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2012年1月23日 (月)

西高野街道

2012年1月5日

堺東駅(南海高野線)・・・高野山女人堂十三里石・竹内街道分岐地点・・・耳原橋(南海高野線)・・・(仁徳天皇陵)・・・国道310号・・陵東橋(JR阪和線)・・・梅北交差点・旧道・・・本通寺・・・御廟表塚古墳・中百舌鳥の大楠・筒井家・・・府立大学前交差点・国道310号・・・中百舌鳥中学校・・旧道・・・白鷺公園・・・(泉北高速鉄道ガード)・・・星谷池・・・十二里石・関茶屋地区・・薬師如来道標・・・中地蔵・・・唯妙寺・・・(阪和自動車道ガード)・・・法界地蔵・中茶屋自治会館・・・地蔵道標・・興源寺・・・(福田南交差点・国道310号)・・・十一里石・・・岩室歩道橋(府道34号)・・・家塾跡碑・・・道標・天野街道分岐・(狭山市)・・おわり坂(尾張坂)・・おわり坂交差点・・牛瀧地蔵・下高野街道合流地点・上三津屋橋(三津屋川)・・・三津屋地蔵・・・三津屋大師堂・・・茱萸木大師堂・・・茱萸木八幡宮・・・酒かけ地蔵尊・・・濁り池・・・十里石・・・天野橋(西除川)・・(河内長野市)・・西高野街道説明板・・・道標・常夜灯・錦坂地蔵堂・錦坂・・松林寺・・・中高野街道合流地点・・・盛松寺・・・南坂・・・晴明塚・・・(外環状線)・・・道標・・・原町の旧阿弥陀寺石造物群・・・(国道310号)・・・寺元記念病院・・・膳所藩代官所跡・・・行者堂・九里石・・・東高野街道合流地点①・・割坂・・・東高野街道合流地点②・河内長野駅(南海高野線・近鉄長野線)

  【ル-ト地図】(19.1km)

 西高野街道は堺の大小路と大道筋(紀州街道)の交差点を起点として南東に向い、下高野街道、中高野街道と合流し、河内長野で東高野街道と合流する。その先は一本の高野街道となって高野山へと向かう。

 高野山女人堂への里程石をたどりながら、九里石のある東高野街道と合流地点まで歩く。この先、高野山までは少し暖かくなってから「高野山町石道」も加えて歩くとするか。

 西高野街道の起点の大小路から竹内街道分岐点までは『竹内街道』に記載。
 この先、高野山までは『高野街道①②』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9881竹内街道分岐点 【ル-ト地図】の①

右に地蔵堂と高野山女人堂十三里石、分岐に竹内街道碑。

Img_9885高野山女人堂十三里石 

安政4年(1857)に茱萸木村(くみのきむら・狭山市)の農民小左衛門、五兵衛が発起人となり、一里ごとに13本建てられた道標。

耳原橋(南海高野線)を渡り、右に仁徳天皇陵を見ながら国道310号、陵東橋でJR阪和線を越えて行き、梅北交差点で左に旧道に入る。

Img_9894百舌鳥梅北町の家並み 《地図

Img_9910御廟表塚古墳(後円部) 《地図

前方部は削平されている。

Img_9908説明板

Img_9907百舌鳥の大楠・筒井家(御廟表塚古墳の前)

筒井順慶の子孫の屋敷という。

いったん国道に出て、再び左に旧道に入る。

Img_9925旧家(新家町)

この先の辻の左側に十二里石 

Img_9927十二里石と地蔵堂 【ル-ト地図】の②

Img_9928地蔵は道標にもなっている。

Img_9932関茶屋の家並み

旅人が休息する茶屋があった。堺市で設置した「西高野街道」道標が街道沿いにいくつもあり、目印になる。

Img_9936薬師如来道標(左)

「東ふじい寺 なら 道」

Img_9939中地蔵

唯妙寺の先で阪和自動車道をくぐる。

Img_9947法界地蔵(中茶屋自治会館前) 《地図

Img_9953道標・延命地蔵道標

どっちへ進む?

Img_9954「右 かうや 大ミ祢 左 たきたに金剛山」で、今でも旅人に役立つ現役の道標だ。

Img_9957興源寺 《地図

大日如来の不動使者として童子形に表表わされた木造不動明王立像を安置。

Img_9960説明板

Img_9963旧家

Img_9967陶器北地区の家並み

Img_9972十一里石(左) 【ル-ト地図】の③

 この先で岩室歩道橋(府道34号)を渡る。

Img_9978家塾跡碑・岩室郵便局跡碑・西高野街道道標

家塾は篤志家が開いた庶民のための私塾、教育塾。

Img_9981天野街道分岐点 《地図

右は女人高野とも呼ばれる天野山金剛寺への『天野街道』。地蔵の祠の右に高倉寺(法起菩薩)への新しい道標も立っている。

Img_9983「右 あまの山二里 左 かうや山十里」

Img_9991おわり(尾張坂)を下る。《地図

尾張家にゆかりの坂なのか?

Img_9997牛瀧地蔵(慶応3年(1867)) 《地図

牛滝の日に近郊の人々が牛の足を洗った。「足の地蔵」ともいわれ、皮膚病にご利益ありという。

ここの上三津屋橋の所が、下高野街道との合流地点。

Img_0004上三津屋橋を渡って川沿いに少し進み旧道っぽい道に入る。

Img_0006三津屋地蔵 《地図

Img_0009三津屋大師

前の写真と同じ女性が参拝している。邪魔をしないようここから遥拝で済ます。

Img_0010茱萸木(くみのき)大師堂 《地図

ここを右折し南下する。

Img_0015茱萸木八幡神社 《地図

Img_0018酒かけ地蔵堂

幟には「酒かけ地蔵  歯痛・頭痛祈願 玄昌法師地蔵尊」とある。

Img_0020地蔵

正月で酒を沢山かけられたか、満足そうな顔をしている。鼻も酒焼けで光っているか。

Img_0025茱萸木の家並み

Img_0030十里石(左の電柱脇) 【ル-ト地図】の④

里石建立を発起した小左衛門と五兵衛は、ここ茱萸木村の農民。

Img_0032旧家

天野橋(西除川)を渡って河内長野市に入る。

Img_0038西高野街道道標・説明板(河内長野市設置)

Img_0046道標

Img_0040説明板

Img_0047錦坂地蔵堂・大神宮常夜灯・宝篋印塔・道標

道標には、「右 上神谷妙見山 二十七丁」で、上神谷(にわだに)の妙見山感応寺への道。

この前の坂が錦坂で緩やかに上って行く。

Img_0057松林寺

両界曼荼羅図(河内長野市文化財)

Img_0058説明板

Img_0066中高野街道合流地点 《地図

Img_0067右が中高野街道

振り返って見ている。分岐に常夜灯、地蔵堂。

Img_0065道標(天保7年(1836))

「右平野迄四里、左さかい大坂」で、右が中高野街道・左が西高野街道。

Img_0064地蔵道標

前垂れの下は「右ハ平野道 左ハ堺大坂道」か?

Img_0068反対側には説明板と四国八十八ヵ所遙拝道の碑(神南辺大道心(隆光)の建立)


西高野街道は左の南坂を下って行くが。右の坂を上って盛松寺に寄る。

Img_0073説明板

Img_0078盛松寺

Img_0079「與通(よつ)のお大師さん」と呼ばれている。

弘法大師がここで昼食をとり、万病に効く薬方として「柚子みそ」を伝えたという。大師が立っていた所から樟が生え4本に枝分かれしたので、「四鉤樟」(よつるくすのき)が訛って→「よつくぬぎ」→「四つくの木」→「四通」(よつう)→「四樟」(よつ)→「与通」→「與通」だとか。

Img_0081六角堂内

手前右が立江地蔵で、中央奥が子安地蔵 

Img_0086街道に戻り南坂を下る。《地図

右に地蔵堂と宝篋印塔(元文2年(1737))

Img_0089晴明塚(右の常夜灯の所)

Img_0090明塚 《地図

安倍晴明が、①占の当たらないことを嘆き、易の卦書をここに埋めた。②晴明が死が迫った事を悟り、ここで秘伝書『金烏玉兎集』を焼き、霊力ある灰の中に深く埋めて塚とした。などの伝承があるようだ。

もとは「明塚」と刻まれていたのを彫り直しているので、「日」辺の形がいびつになっている。

この先で外環状線をくぐる。

Img_0102「右 かうや 左 ふじゐ寺」か?

Img_0111原町の旧阿弥陀寺石造物群 《地図


後ろの2体が十三仏板碑(寛永11年(1634))で、それぞれに不動明王などの13の仏が彫られている。

Img_0104説明板

Img_0114旧道は寺元記念病院の後ろを通って行く。旧道の面影は薄いが。

Img_0123膳所藩代官所跡(左) 《地図

Img_0127説明板

Img_0132九里石 【ル-ト地図】の⑤

ここは西高野街道沿いではない。もとは東高野街道との合流地点①にあったという。なぜ移したのか?

Img_0129九里石と道標

道標は「 中本山極楽寺 左 さかい四里大坂七里」で、は東高野街道、は西高野街道のことで、これも合流地点①から移されたようだ。

Img_0135東高野街道合流地点① 《地図

九里石と道標はここにあったのだろう。

この先、割坂を下って河内長野駅前の東高野街道合流地点②へ向う。(昨日の『東高野街道③』に記載)

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