伊南房州通往還①
2011年11月27日
浜野駅(JR内房線)・・・房総往還分岐点(浜野交差点)・・・下諏訪神社・第六天神社・・・県道14号・・・浜野跨線橋(内房線)・・・古市場交差点(国道16号)・・・(館山自動車道)・・・馬頭観音・・・熊野神社・・・草刈交差点・・・旧道・・・草刈堰・弁財天社・・・行光寺・・・新橋(村田川)・・・千原団地入口交差点・・・旧道・・・道標(潤井戸新田青年館)・・・県道21号・・・白幡神社・・・泰行寺・・・潤井戸三叉路・・・光福寺・・・道標(潤井戸青年館・子安社)・・・県道14号(茂原街道)・・・長柄町・和楽の湯・・・旧道・・道標・・大多喜街道追分・・・県道14号・・・六地蔵地区・地蔵祠・・県道14号・六地蔵堂・・六地蔵バス停・旧道・・・薬師堂・・・道脇寺地区・・熊野神社・・・鼠坂・・長柄小学校・・・県道14号・・・国府里神社・・・茂原市・・(圏央道建設中)・・・旧道・・稲荷神社・・・県道14号・・・酒盛塚跡(茂原高校)・・・茂原公園・藻原寺・・・鷲山寺・・・どうびょう橋(豊田川)・・・高師八幡神社・・・茂原駅(外房線)
内房回りの房総往還の次は、外房回りの伊南房州通往還に取り掛かる。伊南とは東上総海岸沿いの夷隅地方が、伊南荘・伊南領の名で慣習として呼ばれていたことによる。房総往還との分岐点は浜野とその先の八幡宿で、潤井戸で合流し茂原→上総一宮→大原→御宿→勝浦→小湊→鴨川→和田→丸山と進み、館山で再び房総往還と合流する。途中往還からははずれるが、風光明媚な外房の海岸沿いや山沿いのハイキングコースなども織り交ぜながら館山を目指すつもりだ。
*参考:『伊南房州通往還 Ⅰ・Ⅱ』(千葉県教育委員会)
* 『伊南房州通往還②』へ続く。
【ル-ト地図】(31.0km)
写真をクリックすると拡大します。
伊南房州通往還は正面方向へ進み、内房線を越えて行く。手前左から右へ進むのが房総往還。浜野は重要な継立場だった。
馬頭観音(イエローハットの角) 《地図》
風化が激しいが車の排気ガスの中、よく頑張っている。
村田川沿いを進む。このあたりは江戸期には上総国市原郡と下総国千葉郡の境で、今は市原市と千葉市の境だ。
元和年間(1615~23)に干害を防ぐため村々を動員し、村田川より引水して開いた約8千㎡の堰。
この手前が村田川
新橋(村田川)を渡り、浜野・八幡宿と茂原の間の継立場だった潤井戸地区へと進む。元和5年(1619)から寛永3年(1626)までは永井氏の潤井戸藩があった。
道標(青年館敷地内に移設されたもの) 《地図》
右(享和2年(1802))は、「北 浜のむら 江戸ミち」、
左も享和2年で、「北 のふまん 五井 あねか崎」(のふまんは能満)
道標(潤井戸青年館に移設されたもの) 《地図》
左(享和3年(1803))は、「此の方 せんだかさもり犬成村 てうなんもばら道」で、(てうなんは長南)
右は昭和3年の昭和天皇即位式を記念して地元の青年団が建てたもの。
道標(右) 《地図》
「潤井戸 茂原」は読める。もとはすぐ先の追分にあったものなのか?
道標と庚申塔があったというが両者とも見当たらず。
六地蔵地区に入り、ここを左折する。《地図》
六地蔵村は潤井戸と茂原の間の継立場だった。地名の由来は、①千葉秀胤が妾の冥福を祈るために当村の路傍に造立した六地蔵に人々の参詣が絶えなかった。②その昔、当村には住民がいなかったが道の傍らに6つの地蔵を安置して以来、人々が集まり住むようになったから。
左折しすぐの左上
江戸後期の建築という。県道から少し上った裏山に六地蔵堂がある。
六地蔵 《地図》
この前に六地蔵堂もある。
六地蔵バス停の所で、旧道(左)に入る。《地図》
ここを右に進み道脇寺地区に入る。《地図》
道鏡の開基という道脇寺は、かつては100以上の坊を有する大寺院だったという。寺の百坊を巡って犬が食を求めるので、鐘を合図に百坊が同時に食事をしたところ犬は姿を消し(餓死したとも)、その夜、大洪水が起こり寺は流失したという説話が残る。現在は日蓮宗に改宗した道脇寺が長柄小学校の南東にある。
日本武尊がこの坂に至り、弟橘姫を追懐して寝られず、不寝見坂が鼠坂に転訛したとか。
国府里(こうり)地区の産土神。国府里は上総国長柄郡家の所在地だった。東隣(茂原市)は国府関という地名だ。
大正年間に横浜の洋館を模して建てられた医院。
この先で国道に出る。二宮神社に寄ろうとして途中で右折したら、大きく道を間違えてどこを歩いているのか分からなくなった。
ここは本来の往還沿いではない。
かなり南方向に迂回する形で、なんとか茂原高校へたどり着く。1時間ほどのロスタイムか。いくつかの見所も見落とすはめとなった。なお、【ル-ト地図】には正しい(と思われる)道筋を記載してある。
この他、源頼朝がこの地を通った時、前途を祝福して塚の上で酒宴を開いたとも。
こっちもいい加減疲れてきた。もう切り上げて酒宴と行きたいところだ。
藻原寺山門
竜宮造り、多宝塔型式。茂原は中世には日蓮宗の古刹の藻原寺、鷲山寺の門前集落として発展していた。
元禄16年(1703)の元禄大地震の津波による犠牲者の供養塔。
高師八幡神社 《地図》
高師と茂原は、六地蔵村と一の宮村の間の継立場だった。両村は近接しているため、駄賃稼ぎの継立の権利をめぐって紛争が絶えなかった。現在は茂原の市街地として連続している。
今日は早めに出発したが、道を間違え疲労困憊といった感じだ。もう5時近くで暗くなり始めてきた。
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