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2012年1月31日 (火)

大山街道(赤坂御門跡→二子の渡し跡)

2012年1月15日

永田町駅(地下鉄半蔵門線)・・諏訪坂下・・赤坂御門跡・・・弁慶橋(弁慶堀)・赤坂見附交差点・国道246号(青山通)・・・(豊川稲荷)・・・旧道・牛鳴坂・・・丹後坂上・・・薬研坂上・国道246号・・・高橋是清記念公園・・カナダ大使館・新坂上・・・梅窓院・・・善光寺・・・(渋谷区)・青山学院大学・・こどもの城・・・宮益坂上交差点・・・宮益坂・・・御嶽神社・・・(明治通)・(JR山手線)・・道玄坂・・・国道246号(玉川通)・・・神泉町交差点・(目黒区)・旧道・大坂・・・山手通・・・国道246号・・・上目黒氷川神社・・・大橋(目黒川)・・・(世田谷区)・江尻大橋駅(東急田園都市線)・旧道・・・池尻稲荷神社・・・国道246号・・三軒茶屋交差点・追分(新道・旧道)・都道3号(世田谷通り)・・・教学院(最勝寺・目青不動)・・・若林交差点(環七通り)・・・駒留八幡神社・・・大吉寺・円光院・旧道(ボロ市通り)・・世田谷代官屋敷跡・・郷土資料館・・・弦巻の追分(登戸道分岐)・・・大山旅人像・蛇崩川洗い場跡・・・地蔵と馬頭観音・・・国立医薬品食品衛生研究所・・・用賀追分(旧道・新道合流地点)・・・ようが商店街・・・真福寺(赤門寺)・・・無量寺・・・都道427号・・用賀駅(田園都市線)・・(東名高速道路)・・田中橋・(首都高3号)・・延命地蔵堂(旧道・新道追分)・旧道・・・(都道311号)・・・大空閣寺・・・笠付庚申塔・・慈眼寺・・瀬田玉川神社・・慈眼寺坂・・玉川寺・・・両親閣東京別院・・玉川大師・・・治大夫橋(次大夫堀)・・・(国道246号)・・・兵庫橋(野川)・・・兵庫島・・・(田園都市線)・・・二子の渡し跡碑・・・二子橋(多摩川)・・・二子の渡し跡入口標柱・・・二子新地駅(田園都市線)

  【ル-ト地図

  この先は、『川崎市の坂①』→『川崎市の坂②』→『青葉区・緑区の坂』へ続く。

 大山街道は赤坂御門を起点として、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道。東海道と甲州街道の間の脇往還で、「厚木街道」、「矢倉沢往還」、大山参詣の「大山道」などとも呼ばれていた。大山詣りの帰路は藤沢・江の島・鎌倉などでの遊興、観光も楽しまれた。(落語『大山詣り』)

 今日は港区の赤坂御門跡から渋谷区→目黒区→世田谷区と進み、日曜と重なった「世田谷ボロ市」の人波に揉まれ、用賀、瀬田から多摩川を渡って川崎市に入り、二子宿の入口まで歩いた。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0506納め太刀

大山に奉納する木刀。大きさを競うようになり、7mを超す物もあるそうだ。

Img_0169赤坂御門跡(赤坂見附跡) 【ル-ト地図】の①

ここが大山街道の起点、各地からいくつもある「大山道」のメインルートだ。

Img_0164明治初期の写真

Img_0165説明板

Img_0175弁慶橋(弁慶堀)

もとは江戸城普請の大工の棟梁、弁慶小左衛門が藍染川下流に架けた橋で、あの弁慶とは関係がないようだ。

Img_0178豊川稲荷神社

神社の右に九郎九坂、左に弾正坂が下っている。このあたりの坂は『港区の坂⑥』に記載。

Img_0176牛鳴坂を上る。《地図

Img_0183薬研坂の坂上に出る。

Img_0186高橋是清公園

2・26事件でここにあった邸宅の2階で殺された。

Img_0193梅窓院地図

「青山」の地名は江戸時代の初め、このあたり一帯を配領した徳川家の家臣、美濃郡上八幡の青山氏によるともいう。領主青山幸成と側室の法名から「長青山梅窓院」と名づけた。「天狗煙草」の岩谷松平の墓があるそうだ。邸宅があった渋谷区には天狗坂がある。『渋谷区の坂②

Img_0194善光寺 《地図

もとはに谷中の善光寺坂にあった信州善光寺の別院。元禄16年(1703)、類焼により現在地に移転した。境内に南青山の隠れ家で自殺を図り捕縛され死んだ高野長英の記念碑がある。6年間も各地を転々と逃亡生活を送っていた。『赤山街道①』・『四国遍路道(愛媛県④)』 その他、中山道板橋宿、九州の中津城下にも潜伏していた。

Img_0203青山学院大学

ここは江戸時代の松平左京大夫邸跡。今日は大学入試センター試験日だ。

Img_0205こどもの城

2015年2月1日で閉館した。

Img_0208右へ宮益坂を下る。《地図

Img_0213渋谷駅ハチ公口前から道玄坂を上る。

いつものことながら混雑している。

Img_0216道玄坂の途中の古い店舗跡

道玄坂坂上交番前で右に滝坂道が分岐する。

坂上から国道246号に出て進む。

Img_0220右に大坂を下る。 【ル-ト地図】の②

今は坂下近くで山手通りにぶつかっていまい大坂、急坂ではない。

Img_0221坂標

厚木街道は大山街道のこと。

Img_0222坂下方向

Img_0228上目黒氷川神社

Img_0229説明板

Img_0227目黒元富士

もとは目切坂上にあったもの。別所坂上が「新富士」。

Img_0226説明板

Img_0238鳥居の左に大山街道の道標

Img_0230道標(天保13年(1842))

正面に「大山道 せたがや通 玉川通」・右側面に「ひろう めぐろ 池がみ 品川 みち」・左側面に「青山 あざぶみち」。

Img_0241大橋(目黒川

新編武蔵風土記稿に、『大橋目黒川ニ架ス、土橋ニテ長サ七間幅九尺、此橋ノ傍ニ水車アリ、文化年中、村民勘右衛門ト云フ者願上テツクレリ』とあるそうだ。今は再生水で復活した清流という。

Img_0243池尻大橋駅の所で旧道は左へ。《地図

Img_0245涸れずの井戸跡(街道沿いの池尻稲荷神社入口)

大山街道を行く旅人の喉を潤した井戸があった。

Img_0246説明板

Img_0247本殿の左が清姫稲荷神社で神体は白蛇ともいう。

Img_0252追分(三軒茶屋の三叉路) 【ル-ト地図】の③

旧道は右へ新道は左へ、分岐に不動尊道標が立つ。昭和44年までは玉川電車もここで分岐し、左路線は二子玉川駅まで通じていた。ここに田中屋、信楽(後に石橋楼)、角屋の3軒の茶屋があり、大山参りの旅人の休憩所となっていた。

Img_0253不動尊道標

Img_0254説明板

Img_0258教学院(最勝寺) 《地図

江戸五色不動の「目青不動」

Img_0259説明板

Img_0268駒留八幡神社 《地図

Img_0267説明板

Img_0262常盤弁財天(厳島神社境内)

近くには吉良頼康の側室常盤の悲しい物語にまつわる「常盤塚」がある。

Img_0270松陰神社参道 《地図

下田街道①・④には吉田松陰の投宿地が2つあったが、今日はここで失礼。

Img_0272大吉寺  《地図

寺内大吉の生家で住職。1973年8月5日にマリリン・モンローの13回忌法要が営まれた。寺内は経をあげモンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた。

Img_0274世田谷ボロ市でごった返している大山街道。

年に4回、1月15日・16日と12月15日・16日に開催される。今日は日曜と重なりこの人出だ。

Img_0276世田谷代官屋敷前のボロ市通り(大山街道)

とても写真を撮れる状況ではない。

Photo世田谷代官屋敷(右・2006年9月25日撮影) 【ル-ト地図】の④

ふだんはこんなに静かな通りなのだが。

Img_0277世田谷区立郷土資料館に保存されている大山街道の道標など。

ここもトイレ待ちの長い行列などで混んでいて、じっくり見る気分にはなれない。

この先の弦巻の追分で登戸道が右に分岐する。

Img_4552分岐(弦巻5-16)に立っていた道標(延享3年(1746))で、郷土博物館に移されている。

「左 さがみ 大山道」・「右登戸道」

Img_4554説明板

Img_0285大山旅人像 《地図

ボロ市の雑踏を抜けて、やれやれ一服か。ここは蛇崩川の洗い場跡。

Img_0286地蔵と馬頭観音(弦巻4丁目交差点)

Img_0293国立医薬品食品衛生研究所

「衛生材料廠跡」碑が立つ。

Img_0295用賀追分(旧道・新道合流地点) 《地図

Img_0296追分道標

古い道標(文政10年(1827))は、「右 江戸道 左 世田谷 四谷道」は前掲の郷土資料館に移された中の右端。

Img_0312ようが商店街通り

左は創業150年の鎌田酒店

Img_0300
真福寺(赤門寺)

永禄から元亀(1558~72年)頃、小田原北条氏家臣飯田図書が開基したと伝える。

Img_0306無量寺(用賀観音)

天正年間(1573~91)に品川の浜で漁師の網にかかったという十一面観音像を、左の観音堂に祀る。『せたがや百景』(84)の一つ。

Img_0304説明板

Img_0315延命地蔵堂(旧道・新道追分) 《地図

安永6年(1777)に用賀村の女念仏講中が建立。

直進は新道で、この先で左に入り行善寺坂を下って多摩川堤へ出る。

Img_0321笠付庚申塔・慈眼寺

Img_0323瀬田玉川神社

Img_0324慈眼寺坂を下る。《地図

Img_0326玉川寺(ぎょくせんじ)

日暮里の妙隆寺を当地に移した身延山久遠寺の関東別院で、山号は「妙隆山」。妙隆寺は日暮里富士見坂の坂下にあって「花見寺」ともいわれた。富士見坂の別名は花見坂、妙隆寺坂。『荒川区の坂①

Img_0329玉川大師

地下仏殿を参拝すると、四国八十八ケ所、西国三十三ケ所を順拝修行したことなるそうだ。その安直でお手軽さが人気のようで参拝者が多い。

Img_0330縁起

Img_0333治大夫橋(次大夫堀・六郷用水・現在は丸子川) 《地図

代官小泉次大夫が開いた灌漑用水路。

Img_0332説明板

Img_0334玉電の砧(きぬた)線跡(昭和44年廃線)

二子玉川駅←(2.2km)→砧本村駅

Img_0335兵庫橋を渡って兵庫島へ 《地図

矢口の渡し」で謀殺された新田義興の家来、由良兵庫助がここへ流れ着いたのが島名の由来という。「流れ着く」といってもここは矢口の渡しより上流なのだが。矢口の渡し付近の史跡は『平間道』に記載。

Img_0339案内図

Img_0340由来

Img_0342二子の渡し跡碑 【ル-ト地図】の⑤

寛文9年(1669)、大山街道の継立村となった対岸の二子村が請け負っていたが、天明7年(1787)、瀬田村にも渡し船の許可が下りた。ここは瀬田村にあった2ヶ所の発着所の一つ。大正14年(1925)二子橋が完成し、その役目を終えた。

Img_3821ありし日の「二子の渡し」

お馬ちゃんに見送られて対岸の川崎市へ。ずいぶん乗っているようだ。

Img_0346今は二子橋を渡って川崎市へ

日曜のせいか通行者、自転車が多い。左は田園都市線

Img_0352二子橋の親柱

Img_0356二子の渡し入口標柱(川崎側) 《地図

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