下田街道①
2011年12月10日
三島駅(東海道新幹線)・・・三嶋大社・東海道分岐点・・・伊豆国分尼寺跡碑・・・言成地蔵堂・・・妻塚観音堂・・・間眠神社・・・(国道1号)・・・二日町踏切(伊豆箱根鉄道)・・・手無地蔵堂・・・左内神社・・・大場橋供養塔・大場橋(大場川)・・・広渡寺・・・清水寺・・・観音橋(宮川)・・・(県道11号)・・・国道136号・・・蛇ヶ橋(来光川)・・・天満宮・・・(伊豆の国市)・・・一色踏切・・・牛鍬大路跡・・・原木交差点・道標・荒木神社・・・八坂神社・道祖神・・・隣光院・・・韮山駅・・・江川邸・・・城池・・熊野神社・韮山城跡・・・蛭ケ小島(源頼朝配流地)・・・時代劇場・・・踏切・・・成福寺・・・伝堀越御所跡・・北条政子産湯の井戸跡・・・光照寺・・・願成就院・・・古川橋・・・反射炉交差点・・・反射炉踏切・・・富士見橋・・・上中橋(韮山古川)・・・韮山反射炉・・・横山坂・・・宗光寺橋(宗光寺川)・・・(第六天神社)・・・随応寺・・・守木3号踏切・・・六角堂跡・・・白山神社・・・御門塞神社・・・踏切・・・田京駅・・・広瀬神社・・・深沢橋(深沢川)・唯念名号塔・・・西光寺・・・吉田松陰宿泊地碑・・・江戸屋(本陣)跡・・・大仁踏切・・・水晶山・大仁橋(狩野川)・・・大仁金山跡あたり・・・昌徳院・・・横瀬愛童将軍地蔵・修善寺橋(狩野川)・・・修善寺駅(伊豆箱根鉄道)
【ル-ト地図】
三嶋大社の鳥居の前で東海道と分かれ南へ、伊豆半島の中央を天城峠、小鍋峠を越えて縦断し下田へ至る下田街道を、ペリーの上陸地の下田港まで4日で歩く。今日は江川邸、韮山城跡、韮山反射炉などに寄り道しながら修善寺までの行程だ。快晴で「振り向けば富士」の雄姿を楽しみながらの1日だった。
写真をクリックすると拡大します。
三嶋大社前 【ル-ト地図】の1
下田街道はここを直進(南進)する。三嶋大社は『箱根の坂②』に記載。
伊豆国分尼寺跡碑(大社町郵便局の手前)
左端に「史蹟伊豆国分尼寺跡」の石柱が立つ。
言成地蔵 【ル-ト地図】の2
大名行列の前を通り、惨(むご)くも切り捨てにされた幼女小菊ちゃんの悲しく、やり切れない由来話。
駿河一国百地蔵尊の第99番。境内に近くにあった見付橋(三島宿の南見付)の石材が保存されている。
妻塚観音堂 《地図》
頼朝と間違われ夫の大場景親に殺された景親の妻を供養する塚とその上の堂。
源頼朝が三島大社への参詣の途中、松の根元でまどろんだという伝説がある。この前の道が頼朝の代参が安久の在庁屋敷から三島神社へ参詣する時に通った在庁道。
二日町踏切を渡り、伊豆箱根鉄道の西側に出る。
化けて若侍の髪を引き、左手を切り落とされた地蔵で、60年に一度開帳されるそうだ。左手はどうなっているのか見たいものだが。また一説には、「ちちなしの明神」が祀られていて、「ちちなし」→「父無」→「ててなし」→「てなし」と変化したとも。
取って付けたように、「若侍は源頼朝であるという言い伝えもある」と追記してある。何でも頼朝に結び付けたがる、さもしい根性が丸見えか。まあ伝説だから若侍を誰にしようが勝手だが。
左内神社 《地図》
三嶋大社の守護神。御殿川を挟んだ西側に右内神社がある。
大場橋の修復作業中に亡くなった人夫の供養塔。
大場川から 《地図》
侠客大場の久八の墓(広渡寺) 《地図》
品川沖に「お台場」を築いた親分だ。やっぱり「やくざ」と「侠客」は違うようだ。
蛇ケ橋 《地図》
源頼朝が三島大社への参詣の折、大雨のため渡ることができなかった。すると蛇が現れ橋となり頼朝を渡したという。
牛鍬大路跡 《地図》
『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180)8月、頼朝が山木兼隆襲撃に際し、閑路である蛭島通を避けて大道の牛鍬大路を通ったという。
今は蛭島通の方が広くて大道だ。
原木交差点 《地図》
火の見の下に道標と道祖神
「右 三島 二里 左 沼津 二里」
「原木」の地名の由来になったという。
伊豆地方は単座丸彫りの道祖神がほとんどか?
下田街道からはなれ東方の江川邸、韮山城跡、蛭ケ小島跡に寄る。
TV「篤姫」のロケに使われたようだ。
城池から韮山城跡
韮山城跡から 《地図》
蛭ケ小島跡 《地図》
20年にも及ぶ頼朝の配流地。西方の北条氏宅の政子と出会い結ばれた地。
芝居でもやっているのかと思ったが、韮山文化センターだった。
成福寺(じょうふくじ) 《地図》
右の門柱に「北條氏菩提寺」とある。
伝堀越御所跡【ル-ト地図】の4
①北条氏邸跡(円成寺跡)・②伝堀越御所跡・③成福寺・④守山八幡宮・⑤願成就院・⑥満願寺跡・⑦真珠院
北条政子産湯の井戸 《地図》
今でも底に水を溜めている。
ここを右折すれば願成就院
北条時政、足利茶々丸の墓がある。茶々丸は伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められこの寺で自刃したとも、甲斐国あるいは伊豆の深根城で捕われ自害したともいう。深根城の近くに、茶々丸の墓と伝える宝篋印塔があるようだ。
七堂伽藍の大寺院だったという。後ろが北条時政により建立された南塔跡。
国道に出て反射炉交差点を左折し、反射炉踏切を渡り韮山反射炉へ寄る。
来た道を戻り、反射炉踏切手前の交差点を左折し、かつては天城峠以北で第一の難所といわれた横山坂へと進む。
左は観音堂で、その後ろにさまざまな石造物が並ぶ。
狩野川、国道、その下に伊豆箱根鉄道
この道は明治に開かれた新道で、難路といわれた昔の横山坂はもっと東方へと上っていたようだ。
宗光寺橋→(第六天神社)→随応寺→守木3号踏切と進む。長傳院あたりが宗光寺跡らしい。随応寺の先の曲り角にあるという、伊豆八十八ヶ所霊場の第十番「蔵春院」への道標は見当たらず。
六角堂跡 《地図》
右は狩野川台風殉難者供養塔
白山神社境内
この先の狩野川の土手近くに、平安時代に全国を巡歴後、六角堂の所にあった久昌寺で大供養を行い、塚を築き経を埋めた来朝坊の来朝塚があるようだ。
広瀬神社 《地図》
狛犬ならぬ狛馬が一頭。
深沢橋のそば
城山(じょうやま・342m) 《地図》
城があったのか?
吉田松陰宿泊地(大仁郵便局) 《地図》
大仁(おおひと)村の名主杉村氏宅跡で、植込みに小さな記念碑が立つ。安政元年(1854)4月、下田から江戸へ護送される松陰が宿泊したそうだ。
別号を本陣といい、名主の杉村氏とともに通行人の接待にあたった。左端は芭蕉句碑で、「霧時雨富士を見ぬ日ぞおもしろき」だそうだ。
この先で大仁踏切を渡る。
中央は狩野川水死者供養塔(大正4年)
水晶山 《地図》
狩野川には渡船があった。今は大仁橋で渡る。
大久保長安により、慶長2年(1597)に瓜生野山(「万福福笑の湯」の裏山)に開かれた金山。
昌徳院 《地図》
石段右は唯念名号塔
「慶長年中大久保石見守殿」・「大城角右衛門」の名が刻まれているという。大久保石見守は大仁金山を開いた大久保長安で、大城家は金山で働く人夫などが収容されていて、金山屋敷と呼ばれていた。
北条時政を鬼より残酷と罵り、頼家に同情したやけに思い入れの強い感情的、一方的な文章だ。
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