唐津街道⑧(浜崎宿→唐津城下)
2011年11月18日
浜崎駅(JR筑肥線)・・・県道347号・虹の松原・・・新茶屋跡・・国境石・・・大老の松(跡)・・・二軒茶屋跡・・・(寝起きの松)・・・松浦橋(松浦川)・・・国道202号・・・百人町交差点・・・佐用姫橋(潮分川)・・佐用姫岩・・・東町・・船宮町・・水主町・・新大橋(町田川)・三ノ丸辰巳櫓・・・旧唐津銀行本店・・・大名小路・・・時の太鼓・二ノ門堀・・・唐津城・・・石垣の道・・・武家屋敷門・・・旧高取邸・・・西の浜刑場跡(西の浜海水浴場)・・・唐津藩藩校中門・・唐津神社・・・浄泰寺・・・近松寺・・・自南寺・・大聖院・・浄土寺・・・唐津駅
【ル-ト地図】
天気予報どおり朝から風雨が強い。5kmにも及ぶ虹の松原内の国道を抜けて行く。歩道がなく雨、風、車の三重苦だ。膝から下と靴の中はびしょ濡れだが、気温が高めなのと、松林が風除けになるのが救いだ。松浦橋を渡り佐用姫岩に寄り、東町から唐津城下を散策し、今回の九州の街道歩きの打ち止めとした。博多に戻りもう一泊し、帰京することにしよう。
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虹の松原 【ル-ト地図】の37
左は国境石で「従是東對州領」。対州(対馬)領と唐津藩の国境で、ここから糸島市の大入あたりまでが、文政元年(1818)に幕府領から対馬領になったそうだ。このあたりは新茶屋跡。
松喰虫にやられ切り倒された。すぐ先が二軒茶屋(跡)で、山頭火の句碑「松に腰掛けて松を観る」があるのだが、傘をさしていて気づかず通り過ぎてしまった。
「寝起きの松」の表示板もあったが、どの松かは分からず。
虹の松原を抜け、東唐津交差点から南に松浦橋を渡る。
右奥に唐津城、昔は渡し船で渡っていた。
佐用姫岩 【ル-ト地図】の38
伝説の佐用姫が鏡山(領巾振山(ひれふりやま))から飛び降りたという岩。足跡が残っているというが、この雨の中、確かめに行くほどの物好きではないので。
落語『派手彦』
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朝鮮出兵の戦勝を祈願して、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれ、別名は佐用姫伝説による領巾振山(ひれふりやま)。
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船宮町の家並み 《地図》
宮島醤油の邸宅だそうだ。
唐津城築城の際、三ノ丸の東南の町田川下流沿いに、見張りや防御のために建てられた櫓(矢倉)。明治になって解体されたが、平成5年に復元された。
旧唐津銀行本店 【ル-ト地図】の39
大名小路から二の門堀へ出て唐津城に向かう。
今はからくり人形が出てきて、午前7時から午後7時までの時報を告げているそうだ。
唐津城 【ル-ト地図】の41
城主は寺沢氏(12万3千石)→大久保氏→松平氏→土井氏→水野氏→小笠原氏と変遷した。明治の廃藩時には6万石だった。
この雨では天守からの眺めも霞んでいると思い、今回は天守への登城はしなかった。
松浦川、新舞鶴橋、松浦橋、唐津湾(左)、虹の松原、鏡山(正面)
けっこう長く続いている。
武家屋敷門 《地図》
名護屋城の解体資材を使った藩家老屋敷の門。現在は旅館水野の門になっている。
炭鉱王として成功した高取伊好(たかとりこれよし)(1850~1927)の旧宅。
西の浜刑場跡あたり 《地図》
左奥に唐津城が見える。ここは西の浜海水浴場だ。夏場は大勢の善人が、処刑された者たちの血を浴びた砂の上で、甲羅干しをしているのだろう。『虹の松原一揆』の首謀者の冨田才治らもここで処刑された。
11月の秋の例大祭「唐津くんち」は日本三大くんちの一つ。日本といっても3つとも九州だが。
本能寺の変で織田信長に槍をつけたという、安田作兵衛の墓がある。死んだ日は織田信長と同じ、6月2日という。
名護屋城の資材を移したという山門。
近松門左衛門の墓
墓は大阪市中央区、兵庫県尼崎市の広済寺にもあり、出生地についても越前、長門国の萩、ここ唐津、淀藩説など他にも諸説あるようだ。
曽呂利新左エ門の作というが。
中津城下の自性寺で見たばかりだ。『中津街道③』
虹の松原一揆の首謀者の冨田才治が妻子と最後の別れをした所という。
境内には「種植えて土に戻るや土くじり」という辞世の句と首塚があるという。このあたりは西寺町で寺が並んでいる。
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