東高野街道①
2012年1月2日
八幡市駅(京阪本線)・・・金昌寺橋(放生川)・・・飛行神社・・・安居橋・・・岩清水八幡宮(一の鳥居・頼朝手植えの松・七曲り・大坂・三の鳥居・本殿・太子坂)・・・八幡橋・・・買屋橋・・・本妙寺・・・頼風塚・・・巡検道道標・・・世音寺・・・寝物語国分橋跡・・・神原交差点・・・正法寺・・安心院・・・京街道道標・・・泥松稲荷社・・・西車塚古墳・八角堂・・・松花堂庭園・・・奈良街道道標(月夜田交差点)・・・もみじ寺(吉井勇寓居地)・・・山根街道分岐地点・・・八幡南山交差点・国道1号・・・洞ヶ峠・・旧道・・・円福寺・・(枚方市)・・枚方ハイツ・・・国道1号・・・船橋川橋(船橋川)・招堤交差点・新大池・・・出屋敷北交差点・旧道・・・長ケ嶽橋(穂谷川)・・・出屋敷地区・・東高野街道道標・・円通寺・・・府道18号・・・(交野市)・・・村野浄水場・・・出鼻橋・旧道・・・郡津地区・・・府道18号・郡津下手踏切(京阪交野線)・・・新天野川橋(天野川)・(枚方市)・旧道・・・府道20号・・・本尊掛松遺跡・・道標・・(第二京阪道路)・・(交野市)・・・地蔵 ・旧道・・・星田の一里塚跡碑・・・(JR片町線ガード)・・・星田駅・・・大井川万吉碑・・傍示川・・・星田地区・・・府道20号・(寝屋川市)・・旧道・・・弘法井戸・・・打上げの四辻・・府道20号・・・(JR片町線・東寝屋川駅)・・・お大師さん・・・二月堂燈籠・・・(四条畷市)・・・(JR片町線ガード)・忍ケ丘駅(JR片町線)・・・三徳稲荷碑・・・府道20号・・・道標・守口街道(清滝街道)合流地点・・・中野交番・清滝街道分岐地点・・三坪橋(跡)(清滝川)・・・(国道163号ガード)・・・歴史民俗資料館・・・府道170号・和田賢秀墓・・・楠公橋・・・四条畷神社・・・四条畷駅(JR片町線)
【ル-ト地図】
京、大阪からの高野山への道は主に①東高野街道、②西高野街道、③下高野街道、④中高野街道4つのルートがあり、河内長野で合流し高野山へ向かった。①は京都の岩清水八幡宮を起点に、河内国を南下し河内長野に至る。②は堺を起点に南東に進み、河内長野で①に合流する道で、竹内街道との分岐点を始めに、一里毎に里程石が高野山女人堂まで13基立てられている。③は四天王寺から南下して狭山で②と合流し、④は大阪の平野からほぼ一直線に南下し、松原、狭山を経て②と合流する。
♪『青年は荒野をめざす』♪ならば「中年は高野をめざす」。正月早々、たわ言を口走りながら京街道の御幸橋を渡った石清水八幡宮前から河内長野までの東高野街道を3日で歩き、堺から西高野街道を東高野街道の合流地点まで1日で歩く。
*参考:『歴史の道調査報告書 第2集 高野街道』(大阪府教育委員会)・『八幡散策』
写真をクリックすると拡大します。
③下高野街道と④中高野街道が②西高野街道に合流し、さらに①東高野街道と合流し高野山へと続く。
まずは今年の飛躍を願って初詣。
昭和56年に大阪湾から引き上げられたもの。飛躍どころか落下物とは。今年の運勢はこれで決まりか。
「八幡八景」の一つというが、あとの七景はどこか? 調べても分からず。
石清水八幡宮に初詣だ。
屋台が並び、多くの初詣人で賑わっている。
道標にもなっている。松からは少し離れている。
平景清ゆかりの「景清塚」と思っていたが、昔は大祓いで人形を流す行事がここで行われ、参詣人もこの清水(跡)に己の影を写して心身を祓い清めたという。「かげきよ」とは、文字通り「影清め」、即ち「姿を清める所」という意味だそうだ。
裏参道を下る。
民家の間の路地を入る。
頼風(よりかぜ)塚 【ル-ト地図】の②
死んでなお煩悩から解脱できない女好きの男の塚で、塚の周りの芦(あし)は、松花堂庭園にある女郎花塚の方ばかりへ向いているという。
八幡市民図書館前に道標などが立つ。
「正平役園殿口古戦場」碑(左)は、正平7年(1352)の南北朝の「正平の役」で、八幡を主戦場とした園殿口(そのどのぐち)の争いのこと。道標も兼ねている。
右は「金剛律寺故址 京都元標四里三十二丁」碑で、金剛律寺は、建武年間(1334~37)頃に建立されたが、江戸時代末に廃寺になったという。大正3年に、この地に町役場ができ、ここが八幡における計測基点となったそうだ。
「巡検道」・「右宇治近道」
巡検道はここを起点とし東へと延び、旧市街地を抜けて大谷川を渡り、田園地帯を下奈良まで、その距離は約2kmだそうだ。
その昔、郡や村の境を決める際、両方の村から同時に出発し、出会った場所をその境界としたという。しかし、「出発までにはまだ時間があるから、もう少し寝ていよう」と、そのまま寝込んでしまい、出発の時刻を過ぎてしまい、そのために領域が減ってしまったというものだ。標柱の前に架かっていた「かへらずの橋」(国分橋のこと)とともに江戸時代以前からの伝承にちなんで名づけられたものという。
神原交差点から南に進む。
志水氏の娘で徳川家康の側室となった、お亀の菩提寺。
「左 東在所道 右 京街道」(昭和2年)
はでな色の家と思ったら稲荷さんだった。「どろ松」という狸の面白い由来話がある。「稲荷」なのに狐でなく狸なのもおかしいか。
右へ八角堂に寄る。分岐に「水月庵」の石柱
八角堂 【ル-ト地図】の③
松花堂庭園表門
「松花堂弁当」の名前の起源はここ。
奈良街道・高野街道道標(信号機の下) 《地図》
このあたりは女郎花、月夜田、もみじ寺など風情ある名が残っている。
正式な寺名は宝青院(庵)か?
左に「歌人吉井勇先生寓居之地」碑・右に「小野篁公作 十王像 閻魔堂」碑。閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという小野篁作という十王像は各地にある。
東高野街道は右折だが、直進して八幡南山交差点から洞ヶ峠の方へ迂回して歩いた。
日和見の筒井順慶の伝承の地。国道沿いに茅葺の「洞が峠茶屋」があるのだが、一本手前を右折してしまったようだ。
木造達磨大師坐像(国重文)を安置。
国道1号に出て船橋川を渡る。
出屋敷北交差点から旧道に入る。
出屋敷の家並み 《地図》
府道18号に出て南下し、出鼻橋を渡って左に旧道に入る。
京阪交野線、新天野川橋を渡って行く。このあたりは分かりにくかった。
本尊掛松遺跡 《地図》
斜め左から来るのが「山根街道」。正面上は第二京阪道路
「右 山根街道 すぐ東高野街道」・右後ろは「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」(安政2年(1855))
第二京阪道路をくぐり府道20号を南下する。
地蔵の所で右に旧道に入り、パチンコ・スロット店の前を通って行く。
昔は両塚の上に松が植えられていて、そばに大師堂があったそうだ。起点はどこなのか? 前後の一里塚はどこにあったのか? 説明板などはなく分からず。
このあたりは大坂夏の陣での家康軍の陣地跡という。
大谷出身で河内相撲から江戸相撲に出世したという。道標を兼ねていて、「北行き すぐ京 八はた」だそうだが、かすれていて読めない。
傍示川を渡り星田地区に入る。
星田の家並み① 《地図》
打上げの四ツ辻 《地図》
奈良伊勢街道(右から左へ)との交差地点。直進すると東寝屋川駅にぶつかってしまうので、ここを右折して府道20号に出る。
説明板を持っているのは「鉢かづき姫」の石像。
弘法大師像の石祠と周りの石は打上古墳群の石材。
二月堂燈籠(2基) 《地図》
階段の小さな後ろの方が古く明和3年(1766)の建立。
ここを左に入って右に曲がり再び府道20号に出る。
忍ケ丘駅の先で旧道に入る。
三徳稲荷大明神碑 《地図》
一本の松から三枝に分かれた松があって「三本松の稲荷」といわれていた。昭和40年に祠を「三徳稲荷」として祀ったが現在は石碑のみ。
ここを右折する。
清滝街道(守口街道)と合流する辻(前方の横断歩道の所)に道標が立つ。 《地図》
②中は「靍澤亀梥 東いせなら 南かりや 門弟中」で、文楽三味線師匠の靍澤亀梥(かめさわかめまつ)の遺徳を顕彰しての建立とか。
①②とも明治以降のものだろう。旧道はここを右折して、清滝街道を少し進み左折して行く。それとも元の位置から移設されたか?
③右の地蔵(寛政10年(1798))には「右ならいせ道 左京やハた道」
道標は⑤の地点
中野交番前で左折し三坪橋を渡り、清滝街道(守口街道)から分かれる。右は清滝街道の説明板。
和田賢秀の墓 【ル-ト地図】の⑥
南朝方の忠臣は今は歯の神様だそうだ。
⑤の「三坪橋は江戸時代の面影を残す石橋」とあるが、今は橋とも呼べない何の風情もないただの車道となっている。
主祭神は小楠公の楠正行。
「桜井駅跡」は『西国街道②』に記載。
四条畷駅の西側に小楠公の墓所があるが、忠君・忠孝は嫌いで苦手で遠慮した。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2023年11月~)追加分(2023.12.14)
- 「歩いた坂」追加分(2023.12.10)
- JR京浜東北線を歩く①(2022.10.22)
- 大落古利根川・中川を歩く(2023.11.22)
- 柴又街道②(2023.11.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント