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2012年1月31日 (火)

大山街道(赤坂御門跡→二子の渡し跡)

2012年1月15日

永田町駅(地下鉄半蔵門線)・・諏訪坂下・・赤坂御門跡・・・弁慶橋(弁慶堀)・赤坂見附交差点・国道246号(青山通)・・・(豊川稲荷)・・・旧道・牛鳴坂・・・丹後坂上・・・薬研坂上・国道246号・・・高橋是清記念公園・・カナダ大使館・新坂上・・・梅窓院・・・善光寺・・・(渋谷区)・青山学院大学・・こどもの城・・・宮益坂上交差点・・・宮益坂・・・御嶽神社・・・(明治通)・(JR山手線)・・道玄坂・・・国道246号(玉川通)・・・神泉町交差点・(目黒区)・旧道・大坂・・・山手通・・・国道246号・・・上目黒氷川神社・・・大橋(目黒川)・・・(世田谷区)・江尻大橋駅(東急田園都市線)・旧道・・・池尻稲荷神社・・・国道246号・・三軒茶屋交差点・追分(新道・旧道)・都道3号(世田谷通り)・・・教学院(最勝寺・目青不動)・・・若林交差点(環七通り)・・・駒留八幡神社・・・大吉寺・円光院・旧道(ボロ市通り)・・世田谷代官屋敷跡・・郷土資料館・・・弦巻の追分(登戸道分岐)・・・大山旅人像・・・地蔵と馬頭観音・・・国立医薬品食品衛生研究所・・・用賀追分(旧道・新道合流地点)・・・ようが商店街・・・真福寺(赤門寺)・・・無量寺・・・都道427号・・用賀駅(田園都市線)・・(東名高速道路)・・田中橋・(首都高3号)・・延命地蔵堂(旧道・新道追分)・旧道・・・(都道311号)・・・大空閣寺・・・笠付庚申塔・・慈眼寺・・瀬田玉川神社・・慈眼寺坂・・玉川寺・・・両親閣東京別院・・玉川大師・・・治大夫橋(次大夫堀)・・・(国道246号)・・・兵庫橋(野川)・・・兵庫島・・・(田園都市線)・・・二子の渡し跡碑・・・二子橋(多摩川)・・・二子の渡し跡入口標柱・・・二子新地駅(田園都市線)

  【ル-ト地図】(19.2km)

  この先は、『川崎市の坂①』→『川崎市の坂②』→『青葉区・緑区の坂』へ続く。

 大山街道は赤坂御門を起点として、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道。東海道と甲州街道の間の脇往還で、「厚木街道」、「矢倉沢往還」、大山参詣の「大山道」などとも呼ばれていた。大山詣りの帰路は藤沢・江の島・鎌倉などでの遊興、観光も楽しまれた。(落語『大山詣り』)

 今日は港区の赤坂御門跡から渋谷区→目黒区→世田谷区と進み、日曜と重なった「世田谷ボロ市」の人波に揉まれ、用賀、瀬田から多摩川を渡って川崎市に入り、二子宿の入口まで歩いた。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0506納め太刀

大山に奉納する木刀。大きさを競うようになり、7mを超す物もあるそうだ。

Img_0169赤坂御門跡(赤坂見附跡) 【ル-ト地図】の①

ここが大山街道の起点、各地からいくつもある「大山道」のメインルートだ。

Img_0164明治初期の写真

Img_0165説明板

Img_0175弁慶橋(弁慶堀)

江戸城普請の大工の棟梁、弁慶小左衛門が作った橋で、あの弁慶とは関係がないようだ。

Img_0178豊川稲荷神社

神社の右に九郎九坂、左に弾正坂が下っている。このあたりの坂は『港区の坂⑥』に記載。

Img_0176牛鳴坂を上る。《地図

Img_0183薬研坂の坂上に出る。

Img_0186高橋是清公園

2・26事件でここにあった邸宅の2階で殺された。

Img_0193梅窓院地図

「青山」の地名は江戸時代の初め、このあたり一帯を配領した徳川家の家臣、美濃郡上八幡の青山氏によるともいう。領主青山幸成と側室の法名から「長青山梅窓院」と名づけた。「天狗煙草」の岩谷松平の墓があるそうだ。邸宅があった渋谷区には天狗坂がある。『渋谷区の坂②

Img_0194善光寺 《地図

もとはに谷中の善光寺坂にあった信州善光寺の別院。元禄16年(1703)、類焼により現在地に移転した。境内に南青山の隠れ家で自殺を図り捕縛され死んだ高野長英の記念碑がある。6年間も各地を転々と逃亡生活を送っていた。『赤山街道①』・『四国遍路道(愛媛県④)』 その他、中山道板橋宿、九州の中津城下にも潜伏していた。

Img_0203青山学院大学

ここは江戸時代の松平左京大夫邸跡。今日は大学入試センター試験日だ。

Img_0205こどもの城

2015年2月1日で閉館した。

Img_0208右へ宮益坂を下る。《地図

Img_0213渋谷駅ハチ公口前から道玄坂を上る。

いつものことながら混雑している。

Img_0216道玄坂の途中の古い店舗跡

道玄坂坂上交番前で右に滝坂道が分岐する。

坂上から国道246号に出て進む。

Img_0220右に大坂を下る。 【ル-ト地図】の②

今は坂下近くで山手通りにぶつかっていまい大坂、急坂ではない。

Img_0221坂標

厚木街道は大山街道のこと。

Img_0222坂下方向

Img_0228上目黒氷川神社

Img_0229説明板

Img_0227目黒元富士

もとは目切坂上にあったもの。別所坂上が「新富士」。

Img_0226説明板

Img_0238鳥居の左に大山街道の道標

Img_0230道標(天保13年(1842))

正面に「大山道 せたがや通 玉川通」・右側面に「ひろう めぐろ 池がみ 品川 みち」・左側面に「青山 あざぶみち」。

Img_0241大橋(目黒川

新編武蔵風土記稿に、『大橋目黒川ニ架ス、土橋ニテ長サ七間幅九尺、此橋ノ傍ニ水車アリ、文化年中、村民勘右衛門ト云フ者願上テツクレリ』とあるそうだ。今は再生水で復活した清流という。

Img_0243池尻大橋駅の所で旧道は左へ。《地図

Img_0245涸れずの井戸跡(街道沿いの池尻稲荷神社入口)

大山街道を行く旅人の喉を潤した井戸があった。

Img_0246説明板

Img_0247本殿の左が清姫稲荷神社か。

Img_0252追分(三軒茶屋の三叉路) 【ル-ト地図】の③

旧道は右へ新道は左へ、分岐に不動尊道標が立つ。昭和44年までは玉川電車もここで分岐し、左路線は二子玉川駅まで通じていた。ここに田中屋、信楽(後に石橋楼)、角屋の3軒の茶屋があり、大山参りの旅人の休憩所となっていた。

Img_0253不動尊道標

Img_0254説明板

Img_0258教学院(最勝寺) 《地図

江戸五色不動の「目青不動」

Img_0259説明板

Img_0268駒留八幡神社 《地図

Img_0267説明板

Img_0262常盤弁財天(厳島神社境内)

近くには吉良頼康の側室常盤の悲しい物語にまつわる「常盤塚」がある。

Img_0270松陰神社参道 《地図

下田街道①・④には吉田松陰の投宿地が2つあったが、今日はここで失礼。

Img_0272大吉寺  《地図

寺内大吉の生家で住職。1973年8月5日にマリリン・モンローの13回忌法要が営まれた。寺内は経をあげモンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた。

Img_0274世田谷ボロ市でごった返している大山街道。

年に4回、1月15日・16日と12月15日・16日に開催される。今日は日曜と重なりこの人出だ。

Img_0276世田谷代官屋敷前のボロ市通り(大山街道)

とても写真を撮れる状況ではない。

Photo世田谷代官屋敷(右・2006年9月25日撮影) 【ル-ト地図】の④

ふだんはこんなに静かな通りなのだが。

Img_0277世田谷区立郷土資料館に保存されている大山街道の道標など。

ここもトイレ待ちの長い行列などで混んでいて、じっくり見る気分にはなれない。

この先の弦巻の追分で登戸道が右に分岐する。

Img_4552分岐(弦巻5-16)に立っていた道標(延享3年(1746))で、郷土博物館に移されている。

「左 さがみ 大山道」・「右登戸道」

Img_4554説明板

Img_0285大山旅人像 《地図

ボロ市の雑踏を抜けて、やれやれ一服か。

Img_0286地蔵と馬頭観音(弦巻4丁目交差点)

Img_0293国立医薬品食品衛生研究所

「衛生材料廠跡」碑が立つ。

Img_0295用賀追分(旧道・新道合流地点) 《地図

Img_0296追分道標

古い道標(文政10年(1827))は、「右 江戸道 左 世田谷 四谷道」は前掲の郷土資料館に移された中の右端。

Img_0312ようが商店街通り

左は創業150年の鎌田酒店

Img_0300
真福寺(赤門寺)

永禄から元亀(1558~72年)頃、小田原北条氏家臣飯田図書が開基したと伝える。

Img_0306無量寺(用賀観音)

天正年間(1573~91)に品川の浜で漁師の網にかかったという十一面観音像を、左の観音堂に祀る。『せたがや百景』(84)の一つ。

Img_0304説明板

Img_0315延命地蔵堂(旧道・新道追分) 《地図

安永6年(1777)に用賀村の女念仏講中が建立。

直進は新道で、この先で左に入り行善寺坂を下って多摩川堤へ出る。

Img_0321笠付庚申塔・慈眼寺

Img_0323瀬田玉川神社

Img_0324慈眼寺坂を下る。《地図

Img_0326玉川寺(ぎょくせんじ)

日暮里の妙隆寺を当地に移した身延山久遠寺の関東別院で、山号は「妙隆山」。妙隆寺は日暮里富士見坂の坂下にあって「花見寺」ともいわれた。富士見坂の別名は花見坂、妙隆寺坂。『荒川区の坂①

Img_0329玉川大師

地下仏殿を参拝すると、四国八十八ケ所、西国三十三ケ所を順拝修行したことなるそうだ。その安直でお手軽さが人気のようで参拝者が多い。

Img_0330縁起

Img_0333治大夫橋(次大夫堀・六郷用水・現在は丸子川) 《地図

代官小泉次大夫が開いた灌漑用水路。

Img_0332説明板

Img_0334玉電の砧(きぬた)線跡(昭和44年廃線)

二子玉川駅←(2.2km)→砧本村駅

Img_0335兵庫橋を渡って兵庫島へ 《地図

矢口の渡し」で謀殺された新田義興の家来、由良兵庫助がここへ流れ着いたのが島名の由来という。「流れ着く」といってもここは矢口の渡しより上流なのだが。矢口の渡し付近の史跡は『平間道』に記載。

Img_0339案内図

Img_0340由来

Img_0342二子の渡し跡碑 【ル-ト地図】の⑤

寛文9年(1669)、大山街道の継立村となった対岸の二子村が請け負っていたが、天明7年(1787)、瀬田村にも渡し船の許可が下りた。ここは瀬田村にあった2ヶ所の発着所の一つ。大正14年(1925)二子橋が完成し、その役目を終えた。

Img_3821ありし日の「二子の渡し」

お馬ちゃんに見送られて対岸の川崎市へ。ずいぶん乗っているようだ。

Img_0346今は二子橋を渡って川崎市へ

日曜のせいか通行者、自転車が多い。左は田園都市線

Img_0352二子橋の親柱

Img_0356二子の渡し入口標柱(川崎側) 《地図

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2012年1月23日 (月)

西高野街道

2012年1月5日

堺東駅(南海高野線)・・・高野山女人堂十三里石・竹内街道分岐地点・・・耳原橋(南海高野線)・・・(仁徳天皇陵)・・・国道310号・・陵東橋(JR阪和線)・・・梅北交差点・旧道・・・本通寺・・・御廟表塚古墳・中百舌鳥の大楠・筒井家・・・府立大学前交差点・国道310号・・・中百舌鳥中学校・・旧道・・・白鷺公園・・・(泉北高速鉄道ガード)・・・星谷池・・・十二里石・関茶屋地区・・薬師如来道標・・・中地蔵・・・唯妙寺・・・(阪和自動車道ガード)・・・法界地蔵・中茶屋自治会館・・・地蔵道標・・興源寺・・・(福田南交差点・国道310号)・・・十一里石・・・岩室歩道橋(府道34号)・・・家塾跡碑・・・道標・天野街道分岐・(狭山市)・・おわり坂(尾張坂)・・おわり坂交差点・・牛瀧地蔵・下高野街道合流地点・上三津屋橋(三津屋川)・・・三津屋地蔵・・・三津屋大師堂・・・茱萸木大師堂・・・茱萸木八幡宮・・・酒かけ地蔵尊・・・濁り池・・・十里石・・・天野橋(西除川)・・(河内長野市)・・西高野街道説明板・・・道標・常夜灯・錦坂地蔵堂・錦坂・・松林寺・・・中高野街道合流地点・・・盛松寺・・・南坂・・・晴明塚・・・(外環状線)・・・道標・・・原町の旧阿弥陀寺石造物群・・・(国道310号)・・・寺元記念病院・・・膳所藩代官所跡・・・行者堂・九里石・・・東高野街道合流地点①・・割坂・・・東高野街道合流地点②・河内長野駅(南海高野線・近鉄長野線)

  【ル-ト地図】(19.1km)

 西高野街道は堺の大小路と大道筋(紀州街道)の交差点を起点として南東に向い、下高野街道、中高野街道と合流し、河内長野で東高野街道と合流する。その先は一本の高野街道となって高野山へと向かう。

 高野山女人堂への里程石をたどりながら、九里石のある東高野街道と合流地点まで歩く。この先、高野山までは少し暖かくなってから「高野山町石道」も加えて歩くとするか。

 西高野街道の起点の大小路から竹内街道分岐点までは『竹内街道』に記載。
 この先、高野山までは『高野街道①②』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9881竹内街道分岐点 【ル-ト地図】の①

右に地蔵堂と高野山女人堂十三里石、分岐に竹内街道碑。

Img_9885高野山女人堂十三里石 

安政4年(1857)に茱萸木村(くみのきむら・狭山市)の農民小左衛門、五兵衛が発起人となり、一里ごとに13本建てられた道標。

耳原橋(南海高野線)を渡り、右に仁徳天皇陵を見ながら国道310号、陵東橋でJR阪和線を越えて行き、梅北交差点で左に旧道に入る。

Img_9894百舌鳥梅北町の家並み 《地図

Img_9910御廟表塚古墳(後円部) 《地図

前方部は削平されている。

Img_9908説明板

Img_9907百舌鳥の大楠・筒井家(御廟表塚古墳の前)

筒井順慶の子孫の屋敷という。

いったん国道に出て、再び左に旧道に入る。

Img_9925旧家(新家町)

この先の辻の左側に十二里石 

Img_9927十二里石と地蔵堂 【ル-ト地図】の②

Img_9928地蔵は道標にもなっている。

Img_9932関茶屋の家並み

旅人が休息する茶屋があった。堺市で設置した「西高野街道」道標が街道沿いにいくつもあり、目印になる。

Img_9936薬師如来道標(左)

「東ふじい寺 なら 道」

Img_9939中地蔵

唯妙寺の先で阪和自動車道をくぐる。

Img_9947法界地蔵(中茶屋自治会館前) 《地図

Img_9953道標・延命地蔵道標

どっちへ進む?

Img_9954「右 かうや 大ミ祢 左 たきたに金剛山」で、今でも旅人に役立つ現役の道標だ。

Img_9957興源寺 《地図

大日如来の不動使者として童子形に表表わされた木造不動明王立像を安置。

Img_9960説明板

Img_9963旧家

Img_9967陶器北地区の家並み

Img_9972十一里石(左) 【ル-ト地図】の③

 この先で岩室歩道橋(府道34号)を渡る。

Img_9978家塾跡碑・岩室郵便局跡碑・西高野街道道標

家塾は篤志家が開いた庶民のための私塾、教育塾。

Img_9981天野街道分岐点 《地図

右は女人高野とも呼ばれる天野山金剛寺への『天野街道』。地蔵の祠の右に高倉寺(法起菩薩)への新しい道標も立っている。

Img_9983「右 あまの山二里 左 かうや山十里」

Img_9991おわり(尾張坂)を下る。《地図

尾張家にゆかりの坂なのか?

Img_9997牛瀧地蔵(慶応3年(1867)) 《地図

牛滝の日に近郊の人々が牛の足を洗った。「足の地蔵」ともいわれ、皮膚病にご利益ありという。

ここの上三津屋橋の所が、下高野街道との合流地点。

Img_0004上三津屋橋を渡って川沿いに少し進み旧道っぽい道に入る。

Img_0006三津屋地蔵 《地図

Img_0009三津屋大師

前の写真と同じ女性が参拝している。邪魔をしないようここから遥拝で済ます。

Img_0010茱萸木(くみのき)大師堂 《地図

ここを右折し南下する。

Img_0015茱萸木八幡神社 《地図

Img_0018酒かけ地蔵堂

幟には「酒かけ地蔵  歯痛・頭痛祈願 玄昌法師地蔵尊」とある。

Img_0020地蔵

正月で酒を沢山かけられたか、満足そうな顔をしている。鼻も酒焼けで光っているか。

Img_0025茱萸木の家並み

Img_0030十里石(左の電柱脇) 【ル-ト地図】の④

里石建立を発起した小左衛門と五兵衛は、ここ茱萸木村の農民。

Img_0032旧家

天野橋(西除川)を渡って河内長野市に入る。

Img_0038西高野街道道標・説明板(河内長野市設置)

Img_0046道標

Img_0040説明板

Img_0047錦坂地蔵堂・大神宮常夜灯・宝篋印塔・道標

道標には、「右 上神谷妙見山 二十七丁」で、上神谷(にわだに)の妙見山感応寺への道。

この前の坂が錦坂で緩やかに上って行く。

Img_0057松林寺

両界曼荼羅図(河内長野市文化財)

Img_0058説明板

Img_0066中高野街道合流地点 《地図

Img_0067右が中高野街道

振り返って見ている。分岐に常夜灯、地蔵堂。

Img_0065道標(天保7年(1836))

「右平野迄四里、左さかい大坂」で、右が中高野街道・左が西高野街道。

Img_0064地蔵道標

前垂れの下は「右ハ平野道 左ハ堺大坂道」か?

Img_0068反対側には説明板と四国八十八ヵ所遙拝道の碑(神南辺大道心(隆光)の建立)


西高野街道は左の南坂を下って行くが。右の坂を上って盛松寺に寄る。

Img_0073説明板

Img_0078盛松寺

Img_0079「與通(よつ)のお大師さん」と呼ばれている。

弘法大師がここで昼食をとり、万病に効く薬方として「柚子みそ」を伝えたという。大師が立っていた所から樟が生え4本に枝分かれしたので、「四鉤樟」(よつるくすのき)が訛って→「よつくぬぎ」→「四つくの木」→「四通」(よつう)→「四樟」(よつ)→「与通」→「與通」だとか。

Img_0081六角堂内

手前右が立江地蔵で、中央奥が子安地蔵 

Img_0086街道に戻り南坂を下る。《地図

右に地蔵堂と宝篋印塔(元文2年(1737))

Img_0089晴明塚(右の常夜灯の所)

Img_0090明塚 《地図

安倍晴明が、①占の当たらないことを嘆き、易の卦書をここに埋めた。②晴明が死が迫った事を悟り、ここで秘伝書『金烏玉兎集』を焼き、霊力ある灰の中に深く埋めて塚とした。などの伝承があるようだ。

もとは「明塚」と刻まれていたのを彫り直しているので、「日」辺の形がいびつになっている。

この先で外環状線をくぐる。

Img_0102「右 かうや 左 ふじゐ寺」か?

Img_0111原町の旧阿弥陀寺石造物群 《地図


後ろの2体が十三仏板碑(寛永11年(1634))で、それぞれに不動明王などの13の仏が彫られている。

Img_0104説明板

Img_0114旧道は寺元記念病院の後ろを通って行く。旧道の面影は薄いが。

Img_0123膳所藩代官所跡(左) 《地図

Img_0127説明板

Img_0132九里石 【ル-ト地図】の⑤

ここは西高野街道沿いではない。もとは東高野街道との合流地点①にあったという。なぜ移したのか?

Img_0129九里石と道標

道標は「 中本山極楽寺 左 さかい四里大坂七里」で、は東高野街道、は西高野街道のことで、これも合流地点①から移されたようだ。

Img_0135東高野街道合流地点① 《地図

九里石と道標はここにあったのだろう。

この先、割坂を下って河内長野駅前の東高野街道合流地点②へ向う。(昨日の『東高野街道③』に記載)

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2012年1月21日 (土)

東高野街道③

2012年1月4日

安堂駅(近鉄大阪線)・・・竜田越奈良街道合流地点・・分岐地点・新大和橋(大和川)・(藤井寺市)・・・近鉄道明寺線踏切・・・国府八幡神社・・・地蔵堂・・・長尾街道交差地点・・土師ノ里2号踏切(近鉄南大阪線)・・・道明寺・・・(西名阪自動車道)・・(羽曳野市)・・(国道170号)・・・応神天皇陵陪塚・・・道林寺・・・誉田八幡宮・誉田林古戦場址・・・国道170号・・道明寺8号踏切(近鉄長野線)・・・蓑の辻(竹内街道交差地点)・・・古市4号踏切(近鉄南大阪線)・・・古屋橋(大乗川)・・・姥不動明王・・城山交差点・・旧道・・・高屋神社・・・(南阪奈道路)・・・(富田林市)・・・喜志交差点・国道170号・・・美具久留御魂神社御旅所・・・中野町3交差点・旧道・・・(府道705号)・・・富田林寺内町(山中田坂・亀ケ坂・山家坂・向田坂)・・・(国道170号)・・(近鉄長野線ガード)・川西駅・・・(国道309号)・・・大峯三十三度満願塔・・・(滝谷不動駅)・・・道標・・・滝谷不動2号踏切(近鉄長野線)・・・国道170号・・・錦織一里塚跡・・・滝谷不動5号踏切・旧道・・・(河内長野市)・・・孝子地蔵・・・火除地蔵など・・・国道170号・・・旧道・・・極楽寺・・極楽寺橋(南海高野線)・・・西高野街道合流地点①・・・割坂・・・西高野街道合流地点②・・河内長野駅(南海高野線・近鉄長野線)

  【ル-ト地図】(19.7km)

  時々小雨のぱらつく寒い中を、西高野街道との合流地点の河内長野駅前まで行く。「旧家の博物館」という富田林寺内町は、坂もあり散策しがいがあった。寺内町を抜けたあたりで風が強まり、一時雪が舞ってきたがたいしたこともなく、以外に早く河内長野駅に着いた。明日は堺から西高野街道をここまで歩く。

 この先、高野山までは『高野街道①②』へ続く。

 写真をクリックすると拡大します。

Img_9582_2大和川(新大和川橋)から 【ル-ト地図】の①

竜田越奈良街道と合流して、すぐに分かれて行く。

Img_9583説明板(大和川付け替え)

Img_9575中甚兵衛


大和川の付け替え工事に奔走し、工事を指揮した今米村の庄屋。

Img_9586国府(こう)八幡神社

後方は允恭天皇陵

Img_9593長尾街道交差地点 《地図

左に道標「右 道明寺」

Img_9600道明寺の手前

Img_9610道明寺

菅原道真の祖の土師氏の氏寺の土師寺。道真の死後、道真の号「道明」に由来する寺名に改められた。

Img_9603説明板

Img_9618応神天皇陵の陪塚

Img_9621左の道標(天保9年(1838))には「右 道明寺 玉手 ○○ 左 八尾 久宝じ 道」

Img_9625道明寺の家並み

Img_9628誉田八幡宮の塀

Img_9631誉田八幡宮

Img_9630説明板

Img_9633誉田林古戦場址碑

このあたりは南北朝、室町、戦国時代の合戦の舞台となった地。薄田隼人は大阪夏の陣で境内に陣を置き出陣し、道明寺付近で討ち死にした。西名阪道の南側に墓がある。『薄田隼人の墓』《地図》  また「狒々(ひひ)退治」で有名な岩見重太郎と同一人物とされ、四国札所の第24番最御崎寺に五輪塔の塚がある。『四国遍路道(高知県③)

Img_9632説明板

Img_9639金鶏(鳳凰?)の乗る常夜灯

Img_9648蓑の辻(竹内街道交差地点) 【ル-ト地図】の②

直進が東高野街道、右から左が『竹内街道』で、渡った左側に道標が立つ。

Img_9649道標(嘉永元年(1848))

「左大和路」「右大坂」

Img_9654姥不動尊 《地図

かつては高屋城の守護神で、その後は東高野街道の往来人の道祖神という。

このあたりは高屋城の二の丸跡で、碑と説明板が立っているというが気づかず。

Img_9660城山交差点の先で左に旧道に入る。

Img_9661高屋神社

ここも高屋城の一画だった。

Img_9662説明板

Img_9666道標・地蔵道標

道標には「左 ふじ井寺大坂
 右 誉田道明寺京」

Img_9667二上山

Img_9671広瀬地区の家並み

Img_9686美具久留御魂神社御旅所(桜井交差点) 《地図

社殿はかなり西方にある。

Img_9689中野町3交差点で左へ旧道に入る。

Img_9693若松町の家並み①

Img_9695

Img_9698

府道705号を渡り富田林寺内町へ入る。

Img_9702寺内町説明板

Img_9705案内図

石川の方へ右から、山中田坂、亀ケ坂、山家坂、向田坂が下っている。

Img_9709寺内町の家並み

Img_9710越井家?

Img_9716山中田坂 《地図

左は富栄戎神社

Img_9720東ます兵食堂

まだ営業しているのだろうか?

Img_9724寺内町の家並み

Img_9727興正院別院(前方左)

Img_9738説明板

Img_9729杉田家(左)・田守家(右)

Img_9731説明板

Img_9732説明板

Img_9736閑散と静まり返っている通り。時々車が通るが。

Img_9740ゴミ袋など一つも見当たらない綺麗な町並み。

Img_9744木口家

Img_9743説明板

Img_9747住んでいる人の影さえ見かけない。

Img_9749どこまでも続いているような旧家。

Img_9750亀ケ坂

中央に「かめがさか」の坂標

Img_9756中井家

屋号「布屋」の呉服商だった。

Img_9757旧杉山家住宅 【ル-ト地図】の③

Img_9758説明板

Img_9759石上露子

明治時代の杉山家の長女で歌人

Img_9763仲村家

屋号「佐渡屋」の酒造業だった。

Img_9764説明板

Img_9766上野家

Img_9773道標(宝暦元年(1751))が立つ辻

「左 ふじい寺」・「右 まきのを 高野山」、さらに「町中 くわへきせる ひなわ火 無用」と町内の火事予防も兼ねている。歩き煙草は昔も今も厳禁なのだ。 

正面は勝間家住宅

Img_9769説明板

Img_9775_2山家坂 《地図

民家の敷地内になっている。

Img_9776坂下方向

ここまでで遠慮した。この先、道が続いているのかは未確認。

Img_9778左に向田坂(こうだざか)を下る。《地図

Img_9781道標

Img_9780坂下方向

Img_9787雪が舞ってきた。ここはもう寺内町を抜けているが旧家が並んでいる。

川西駅手前のそば屋で昼食休憩とした。店を出ると雪は止んでいた。川西駅のガードをくぐり、近鉄長野線の西側の道を南下する。

Img_9798大峯三十三度満願塔

道標にもなっている。

Img_9805滝谷不動駅

南東に日本三不動の一つの滝谷不動尊がある。

Img_9806旧家の前に高野街道の立札

この先の辻に神南辺隆光の建てた道標が立つ。

Img_9808道標(文政11年(1828)) 《地図

道標を立てた神南辺隆光は、鋳物師で素行が悪く、嫌われ者だったという。その後、悟って仏門に入り、橋を架けたり道標や地蔵を建立した。河内から大和、紀伊に至るまで道標、社寺の石碑に彼の名が刻まれている。『竹内街道』・『熊野古道(紀伊路⑧)

滝谷不動2号踏切を渡って国道170号に出る。

Img_9828錦織一里塚跡 【ル-ト地図】の④

塚上の承応2年(1653)と刻まれた宝篋印塔が立つので、塚はそれ以前に築造されたと考えられる。

Img_9821説明板

滝谷不動5号踏切を渡り旧道に入る。

Img_9833孝子地蔵 

Img_9834由来

Img_9835孝子地蔵(元文2年(1737))

道標も兼ねている。   

Img_9838火除地蔵など

Img_9837目録?

Img_9847ここから街道は左右2つの道筋が考えられるそうだ。 《地図

はじめに①右の道筋をたどる。

Img_9849国道から右へ極楽寺沿いの坂を上る。

Img_9856極楽寺橋(南海高野線)を渡って直進する。

「三笑橋」碑が立つ。極楽寺橋のことなのか?

Img_9858突き当りが西高野街道合流地点① 

Img_9860西高野街道合流地点① 【ル-ト地図】の⑤

延命子育地蔵・常夜灯など。

Img_9862割坂を下る。《地図

Img_9863坂下方向

Img_9866河内長野の商店街を抜けて行く。

Img_9867西高野街道合流地点② 《地図

Img_9874高野街道碑・四角錐の説明板

Img_9873説明板

裏面は英語版

*********②の道筋*************

Img_0139汐の宮第二号踏切を渡り、南海高野線線沿いに進む。

Img_0140南海高野線のガードをくぐり、国道170号を渡る。

Img_0146少し古い家並みが残っている道を行く。この先で西高野街道との合流地点②に出る。

Img_0148レトロな看板

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2012年1月19日 (木)

東高野街道②

2012年1月3日

四条畷駅(JR片町線)・・・(大東市)・・・瑞玄寺・・・十念寺・・旧道・・・野崎観音(慈眼寺)・・・メノコ橋欄干石・・・七つ橋地蔵尊・・・(阪奈道路)・・・国道170号・・・鍋田橋(鍋田川)・・・(東大阪市)・・・楯津濱碑・・・旧道・・・大峯山供養塔・・・唐櫃石・・・石切剣箭神社・・・暗越奈良街道交差地点(箱殿東交差点)・地蔵堂・道標・・・枚岡神社鳥居・・・鳥居地蔵・・・大師堂・・・喜里川町南交差点・国道170号・・・瓢箪山駅(近鉄奈良線)・・・太閤橋・・瓢箪山稲荷神社・・・発掘ふれあい館・・・六万寺中交差点・・・梶無神社・・・(八尾市)・・・心合寺山古墳・・・八尾市歴史民俗資料館・・・服部川駅・近鉄信貴線ガード・・・(府道177号)・・・教興寺・・・信貴山道標・・垣内村一里塚跡・・・善光寺・・・来恩寺・・・恩智神社・・・恩智城址・・・シュミイ地蔵・・・八王子神社・・・神宮寺・・・(柏原市)・・・山井寺・・・瑠璃光寺・若倭姫神社・・・禅林寺・・若倭彦神社・・・遠慶寺・・・鐸比古鐸比売神社・・・地蔵堂・・・円林寺・・安明寺・・・観音寺・・・石神社・・・国道170号・・・安堂駅(近鉄大阪線)

  四条畷市→大東市→東大阪市→八尾市→柏原市と進んだ。単調で見所も少ない国道歩きを避けて、少し東側の道をあちこちと寄り道しながらの行程だった。南に向かって行くので追い風で寒くなく快調だ。それにしても大阪は小さな市が多い。大阪都構想が実現すると全部特別区になるのか? 統廃合されるのか? 別にどうでもいいが。

  【ル-ト地図】(24.2km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9244十念寺 《地図

楠正行と一族の菩提寺

Img_9248すぐ先で左に旧道に入る。

大東市の東高野街道の標柱が立つ。

Img_9249標柱

Img_9253説明板

Img_9254野崎観音(慈眼寺)参道

上方落語散歩②』で訪れているのでここから遥拝しパスした。近くには「臍(へそ)の王神社」という変わった神社もある。

Img_9261メノコ橋の欄干石 【ル-ト地図】の①

弘法大師が欄干を枕にして寝たのでネノコ橋で、それがメノコ橋と呼ばれるようになったとか。民話『メノコ橋』(「大東我が街」より)

Img_9259中央から左に「メノコ橋」と刻まれている。

Img_9258寺川の家並み

Img_9262七つ橋地蔵尊

Img_9275楯津濱碑(左・春日神社参道) 《地図

神武天皇の東征の折、孔舎衛坂(くさえざか)の戦で兄の五瀬命が負傷した。神武軍は進めず草香津へ引返し、を立て並べて雄叫びして士気を鼓舞したので、この津を「盾津」と改めた。という日本書紀の話から由来するのだろう。南に孔舎(くさか)小学校がある。

Img_9277旧道は左へ 《地図

Img_9281石切の家並み

Img_9284唐櫃石

役の行者がこの上で座禅したしたという石。「石切の三名石」の一つ。

Img_9283説明板

Img_9287石切剣箭神社

「デンボ(腫れ物)の神様」、がん封じの霊験あらたかで、「石切さん」で親しまれている。

Img_9290参道

正面は絵馬殿で、屋根上には剣箭が天に向かっている。

Img_9293暗越奈良街道交差地点(箱殿東交差点) 【ル-ト地図】の②

東高野街道は直進、暗越奈良街道は右から左へと進む。

Img_9294地蔵堂の脇に道標

Img_9295「東江 すぐなら いせ道」が竹内街道で、「南江 すぐ かうや道」が東高野街道。

Img_9296説明板

Img_9300枚岡神社鳥居

ここも暗越奈良街道で参っているので遥拝のみ。

Img_9301鳥居地蔵堂

鳥居はこのあたりの地名。枚岡神社の鳥居からの地名だろう。 

Img_9303鳥居地蔵

Img_9315瓢箪山の中央商店街を抜けて行く。

Img_9317瓢箪山駅前

瓢箪山古墳はこんな形だったか。

Img_9318瓢箪山稲荷神社参道

「淡路島かよう千鳥の河内のひょうたん山恋の辻占」。このあたりは「みこの辻」と呼ばれ辻占の占場、総本山だった。往来する人の服装、態度、持ち物などを見て判じたという。今は占場は東参道に移されている。

鳥居の下に小さな太閤橋が架かっている。

Img_9321瓢箪山稲荷神社 《地図

双円墳の瓢箪山古墳の上に建っている。

Img_9320説明板

Img_9326東参道のうらば(占場)碑

Img_9332発掘ふれあい館(埋蔵文化財センター)

Img_9331縄手遺跡説明板

六万寺中交差点で単調で見所も少ない国道170号から離れ、東側の道を南下する。

Img_9336梶無神社地図

江戸時代までは航海安全の神として崇敬されていたという。

1kmほど東方に往生院六萬寺がある。そこにも楠正行の墓所がある。

Img_9343横小路の家並み

Img_9346東高野街道の道筋ではないが、国道歩きよりは気分がいい。

Img_9369心合寺山古墳(新池から) 【ル-ト地図】の③

史跡公園として復元整備されている。正月の休みで墳丘内には入れず。

Img_9375説明板

Img_9373前方部の後方から

Img_9386八尾市立歴史民俗資料館

Img_9401左に「史跡の道 八尾市」の標柱。

その向こうの電柱下に岩谷弁財天への道標が立つ。

ここを右折して教興寺へ向かう。

Img_9396岩谷弁財天(岩戸神社)への道標

Img_9406教興寺地図

このあたりは戦国時代の三好長慶と畠山高政との教興寺合戦の地。

Img_9413湯川直光勇戦の地碑(教興寺境内)

Img_9412説明板

Img_9418信貴山道標の辻(国道170号) 《地図

Img_9417信貴山毘沙門天王への道標

Img_9422垣内村一里塚跡 【ル-ト地図】の④

右が西塚跡で、法華塔と一里塚跡標柱が立つ。

Img_9425東塚跡

Img_9426説明板

Img_9433道標「右 善光寺」

Img_9434善光寺  《地図

信濃の善光寺を建立した本田善光の建立という。

Img_9435説明板

Img_9440善光寺の大楠

Img_9447恩智中町の旧家

Img_9449恩智神社

Img_9453

来恩寺

河内西国霊場の11番霊場。恩智神社のすぐ下の感応院が12番。

Img_9457恩智神社参道

Img_9459恩智神社

Img_9461由緒

Img_9468恩智城址(二の丸跡) 【ル-ト地図】の⑤

ここは後の恩智小学校跡で、校門の門柱が残っている。

Img_9467説明板

Img_9472恩智城址から国道170号へ下る坂。

Img_9475シュミイ地蔵堂  《地図

Img_9477シュミイ地蔵(天文13年(1544))

「シュミイ」の由来は不明だそうだ。

Img_9476説明板

再び国道から離れ、東へ八王子神社から神宮寺方向へ入る。

Img_9479八王子神社(右の塀内)

Img_9482説明板

Img_9498瑠璃光寺 《地図

Img_9497境内の如来形坐像(中・鎌倉初期)・菩薩形立像(左)

いずれも古墳の家形石棺の蓋を転用して造られた石像。

Img_9492説明板

Img_9500若倭姫(わかやまとひめ)神社(瑠璃光寺境内)

Img_9505このあたりは細い道と旧家が多い。

Img_9511若倭神社 《地図

平野地区の産土神で別名を「あかざ八幡」

Img_9512説明板

Img_9519鐸比古鐸比売(ぬでひこ ぬでひめ)神社  《地図

Img_9522由緒

Img_9525路地のような道を抜けて行く。

Img_9531観音寺への上り坂 《地図

途中に民家風な円林寺、安明寺がある。

Img_9537途中から振り返る。なかなか風情のある坂だ。

Img_9538観音寺

知識寺の法灯を継ぐ寺。このあたりには柏原ぶどう畑が広がっている。「柏原ワイン」もある。

Img_9542説明板

Img_9544

観音寺からの眺め

Img_9556石神社の大楠

樹齢500年近く

Img_9554説明板

Img_9557石神社

Img_9565知識寺東塔の礎石

Img_9563説明板

国道170号に出て安堂駅に向かった。

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2012年1月17日 (火)

東高野街道①

2012年1月2日

八幡市駅(京阪本線)・・・金昌寺橋(放生川)・・・飛行神社・・・安居橋・・・岩清水八幡宮(一の鳥居・頼朝手植えの松・七曲り大坂・三の鳥居・本殿・太子坂)・・・八幡橋・・・買屋橋・・・本妙寺・・・頼風塚・・・巡検道道標・・・世音寺・・・寝物語国分橋跡・・・神原交差点・・・正法寺・・安心院・・・京街道道標・・・泥松稲荷社・・・西車塚古墳・八角堂・・・松花堂庭園・・・奈良街道道標(月夜田交差点)・・・もみじ寺(吉井勇寓居地)・・・山根街道分岐地点・・・八幡南山交差点・国道1号・・・洞ヶ峠・・旧道・・・円福寺・・(枚方市)・・枚方ハイツ・・・国道1号・・・船橋川橋(船橋川)・招堤交差点・新大池・・・出屋敷北交差点・旧道・・・長ケ嶽橋(穂谷川)・・・出屋敷地区・・東高野街道道標・・円通寺・・・府道18号・・・(交野市)・・・村野浄水場・・・出鼻橋・旧道・・・郡津地区・・・府道18号・郡津下手踏切(京阪交野線)・・・新天野川橋(天野川)・(枚方市)・旧道・・・府道20号・・・本尊掛松遺跡・・道標・・(第二京阪道路)・・(交野市)・・・地蔵  ・旧道・・・星田の一里塚跡碑・・・(JR片町線ガード)・・・星田駅・・・大井川万吉碑・・傍示川・・・星田地区・・・府道20号・(寝屋川市)・・旧道・・・弘法井戸・・・打上げの四辻・・府道20号・・・(JR片町線・東寝屋川駅)・・・お大師さん・・・二月堂燈籠・・・(四条畷市)・・・(JR片町線ガード)・忍ケ丘駅(JR片町線)・・・三徳稲荷碑・・・府道20号・・・道標・守口街道(清滝街道)合流地点・・・中野交番・清滝街道分岐地点・・三坪橋(跡)(清滝川)・・・(国道163号ガード)・・・歴史民俗資料館・・・府道170号・和田賢秀墓・・・楠公橋・・・四条畷神社・・・四条畷駅(JR片町線)

  【ル-ト地図】(25.8km)

 京、大阪からの高野山への道は主に①東高野街道、②西高野街道、③下高野街道、④中高野街道4つのルートがあり、河内長野で合流し高野山へ向かった。①は京都の岩清水八幡宮を起点に、河内国を南下し河内長野に至る。②は堺を起点に南東に進み、河内長野で①に合流する道で、竹内街道との分岐点を始めに、一里毎に里程石が高野山女人堂まで13基立てられている。③は四天王寺から南下して狭山で②と合流し、④は大阪の平野からほぼ一直線に南下し、松原、狭山を経て②と合流する。

 ♪『青年は荒野をめざす』♪ならば「中年は高野をめざす」。正月早々、たわ言を口走りながら京街道の御幸橋を渡った石清水八幡宮前から河内長野までの東高野街道を3日で歩き、堺から西高野街道を東高野街道の合流地点まで1日で歩く。

  参考:『歴史の道調査報告書 第2集 高野街道』(大阪府教育委員会)・『八幡散策

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0044高野街道概略図

③下高野街道と④中高野街道が②西高野街道に合流し、さらに①東高野街道と合流し高野山へと続く。

Img_8874飛行神社

まずは今年の飛躍を願って初詣。

Img_8872縁起

Img_8876零戦の機首部

昭和56年に大阪湾から引き上げられたもの。飛躍どころか落下物とは。今年の運勢はこれで決まりか。

Img_8865安居橋(放生川) 《地図

「八幡八景」の一つというが、あとの七景はどこか? 調べても分からず。

石清水八幡宮に初詣だ。                  

Img_8862頼朝手植えの松

屋台が並び、多くの初詣人で賑わっている。

Img_8863標柱

道標にもなっている。松からは少し離れている。

Img_8843七曲りを上る。

Img_8844影清塚

平景清ゆかりの「景清塚」と思っていたが、昔は大祓いで人形を流す行事がここで行われ、参詣人もこの清水(跡)に己の影を写して心身を祓い清めたという。「かげきよ」とは、文字通り「影清め」、即ち「姿を清める所」という意味だそうだ。

Img_8846大坂を上って三の鳥居から本殿へ

Img_8852本殿

裏参道を下る。

Img_8861太子坂を下る。

Img_8905頼風塚へ

民家の間の路地を入る。

Img_8903頼風(よりかぜ)塚 【ル-ト地図】の①

死んでなお煩悩から解脱できない女好きの男の塚で、塚の周りの芦(あし)は、松花堂庭園にある女郎花塚の方ばかりへ向いているという。

Img_8904説明板①

Img_8902説明板②

八幡市民図書館前に道標などが立つ。

Img_8906「正平役園殿口古戦場」碑(左)は、正平7年(1352)の南北朝の「正平の役」で、八幡を主戦場とした園殿口(そのどのぐち)の争いのこと。道標も兼ねている。

右は「金剛律寺故址 京都元標四里三十二丁」碑で、金剛律寺は、建武年間(1334~37)頃に建立されたが、江戸時代末に廃寺になったという。大正3年に、この地に町役場ができ、ここが八幡における計測基点となったそうだ。

Img_8915巡検道道標(左の民家の先)

Img_8917巡検道」・「右宇治近道」

巡検道はここを起点とし東へと延び、旧市街地を抜けて大谷川を渡り、田園地帯を下奈良まで、その距離は約2kmだそうだ。

Img_8922寝物語古跡国分橋(くにわけきょう)跡(右に石柱が立つ)

その昔、郡や村の境を決める際、両方の村から同時に出発し、出会った場所をその境界としたという。しかし、「出発までにはまだ時間があるから、もう少し寝ていよう」と、そのまま寝込んでしまい、出発の時刻を過ぎてしまい、そのために領域が減ってしまったというものだ。標柱の前に架かっていた「かへらずの橋」(国分橋のこと)とともに江戸時代以前からの伝承にちなんで名づけられたものという。

神原交差点から南に進む。

Img_8929旧家の間を通って行く。

Img_8936正法寺唐門 《地図

志水氏の娘で徳川家康の側室となった、お亀の菩提寺。

Img_8933説明板

Img_8942京街道道標(自動車の前)

 東在所道  京街道」(昭和2年)

Img_8947泥松稲荷社

はでな色の家と思ったら稲荷さんだった。「どろ松」というの面白い由来話がある。「稲荷」なのに狐でなく狸なのもおかしいか。

Img_8949右へ八角堂に寄る。分岐に「水月庵」の石柱

Img_8955西車塚古墳の上に八角堂が建つ。

Img_8956説明板

Img_8959八角堂 【ル-ト地図】の②

Img_8973松花堂庭園表門

「松花堂弁当」の名前の起源はここ。

Img_8970説明板

Img_8975奈良街道・高野街道道標(信号機の下) 《地図

このあたりは女郎花、月夜田、もみじ寺など風情ある名が残っている。

Img_8978「左 奈良街道」・裏面に「右 高野街道」

Img_8980もみじ寺

正式な寺名は宝青院(庵)か? 

左に「歌人吉井勇先生寓居之地」碑・右に「小野篁公作 十王像 閻魔堂」碑。閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという小野篁作という十王像は各地にある。

Img_6403山根街道(直進)との分岐地点 《地図

東高野街道は右折だが、直進して八幡南山交差点から洞ヶ峠の方へ迂回して歩いた。

Img_8987洞ヶ峠地図

日和見の筒井順慶の伝承の地。国道沿いに茅葺の「洞が峠茶屋」があるのだが、一本手前を右折してしまったようだ。

Img_8997円福寺

木造の達磨大師坐像(国重文)を安置。

Img_8994説明板

Img_9001枚方ハイツを抜けて行く。このあたりは高野道という地名だ。

国道1号に出て船橋川を渡る。

Img_9015新大池

出屋敷北交差点から旧道に入る。

Img_9029出屋敷の家並み 《地図

Img_9033旧家が並ぶ。

Img_9035
三重?屋根

Img_9043多田家の生垣の間に「東高野街道」標柱

Img_9041出屋敷地区説明板(円通寺前)

府道18号に出て南下し、出鼻橋を渡って左に旧道に入る。

Img_9054郡津地区へと進む。

Img_9058郡津の家並み

京阪交野線、新天野川橋を渡って行く。このあたりは分かりにくかった。

Img_9074本尊掛松遺跡 《地図

Img_9075説明板

Img_9078道標が立つ辻

斜め左から来るのが「山根街道」。正面上は第二京阪道路

Img_9086「右 山根街道 すぐ東高野街道」・右後ろは「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」(安政2年)

第二京阪道路をくぐり府道20号を南下する。

Img_9091地蔵の所で右に旧道に入り、パチンコ・スロット店の前を通って行く。

Img_9096畑の間の道となる。

Img_9098星田の一里塚跡碑 【ル-ト地図】の③

昔は両塚の上に松が植えられていて、そばに大師堂があったそうだ。起点はどこなのか? 前後の一里塚はどこにあったのか? 説明板などはなく分からず。

Img_9104星田駅前を過ぎ右に入る。

このあたりは大坂夏の陣での家康軍の陣地跡という。

Img_9105大井川万吉碑(安政3年(1856))

大谷出身で河内相撲から江戸相撲に出世したという。道標を兼ねていて、「北行き すぐ京 八はた」だそうだが、かすれていて読めない。

傍示川を渡り星田地区に入る。

Img_9117星田の家並み① 《地図

Img_9120

Img_9125

Img_9127

Img_9132

Img_9145弘法井戸 【ル-ト地図】の④

Img_9142説明板

Img_9149打上げの四ツ辻 《地図

奈良伊勢街道(右から左へ)との交差地点。直進すると東寝屋川駅にぶつかってしまうので、ここを右折して府道20号に出る。

Img_9157説明板

Img_9152道標(安政4年)

説明板を持っているのは「鉢かづき姫」の石像。

Img_9174お大師さん(明和小学校の向い)

弘法大師像の石祠と周りの石は打上古墳群の石材。

Img_9170説明板

Img_9178二月堂燈籠(2基) 《地図

階段の小さな後ろの方が古く明和3年(1766)の建立。

ここを左に入って右に曲がり再び府道20号に出る。

Img_9179説明板

Img_9188府道20号に出て四条畷市に入る。

忍ケ丘駅の先で旧道に入る。

Img_9191三徳稲荷大明神碑 《地図

一本の松から三枝に分かれた松があって「三本松の稲荷」といわれていた。昭和40年に祠を「三徳稲荷」として祀ったが現在は石碑のみ。

ここを右折する。

Img_9193清滝街道(守口街道)と合流する辻(前方の横断歩道の所)に道標が立つ。 《地図

Img_9195①左は「右清滝街道 すぐ東高野街道」、

②中は「靍澤亀梥 東いせなら 南かりや 門弟中」で、文楽三味線師匠の靍澤亀梥(かめさわかめまつ)の遺徳を顕彰しての建立とか。

①②とも明治以降のものだろう。旧道はここを右折して、清滝街道を少し進み左折して行く。それとも元の位置から移設されたか?

③右の地蔵(寛政10年(1798))には「右ならいせ道 左京やハた道」

Img_9199清滝街道説明板①

Img_9200説明板②

道標は⑤の地点

Img_9206中野交番前で左折し三坪橋を渡り、清滝街道(守口街道)から分かれる。右は清滝街道の説明板。

Img_9207三坪橋を渡り、国道163号をくぐって行く。

Img_9209四条畷市立歴史民俗資料館地図

Img_9211和田賢秀の墓 【ル-ト地図】の⑤

南朝方の忠臣は今は歯の神様だそうだ。

Img_9212説明板

Img_9213東高野街道説明板①

Img_9214説明板②

⑤の「三坪橋は江戸時代の面影を残す石橋」とあるが、今は橋とも呼べない何の風情もないただの車道となっている。

Img_9215案内図

Img_9239四条畷神社

Img_9235四条畷神社

主祭神は小楠公の楠正行

Img_9228桜井の別れ父子像

「桜井駅跡」は『西国街道②』に記載。

Img_9229説明板

四条畷駅の西側に小楠公の墓所があるが、忠君・忠孝は嫌いで苦手で遠慮した。

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