宮神社・・・地蔵堂・・・諏訪神社・・・銚子塚古墳・・・旧道・・・追分石・・・梵字石?・・・熊野神社・・・道標・・・追分石・上新川橋(羅漢川)・・・国道202号・・旧道・・・松末稲荷神社・・・松末天満宮・・・(国道202号)・・・(松末羅漢川・一貴山川)・・・塩屋町橋(堂ノ前川)・・・天満宮・・・徳永寺・・・正覚寺・・・二丈交番前交差点(国道202号)・・・深江宿・・梅屋宿場跡・石灯籠・薬師堂・・愛宕神社・・延寿院・・深江海水浴場・・・深江神社・・茶屋跡(深江小学校)・・・猿田彦塔・・延命地蔵堂・・・柳川橋(柳川)・・・梵字石・大師堂・・・国道202号・・・浦の浜踏切・・・鎮懐石八幡宮・・・国道202号・・・わくど石・・・佐波橋(加茂川)・・・佐波踏切・・・志自岐神社・・・国道202号・・・(大入駅)・・旧道・・・庚申塔・・・地蔵堂・・・廻国供養塔・・・国道202号・・・庚申塔・・・白み口・地蔵堂・・・旧道・・・福吉橋(福吉川)・・・福吉小学校・・・西縄手第3踏切・・・立花峠・愛宕神社・・・鹿家川・・・氷見寺・・・岸高橋・・・鹿家下公民館・・・地蔵祠・・・(筑肥線)・・・国道202号・・・七郎神社・国境石・包石・・・浜崎漁港・・・玉島橋(玉島川)・・・浜崎宿・・億昌寺・・諏訪神社・・浜崎駅(筑肥線)

 4か月ぶりに筑前前原駅に降りる。前回は7月だったがそれほど暑くはなかった。今回は歩きにはもってこいの陽気だ。深江宿から先は海岸沿いの道が多くで景色はいいが、国道は歩道がない所が多く歩きづらく、気分的に疲れる。立花峠を越えて鹿家駅までが今日の予定だったが、明日は雨のようで浜崎駅まで行くことにした。30kmほどの行程となったがこれが正解だった。

 唐津街道 唐津街道⑥』からの続きです。

   【ル-ト地図】(29.5km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6823追分石(右) 《地図

ここが前原宿の西構口で関番所があった。

Img_6825「左 加布里 唐津道」・「右 芥屋大門参道 舩越港道」

  • 芥屋大門」(けやおおと)は、志摩半島の北端にある日本三大玄武洞の中で最大の洞窟。《地図

あとの2つは、唐津七ツ釜と兵庫県豊岡市の玄武洞のようだ。「舩越港」は船越湾の港だろう。

Img_6829丸太池

正面は「伊都恋い橋」、洒落てるねえ。

Img_6832筒井町西交差点で左に旧道に入る。

Img_6834細い道となって東荻ノ浦踏切を渡る。

Img_6837猿田彦塔と、道路向うに「志摩郡荻浦村抱」碑

Img_6841美咲が丘駅沿いを進む。

Img_6846可也山(365m)の眺め

「糸島(筑紫)富士」とも呼ばれている。

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Dsc05469志登支石墓群から可也山(2003年12月22日撮影)

弥生時代前期から中期に及ぶ甕棺墓を含む墓地遺跡。中国東北部から朝鮮半島にかけて行われた巨石墳墓で、弥生時代に朝鮮から北部九州に伝わった。「可也」は古代朝鮮の「伽耶」に由来するとも。

「草枕 旅を苦しみ 恋ひおれば 可也の山辺に さ雄鹿鳴くも」と万葉歌に詠まれた山。

Dsc05471山頂からは360度の展望が広がる。

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Img_6857緩やかな赤坂を上る。このあたりに唐津藩の口留番所が置かれていたそうだ。昔は赤土のむき出た急坂だったのか。《地図

Img_6863長野川沿いを行く。

Img_6866加布里駅の先で右に旧道に入る。

庚申塔→地蔵堂→西宮神社→地蔵堂と通り過ぎる。

Img_6880諏訪神社(右)

この先を左折し銚子塚古墳に向かう。一度来たことがあるのだが、間違えて筑肥線沿いに出てしまい引き返す。

Img_6889銚子塚古墳 【ル-ト地図】の①

ここは前方部の上だろう。 全長103mの前方後円墳だが、民家、道路、鉄道などで墳丘は変形してしまっている。三角縁神獣鏡(日本製)が8面出土しているそうだ。

Img_6885説明板

Img_6890墳丘がえぐられて溝になっている。「金の銚子が埋まっている」との伝説から掘り返したのではあるまい。

Img_6887隣の旧家

明治時代の豪農屋敷で、銚子塚古墳は当家の敷地内という。

Img_6899追分石(正面の木の下)

Img_6900「是れ従り りゅうこく寺道」と刻まれているというが、すり減っていて読めない。ここから3km以上南にある波呂の龍国寺への道のことか。

すぐ先の左上に梵字石らしいものがある。

Img_6903熊野神社 《地図

Img_6906右に八幡八幡宮への道標

ここの北方で1kmもないか。

Img_6911上新川橋の所に追分石 《地図

Img_6912「前原深江へ一里八町五十五間五尺 邊田寺山久家芥屋へノ渡舩アリ」などまで書いてある詳細?な道標。

「邊田寺山久家芥屋」の「芥屋」は前記「芥屋大門」がある地区だろう。「邊田寺山久家」が分からず。

Img_6922旧道(右)に入る。街道沿いには美しい松並木が続いていたという。

Img_6929松末稲荷神社

小高い所に社殿がある。孫をおんぶしたお婆さんに、上からの景色がいいよ」といわれ上って見たが、それほどでもなかった。

松末天満宮の先で国道を横切る。

Img_6941松末羅漢川沿いを進む。

Img_6955塩屋町橋から松末羅漢川河口、大崎方向。《地図

Img_6958正覚寺に突き当たり右折する。

左は徳永寺

Img_6963正覚寺

文化4年(1807)の新町火事で焼け残った元禄門(現在の側門)はこの門ではないようだ。

Img_6964説明板

二丈交番前交差点(国道202号)を渡って深江宿(中津藩領)に入る。

Img_6970梅屋宿場跡(八百屋の脇に標柱)・右に石灯籠(天保3年(1832)建立) 《地図

石燈籠の奥に糸島霊場第48番の薬師如来堂がある。

Img_6974中央が薬師如来だろう。

ここを左折して行くのだが直進し海の方へ向かう。

Img_6982延寿院

左に上が欠けた「(中)津領」の石柱が立つ。

Img_6979縁起

この先に中津藩奉行所・中津藩船着場(柳川沿いか?)があったというが、説明板などは見当たらなかった。

Img_6985深江海岸から玄界灘、大入漁港、配崎方向 《地図

朝鮮出兵の文禄2年(1593)、名護屋城から海路で京都に戻る秀吉は、まずこの海岸に停泊したそうだ。今はここは海水浴場だ。

石燈籠の辻に戻り、深江宿を通って行く。右に高札場、人馬継所、街道から左に入った所に本陣があったようだ。

Img_7001深江神社 【ル-ト地図】の②

文禄元年(1592)、名護屋城に在陣していた秀吉は当神社を参拝し茶会を催した。その時に秀頼誕生の報を受けた。秀吉は大いに喜び、この神社を秀頼の産神と思い、時の領主小早川隆景に命じて社殿を再建させた。その時、隆景が奉納したのが写真の二の鳥居。

Img_7000由緒

Img_7002秀吉の茶屋跡(深江小学校)

Img_7004猿田彦塔(左の塀の内)・右に延命地蔵堂(工事中のトラックに隠れて見えない)

ここを右折し、深江小学校沿いに海の方へ向かい、柳川を渡り、左折して行く。

Img_7014梵字石(左・文化4年(1807))と地蔵?堂 《地図

Img_7017国道202号に出て、浦の浜踏切を渡る。

Img_7021鎮懐石八幡宮 【ル-ト地図】の③

お腹にいる子(応神天皇)の出産の延期を祈り、朝鮮半島に出兵した女丈夫の神功皇后の伝説に由来する神社。

Img_7022説明板

Img_7024船繋石

やけに小さい。これで船がつなげるか?

Img_7025万葉歌碑(安政6年(1859))

九州最古の万葉歌碑というが、それまで九州には万葉歌碑がなかったのが不思議な気がする。

Img_7026説明板

Img_7028塞神と陰陽石の社

右奥上が拝殿。

Img_7030説明板

Img_7031陰陽石

説明不用

Img_7041錦戸部屋

現在興行中の九州場所の宿舎か。ここから福岡国際センターまで電車で場所入りか。

Img_7049海岸と筑肥線の間の歩道がない国道202号を行く。

道幅の狭い所では前後から大型車が来るとすれ違えず(自分が歩いているから)、目の前で止まったりする。車とガードレールのすき間を体を横にしてすり抜ける。危ない危ないだが、そんなことは言ってられない。開き直って歩くしかない。でも雨の時は傘をさして歩くのは無理だろう。

Img_7058わくど石

旅人が旅の安全を、わくど(カエル)にかけて、「行って帰る」と縁起をかけたという。どこの海岸にでも転がっていそうな石だが、蛙と思ってみればそうにも見える。右奥に姫島が見える。

Img_7069志自岐神社 《地図

どっしりとした低い石の鳥居だ。

Img_7080大入駅で右に旧道に入る。《地図

Img_7081向うは玄界灘

庚申塔、地蔵堂などを見ながら進み、再び国道に出る。

Img_7098白み口・地蔵尊(右)

鎌倉街道にある「しらみ坂」と似たような由来だ。このあたりが番所跡のようだ。

Img_7100説明板

Img_7102享保18年(1733)の大飢饉の供養地蔵

ぼやけてしまった。 

Img_7103再び右に旧道に入る。《地図

福吉橋を渡り、福吉小学校の先で国道に出て、西縄手第3踏切を渡る。

Img_7114踏切を渡って立花峠へ向かう。

Img_7117立花峠へ 《地図

緩やかな上りで、車道歩きから解放され気分がいい。

Img_7125途中からの眺め

思ったより展望がいい。向うは可也山だろうか?

Img_7132立花峠 【ル-ト地図】の④

石段上に愛宕神社

Img_7134愛宕神社は小さな石祠のみで、中には神像ではなく、大師像?が鎮座している。

ここでしばし休憩し、下って行く。

Img_7138古代の道標

ここを入って少し行って見る。

Img_7140雑草が生い茂り荒れているので引き返し、車道を行く。後日調べると通行可能のようだった。

Img_7144集落へ出て下って行く。

今日の予定は鹿家(しかか)駅までの予定だったが、明日は雨らしくまだ3時前なので、もう一つ小さな峠を越えて浜崎駅まで行くことにする。鹿家川を渡り、筑肥線の前で左折する。

Img_7149氷見寺 《地図

Img_7150筑肥線、唐津湾、串崎方向(氷見寺から)

Img_7151鹿家下公民館の前で左折し二丈浜玉有料道路の方へ上って行く。《地図

Img_7159途中で右折し、みかん畑を見ながら上って行く。

Img_7161暗い道に入る。この道でいいのかちょっと不安になる。《地図

Img_7163海が見えてきて一安心だ。正面は高島か。

Img_7165海の方へ下り、筑肥線の深浜トンネルの上を越える。

Img_7167筑肥線を越えて国道に下りる。

Img_7173国境石(福岡県と佐賀県境)

「佐賀県 唐津市」の標識下。この左に七郎神社、海岸に包石。

Img_7176七郎神社

藤原広嗣の家来、右馬七郎ゆかりの神社で、風邪、咳にご利益があり、木刀を供える風習があるというが、木刀などは見当たらず。ご利益も薄れ、風習もすたれたか。

Img_7174説明板

Img_7184包石 【ル-ト地図】の⑤

どうも人工的臭いと思ったら、平成14年の台風で倒壊したのを復元したもの。もとは鼓(つづみ)の形をしていて、「鼓石」といわれたというが、今のはどう見ても「鼓」には見えない。

Img_7182歌碑

Img_7185国境石から線路をまたぎ上るのが旧道というが、この先に道はなく、線路の向う側にはビニール線が張ってある。2度トライしてみたが危ないのであきらめて国道を行く。

Img_7199車えびの養殖場(浜崎漁港)

水を活性化する装置?が動いている。唐津はもう近い。

Img_7207浜崎地区(浜玉町)に入る。

浜崎宿は唐津領→幕府領→対馬領と変遷した。宿場といっても本陣(御茶屋)などはなく、旅籠が6軒あり、大名宿泊の際には諏訪神社東側の瑞雲寺が充てられたそうだ。

Img_7215諏訪神社 《地図

「戦勝祈願」、「航海安全」の神で、秀吉も朝鮮出兵の際に参拝したという。

また古来、「蝮(マムシ)除けの神社として知られている。伝承:「朝鮮の貢物の鷹で結ばれた百済の王子と大矢田連の姫、諏訪の前は、王子の帰国に際して鷹狩りを行った。その時、愛する鷹が畑でマムシに殺された。姫はそのショックから病気になってこの世を去り、王子もまた後を追うようにして亡くなったという。社号はその姫の名に由来したもので、今もマムシ除けの神社として参拝されている」『浜玉町の史跡』より。鷹よりマムシの方が強いのか? 別の伝承もあるようだが割愛。

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2011年12月 3日 (土)

中津街道③(椎田駅→中津城下)

2011年11月16日

椎田駅(日豊本線)・・・築城郡屋跡(築上町立歴史民俗資料館)・・・天神交差点(国道10号)・・・道標・西福寺・・・椎田橋(真如寺川)・・・實成寺・・(国道10号)・・湊地区・・・金富八幡宮・・・国道10号・・・里程標・・・旧道・・・(国道10号)・・・石堂踏切(日豊本線)・・・石堂橋(石堂川)・・・海神社・・・西覚寺・・・相撲力士の墓・・・滝ノ本橋・・・森口踏切・・・滝ノ本交差点(国道10号)・・・角田川橋(角田川)・・・正法寺・・・浄円寺・・・構内踏切・・・(豊前松江駅)・・・お腰掛あたり・・・自動車学校前交差点(国道10号)・・大師祠・・・郡境碑・・・迫川橋・・・勅使街道(上往還)追分・・・国道10号・・・旧道・・・中川橋(中川)・・・大阪屋橋(鈴子川)・・・前川橋(城根川)・・菅原神社・・宝福寺・・・八屋地区・・(宇島駅)・・・宇島・東八踏切・・・経済橋(経済川)・・・宇島神社・・・万屋跡・・・教円寺・・・岩岳橋(岩岳川)・・・沓掛神社鳥居・・・餅田橋(梨木川)・・・御堺橋(御堺川)・・・佐井川橋(佐井川)・・・猿田彦塔・・・小犬丸の渡し跡・・宇賀貴船神社・・・山国橋(山国川)・・・中津城下・広津口・・大雅堂・自性寺・・諸町・・小倉橋・小倉口・・西門跡・・生田門(南部小学校)・・奥平神社・中津城・・日霊神社・・福沢諭吉旧宅・・寺町通り(浄安寺・西蓮寺・円龍寺・円応寺・大法寺・本傳寺・合元寺・宝蓮坊・蛭子宮・普門院)・・・中津駅(日豊本線)

  【ル-ト地図】(21.5km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6409椎田の家並み

椎田は築城郡一の宿場町で、郡屋や御茶屋や商店、宿屋などが並んでいた。

Img_6407築城郡屋跡 【ル-ト地図】の①

左に義人、延塚卯右衛門の胸像。小倉藩の筋奉行で、天保の飢饉の凶作に苦しむ農民の生活を案じ、藩が農民に貸し付けている種もみ代の根付け料の取り立てを独断で免除した。その責任を取って椎田村の郡屋(延塚記念館)で自刃したという。現在は、築上町立歴史民俗資料館になっている。

郡屋とつながって本陣ともなった御茶屋があり、この先の左が「岩田屋札」という私札を発行した豪商の岩田屋跡。

天神交差点を渡る。「天神」は北方の周防灘に面した「浜の宮」の網敷天満宮のこと。

Img_6418_2旅籠風の旅館

Img_6419西福寺

門前左に道標。もとは天神通りと交差する中津街道(旧国道)沿いにあったが、交通量の増加に伴い、昭和50年頃にここに移された。

「従是山鹿迄三里三拾壹町」「従是苅田迄四里半」「従是松江迄壹里八町」

真如寺川を渡り左折し国道10号を渡り、湊地区に入る。

Img_6432湊地区の家並み 《地図

ここも廻船問屋、商店、醤油醸造業、酒造業などが並んでいたそうだ。今でも古い家が所々に残っている。

Img_6447金富神社

宇佐八幡宮の元宮で、原始八幡神顕現の霊地といわれるそうだ。

Img_6446説明板

Img_6451里程標 《地図

右のブロック塀の脇

Img_64523つに割れている。トラックがぶつかって割れたという。

「須佐神社二里半 宮地嶽神社十九里 大宰府神社十九里」「菅公旧跡八町 彦山八里廿町 飯盛山四里」「宇佐神宮九里 明治廿五年□月當村」と刻まれているそうだ。

Img_6453左へ旧道に入る。

Img_6456上り松川沿いを進み、国道10号を横切り、石堂踏切を渡って行く。

Img_6462海神社 《地図

この辺りは、近世のころまで中津街道の海側は「福間ヶ江」と呼ばれる入江だった。天明7年(1787)、この入江の「神池海岸」に夜毎霊光が走るのを世話役が見て、「豊玉姫神の神霊なり」と堂山に神社を建立したという。

Img_6468境内から周防灘

Img_6473相撲力士の墓(顕彰碑)(左)

江戸時代末期に京築地方から宇佐地方にかけて、当時盛んだった宮相撲の有名力士、四股名「一之盛」の森武八の顕彰碑。

Img_6492滝ノ本橋、森口踏切、滝ノ本交差点を渡り、旧道を豊前市へと進む。

Img_6495旧家

Img_6497正法寺 《地図

Img_6501真田増丸像(浄円寺)

真田増丸は明治10年浄円寺に生まれ、大正3年に八幡の工業地帯で布教活動を行い、日本仏教済世軍を興し、内地から朝鮮にまで布教を拡げた

Img_6507旧家

構内踏切を渡り、豊前松江駅前を通り、「お腰掛」の高台に向かう。

Img_6524お腰掛あたり 《地図

「神功皇后が豊前路を巡幸した際に、ここで休憩した」という伝説地で、周防灘、八屋の明神岬も展望できる風光明媚な所というが説明板などはなく、民家の女性に聞くとこのあたり一帯が「お腰掛」と呼ばれていたという。

Img_6525お腰掛あたりからの眺めだがいまいちだ。今は道の駅「豊前おこしかけ」に名をとどめるのみか。

Img_6532自動車学校前交差点で国道10号を横切る。

国道沿いに大師祠がある。

Img_6536この顔では弘法大師が泣くよ。

Img_6537郡境碑 【ル-ト地図】の②

Img_6539_2明治29年に両郡は合併し、「築上郡」となり、昭和30年に築上郡の中央に豊前市が誕生した。

Img_6547勅使街道(上往還)分岐 【ル-ト地図】の③

中津街道は別名「下往還」と呼ばれ、この追分より山側の道は、四郎丸から大村、黒土、垂水、中津市高瀬を経て宇佐市へ通じる古い菅道で「上往還」と呼んだ。泰幣使(勅使)が宇佐八幡に参拝する時に通った道なので「勅使街道」「勅使道」とも呼ばれる。

Img_6558大阪屋橋(鈴子川) 《地図

親柱に「大阪屋橋」・「を保さかやはし」・「於保左嘉屋波之」「明治廿九年七月架ス」と刻まれている。石灰焼釜を築造して財をなした「大阪屋」の橋田新平が架けた石橋。

Img_6562橋は今でも堅牢のようで、車馬の通行も安全か。

Img_6565菅原神社・宝福寺山(前川橋から)

正面の鳥居、その背後が宝福寺。この山には、3千本のツツジが植えられ毎年4月から5月にかけて「ツツジ祭」が開かれるそうだ。

Img_6568菅原神社

Img_6567説明板

Img_6569宝福寺

Img_6572道標(宝福寺境内)

「中津道」・「求菩堤道」・「小倉道」で欠けている上部に方向か指差しが刻まれていたのか。もとは八屋本町の四辻にあったもの。

Img_6578八屋地区

前の道標はこの付近の辻に立っていたのだろう。

Img_6598宇島神社 《地図

小倉藩の総奉行として宇島港を築工した郡代の杉生十右衛門が祭神。文政11年(1828)4月に完成した港には、御役所・御番所・御土蔵があり、上毛郡の米はすべてここから積み出された。毎年7月には「みなと祭」が催される。境内に「宇島港の碑」がある。

Img_6599説明板

Img_6602万屋跡

宇島港を本拠地にして繁栄した廻船問屋で、小倉藩内で屈指の豪商となり「宇島万屋札」という私札を発行した。後に姓を小今井と改め、真宗の学校「乗桂教校」を開いた。

行橋の行事飴屋、椎田の岩田屋と同様に、小倉藩と結びついた豪商だったが今は門だけが残る。

Img_6604永島写真館

Img_6607教円寺の鐘楼 《地図

万屋の主人、小今井潤治が文久3年(1863)に建てた寺。3階から周防灘、求菩提連山の眺めがいいらしい。

Img_6616沓掛神社鳥居

三毛門神楽の元になった沓川神楽が行われていた神社。

Img_6627御堺橋 【ル-ト地図】の④

小倉藩と中津藩の境

Img_6629説明板

Img_6631福田家

高い石柱が小倉藩領の石標と思ったが、「福田勝蔵翁頌徳碑」?で、石標は別に立っているようだ。

Img_6634佐井川を渡る。《地図

慶応3年(1867)にここが藩境になった。

Img_6641小犬丸の渡し跡 【ル-ト地図】の⑤

正面の奥に中津城が見える。吉冨町小犬丸から中津城下の小倉口への渡しで、大名、幕府役人、上級藩士や通行手形のある者はこの渡しを利用できた。治助という男が三文の渡し賃をとっていたことから「三文渡し」とも呼ばれていた。下級藩士や一般人の旅人は少し上流の「広津の渡し」(日豊本線そば)で外馬場へ渡り、広津口から城下へ入った。

Img_6640説明板

Img_6656宇賀貴船神社

天正16年(1588)城井城主の宇都宮鎮房は、中津城内で黒田長政によって謀殺され、人質の鶴姫、お付の女房ら13人もこの地で磔(はりつけ)にされ埋められた。鶴姫の霊を祀る神社。

Img_6648説明板

Img_6654石祠

磔にされ埋められた鶴姫は大蛇となって祟った。蛇神の化身、弁財天の使いの宇賀神としてこの祠を建てて鶴姫の霊を祀ったという。

Img_6655醍醐経一字一石塔

これも鶴姫の供養塔。謀殺された宇都宮鎮房の霊は祟らなかったのか。今も昔も「げに恐ろしきは女の怨念なり」か。

山国橋を渡って中津城下へ入る。

Img_6659山国橋から山国川(左)・中津川(右)

右奥に中津城

Img_6666広津口 《地図

Img_6662説明板

Img_6668大雅堂

自性寺に滞在し書画を残した池大雅の作品展示館。

Img_6676説明板

Img_6690自性寺

奥平藩歴代の菩提寺

Img_6680説明板

Img_6687織部燈籠(キリシタン燈籠)

織部とはNHKTVアニメ『へうげもの』の古田織部のこと。

Img_6685説明板

Img_6692武家屋敷通り(諸町)

細川氏の時代に、武家と諸々の職業の人々が暮らしていたので諸町。

Img_6694小倉口(小倉橋) 《地図

藩主らは「小犬丸の渡し」で渡り、ここから城下へ入った。

Img_6696説明板

Img_6700中津城西門跡

Img_6701説明板

Img_6702昔風情の漂う端正な通り 《地図

江戸時代、このあたりは「三の丸」と呼ばれ、藩主の一族や家老などの屋敷が建ち並んでいたようだ。

Img_6703生田門(南部小学校の校門)

もとは奥平中津藩家老生田家の門。学校の敷地は「大手屋敷」と呼ばれた家老の生田家の屋敷と、隣の「中の屋敷」と呼ばれた奥平図書(おくだいらずしょ)の屋敷の一部。

上田高校の正門になっている、上田藩主居館跡の門を思い出した。『善光寺街道②

Img_6705説明板

Img_6707旧家

Img_6709錬心館

昭和16年に建設された柔道、県道館のようだ。

Img_6712中津カトリック教会

Img_6719中津城

天守閣は昭和39年に復元されたもの(模擬天守)だが、もともと天守はなかったというのが一般的だそうだ。左下が奥平神社。

Img_6720説明板

Img_6724天守から中津川

小祝橋の向うが山国川

Img_6727中津川、北門橋、龍王橋、周防灘。

Img_6746鳥居強右衛門勝商磔の掛軸

Img_6744説明板

Img_6751今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つ

模型を見ているいるような感じだ。

Img_6763日霊神社

樹齢600年の大銀杏

Img_6770福沢諭吉旧宅 《地図

天保5年(1835)に大坂の中津藩蔵屋敷で、下級武士福澤百助の次男として生まれ、1歳6ヶ月の時に父と死別し、母子6人で中津に帰郷し、19歳までこの家で暮らした。

Img_6776寺町を南へ散策する。《地図

中津城防衛のため、外濠のお囲い山の内側に多くの寺院を集めた。多くの城下町に見られる町割りだ。

Img_6782円龍寺

一つ屋根の下に、閻魔堂(右)・観音堂(左)

Img_6781説明板

Img_6783閻魔より奪衣婆の方が不気味だ。

Img_6793河童の墓(円応寺)

河童の池もあるが涸れていた。

Img_6792説明板

Img_6798大石燈籠(大法寺)

あの大石良雄が奉納したと伝え、また由井正雪が植えたという塩釜桜の大樹があり、「正雪桜」ともいい伝えられているそうだ。(どこにあるか気がつかなかったが) 何故、大石と正雪が九州の中津に? びっくり、まだ納得が行かない。

Img_6804合元寺(赤壁)

黒田長政は謀略で宇都宮鎮房を誘い出して殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけ皆殺しにした。その後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が浮かび上がり、ついに赤壁に塗られるようになったという。当時の激戦の様子が今も庫裏の大黒柱の刃痕に点々と残っているそうだ。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり。

Img_6807寺町のはずれに来た。

Img_6813宝蓮坊楼門 《地図

Img_6812説明板

Img_6819普門院

境内には以前、ユースホステルがあった。学生時代に泊って翌日、耶馬溪、青の洞門へ出発したことがある。その後、3週間ほど暑い中を九州中を旅した。懐かしいねえ。大昔の話よ。

中津駅から特急ソニックで小倉へ出て、新幹線で博多に向かった。明日とあさってで唐津街道の続き、仕上げだ。

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2011年12月 1日 (木)

中津街道②(苅田駅→椎田駅)

2011年11月15日

苅田(かんだ)駅(JR日豊本線)・・・地蔵堂・・・宇原神社石灯籠・・西国三十三所堂・・・緑橋(殿川)・・・浮殿神社・石塚山古墳・・・富久町交差点・国道10号・・・近衛橋・旧道・・・苅田港線跡・・・覚法寺・・・白庭神社・御所山古墳・・・塩竈神社・・・交通安全道標・・・明増寺・・・二崎交差点・・・小波瀬橋(小波瀬川)・・・浦川橋・・・行事飴屋跡・・・万年橋(長峡川)・・・宮市橋・・旧百三十銀行・・・旧縁寺・・大橋三叉路・道標・・・正八幡神社・・・万福寺・・今川橋(今川)・・・京都高校・・・小犬丸橋(江尻川)・・・県道28号・・・旧道・・・県道28号・・・辻垣橋(祓川)・・・旧道・・・(行橋バイパス)・・・今井入口交差点・・・ぎおん道道標・・・勝手神社・・・石堂池・中池・・・行橋市稲童交差点・国道10号・・・小迫池・弘五郎池・・旧道・・・国道10号・・・音無橋・・・航空自衛隊築城基地・・・旧道・・・十箱池・・自衛隊前交差点(国道10号)・・・築城踏切・・・(築城駅)・・・徳光池・・・法然寺・・・道標・・・二口橋(城井川)・・・西高塚の道標・・・高塚踏切・・・高塚交差点(国道10号)・・・西之橋(岩丸川)・・・椎田駅(日豊本線)

  【ル-ト地図】(22.7km)

 写真をクリックすると拡大します。

Img_6161宇原神社参道

秋祭りの「かんだ山笠」は福岡県の無形文化財。石塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡が保存されている。

Img_6170浮殿神社・石塚山古墳 【ル-ト地図】の①

Img_6169説明板

Img_6178後円部から前方部方向

Img_6186苅田港線跡 《地図

小波瀬西工大前←→ 苅田港間を結んでいた貨物線路

Img_6194白庭神社・御所山古墳 《地図

Img_6191説明板

Img_6195古墳の上に立つ白庭神社

毎年2月12日「福焼き(どんど焼き)」が行われ、参拝者がしめ飾りや古いお札をくべて無病息災を願う。

Img_6192墳丘写真

中央が白庭神社

Img_6203塩竈神社(右の石段上)

ここは円墳の石塚古墳だそうだが。

Img_6205塩竈神社

享保年間(1716~36)に与原の製塩業の繁栄を願って、宮城県塩釜市の塩竈神社から勧請した。神社から東方を見ると、その昔賑わった塩浜・塩釜の跡地が広がっているというが、今は住宅地となっているようだが。

Img_6208交通安全道標

「行通安全 西 白川 東 蓑嶋」 大正十四年 増田荘市之建」 増田氏はここで酒、雑貨の店を営んでいたそうだ。

Img_6218小波瀬川沿いを進み、小波瀬橋を渡る。《地図

蜆(シジミ)は今でも採れるだろうか?

Img_6226行事飴屋跡 【ル-ト地図】の②

小倉藩屈指の豪商で、藩主もくぐった御成門。飴屋は屋号で本姓は玉江といい、三代目の宗利が宝永6年(1709)に珍しい飴を創作して成功し、質商、酒造業、醤油醸造など商いを広げて、小笠原藩から私札(飴屋札)の発行まで許された。飴屋は豊前国の経済を支配したが、維新後の急激な社会の変動には勝てず小笠原藩と盛衰を共にした。

Img_6227説明板

Img_6230万年橋から長狭(ながお)川

河口は、かつて豊前の国内では有数の港として栄え、川の両岸、行事村や大橋村には小倉藩の御蔵所や在郷商人の浜倉が並んでいた。長峡の名は景行天皇がこの地に行宮を置いて京(みやこ)と呼ぶようになり、この時に長峡県(ながおのあがた)を設けたことに始まるという。

Img_6241旧百三十銀行 《地図

現在は「行橋赤レンガ館」の市民ギャラリー。

Img_6243説明板

Img_6248大橋三叉路 【ル-ト地図】の③

山本寝装店前に道標。ここは曲りがきつく、馬車馬が暴れ込んでは大変と立てたが、三叉路で道をよく聞かれるので道しるべも兼ねるようにしたそうだ。山本寝装店は廃業してしまったか、馬が暴れ込んだような状態になってしまっている。

Img_6249道標

指差しで、「南中津道 西小倉道 東今元道」

Img_6264大橋正八幡神社 《地図

応神天皇、神功皇后、此売大神を祀る。寛永年間(1624~43)に、京都郡草野村の草野正八幡神社から分社して、仲津郡大橋、宮市、小部野の3村の産神として建立された。

Img_6262今日は「七五三」だ。

Img_6273京都(みやこ)高校(左)沿いに進む。

Img_6296自宅劇場とは?

Img_6297ぎおんみち道標(明治19年建立) 【ル-ト地図】の④

指差しで「ぎをんみち」で、今井祇園の須佐神社への道しるべ。ここから2.5kmほどか。《地図

この道を少し行くと右側に勝手神社がある。

Img_6306勝手神社

参考にした『中津街道を歩く』には、「社伝によると、天慶元年(938)に覗城主の高橋太郎種忠が創建した」とある。覗城(のぞきじょう?)のことは調べても分からず。

Img_6305自然崇拝の巨石信仰だろう。

Img_6315石堂池(左)と中池(右)の間を進む。《地図

Img_6342航空自衛隊築城基地

ここは松原展望台で戦闘機やブルーインパルスのの訓練飛行が見学できるようで、車で来て双眼鏡を覗いている人たちがいた。

Img_6349基地沿いに左折して行く。《地図

Img_6351築城基地

Img_6361築城(ついき)駅前を通過

人通りもなく寂しい感じなのは、どこの地方の駅前でも同じか。時間帯にもよるのだろうが。

Img_6366徳光池沿いに進み法然寺に寄る。

Img_6367法然寺 《地図

永正年間(1504~20)に当寺を再興した行信は晩年、境内に土倉を掘らせ即身成仏の願こ込めて入定した。七日七夜土倉から鐘の音と読経が聞こえたが、遂に声と音とも消えた。門徒たちは、行信を土葬にし、その上に松を植えて「行信松」と呼んだ。松は大木となったが枯死してしまった。4代目の松が植えられているというが見当たらず。(見逃したか)

この寺には天正15年(1587)、秀吉から豊前国六郡を与えられた黒田孝高(如水)が暫く滞在したという。

Img_6376_2江戸時代の道標 《地図

(道)の所で折れたのをそのまま、修復したようで下の部分はない。

Img_6377説明板

すぐ先で城井川の土手に上がり左折し、二口橋を渡る。

Img_6384二口橋から日豊本線

Img_6386特急にちりん?も行く。

Img_6388西高塚の道標(正面の角、MITSUBISHIの看板下) 【ル-ト地図】の⑤

Img_6389道標

「従是南求菩提道」「従是北小倉道」「従是東中津道」

「求菩提道」は修験道の山、求菩提山への道。

高塚踏切、高塚交差点、岩丸川を渡り、椎田地区に入り椎田駅に向かった。

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