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2011年12月 3日 (土)

中津街道③(椎田駅→中津城下)

2011年11月16日

椎田駅(日豊本線)・・・築城郡屋跡(築上町立歴史民俗資料館)・・・天神交差点(国道10号)・・・道標・西福寺・・・椎田橋(真如寺川)・・・實成寺・・(国道10号)・・湊地区・・・金富八幡宮・・・国道10号・・・里程標・・・旧道・・・(国道10号)・・・石堂踏切(日豊本線)・・・石堂橋(石堂川)・・・海神社・・・西覚寺・・・相撲力士の墓・・・滝ノ本橋・・・森口踏切・・・滝ノ本交差点(国道10号)・・・角田川橋(角田川)・・・正法寺・・・浄円寺・・・構内踏切・・・(豊前松江駅)・・・お腰掛あたり・・・自動車学校前交差点(国道10号)・・大師祠・・・郡境碑・・・迫川橋・・・勅使街道(上往還)追分・・・国道10号・・・旧道・・・中川橋(中川)・・・大阪屋橋(鈴子川)・・・前川橋(城根川)・・菅原神社・・宝福寺・・・八屋地区・・(宇島駅)・・・宇島・東八踏切・・・経済橋(経済川)・・・宇島神社・・・万屋跡・・・教円寺・・・岩岳橋(岩岳川)・・・沓掛神社鳥居・・・餅田橋(梨木川)・・・御堺橋(御堺川)・・・佐井川橋(佐井川)・・・猿田彦塔・・・小犬丸の渡し跡・・宇賀貴船神社・・・山国橋(山国川)・・・中津城下・広津口・・大雅堂・自性寺・・諸町・・小倉橋・小倉口・・西門跡・・生田門(南部小学校)・・奥平神社・中津城・・日霊神社・・福沢諭吉旧宅・・寺町通り(浄安寺・西蓮寺・円龍寺・円応寺・大法寺・本傳寺・合元寺・宝蓮坊・蛭子宮・普門院)・・・中津駅(日豊本線)

  【ル-ト地図】(21.5km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6409椎田の家並み

椎田は築城郡一の宿場町で、郡屋や御茶屋や商店、宿屋などが並んでいた。

Img_6407築城郡屋跡 【ル-ト地図】の①

左に義人、延塚卯右衛門の胸像。小倉藩の筋奉行で、天保の飢饉の凶作に苦しむ農民の生活を案じ、藩が農民に貸し付けている種もみ代の根付け料の取り立てを独断で免除した。その責任を取って椎田村の郡屋(延塚記念館)で自刃したという。現在は、築上町立歴史民俗資料館になっている。

郡屋とつながって本陣ともなった御茶屋があり、この先の左が「岩田屋札」という私札を発行した豪商の岩田屋跡。

天神交差点を渡る。「天神」は北方の周防灘に面した「浜の宮」の網敷天満宮のこと。

Img_6418_2旅籠風の旅館

Img_6419西福寺

門前左に道標。もとは天神通りと交差する中津街道(旧国道)沿いにあったが、交通量の増加に伴い、昭和50年頃にここに移された。

「従是山鹿迄三里三拾壹町」「従是苅田迄四里半」「従是松江迄壹里八町」

真如寺川を渡り左折し国道10号を渡り、湊地区に入る。

Img_6432湊地区の家並み 《地図

ここも廻船問屋、商店、醤油醸造業、酒造業などが並んでいたそうだ。今でも古い家が所々に残っている。

Img_6447金富神社

宇佐八幡宮の元宮で、原始八幡神顕現の霊地といわれるそうだ。

Img_6446説明板

Img_6451里程標 《地図

右のブロック塀の脇

Img_64523つに割れている。トラックがぶつかって割れたという。

「須佐神社二里半 宮地嶽神社十九里 大宰府神社十九里」「菅公旧跡八町 彦山八里廿町 飯盛山四里」「宇佐神宮九里 明治廿五年□月當村」と刻まれているそうだ。

Img_6453左へ旧道に入る。

Img_6456上り松川沿いを進み、国道10号を横切り、石堂踏切を渡って行く。

Img_6462海神社 《地図

この辺りは、近世のころまで中津街道の海側は「福間ヶ江」と呼ばれる入江だった。天明7年(1787)、この入江の「神池海岸」に夜毎霊光が走るのを世話役が見て、「豊玉姫神の神霊なり」と堂山に神社を建立したという。

Img_6468境内から周防灘

Img_6473相撲力士の墓(顕彰碑)(左)

江戸時代末期に京築地方から宇佐地方にかけて、当時盛んだった宮相撲の有名力士、四股名「一之盛」の森武八の顕彰碑。

Img_6492滝ノ本橋、森口踏切、滝ノ本交差点を渡り、旧道を豊前市へと進む。

Img_6495旧家

Img_6497正法寺 《地図

Img_6501真田増丸像(浄円寺)

真田増丸は明治10年浄円寺に生まれ、大正3年に八幡の工業地帯で布教活動を行い、日本仏教済世軍を興し、内地から朝鮮にまで布教を拡げた

Img_6507旧家

構内踏切を渡り、豊前松江駅前を通り、「お腰掛」の高台に向かう。

Img_6524お腰掛あたり 《地図

「神功皇后が豊前路を巡幸した際に、ここで休憩した」という伝説地で、周防灘、八屋の明神岬も展望できる風光明媚な所というが説明板などはなく、民家の女性に聞くとこのあたり一帯が「お腰掛」と呼ばれていたという。

Img_6525お腰掛あたりからの眺めだがいまいちだ。今は道の駅「豊前おこしかけ」に名をとどめるのみか。

Img_6532自動車学校前交差点で国道10号を横切る。

国道沿いに大師祠がある。

Img_6536この顔では弘法大師が泣くよ。

Img_6537郡境碑 【ル-ト地図】の②

Img_6539_2明治29年に両郡は合併し、「築上郡」となり、昭和30年に築上郡の中央に豊前市が誕生した。

Img_6547勅使街道(上往還)分岐 【ル-ト地図】の③

中津街道は別名「下往還」と呼ばれ、この追分より山側の道は、四郎丸から大村、黒土、垂水、中津市高瀬を経て宇佐市へ通じる古い菅道で「上往還」と呼んだ。泰幣使(勅使)が宇佐八幡に参拝する時に通った道なので「勅使街道」「勅使道」とも呼ばれる。

Img_6558大阪屋橋(鈴子川) 《地図

親柱に「大阪屋橋」・「を保さかやはし」・「於保左嘉屋波之」「明治廿九年七月架ス」と刻まれている。石灰焼釜を築造して財をなした「大阪屋」の橋田新平が架けた石橋。

Img_6562橋は今でも堅牢のようで、車馬の通行も安全か。

Img_6565菅原神社・宝福寺山(前川橋から)

正面の鳥居、その背後が宝福寺。この山には、3千本のツツジが植えられ毎年4月から5月にかけて「ツツジ祭」が開かれるそうだ。

Img_6568菅原神社

Img_6567説明板

Img_6569宝福寺

Img_6572道標(宝福寺境内)

「中津道」・「求菩堤道」・「小倉道」で欠けている上部に方向か指差しが刻まれていたのか。もとは八屋本町の四辻にあったもの。

Img_6578八屋地区

前の道標はこの付近の辻に立っていたのだろう。

Img_6598宇島神社 《地図

小倉藩の総奉行として宇島港を築工した郡代の杉生十右衛門が祭神。文政11年(1828)4月に完成した港には、御役所・御番所・御土蔵があり、上毛郡の米はすべてここから積み出された。毎年7月には「みなと祭」が催される。境内に「宇島港の碑」がある。

Img_6599説明板

Img_6602万屋跡

宇島港を本拠地にして繁栄した廻船問屋で、小倉藩内で屈指の豪商となり「宇島万屋札」という私札を発行した。後に姓を小今井と改め、真宗の学校「乗桂教校」を開いた。

行橋の行事飴屋、椎田の岩田屋と同様に、小倉藩と結びついた豪商だったが今は門だけが残る。

Img_6604永島写真館

Img_6607教円寺の鐘楼 《地図

万屋の主人、小今井潤治が文久3年(1863)に建てた寺。3階から周防灘、求菩提連山の眺めがいいらしい。

Img_6616沓掛神社鳥居

三毛門神楽の元になった沓川神楽が行われていた神社。

Img_6627御堺橋 【ル-ト地図】の④

小倉藩と中津藩の境

Img_6629説明板

Img_6631福田家

高い石柱が小倉藩領の石標と思ったが、「福田勝蔵翁頌徳碑」?で、石標は別に立っているようだ。

Img_6634佐井川を渡る。《地図

慶応3年(1867)にここが藩境になった。

Img_6641小犬丸の渡し跡 【ル-ト地図】の⑤

正面の奥に中津城が見える。吉冨町小犬丸から中津城下の小倉口への渡しで、大名、幕府役人、上級藩士や通行手形のある者はこの渡しを利用できた。治助という男が三文の渡し賃をとっていたことから「三文渡し」とも呼ばれていた。下級藩士や一般人の旅人は少し上流の「広津の渡し」(日豊本線そば)で外馬場へ渡り、広津口から城下へ入った。

Img_6640説明板

Img_6656宇賀貴船神社

天正16年(1588)城井城主の宇都宮鎮房は、中津城内で黒田長政によって謀殺され、人質の鶴姫、お付の女房ら13人もこの地で磔(はりつけ)にされ埋められた。鶴姫の霊を祀る神社。

Img_6648説明板

Img_6654石祠

磔にされ埋められた鶴姫は大蛇となって祟った。蛇神の化身、弁財天の使いの宇賀神としてこの祠を建てて鶴姫の霊を祀ったという。

Img_6655醍醐経一字一石塔

これも鶴姫の供養塔。謀殺された宇都宮鎮房の霊は祟らなかったのか。今も昔も「げに恐ろしきは女の怨念なり」か。

山国橋を渡って中津城下へ入る。

Img_6659山国橋から山国川(左)・中津川(右)

右奥に中津城

Img_6666広津口 《地図

Img_6662説明板

Img_6668大雅堂

自性寺に滞在し書画を残した池大雅の作品展示館。

Img_6676説明板

Img_6690自性寺

奥平藩歴代の菩提寺

Img_6680説明板

Img_6687織部燈籠(キリシタン燈籠)

織部とはNHKTVアニメ『へうげもの』の古田織部のこと。

Img_6685説明板

Img_6692武家屋敷通り(諸町)

細川氏の時代に、武家と諸々の職業の人々が暮らしていたので諸町。

Img_6694小倉口(小倉橋) 《地図

藩主らは「小犬丸の渡し」で渡り、ここから城下へ入った。

Img_6696説明板

Img_6700中津城西門跡

Img_6701説明板

Img_6702昔風情の漂う端正な通り 《地図

江戸時代、このあたりは「三の丸」と呼ばれ、藩主の一族や家老などの屋敷が建ち並んでいたようだ。

Img_6703生田門(南部小学校の校門)

もとは奥平中津藩家老生田家の門。学校の敷地は「大手屋敷」と呼ばれた家老の生田家の屋敷と、隣の「中の屋敷」と呼ばれた奥平図書(おくだいらずしょ)の屋敷の一部。

上田高校の正門になっている、上田藩主居館跡の門を思い出した。『善光寺街道②

Img_6705説明板

Img_6707旧家

Img_6709錬心館

昭和16年に建設された柔道、県道館のようだ。

Img_6712中津カトリック教会

Img_6719中津城

天守閣は昭和39年に復元されたもの(模擬天守)だが、もともと天守はなかったというのが一般的だそうだ。左下が奥平神社。

Img_6720説明板

Img_6724天守から中津川

小祝橋の向うが山国川

Img_6727中津川、北門橋、龍王橋、周防灘。

Img_6746鳥居強右衛門勝商磔の掛軸

Img_6744説明板

Img_6751今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つ

模型を見ているいるような感じだ。

Img_6763日霊神社

樹齢600年の大銀杏

Img_6770福沢諭吉旧宅 《地図

天保5年(1835)に大坂の中津藩蔵屋敷で、下級武士福澤百助の次男として生まれ、1歳6ヶ月の時に父と死別し、母子6人で中津に帰郷し、19歳までこの家で暮らした。

Img_6776寺町を南へ散策する。《地図

中津城防衛のため、外濠のお囲い山の内側に多くの寺院を集めた。多くの城下町に見られる町割りだ。

Img_6782円龍寺

一つ屋根の下に、閻魔堂(右)・観音堂(左)

Img_6781説明板

Img_6783閻魔より奪衣婆の方が不気味だ。

Img_6793河童の墓(円応寺)

河童の池もあるが涸れていた。

Img_6792説明板

Img_6798大石燈籠(大法寺)

あの大石良雄が奉納したと伝え、また由井正雪が植えたという塩釜桜の大樹があり、「正雪桜」ともいい伝えられているそうだ。(どこにあるか気がつかなかったが) 何故、大石と正雪が九州の中津に? びっくり、まだ納得が行かない。

Img_6804合元寺(赤壁)

黒田長政は謀略で宇都宮鎮房を誘い出して殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけ皆殺しにした。その後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が浮かび上がり、ついに赤壁に塗られるようになったという。当時の激戦の様子が今も庫裏の大黒柱の刃痕に点々と残っているそうだ。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり。

Img_6807寺町のはずれに来た。

Img_6813宝蓮坊楼門 《地図

Img_6812説明板

Img_6819普門院

境内には以前、ユースホステルがあった。学生時代に泊って翌日、耶馬溪、青の洞門へ出発したことがある。その後、3週間ほど暑い中を九州中を旅した。懐かしいねえ。大昔の話よ。

中津駅から特急ソニックで小倉へ出て、新幹線で博多に向かった。明日とあさってで唐津街道の続き、仕上げだ。

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