唐津街道⑦(前原宿→深江宿→浜崎宿)
2011年11月17日
筑前前原駅(JR筑肥線)・・・前原宿・・追分石・関番所・西構口跡・・・国道202号・・・丸太池・・・筒井町西交差点・旧道・・・東荻ノ浦踏切(筑肥線)・・・猿田彦塔・荻浦村碑・・・(美咲が丘駅)・・・荻浦橋(多久川)・・・古野際踏切・・・国道202号・・・赤坂・口留番所跡あたり・赤坂橋・・県道572号・・・(加布里駅)・・旧道・・・地蔵堂・・・県道572号・・・西宮神社・・・地蔵堂・・・諏訪神社・・・銚子塚古墳・・・旧道・・・追分石・・・梵字石?・・・熊野神社・・・道標・・・追分石・上新川橋(羅漢川)・・・国道202号・・旧道・・・松末稲荷神社・・・松末天満宮・・・(国道202号)・・・(松末羅漢川・一貴山川)・・・塩屋町橋(堂ノ前川)・・・天満宮・・・徳永寺・・・正覚寺・・・二丈交番前交差点(国道202号)・・・深江宿・・梅屋宿場跡・石灯籠・薬師堂・・愛宕神社・・延寿院・・深江海水浴場・・・深江神社・・茶屋跡(深江小学校)・・・猿田彦塔・・延命地蔵堂・・・柳川橋(柳川)・・・梵字石・大師堂・・・国道202号・・・浦の浜踏切・・・鎮懐石八幡宮・・・国道202号・・・わくど石・・・佐波橋(加茂川)・・・佐波踏切・・・志自岐神社・・・国道202号・・・(大入駅)・・旧道・・・庚申塔・・・地蔵堂・・・廻国供養塔・・・国道202号・・・庚申塔・・・白み口・地蔵堂・・・旧道・・・福吉橋(福吉川)・・・福吉小学校・・・西縄手第3踏切・・・立花峠・愛宕神社・・・鹿家川・・・氷見寺・・・岸高橋・・・鹿家下公民館・・・地蔵祠・・・(筑肥線)・・・国道202号・・・七郎神社・国境石・包石・・・浜崎漁港・・・玉島橋(玉島川)・・・浜崎宿・・億昌寺・・諏訪神社・・浜崎駅(筑肥線)
4か月ぶりに筑前前原駅に降りる。前回は7月だったがそれほど暑くはなかった。今回は歩きにはもってこいの陽気だ。深江宿から先は海岸沿いの道が多くで景色はいいが、国道は歩道がない所が多く歩きづらく、気分的に疲れる。立花峠を越えて鹿家駅までが今日の予定だったが、明日は雨のようで浜崎駅まで行くことにした。30kmほどの行程となったがこれが正解だった。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
追分石(右) 《地図》
ここが前原宿の西構口で関番所があった。
あとの2つは、唐津七ツ釜と兵庫県豊岡市の玄武洞のようだ。「舩越港」は船越湾の港だろう。
正面は「伊都恋い橋」、洒落てるねえ。
可也山(365m)の眺め
「糸島(筑紫)富士」とも呼ばれている。
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志登支石墓群から可也山(2003年12月22日撮影)
弥生時代前期から中期に及ぶ甕棺墓を含む墓地遺跡。中国東北部から朝鮮半島にかけて行われた巨石墳墓で、弥生時代に朝鮮から北部九州に伝わった。「可也」は古代朝鮮の「伽耶」に由来するとも。
「草枕 旅を苦しみ 恋ひおれば 可也の山辺に さ雄鹿鳴くも」と万葉歌に詠まれた山。
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緩やかな赤坂を上る。このあたりに唐津藩の口留番所が置かれていたそうだ。昔は赤土のむき出た急坂だったのか。《地図》
庚申塔→地蔵堂→西宮神社→地蔵堂と通り過ぎる。
この先を左折し銚子塚古墳に向かう。一度来たことがあるのだが、間違えて筑肥線沿いに出てしまい引き返す。
銚子塚古墳 【ル-ト地図】の32
ここは前方部の上だろう。 全長103mの前方後円墳だが、民家、道路、鉄道などで墳丘は変形してしまっている。三角縁神獣鏡(日本製)が8面出土しているそうだ。
墳丘がえぐられて溝になっている。「金の銚子が埋まっている」との伝説から掘り返したのではあるまい。
明治時代の豪農屋敷で、銚子塚古墳は当家の敷地内という。
「是れ従り りゅうこく寺道」と刻まれているというが、すり減っていて読めない。ここから3km以上南にある波呂の龍国寺への道のことか。
すぐ先の左上に梵字石らしいものがある。
熊野神社 《地図》
ここの北方で1kmもないか。
上新川橋の所に追分石 《地図》
「前原深江へ一里八町五十五間五尺 邊田寺山久家芥屋へノ渡舩アリ」など尺まで書いてある詳細?な道標。
「邊田寺山久家芥屋」の「芥屋」は前記「芥屋大門」がある地区だろう。「邊田寺山久家」が分からず。
旧道(右)に入る。街道沿いには美しい松並木が続いていたという。
小高い所に社殿がある。孫をおんぶしたお婆さんに、上からの景色がいいよ」といわれ上って見たが、それほどでもなかった。
松末天満宮の先で国道を横切る。
塩屋町橋から松末羅漢川河口、大崎方向。《地図》
左は徳永寺
文化4年(1807)の新町火事で焼け残った元禄門(現在の側門)はこの門ではないようだ。
二丈交番前交差点(国道202号)を渡って深江宿(中津藩領)に入る。
梅屋宿場跡(八百屋の脇に標柱)・右に石灯籠(天保3年(1832)建立) 《地図》
石燈籠の奥に糸島霊場第48番の薬師如来堂がある。
ここを左折して行くのだが直進し海の方へ向かう。
左に上が欠けた「(中)津領」の石柱が立つ。
この先に中津藩奉行所・中津藩船着場(柳川沿いか?)があったというが、説明板などは見当たらなかった。
深江海岸から玄界灘、大入漁港、配崎方向 《地図》
朝鮮出兵の文禄2年(1593)、名護屋城から海路で京都に戻る秀吉は、まずこの海岸に停泊したそうだ。今はここは海水浴場だ。
石燈籠の辻に戻り、深江宿を通って行く。右に高札場、人馬継所、街道から左に入った所に本陣があったようだ。
文禄元年(1592)、名護屋城に在陣していた秀吉は当神社を参拝し茶会を催した。その時に秀頼誕生の報を受けた。秀吉は大いに喜び、この神社を秀頼の産神と思い、時の領主小早川隆景に命じて社殿を再建させた。その時、隆景が奉納したのが写真の二の鳥居。
猿田彦塔(左の塀の内)・右に延命地蔵堂(工事中のトラックに隠れて見えない)
ここを右折し、深江小学校沿いに海の方へ向かい、柳川を渡り、左折して行く。
梵字石(左・文化4年(1807))と地蔵?堂 《地図》
鎮懐石八幡宮 【ル-ト地図】の34
お腹にいる子(応神天皇)の出産の延期を祈り、朝鮮半島に出兵した女丈夫の神功皇后の伝説に由来する神社。
やけに小さい。これで船がつなげるか?
九州最古の万葉歌碑というが、それまで九州には万葉歌碑がなかったのが不思議な気がする。
右奥上が拝殿。
説明不用
現在興行中の九州場所の宿舎か。ここから福岡国際センターまで電車で場所入りか。
道幅の狭い所では前後から大型車が来るとすれ違えず(自分が歩いているから)、目の前で止まったりする。車とガードレールのすき間を体を横にしてすり抜ける。危ない危ないだが、そんなことは言ってられない。開き直って歩くしかない。でも雨の時は傘をさして歩くのは無理だろう。
旅人が旅の安全を、わくど(カエル)にかけて、「行って帰る」と縁起をかけたという。どこの海岸にでも転がっていそうな石だが、蛙と思ってみればそうにも見える。右奥に姫島が見える。
志自岐神社 《地図》
どっしりとした低い石の鳥居だ。
大入駅で右に旧道に入る。《地図》
庚申塔、地蔵堂などを見ながら進み、再び国道に出る。
鎌倉街道にある「しらみ坂」と似たような由来だ。このあたりが番所跡のようだ。
ぼやけてしまった。
再び右に旧道に入る。《地図》
福吉橋を渡り、福吉小学校の先で国道に出て、西縄手第3踏切を渡る。
立花峠へ 《地図》
緩やかな上りで、車道歩きから解放され気分がいい。
思ったより展望がいい。向うは可也山だろうか?
石段上に愛宕神社
愛宕神社は小さな石祠のみで、中には神像ではなく、大師像?が鎮座している。
ここでしばし休憩し、下って行く。
ここを入って少し行って見る。
雑草が生い茂り荒れているので引き返し、車道を行く。後日調べると通行可能のようだった。
今日の予定は鹿家(しかか)駅までの予定だったが、明日は雨らしくまだ3時前なので、もう一つ小さな峠を越えて浜崎駅まで行くことにする。鹿家川を渡り、筑肥線の前で左折する。
氷見寺 《地図》
鹿家下公民館の前で左折し二丈浜玉有料道路の方へ上って行く。《地図》
暗い道に入る。この道でいいのかちょっと不安になる。《地図》
「佐賀県 唐津市」の標識下。この左に七郎神社、海岸に包石。
藤原広嗣の家来、右馬七郎ゆかりの神社で、風邪、咳にご利益があり、木刀を供える風習があるというが、木刀などは見当たらず。ご利益も薄れ、風習もすたれたか。
包石 【ル-ト地図】の36
どうも人工的臭いと思ったら、平成14年の台風で倒壊したのを復元したもの。もとは鼓(つづみ)の形をしていて、「鼓石」といわれたというが、今のはどう見ても「鼓」には見えない。
国境石から線路をまたぎ上るのが旧道というが、この先に道はなく、線路の向う側にはビニール線が張ってある。2度トライしてみたが危ないのであきらめて国道を行く。
水を活性化する装置?が動いている。唐津はもう近い。
浜崎宿は唐津領→幕府領→対馬領と変遷した。宿場といっても本陣(御茶屋)などはなく、旅籠が6軒あり、大名宿泊の際には諏訪神社東側の瑞雲寺が充てられたそうだ。
諏訪神社 《地図》
「戦勝祈願」、「航海安全」の神で、秀吉も朝鮮出兵の際に参拝したという。
また古来、「蝮(マムシ)除けの神社として知られている。伝承:「朝鮮の貢物の鷹で結ばれた百済の王子と大矢田連の姫、諏訪の前は、王子の帰国に際して鷹狩りを行った。その時、愛する鷹が畑でマムシに殺された。姫はそのショックから病気になってこの世を去り、王子もまた後を追うようにして亡くなったという。社号はその姫の名に由来したもので、今もマムシ除けの神社として参拝されている」『浜玉町の史跡』より。鷹よりマムシの方が強いのか? 別の伝承もあるようだが割愛。
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