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2011年12月 5日 (月)

唐津街道⑦(前原宿→深江宿→浜崎宿)

2011年11月17日

筑前前原駅(JR筑肥線)・・・前原宿・・追分石・関番所・西構口跡・・・国道202号・・・丸太池・・・筒井町西交差点・旧道・・・東荻ノ浦踏切(筑肥線)・・・猿田彦塔・荻浦村碑・・・(美咲が丘駅)・・・荻浦橋(多久川)・・・古野際踏切・・・国道202号・・・赤坂・口留番所跡あたり・赤坂橋・・県道572号・・・(加布里駅)・・旧道・・・地蔵堂・・・県道572号・・・西宮神社・・・地蔵堂・・・諏訪神社・・・銚子塚古墳・・・旧道・・・追分石・・・梵字石?・・・熊野神社・・・道標・・・追分石・上新川橋(羅漢川)・・・国道202号・・旧道・・・松末稲荷神社・・・松末天満宮・・・(国道202号)・・・(松末羅漢川・一貴山川)・・・塩屋町橋(堂ノ前川)・・・天満宮・・・徳永寺・・・正覚寺・・・二丈交番前交差点(国道202号)・・・深江宿・・梅屋宿場跡・石灯籠・薬師堂・・愛宕神社・・延寿院・・深江海水浴場・・・深江神社・・茶屋跡(深江小学校)・・・猿田彦塔・・延命地蔵堂・・・柳川橋(柳川)・・・梵字石・大師堂・・・国道202号・・・浦の浜踏切・・・鎮懐石八幡宮・・・国道202号・・・わくど石・・・佐波橋(加茂川)・・・佐波踏切・・・志自岐神社・・・国道202号・・・(大入駅)・・旧道・・・庚申塔・・・地蔵堂・・・廻国供養塔・・・国道202号・・・庚申塔・・・白み口・地蔵堂・・・旧道・・・福吉橋(福吉川)・・・福吉小学校・・・西縄手第3踏切・・・立花峠・愛宕神社・・・鹿家川・・・氷見寺・・・岸高橋・・・鹿家下公民館・・・地蔵祠・・・(筑肥線)・・・国道202号・・・七郎神社・国境石・包石・・・浜崎漁港・・・玉島橋(玉島川)・・・浜崎宿・・億昌寺・・諏訪神社・・浜崎駅(筑肥線)

 4か月ぶりに筑前前原駅に降りる。前回は7月だったがそれほど暑くはなかった。今回は歩きにはもってこいの陽気だ。深江宿から先は海岸沿いの道が多くで景色はいいが、国道は歩道がない所が多く歩きづらく、気分的に疲れる。立花峠を越えて鹿家駅までが今日の予定だったが、明日は雨のようで浜崎駅まで行くことにした。30kmほどの行程となったがこれが正解だった。

 唐津街道 唐津街道⑥』からの続きです。

   【ル-ト地図】(29.5km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6823追分石(右) 《地図

ここが前原宿の西構口で関番所があった。

Img_6825「左 加布里 唐津道」・「右 芥屋大門参道 舩越港道」

  • 芥屋大門」(けやおおと)は、志摩半島の北端にある日本三大玄武洞の中で最大の洞窟。《地図

あとの2つは、唐津七ツ釜と兵庫県豊岡市の玄武洞のようだ。「舩越港」は船越湾の港だろう。

Img_6829丸太池

正面は「伊都恋い橋」、洒落てるねえ。

Img_6832筒井町西交差点で左に旧道に入る。

Img_6834細い道となって東荻ノ浦踏切を渡る。

Img_6837猿田彦塔と、道路向うに「志摩郡荻浦村抱」碑

Img_6841美咲が丘駅沿いを進む。

Img_6846可也山(365m)の眺め

「糸島(筑紫)富士」とも呼ばれている。

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Dsc05469志登支石墓群から可也山(2003年12月22日撮影)

弥生時代前期から中期に及ぶ甕棺墓を含む墓地遺跡。中国東北部から朝鮮半島にかけて行われた巨石墳墓で、弥生時代に朝鮮から北部九州に伝わった。「可也」は古代朝鮮の「伽耶」に由来するとも。

「草枕 旅を苦しみ 恋ひおれば 可也の山辺に さ雄鹿鳴くも」と万葉歌に詠まれた山。

Dsc05471山頂からは360度の展望が広がる。

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Img_6857緩やかな赤坂を上る。このあたりに唐津藩の口留番所が置かれていたそうだ。昔は赤土のむき出た急坂だったのか。《地図

Img_6863長野川沿いを行く。

Img_6866加布里駅の先で右に旧道に入る。

庚申塔→地蔵堂→西宮神社→地蔵堂と通り過ぎる。

Img_6880諏訪神社(右)

この先を左折し銚子塚古墳に向かう。一度来たことがあるのだが、間違えて筑肥線沿いに出てしまい引き返す。

Img_6889銚子塚古墳 【ル-ト地図】の①

ここは前方部の上だろう。 全長103mの前方後円墳だが、民家、道路、鉄道などで墳丘は変形してしまっている。三角縁神獣鏡(日本製)が8面出土しているそうだ。

Img_6885説明板

Img_6890墳丘がえぐられて溝になっている。「金の銚子が埋まっている」との伝説から掘り返したのではあるまい。

Img_6887隣の旧家

明治時代の豪農屋敷で、銚子塚古墳は当家の敷地内という。

Img_6899追分石(正面の木の下)

Img_6900「是れ従り りゅうこく寺道」と刻まれているというが、すり減っていて読めない。ここから3km以上南にある波呂の龍国寺への道のことか。

すぐ先の左上に梵字石らしいものがある。

Img_6903熊野神社 《地図

Img_6906右に八幡八幡宮への道標

ここの北方で1kmもないか。

Img_6911上新川橋の所に追分石 《地図

Img_6912「前原深江へ一里八町五十五間五尺 邊田寺山久家芥屋へノ渡舩アリ」などまで書いてある詳細?な道標。

「邊田寺山久家芥屋」の「芥屋」は前記「芥屋大門」がある地区だろう。「邊田寺山久家」が分からず。

Img_6922旧道(右)に入る。街道沿いには美しい松並木が続いていたという。

Img_6929松末稲荷神社

小高い所に社殿がある。孫をおんぶしたお婆さんに、上からの景色がいいよ」といわれ上って見たが、それほどでもなかった。

松末天満宮の先で国道を横切る。

Img_6941松末羅漢川沿いを進む。

Img_6955塩屋町橋から松末羅漢川河口、大崎方向。《地図

Img_6958正覚寺に突き当たり右折する。

左は徳永寺

Img_6963正覚寺

文化4年(1807)の新町火事で焼け残った元禄門(現在の側門)はこの門ではないようだ。

Img_6964説明板

二丈交番前交差点(国道202号)を渡って深江宿(中津藩領)に入る。

Img_6970梅屋宿場跡(八百屋の脇に標柱)・右に石灯籠(天保3年(1832)建立) 《地図

石燈籠の奥に糸島霊場第48番の薬師如来堂がある。

Img_6974中央が薬師如来だろう。

ここを左折して行くのだが直進し海の方へ向かう。

Img_6982延寿院

左に上が欠けた「(中)津領」の石柱が立つ。

Img_6979縁起

この先に中津藩奉行所・中津藩船着場(柳川沿いか?)があったというが、説明板などは見当たらなかった。

Img_6985深江海岸から玄界灘、大入漁港、配崎方向 《地図

朝鮮出兵の文禄2年(1593)、名護屋城から海路で京都に戻る秀吉は、まずこの海岸に停泊したそうだ。今はここは海水浴場だ。

石燈籠の辻に戻り、深江宿を通って行く。右に高札場、人馬継所、街道から左に入った所に本陣があったようだ。

Img_7001深江神社 【ル-ト地図】の②

文禄元年(1592)、名護屋城に在陣していた秀吉は当神社を参拝し茶会を催した。その時に秀頼誕生の報を受けた。秀吉は大いに喜び、この神社を秀頼の産神と思い、時の領主小早川隆景に命じて社殿を再建させた。その時、隆景が奉納したのが写真の二の鳥居。

Img_7000由緒

Img_7002秀吉の茶屋跡(深江小学校)

Img_7004猿田彦塔(左の塀の内)・右に延命地蔵堂(工事中のトラックに隠れて見えない)

ここを右折し、深江小学校沿いに海の方へ向かい、柳川を渡り、左折して行く。

Img_7014梵字石(左・文化4年(1807))と地蔵?堂 《地図

Img_7017国道202号に出て、浦の浜踏切を渡る。

Img_7021鎮懐石八幡宮 【ル-ト地図】の③

お腹にいる子(応神天皇)の出産の延期を祈り、朝鮮半島に出兵した女丈夫の神功皇后の伝説に由来する神社。

Img_7022説明板

Img_7024船繋石

やけに小さい。これで船がつなげるか?

Img_7025万葉歌碑(安政6年(1859))

九州最古の万葉歌碑というが、それまで九州には万葉歌碑がなかったのが不思議な気がする。

Img_7026説明板

Img_7028塞神と陰陽石の社

右奥上が拝殿。

Img_7030説明板

Img_7031陰陽石

説明不用

Img_7041錦戸部屋

現在興行中の九州場所の宿舎か。ここから福岡国際センターまで電車で場所入りか。

Img_7049海岸と筑肥線の間の歩道がない国道202号を行く。

道幅の狭い所では前後から大型車が来るとすれ違えず(自分が歩いているから)、目の前で止まったりする。車とガードレールのすき間を体を横にしてすり抜ける。危ない危ないだが、そんなことは言ってられない。開き直って歩くしかない。でも雨の時は傘をさして歩くのは無理だろう。

Img_7058わくど石

旅人が旅の安全を、わくど(カエル)にかけて、「行って帰る」と縁起をかけたという。どこの海岸にでも転がっていそうな石だが、蛙と思ってみればそうにも見える。右奥に姫島が見える。

Img_7069志自岐神社 《地図

どっしりとした低い石の鳥居だ。

Img_7080大入駅で右に旧道に入る。《地図

Img_7081向うは玄界灘

庚申塔、地蔵堂などを見ながら進み、再び国道に出る。

Img_7098白み口・地蔵尊(右)

鎌倉街道にある「しらみ坂」と似たような由来だ。このあたりが番所跡のようだ。

Img_7100説明板

Img_7102享保18年(1733)の大飢饉の供養地蔵

ぼやけてしまった。 

Img_7103再び右に旧道に入る。《地図

福吉橋を渡り、福吉小学校の先で国道に出て、西縄手第3踏切を渡る。

Img_7114踏切を渡って立花峠へ向かう。

Img_7117立花峠へ 《地図

緩やかな上りで、車道歩きから解放され気分がいい。

Img_7125途中からの眺め

思ったより展望がいい。向うは可也山だろうか?

Img_7132立花峠 【ル-ト地図】の④

石段上に愛宕神社

Img_7134愛宕神社は小さな石祠のみで、中には神像ではなく、大師像?が鎮座している。

ここでしばし休憩し、下って行く。

Img_7138古代の道標

ここを入って少し行って見る。

Img_7140雑草が生い茂り荒れているので引き返し、車道を行く。後日調べると通行可能のようだった。

Img_7144集落へ出て下って行く。

今日の予定は鹿家(しかか)駅までの予定だったが、明日は雨らしくまだ3時前なので、もう一つ小さな峠を越えて浜崎駅まで行くことにする。鹿家川を渡り、筑肥線の前で左折する。

Img_7149氷見寺 《地図

Img_7150筑肥線、唐津湾、串崎方向(氷見寺から)

Img_7151鹿家下公民館の前で左折し二丈浜玉有料道路の方へ上って行く。《地図

Img_7159途中で右折し、みかん畑を見ながら上って行く。

Img_7161暗い道に入る。この道でいいのかちょっと不安になる。《地図

Img_7163海が見えてきて一安心だ。正面は高島か。

Img_7165海の方へ下り、筑肥線の深浜トンネルの上を越える。

Img_7167筑肥線を越えて国道に下りる。

Img_7173国境石(福岡県と佐賀県境)

「佐賀県 唐津市」の標識下。この左に七郎神社、海岸に包石。

Img_7176七郎神社

藤原広嗣の家来、右馬七郎ゆかりの神社で、風邪、咳にご利益があり、木刀を供える風習があるというが、木刀などは見当たらず。ご利益も薄れ、風習もすたれたか。

Img_7174説明板

Img_7184包石 【ル-ト地図】の⑤

どうも人工的臭いと思ったら、平成14年の台風で倒壊したのを復元したもの。もとは鼓(つづみ)の形をしていて、「鼓石」といわれたというが、今のはどう見ても「鼓」には見えない。

Img_7182歌碑

Img_7185国境石から線路をまたぎ上るのが旧道というが、この先に道はなく、線路の向う側にはビニール線が張ってある。2度トライしてみたが危ないのであきらめて国道を行く。

Img_7199車えびの養殖場(浜崎漁港)

水を活性化する装置?が動いている。唐津はもう近い。

Img_7207浜崎地区(浜玉町)に入る。

浜崎宿は唐津領→幕府領→対馬領と変遷した。宿場といっても本陣(御茶屋)などはなく、旅籠が6軒あり、大名宿泊の際には諏訪神社東側の瑞雲寺が充てられたそうだ。

Img_7215諏訪神社 《地図

「戦勝祈願」、「航海安全」の神で、秀吉も朝鮮出兵の際に参拝したという。

また古来、「蝮(マムシ)除けの神社として知られている。伝承:「朝鮮の貢物の鷹で結ばれた百済の王子と大矢田連の姫、諏訪の前は、王子の帰国に際して鷹狩りを行った。その時、愛する鷹が畑でマムシに殺された。姫はそのショックから病気になってこの世を去り、王子もまた後を追うようにして亡くなったという。社号はその姫の名に由来したもので、今もマムシ除けの神社として参拝されている」『浜玉町の史跡』より。鷹よりマムシの方が強いのか? 別の伝承もあるようだが割愛。

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