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2012年2月27日 (月)

伊勢街道④(松阪駅→宮町駅)

2012年2月8日

松阪駅(JR紀勢本線)・・・和歌山街道追分・・・愛宕橋・・・菅相寺・・・小津安二郎青春館・・・里中橋(名古須川)・・・荒神山稲荷・・・信楽寺・・・神戸神社・・・徳和坂・庚申祠・・・金剛橋(金剛川)・・・徳和畷・・・極門橋・常夜灯・・・徳和踏切(紀勢本線)・・・女人供養塔・・・北上神社・・・沖玉の夫婦石・・・八柱神社・・・道標・・・浄林寺・・・願証寺・・おもん茶屋跡・・・櫛田交差点(県道38号)・・・豊養稲荷神社・・・櫛田橋(櫛田川)・・・大乗寺・早馬瀬神社・・・稲木地区・・・六字名号碑・・・祓川橋(祓川)・・・道標・・・斎宮歴史博物館・・・伊勢古道・・斎宮遺跡・・斎王の森・・・いつきのみや歴史体験館・・・秋葉神社・観音寺跡・・・斎宮城碑・・・竹神社・・・道標・・・有明六地蔵(六地蔵石憧)・・・盃地蔵・・・道標・・・新笹笛橋(笹笛川)・・・安養寺・明星水・・・(大堀川)・・・そうめん坂・・・水池土器製作遺跡・・・明星地区・・・道標・・・弘法大師堂・・・(伊勢市)・・・徳浄上人千日祈願塔・明野庚申堂・・・へんば屋・・・相合橋(相合川)・・・庚申堂・・・惣之橋(外城田川)・・・小俣町道路元標・・・札の辻(紀州藩高札場跡)・・・離宮道踏切(JR参宮線)・・・離宮院跡・・・浄土寺・・・鳥羽藩本陣跡・・・板田の橋跡・・・鳥羽藩高札場跡・・・参宮人見附碑・宮古橋(汁谷川)・・・(JR参宮線)・・・宮川橋(宮川)・桜の渡し跡・・・茶屋町の道標・・山田上口駅(参宮線)・平清盛幕張松古蹟碑・・・宮町駅(近鉄山田線)

 時折、風に舞って雪が落ちてくる街道を、伊勢市に入り宮川を渡った。もう外宮は間近だ。明日ゆっくりと外宮から間の山を越えて内宮へ参ろう。

  【ル-ト地図】(25.0km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1995菅相寺

「愛宕の天神さん」で梅鉢紋。正面が本堂で菅原道真を祀る天満宮という変わった寺だ。

Img_1993 説明板

Img_1996小津安二郎青春館 《地図

Img_2004 信楽寺 《地図

右に閻魔堂

Img_2005 閻魔像

Img_2009 神戸神社

Img_2013 徳和坂を上る。【ル-ト地図】の①

4日目にして伊勢街道最初の名前のある坂に出会った。

Img_2014 庚申堂(坂上近く)

青面金剛像が安置。

Img_2019 徳和畷を行く。

白酒を名物とする店が数軒並んでいたという。

Img_2023 常夜灯(文政12年(1829)建立・嘉永2年(1849)に修理)

江戸干鰯問屋などの寄進。

Img_2027 常夜灯・町石(右)

町石には「片岡山大日如来是より三丁」

Img_2029 女人供養塔(明治13年)

由来は?

Img_2032 北上神社

行き倒れた参宮道者の霊が祀られているというが。

Img_2035 沖玉の夫婦石

この石は酒好きで酒をかけると、段々酒を飲まなくなるという。「断ち物信仰」の一種か。

Img_2038 八柱神社 《地図

右は明和5年(1768)の常夜灯

Img_2043 連子格子の家並み

Img_2045 道標(弘化3年(1846))

「従是外宮四里」で、伊勢神宮はだいぶ近づいてきた。

Img_2048 旧家

Img_2051 浄林寺

Img_2064 おもん茶屋跡 《地図

へんば餅を名物にしていた。「おかん茶屋」もあった。

「旅人はいづれにこころうつるやとおもんおかんが売れる焼餅」(『東海道中膝栗毛』)、旅人はどっちで買うか、「こころうつる」は、どちらの女に心が移る、焼餅は嫉妬という意を含んでいる。

Img_2071 櫛田交差点を横切って行く。

このあたりに藤堂藩の豊原本陣の奥田清十郎家があったそうだ。

Img_2074 豊養稲荷神社(左) 《地図

櫛田神社の旧地で「櫛田大市」碑が立っている。

Img_2077 旧家

Img_2078 道標(文政2年(1819))

「左さんくうみち」で、左折し右折して櫛田川の堤防上に出る。

Img_2084 櫛田川(櫛田橋から)

冬・春の渇水期には仮橋で、夏・秋の増水期には舟で渡し、橋銭・舟銭を取っていた。

Img_2089 早馬瀬地区

右に地蔵(天保9年(1838))、ここは機殿(はたどの)道との分岐点。

Img_2091 左に近鉄山田線が通る。

Img_2093 稲木地区

かつては茶屋や旅籠が点在していた。

Img_2098 六字名号碑(文化14年(1817))

梵字6文字が刻まれている。

Img_2102 祓川(祓川橋)から 《地図

斎王群行の際には、ここで祓いをして斎宮に向かったというが、今は祓いができるほどきれいな流れではない。

Img_2103 道標(弘化4年(1847))

「従是外宮三里」

Img_2109 竹川地区の家並み

このあたりに駕籠屋の溜まり場、馬の取次ぎ場がある立場茶屋があり、明治以降は人力車、馬車の溜まり場だった。

近鉄山田線の踏切を渡り、斎宮歴史博物館に寄る。

Img_2122 斎宮歴史博物館

ちょうど映像展示室では「斎王群行」が上映される時刻だった。あまり面白味のある内容ではなかったが、致し方なしか。

Img_2132 斎王と命婦の人形

Img_2151 葱華輦(そうかれん)

斎王は斎王群行で都から鈴鹿峠を越え、斎宮にやって来た。

Img_2150 説明板

Img_2136 伊勢古道 《地図

伊勢神宮へ、斎王や使者の通った官道跡。

Img_2119 説明板

Img_2147 斎王の森 《地図

Img_2141 説明板

Img_2145 大伯皇女歌碑

「わが背子を大和にや(遣)るとさ夜ふ(深)けて あかとき(暁)露にわが立ちぬ(濡)れし」

初代の斎王で、弟の大津皇子が謀反の疑いで処刑される直前に訪ねて来た時に詠んだ歌とも。

いつきのみや歴史体験館に寄り、街道に戻る。

Img_2160 斎宮城跡碑

Img_2161 説明板

戦国時代と北畠一族』によれば、野呂三郎の徳政一揆は弘治元年(1555)で、北畠材親(永正14年(1517)に死去)の時代ではないのだが。

Img_2165 竹神社

毎年6月に行われる斎王まつりの斎王行列の出発地点。

Img_2163 説明板

謡曲絵馬

Img_2167 道標

北野天満宮への道標。

Img_2169 旧家

Img_2173 有明の六地蔵(六地蔵石憧) 【ル-ト地図】の②

Img_2172 説明板

Img_2181 盃地蔵 【ル-ト地図】の③

防火にご利益あり。もとは街道沿いにあった。

Img_2183 地蔵

Img_2187 道標2基

手前が「斎宮旧蹟蛭澤之花園」で、天然記念物のどんと花(野花しょうぶ)群生地への案内。

後ろは「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」で、天延2年(974)斎宮で病没した斎王の墓への道標。

Img_2195 新笹笛橋を渡る。《地図

Img_2198 旧家

Img_2212 明星水(安養寺境内)

門前の明星茶屋で、浄めの茶として参宮者の喉を潤した。日本三霊水の一つ。 あとの2つは、「忍潮井(忍塩井)おしおい」と、「伏見の直井」(京都伏見のどこにあるのか?)だとか。

Img_2211 説明板

Myoujyou明星(茶屋)(伊勢参宮名所図会

弥次喜多もここで休憩し、派手な大縞の着物の上方者と出会う。弥次さんと上方者は二宝荒神(馬の背に2つの鞍をつけて乗る)で、相手の土地の習慣、風俗を腐しながらの道中となる。『東海道中膝栗毛』

Img_2219 そうめん坂を上る。 【ル-ト地図】の④

明治初年まで参宮者相手のそうめん屋があったそうだ。

Img_2220 坂標

Img_2233 水池土器製作遺跡

手前が土師器焼成坑跡か?

Img_2224 説明板

Img_2235 明星地区

Img_2237 旧家

Img_2242 旧家

Img_2248 道標(嘉永6年(1853))

「従是外宮二里」

Img_2253 新茶屋地区

屋号「かめや」

Img_2254 弘法大師堂

参宮者の信仰を集めていたという。

Img_2255 大師像

Img_2266 伊勢市に入ったとたんに風に雪が舞ってきた。

Img_2269明野庚申堂・徳浄上人千日祈願塔(明野庚申前交差点の所)

Img_2270 説明板

Img_2272 庚申塔

Img_2273 旧家

Img_2274 へんば屋 《地図

三方荒神(3つの鞍を置いた馬)などでの参宮者が、ここで馬を返し(返馬)一休みしたことから名づけられた。

Photo 三方荒神で行く東海道吉原

Img_2276 「へんば餅」を買おうとしたが、店内は客が列をなしているのでやめた。

相合(そうごう)橋(相合川)を渡る。

Img_2280 庚申堂(左)

Img_2283 新出地区の家並み

Img_2286 外城田川(惣之橋から)

平時は水量が乏しいが、雨が降るとすぐ増水することから「貧乏川」と呼ばれた。

Img_2288 小俣町道路元標

Img_2292 札の辻(紀州藩高札場跡) 《地図

街道は左折だが直進し、離宮院跡に寄る。

Img_2305 離宮院跡の土塁跡

Img_2308 説明板

Img_2311 屋号「丸吉」

煙草入れ、薬などを商っていた。

Img_2315 鳥羽藩本陣跡

このあたりは紀州藩と鳥羽藩が接近していたようだ。

Img_2317 板田の橋跡碑(手前)、民家の向うに鳥羽藩高札場跡碑。

板田の橋跡碑には、「名木 板田の薄紅葉跡」とある。むろん橋も紅葉もない。

Img_2321 宮古橋(汁谷川)を渡る。

左に「参宮人見附碑」。元は常夜燈で、夜間の参宮者を監視する参宮人見附を灯していたという。

Img_2334 宮川橋(宮川)から宮川

「桜の渡し」(宮川の渡し)は無料で、泳いで渡る人もいたようだ。明治30年に参宮線が開通するまで続いていた。

日永の追分で鳥居をくぐった「おかげ参りの犬」も無事に川を泳ぎ渡ったようだ。『宮川の渡し』の広重の絵に元気な姿が描かれている。

Img_2335「桜の渡し」説明板(左) 《地図

Img_2336説明板

Miyakawa宮川東岸(伊勢参宮名所図会)

Img_2339 宮川地区の家並み

Osi御師の手代の出迎え(伊勢参宮名所図会)

Img_2341

茶屋町の道標 【ル-ト地図】の⑤

Img_2345 説明板

「すぐ 外宮江十三丁半 内宮江壱里三十三丁半」だが、今日はここまでとし左折して宮町駅へ向かう。

Img_2349 平清盛幕張松古蹟碑(山田上口駅前) 《地図

治承年間(1177~80)に、平清盛がこの地域を水害から守るため「清盛堤」を築いた。その時に清盛の屯所に張られた幕張の松という伝承。すぐ南の大間国生神社の後方の、土を盛ってやや高くなっている所が、清盛堤の一部ではないかと考えられているそうだ。

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2012年2月24日 (金)

伊勢街道③(阿漕駅→松阪駅)

2012年2月7日

阿漕駅(JR紀勢本線)・・・(国道23号)・・・(県道114号)・・・伊勢街道・薬師如来庵跡・・・八幡神社石標・・・結城神社・津八幡宮・・・地蔵堂・松源寺・・・明治天皇八幡町小休所跡碑・・・八幡神社石標・・・藤枝地区・・・香良洲街道追分・思案橋・・・垂水南交差点(国道23号)・・・藤枝踏切(紀勢本線)・・・成就寺・・金剛寺・・南昌寺・・・須賀神社・・・常夜灯・・・加良比乃神社・・・西福寺・・・相川橋(相川)・・・真光寺・・浄誓寺・・・常夜灯・・・高茶屋地区・・・天神橋(天神川)・・・称念寺・・・高茶屋神社・・・(国道165号)・・・高茶屋踏切(紀勢本線)・・・玉造院・・・明治天皇島貫小休所跡碑・・・道標・・・円福寺・・・島貫の松跡・毘沙門堂跡・・・常夜灯・雲出橋(雲出川)・・・(松阪市)・常夜灯・小野古江渡跡碑・・・小野江地区・・本楽寺・・貴船神社・・松浦武四郎生家・・・常夜灯・・金剛寺・・・平五郎橋・・・香良洲道追分・道標・・・月本追分(奈良街道分岐地点)・・・香良洲道道標・・・勅使塚・・・道標・石灯籠・・・常夜灯・道標(中道公会所)・・旧養命寺跡・・・道標・・・的屋跡・・・(国道23号)・・・小津一里塚跡碑・・・旧法導寺跡・・・常夜灯・道標・・・三渡橋(三度川)・・初瀬街道追分・道標・常夜灯・・・市場庄地区・・忘れ井・・・神楽寺・・・(近鉄山田線)・・久米地区・・地蔵・・道標・常夜灯・・・舟木家長屋門・・・柳福寺・・・古川水神社・・・塚本橋(百々川)・常夜灯・・・踏切(紀勢本線)・・・薬師寺・・・大橋(阪内川)・・・松阪商人の館・・三井家発祥の地・・本陣跡・・馬問屋跡・・新上屋跡・・和歌山街道追分(日野町の道標)・・・松阪駅(紀勢本線・近鉄山田線)

  【ル-ト地図】(20.9km)

 松阪城下散策(松阪駅・・継松寺・・御厨神社・・矢下小路・・長谷川邸・・本居宣長旧宅跡・・小泉見庵邸跡・・歴史民俗資料館・・松阪城跡・・鈴屋・・御城番屋敷・・同心町・・松阪神社・・常教寺・・来迎寺・・真台寺・・樹敬寺・・龍泉寺・・松阪駅)

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Img_1585 薬師如来庵跡 《地図

平成18年に火災で焼失。

Img_1583 石碑

Img_1593 結城神社

南朝方の忠臣結城宗広を祀る。しだれ梅の名所。

Img_1601 津八幡宮

室町時代、足利将軍が男山八幡宮の分霊を垂水の千歳山に祀った。時代が下り藤堂家の2代藩主高次が鷹狩の時の大雨で雨宿りに使ったのが縁で結城の森に社殿を造営したそうだ。

Img_1603 地蔵堂・松源寺(左) 《地図

今日も雨模様の街道を行く。

Img_1607 地蔵(伝・弘法大師の作)

宝暦の頃(1751~63)松源寺に立ち寄った後、富士参りに向った度会郡の人が富士山中で道に迷っていると旅僧に姿を変えた地蔵に助けられたという伝説があるそうだ。

Img_1610 明治天皇八幡町小休所跡碑

Img_1613 藤枝の家並み

このあたりは遊郭街で、月花楼、桜井楼、旭楼、可祝楼などが軒を連ねていた。今やその面影はなし。

Img_1616 思案橋 【ル-ト地図】の①

遊郭、色街ある所、「行こか、戻ろか」の思案橋ありき。ここは天照大神の妹神の稚日女尊を祀る香良洲神社への香良洲道(左へ)との追分で、「香良洲参らぬは片参宮」といわれた。月本追分の近くで再び伊勢街道に合流する。

Img_1618 欄干

松・扇・梅の浮彫り。「山半 文政六年」と刻まれているそうだ。山半も遊郭の名。

垂水南交差点(国道23号)→藤枝踏切(紀勢本線)を渡る。

Img_1630 成就寺 《地図

左が西行ゆかりの「さる稚児桜」で、埼玉県秩父市には「西行戻しの坂」・日光街道の鉢石には「西行戻し石」、奥州街道白河宿には「宗祇戻しの橋」があり、似たような話が伝わっている。

Img_1631 説明板

Img_1636 須賀神社参道

石段を上って社殿へ。

Img_1637 須賀神社

垂水村の産土神

Img_1639 常夜灯(明和元年(1764))

ここを進んで加良比乃神社へ。

Img_1646 加良比乃神社 《地図

倭姫命が天照大神を奉戴しての遍歴の際、ここに神殿を設けたが、水利が不便だったので樋で水を通したことから片樋宮と称した。左が「片樋宮」の石標(寛保2年(1742))

Img_1644 由緒

Img_1651 旧家

Img_1663 常夜灯(文政8年(1825))

Img_1665 高茶屋地区 

このあたりは桜茶屋と呼ばれ、昭和20年頃まfで数軒の茶店が残っていたそうだ。

Img_1668 称念寺

常夜灯には「十社の森」と刻む。

Img_1674 高茶屋神社 《地図

「十社の森」と称され、伊勢参宮の勅使の休泊所として使われた。

国道165号をくぐり、高茶屋踏切(紀勢本線)を渡る。

Img_1690 明治天皇島貫小休所跡(円福寺手前の左側)

ここは雲津(雲出)宿の本陣柏屋跡で、近くに高札場があり、魚屋・紀の国屋・大和屋などの旅籠があった。参宮線の開通で徐々に宿の灯りは消えて行ったが、昭和の初め頃までは津屋、京屋、大阪屋などが残っていたそうだ。

Img_1716 弥次さんは「十返舎一九」に、喜多さんはその弟子になりすまし、道連れになった南瓜の胡麻汁(かぼちゃのごまじる)の家に案内される。蒟蒻(こんにゃく)を当てて水気を抜く熱い石を料理と間違え赤恥をかき、さらに江戸から本物の十返舎一九がやって来てバレてしまい、嘲笑を背に夜中に出て行くはめとなる。『東海道中膝栗毛』

Img_1694 道標「神明道」

正面は雲出川の土手

Img_1697 島貫の松跡あたり 【ル-ト地図】の②

ここは毘沙門堂跡で、境内の島貫の松は伊勢湾台風(昭和34年9月)の後に枯れてしまった。

Img_1702 島貫の松か

Img_1700 常夜灯(天保5年(1834))

雲出川北岸

Img_1701 説明板

Img_1723 雲出橋(雲出川)を渡る。《地図

左の常夜灯(寛政12年(1800))は、もとは小野江地区への入口の土手に立っていたようだ。昔は橋はなく舟渡しだった。

Img_1725 説明板

Img_1726 小野古江渡(おののふるえのわたし)碑

Img_1727 小野江地区(松阪市)に入る。

正面の屋根は本楽寺

Img_1740 家並み 《地図

渡海屋、柿屋、樽屋などの旅籠が並んでいた。

Img_1741 松浦武四郎誕生地

近くに記念館もある。

Img_1744 説明板

Img_1762 常夜灯(文政7年(1824))

金剛寺の西側の辻

Img_1774 香良洲道道標(文政4年(1821))

「右からすみち」、思案橋で分かれた香良洲道がここで合流する。この先にも合流地点がいくつかある。

Img_1788 月本追分 【ル-ト地図】の③

直進が伊勢街道、右折が奈良街道。道標(天保13年(1842))は伊勢街道で最大のもの。ここには立場や茶屋、煮売屋などが軒を連ねていた。

Img_1781 説明板

Img_1792 道標「右からす道」

曽根原茶屋があり、こわめし、でんがく、さざい(さざえ)の壺焼きを売っていたという。

Img_1795 勅使塚

正面奥に碑が立つ。

Img_1796 説明板

Img_1800 旧家

Img_1801 道標「左さんぐう道」・常夜灯・山神

Img_1805 道標「右さんぐう道」・常夜灯(中道公会所前) 《地図

Img_1817 道標「左からす道」

Img_1819 的屋跡

参宮者相手のからくり的屋、射的、文楽、土産店などがあったようだ。

Img_1825 小野一里塚跡碑(昭和54年) 《地図

「一里塚竜宮橋より南凡そ95メートル」と刻まれているという、よく分からない代物。

Img_1832 常夜灯(明治45年)・道標(大正3年) 《地図

道標は「右松阪及山田□□」・「左津及香良洲□□」。明治26年に参宮線が開通しても白装束姿の参宮者は六軒駅(明治27年開業)で降り、ここを右折し(写真では直進)伊勢に向かったという。

Img_1838 三渡橋を渡る。

初瀬街道との追分で右に道標が立つ。左に常夜灯(文政元年(1818))

Img_1839 初瀬街道方向

道標は「やまとめぐりかうや道」、中世には渡し口が3か所あったため、「三渡」の名がついたという。別名は泪(涙)川。

夜中に南瓜の胡麻汁の家を追い出された弥次喜多は、松阪へ急ぐ夜道で「三渡の藤九郎狐」に化かされたか。『東海道中膝栗毛』

大阪から『暗越奈良街道』→『上街道』→『初瀬街道』でここまで歩いた。

古い家並みが残る市場庄地区に入る。《地図

Img_1712説明板

「しちば」は「いちば」の間違い。

Img_1843 屋号「大坂屋」

Img_1849

屋号「藤音」

Img_1853 往時の街道風情ある家並みが続く。

Img_1858 屋号「山屋」

Img_1859 屋号「米銀」跡

用水桶(左下)にも「銀米」と彫られている。

Img_1866 家並み

Img_1870 旧家

Img_1876 屋号「清遠堂」

Img_1879 屋号「道十」

Img_1877 道標(宝暦元年(1751)・左の家の前)

「忘井之道」でここを左折して忘れ井へ。

Img_1885 忘れ井 【ル-ト地図】の④

左が「別れゆく・・・」の歌碑(『千載和歌集』)

Img_1882 歌碑

Img_1906 説明板

Img_1889 市場庄公会堂

もとは大正7年に建てられた米ノ庄役場。昔の役場の雰囲気を感じさせる建物だ。

Img_1888 説明板

Img_1910 地蔵さん

ここは久米地区の入口

Img_1913 道標「左さんぐう道」・常夜灯・役の行者祠・山神・庚申塔

Img_1922 舟木家(左) 《地図

Img_1928 長屋門

舟木家は南北朝時代から続く名家で、江戸時代には紀州藩から目見得を許されていた。

Img_1943 山神

どこも2体で男女神か?

Img_1953 塚本橋(百々川(どどがわ))を渡る。

常夜灯(嘉永5年(1852))

Img_1958 薬師寺仁王門 《地図

永禄12年(1569)、大河内城を攻めあぐねた信長は和睦の条件に二男・信雄を北畠家の養子にした。その時、信雄が預けられたのがこの寺で、養父の北畠信意との対面の式を行ったのもこの寺という。

Img_1961 本堂

唐様を基調として和様を混入した建物で、承応2年(1653)の建築。薬師如来坐像(平安後期の作)は県指定文化財。

Img_2695 須川屋金物店

大橋の手前

Img_2697 大橋を渡り、松阪宿の中心部へ。 《地図

Img_2701松阪商人の館

江戸期の豪商、小津清左衛門の邸宅を資料館として公開。

Img_2702 三井家発祥の地

三井財閥の基礎を築いた三井高利が生まれ育った家。昭和57年に三井グループにより整備されたが内部は非公開。

Img_2733_2 柳屋

天正3年(1575)創業の和菓子の老舗

Img_2720 本陣美濃屋跡 《地図

松崎屋食堂の前に小さな「本陣跡」碑が立つが、文字が車道を向いているので分かりにくい。ここで本居宣長は浜田藩主の松平康定に源氏物語を講釈した。脇本陣大和屋与兵衛は場所が不明だが、手前の快楽亭あたりとも。

左の美濃屋小路を入ると背割下水が流れている。

Img_2731 背割下水

表通りに面した町屋の裏側に下水溝が流れる仕組みになっていた。中町と魚町の境にもなっている。

Img_2722 馬問屋跡(本陣跡のすぐ先)

この先が新上屋跡。

Img_2726 新上屋跡 【ル-ト地図】の⑤

本居宣長と賀茂真淵の対面の地で、「松阪の一夜」(佐佐木信綱)は教科書にも載っていた。宣長邸の「鈴屋」からは600m位しか離れていない。

東海道浜松宿には賀茂真淵の養子先の梅屋本陣跡、賀茂真淵記念館近くには生家跡があり、石薬師宿には佐佐木信綱の生家がある。

Img_1980 説明板

Img_1983 説明板

Img_1988 追分・日野町の道標 《地図

伊勢街道は直進、和歌山街道は右折。横断歩道を渡った所に道標。

Img_1989 道標

「右 わかやま道」・「左 さんぐう道」

**************松阪城下散策(2月9日)**************

 【ル-ト地図】(松阪城下)

参考:『松阪偉人マップ』(『豪商の道』・『武将の道』・『国学の道』)

Img_2596 松阪駅前

本居宣長が浜田藩主の松平康定に源氏物語を講釈した際に贈られた鈴がモデルだそうだ。『松阪は鈴の町

Img_2709 継松寺

「岡寺さん」と呼ばれ、厄除け観音として信仰されている。

Img_2743 御厨神社

飛鳥時代に内宮の平生御厨の奉祀神として祀られたが、蒲生氏郷が松阪城の鬼門除けとして飯高郡平尾から遷社した。本居家の氏神でもあり、国学者本居宣長は「古事記伝」全44巻を奉納したという。

Img_2739 のこぎり状の家並み(矢下小路) 【ル-ト地図】(松阪城下)の①

松阪城を守るため1町先を見通せない工夫という。「のこぎり状の家並み」は各地にあり、その理由もまちまちのようだが。

Img_2685 長谷川邸 

屋号「丹波屋」の豪商・長谷川家の本宅。

Img_2689 本居宣長旧宅跡 《地図

「鈴屋」(すずのや)は松阪城内へ移築。

Img_2688 説明板

Img_2692 小泉見庵邸跡(本居宣長旧宅跡前)

宣長の親友で、飛鳥、吉野への『菅笠日記』の旅にも同行している。8年ほど前に吉野で宣長がたどった道を歩いたことがある。そして彼の健脚さには驚かされた。今と比べれば昔の人は皆、健脚なのだろうが。

Img_2690 説明板

Img_2675歴史民俗資料館

もとは明治44年建築された飯南郡図書館の建物。

Img_2803「伊勢の壺屋の煙草入」は落語の三題噺の『城木屋』に登場する。

「黒丸子」と「万能千里膏」の看板は池大雅の書。

Img_2793 説明板

Img_2802 壺屋の煙草入の革製の模倣品

本物は擬革紙製でも丈夫で、皮のような風合いを出していたようだ。街道沿いには「壷屋の煙草入」の店がたくさん並び、参宮者の土産として好評だったという。

Img_2798 説明板

Img_2667 松阪城跡

Img_2677 説明板

Img_2656 鈴屋(移築) 【ル-ト地図】(松阪城下)の②

そばに本居宣長記念館がある。

Img_2657 説明板

Img_2643 御城番屋敷の土蔵

松阪城下を警護する「松坂御城番」という役職の武士20 人とその家族が住んだ武家屋敷の土蔵。

左は紀州藩初代藩主徳川頼宣を祀る南龍神社。向い側に公開屋敷があるのに気づかなかった。

Img_2642 説明板

Img_2641 同心町の通り 【ル-ト地図】(松阪城下)の③

紀州藩士の同心および鳥見(御鷹場の管理、密猟の取締り)クラスの紀州藩士60 人余りの役宅が置かれていた。

Img_2640 松阪神社

Img_2637 堀跡(神道川)

松坂城を取り囲むお堀の総延長は2.1 kmといわれている。

Img_2635 説明板

Img_2628 旧家

Img_2622 松阪地区医師会館

Img_2616 川之地蔵

Img_2617 説明板

Img_2606来迎寺鐘楼門 【ル-ト地図】(松阪城下)の④

三井家や長井家・角屋家の菩提寺

釣鐘(貞享元年(1684))は辻但馬守秀種の作。辻越後と辻但馬にはよく出会う。裏門は松坂城の中門を三井家がもらい受け菩提寺であるこの寺へ寄進したと伝えられる。

Img_2603 説明板

Img_2605 説明板

Img_2609 本居宣長の墓(樹敬寺)

標石の左が宣長夫妻、右が長男の春庭
夫妻の墓。

Img_2607 説明板

Img_2597龍泉寺 【ル-ト地図】(松阪城下)の⑤

松阪市で最古の山門があるのだが、境内は工事中で見落とした。

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2012年2月20日 (月)

伊勢街道②(磯山駅→阿漕駅)

2012年2月6日

磯山駅(近鉄名古屋線)・・・専照寺・・・国道23号・・・中ノ川橋(中ノ川)・(津市)・旧道・・千里2号踏切(近鉄名古屋線)・・・甕冠橋架け替工事中迂回・・・甕釜冠地蔵堂・・・本福寺・・・千里駅・・踏切(近鉄名古屋線)・・・(国道23号)・・・田中地蔵堂・・・大蔵橋(田中川)・・・上野地区(上野宿)・・・最勝寺・・・上野神社・・・円光寺・・・弘法井戸・本陣跡あたり・・上野城跡・・・道路元標跡・・・満流寺・・・安芸郡河芸町役場跡(朝陽中学校)・・(国道23号)・・・高山地蔵・・・松林寺・中瀬八幡神社・・・国道23号・・・中瀬交差点・・痔神社・・・上小川バス停・・旧道・・・観音寺・・・高田本山7号踏切(近鉄名古屋線)・・・逆川神社・・・大円寺・・・(国道23号)・・・巡礼道追分(常夜灯・道標・名残松)・・・大学前交差点・国道23号・・・江戸橋北詰交差点・旧道・・・江戸橋(志登茂川)・・・伊勢別街道追分(常夜灯・道標)・・・託縁寺・・一乗寺・・深正寺・・阿部喜兵衛商店・・・光蓮寺・・・善徳寺・・・初馬寺・・・心覚寺・・・四天王寺・・・塔世橋(安濃川)・・・大宝院・・津観音(観音寺)・・道標・・本陣跡・・脇本陣跡・・・津城跡・・・高山神社・城山稲荷神社・・・岩田橋(岩田川)・・・仏眼寺・・・円通寺・・・大市神社・・阿弥陀寺・・・岩田交差点・旧道・・・閻魔堂(真教寺)・市杵島姫神社・・・教円寺・・・神明社・・・(県道114号)・・・(国道23号)・・・阿漕駅(JR紀勢本線)

  【ル-ト地図】(21.0km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1274 磯山地区

朝から冷たい雨の中を行く。弥次喜多が歩いた頃には吹矢の見世物(からくり的)が出ていたというが、今は静かな通りだ。

Img_1281 甕冠橋は工事中で大きく左方向に迂回した。正面に屋根が見えるのが甕釜冠地蔵堂。

Img_1286 甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂(右) 【ル-ト地図】の①

もとは光明院といい参宮道者の無事を祈願し、茶を接待した休憩所となっていた。ちょうど堂守の月番のおばさんが堂内を清掃していた。甕釜冠の由来を聞いたがよく分からないとのこと。堂に寄付者の一覧板が貼ってあった。おばさんは○万円、旦那さんは○十万円。きっと地蔵さんのご利益が大きいことだろう。

左に行くのは巡礼道で、栗真町屋で合流する。

Img_1288 屋根上の釜と甕

露盤の代わりが釜で、その上に宝珠の代わりに水甕が伏せてある。

Img_1289 説明板

なぜ釜と甕が乗るのかは記載されていない。

Img_1290 正面が現在の本尊の石地蔵で3代目。脇に初代、2代目を安置。

Img_1292 尾前神社標石

雨乞いの「かんこ踊り」が行われていたそうだ。雨は止んで欲しいので、ここから遥拝のみ。

Img_1298 田中地蔵

大蔵橋(田中川)を渡り、上野地区に入る。

Img_1305 家並み

Img_1308 上野神社参道 《地図

左上は最勝寺で、元亀年間(1570~72)に分部光嘉が中山に城を築く時に、中山からここに移した。辻越後守種茂の梵鐘がある。鋳物師(いもじ)の辻(越後・但馬)にはこの先でよく出会うことになる。

Img_1313 上野神社

Img_1314 由緒

Img_1320 円光寺

分部氏の菩提寺。

Img_1316 説明板

Img_1321 円光寺から街道へ戻る参道

Img_1324 虫籠窓、連子格子の上野宿の旧家

屋号「江戸屋」か。

Img_1326 弘法井戸

村人の生活用水、参宮者の喉を潤した井戸だが今は使われていない。このあたりが上野宿の中心で、この先の右側に本陣、その向いが問屋(荒井屋)だったようだ。

Img_1327 油来

Img_1330上野城跡 《地図

江姫ゆかりの地」でもある。雨の中、登城は控える。

Img_1335 道路元標跡碑(復元)

Img_1336 説明板

Img_1337 旧家

Img_1342 安芸郡河芸町役場跡(朝陽中学校) 《地図

Img_1343 高山地蔵(右)

ここは上野城時代の刑場で、処刑者供養のための地蔵という。

Img_1344 松林寺・中瀬八幡神社 《地図

Img_1349 痔神社 【ル-ト地図】の②

もとは「神」だったとも、神体は白蛇で、毎年4月3日の祭礼日には、名古屋、大阪方面、県内の信者が列をなして参詣し、大いに賑やかであるとか。「主」は全国津々浦々にいるようだ。

Img_1350 手ぬぐい・タオルが結ばれているのは何故か?

Img_1351 上小川バス停先で、国道から離れ右に旧道に入る。《地図

Img_1355 栗間小川地区

Img_1359 観音寺

常夜灯(文化3年(1806))

Img_1362逆川神社

南側に逆川が流れていることからの社名のようだ。「ひび」や「しもやけ」に霊験あらたかというが、今や2つとも死語になりつつあるか。境内に「かっこ踊絵馬」の汚れた説明板があった。

Img_1372 栗間中山地区 《地図

右は寒紅梅酒造

Img_1373 路地の先に大円寺がある。

このあたりに高札場があったようだ。

Img_1381 国道を横切って行く。

Img_1383 巡礼道との追分 【ル-ト地図】の③

甕釜冠地蔵堂前で分かれた巡礼道がここで合流する。

常夜灯・名残松・道標が立つ。

Img_1384 説明板

Img_1389 地蔵堂

Img_1391 常夜灯

Img_1392 説明板

Img_1396 江戸橋を渡る。

江戸に向かう藩主の見送りもここまでということから命名されたという。

Img_1400 江戸橋常夜灯(安永6年(1777))・道標 《地図

ここは東海道関宿からの『伊勢別街道』(右折)との追分(合流地点)。『東海道(亀山宿→関宿)』 

道標は「高田本山道」で、伊勢別街道沿いの高田本山専修寺のこと。

Img_1401 伊勢別街道方向

『東海道中膝栗毛』には「津の町にいたるまへに、高田の御堂、右のかたに見ゆる」とある。江戸橋の上から見えたのだろうか。

Img_1402 上浜町の家並み

Img_1403 旧家

Img_1408 旧家

Img_1415 一乗寺

馬頭観音が本尊か。

Img_1420 深正寺

昔は参道部分にも人家が並んでいたそうだ。

Img_1423 阿部喜兵衛商店

Img_1426 小丹(おに)神社の拝殿?

Img_1441 馬宝院蓮光山初馬寺 《地図

本尊は馬頭観音、三重四国八十八箇所の第64番。

Img_1440 縁起

Img_1435 文化財

Img_1438 魚藍観音

Img_1445 四天王寺

Img_1503 説明板

Img_1451 目洗い地蔵

Img_1447 由来

Img_1459 北向地蔵(左)・鐘楼門

この梵鐘(延宝8年(1680))は辻越後守陳種(のぶたね)の作。辻越後は藤堂高虎の頃、近江国から津へやって来て釜屋町に住み、燈籠や梵鐘を製作したそうだ。遠祖は渡来人だったのでは。

Img_1463 塔世橋を渡る。

当初は軍事的目的から橋はなかったが、延宝3年(1675)に土橋が架けられ、河原へ一度下りて橋を渡った。

Img_1472 津観音(観音寺) 《地図

津藩主藤堂高虎の祈願寺、日本三大観音の一つ。銅燈籠(寛永5年(1628))は辻但馬の吉種と辻越後の重種の兄弟の作。

「津の入口、ひだりの方に、如意輪観音堂あり、又かうのあみだといへるもあり。此所は上方筋より参宮の人おちあふ所にて、往来ことに賑しく」『東海道中膝栗毛』。(津観音の本尊は聖観音像だが)

Img_1504 説明板

Img_1471 銅鐘(元和3年(1617))

辻越後守家種とその子、吉種、重種兄弟の作。四天王寺の梵鐘を製作した陳種は重種の子。

Img_1483 道標

「すぐこうのあみだ 右さんぐう道」か? 

「国府の阿弥陀」は今は津観音寺に安置されている。かつて宿の中心部だった通りはアーケードの大門商店街となっているが往時の賑わいはない。

Img_1485 本陣跡

左の百五銀行の所、この先の「ニューマツザカヤ」が脇本陣跡。

Img_1494 津城跡 【ル-ト地図】の④

慶長13年(1608)、藤堂高虎が入城すると城下町の整備を行い、それまで城下の東側を通っていた伊勢街道を城下に取り入れた。このため、津の町は藤堂32万石の城下町であるとともに、宿場町としても発展した。

Img_1496 説明板

Img_1513 入徳門

津藩校有造館の講堂正門(移築)

Img_1512 説明板

高山神社(藤堂高虎を祀る)・城山稲荷神社に寄り、岩田橋を渡る。

Img_1528 円通寺

江戸時代には参宮者には茶を接待し、不浄を消す「清めのお茶」といわれた。藩主が神宮参拝の時には、ここで茶を喫することになっていたという。

Img_1530 大市神社

石田村の産土神だった。

岩田交差点で左へ旧道に入る。

Img_1540閻魔堂(真教寺)・市杵島姫神社 【ル-ト地図】の⑤

二代津藩主藤堂高次が建立。当時このあたりは町のはずれで、角町の守護として建てられた。

隣向うは市杵島姫神社。手前は五番地蔵大菩薩(延命子安地蔵)の祠。

Img_1549 閻魔像(天和2年(1682))

Img_1543 説明板

Img_1551 市杵島姫神社

もとは伊勢国司の北畠氏の守護神。「弁財さん」と呼ばれ、弁財町の由来となった。右は昭和20年の戦火から湯気を発し、社殿を守ったという神木の大イチョウ。

Img_1558 説明板

Img_1572 上弁財町地区 《地図

軒の低い2階建ての古い家並みが続く。

Img_1576 神明社(通称「まんどさん」)

伊勢神宮の分霊社

Img_1574 由緒

この先で右折し、阿漕駅に向かった。

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2012年2月17日 (金)

伊勢街道①(追分駅→磯山駅)

2012年2月5日

追分駅(近鉄内部線)・・・日永の追分(東海道)・伊勢街道・・・(国道1号)・・・道標・地蔵・・・高寺・・密蔵院・・・大治田神明社・・・県道103号・・・旧道・・・県道103号・・・河原田橋(内部川)・旧道・・・又兵衛橋・・河原田地区・・采女道・・常夜灯・・・距離標・・・河原田神社・・庚申塔・・・(県道103号)・(鈴鹿市)・・・河原田踏切(JR関西本線)・・・(県道103号)・・・常夜灯・・・高岡橋(鈴鹿川)・・・常夜灯・・・高岡地区・・・常夜灯・・・神戸の見附跡・・旅館加美亭・・近鉄鈴鹿線踏切・・・大橋(六郷川)・・札の辻・・・地蔵院・・・観音寺・・・高市神社・・龍光寺・・・神戸城跡・・・善導寺・・・浄願寺・・・幸橋(六郷川)・・・矢椅神社・・・大日如来道・・・大日堂跡・鎌倉権五郎塚・・・伊勢鉄道ガード・・・宇気比神社・八幡社・・・山神・・・願正寺・・・肥田橋(金沢川)・・・(国道23号)・・・島橋・・・天白社・・・道標・正信寺・・・道標・・・西玉垣町交差点(国道23号)・・・地蔵大マツ・・・弥都加伎神社・・・フジクラ・・・菅原社・・・白子7号踏切(近鉄名古屋線)・・北の端の地蔵堂・・役行者神変大菩薩・・・江島若宮八幡神社・・・江島地区・・高札場跡・・河芸郡役所跡・・・白子港・・・和田橋・・・久留真神社・・唯信寺・道標・・・目付役所跡・・・釜屋橋(釜屋川)・・・正因寺・・西方寺・・子安観音寺・・・道標・・・磯山8号踏切(近鉄名古屋線)・・・堀切橋(堀切川)・・・磯山地区・・・八幡神社・・・磯山駅(近鉄名古屋線)

  【ル-ト地図】(22.9km)

 「おかげ参り」か「抜け参り」か。まあそんなことどうでも「ええじゃないか」と、思い立ったが吉日、弥次喜多顔負けの軽薄さで、東海道の日永の追分から俄か道者は伊勢神宮へ向かう。

  *参考:『みえの歴史街道(伊勢街道)』・『歴史の道調査報告書(伊勢街道)』・その他

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Img_0999日永の追分 【ル-ト地図】の①

東海道は右、伊勢街道は左へ。

Img_2813 日永の追分(広重画)

かつて鳥居は伊勢街道上に建っていて、周辺には茶屋や旅籠が立ち並んでいた。今は茶屋はないが鈴鹿山系からの伏流水という湧き水(追分の名水)は健在で、今日も車で来てポリタンクにいくつも水を詰めて行く人で混んでいた。

弥次さん(東海道中膝栗毛)は鍵屋で饅頭の食べ比べをして、まんまと大金を支払わされる。弥次喜多と同様ここから伊勢神宮へ向かう。首に荷をつけたも鳥居をくぐってお伊勢参りだ。「も杓子も」犬も我もだ。『犬のおかげ参り』 
 がお伊勢参りをして人間に生まれ変わり、助けてくれた貧しい男に恩返しをするという、『猫女房』という民話もある。この猫は岩手の遠野から伊勢を往復したのだ。

Img_0997 道標(嘉永2年(1849))

「左いせ参宮道」・「右京大坂道」

Img_1005 道標・地蔵

三重四国八十八ヵ所霊場第12番の密蔵院への道標

Img_1012蟹築山密蔵院 《地図

海中より蟹が薬師如来を運び来て、当山に安置しという故事により、本尊を「かに薬師」と呼び、「大治田の薬師さん」と親しまれている。伊勢七福神の弁財天。

Img_1017大治田(おばた)神明社

Img_1018右へ旧道に入る。《地図

この先で内部(うつべ)川にぶつかるが、今は人の渡れる橋ではなく、左の河原田橋を渡る。

「抜けまいりならばぶさをもうつべ川 渡しの銭も仮橋にして」と弥次さんは洒落ている。

Img_1019 河原田橋

Img_1023 河原田地区へ入る。《地図

下は又兵衛橋。

Img_1029 常夜灯(天保14年(1843)) 《地図

もとは内部橋にあったもので、ここの旧采女道沿いに移設。

Img_1028 距離標(内堀道との角)

Img_1033 河原田神社

Img_1038 旧家

Img_1047 常夜灯(寛政11年(1799))

鈴鹿川北岸

Img_1051 高岡橋から鈴鹿川

嘉永6年(1853)に無銭渡しの木橋が完成した。それまではすぐに増水して大変不便だったという。橋は現在の高岡橋より少し西にあった。

Img_1053 常夜灯(文化4年(1807))

鈴鹿川南岸

Img_1055 高岡地区 《地図

古代条里制の一直線の畦道跡。

Img_1058 常夜灯(文化14年(1817)建立、大正9年再建)

Img_1062 神戸(かんべ)の見附跡 【ル-ト地図】の②

「木戸を支えた溝」というのが残るというが分からず。

Img_1063 説明板

Img_1068 旅館加美亭(見附跡のすぐ先の右側)

創業から250年以上で、今も現役の旅館。このあたりには旅籠が立ち並び、茶店女(女郎)を置く旅籠もあり、この先の神戸宿中心部に比べ賑わっていて、「神戸の町はばっかり」といわれたという。神戸宿は入だけと意だが、きっと女郎も先ばっかりだったのだろう。

Img_1071 レトロな理容店

Img_1072 連子格子の旧家

Img_1074 旧家

Img_1077 大橋(六郷川)を渡る。

かつては神戸藩士の水練場だったといい、蛍の名所でもあったそうだ。

Img_1081 札の辻(高札場跡) 《地図

正面の「あぶい旅館」の前に距離標が立つ。伊勢街道は左から右へ進む。その先の左側に本陣があった。

Img_1080 地蔵院 《地図

東海道中膝栗毛』で、「安穏に火よけ地蔵の守るらん 夏のあつさも冬の戸も」と詠まれた。神に寒を掛けている。

伊勢街道の一本西側の道を行く。

Img_1083 観音寺 《地図

Img_1086 思徳之碑

Img_1085 説明板

Img_1084 真言板碑説明板

Img_1089 連子格子の旧家

Img_1093 龍光寺

毎年3月に「神戸の寝釈迦祭り」が行われる。

Img_1100 石橋の欄干石

Img_1099 説明板

Img_1107神戸城跡 《地図

Img_1105 説明板

地子町南交差点を右折し、小公園に寄る。《地図

Img_1116 常夜灯(嘉永2年(1849))

明治18年の洪水で倒れ、小公園内に竿部分だけが残る。もとは幸橋にあったもの。

Img_1118 道標(元禄2年(1689)・小公園内)

「右いなふ道」・「左志ころ道」で、これも幸橋から移設されたもの。

Img_1120 常夜灯(昭和5年) 《地図

幸橋を渡った所。

Img_1127 大日如来道道標(嘉永4年(1851))

ここを入って行く。

Img_1128 鎌倉権五郎塚(左の石円柱)・大日堂跡(正面奥) 【ル-ト地図】の③

石円柱には寛治元年(1087)と刻まれているが、新しいものだろう。この前にあった小池には片目の鯉がいて、その水は眼病に効き目があったという。今は池は跡形もない。ここは『東海道中膝栗毛』にも載る古蹟で、「権五郎ならねど馬士のいつさんにおつかけてゆくとりの海」。

目玉に刺さった敵の鳥海弥三郎の矢を、自ら目玉とも引き抜いたという武者の鎌倉権五郎は、鎌倉の御霊神社、四国75番札所善通寺のそばの鎌倉神社にも祀られている。『鎌倉市の坂④』・『四国遍路道(香川県②)』 

伊勢鉄道ガードをくぐり、宇気比神社前から旧道に入る。《地図

Img_1136 山神の鳥居(左)

Img_1137 このような山神があちこちに祀られている。「常夜灯、道標(みちしるべ)に山神と見つけたり参宮道」か。

Img_1139 肥田地区の家並み

Img_1142 道標(左)・山神の鳥居(右奥)

道標は「右若松道□□□□」らしい。

Img_1152 天白社 《地図

天白信仰を各地に広めたのは、伊勢の御師で、御札を配り、神楽歌を歌って各地に流布させたようだ。

Img_1154 道標(文化4年(1807)) 《地図

電柱の右下、左は正信寺。「右さんぐう道」に従い右折し、すぐ旧家の角を左折して行く。

Img_1157 旧家

Img_1169 道標(元治2年(1865) 《地図

正面の電柱の右下。「左さんぐう道」だが西玉垣町交差点(国道23号)を渡り、地蔵大マツに寄る。

Img_1168 地蔵大マツ 【ル-ト地図】の④

見事な松で一見の価値あり。左が地蔵堂。

Img_1163 説明板

Img_1171 弥都加伎(みずがき)神社

Img_1180 フジクラ鈴鹿工場沿いを進む。《地図

通信ケーブルや電線を製造する三井グルーの非鉄金属メーカーで、本社は東京の江東区のようだ。

Img_1189 北の端地蔵堂 【ル-ト地図】の⑤

道路の向う側が役行者神変大菩薩堂。

Img_1191 説明板

Img_1193 地蔵(鎌倉時代の作)

Img_1198 江島若宮八幡神社 《地図

本能寺の変の時には,この神社の前の浜から徳川家康が知多に脱出したといわれている。

Img_1196 絵馬説明板

Img_1202 江島本町の家並み

Img_1204 旧家

Img_1208 高札場跡(右角) 《地図

紀州藩白子代官所の高札場

Img_1209 説明板

Img_1210 河芸郡役所跡(東町児童公園)

Img_1211 説明板

Img_1213 白子港

江戸時代は紀州藩の領地で、江戸への荷物運搬の母港として栄えた。天明2年(1782)に大黒屋光太夫がここから江戸へ向け出港し、遭難し漂流した。

Img_1216 久留真神社

Img_1219 由緒

Img_1221 唯信寺の前を右折し、すぐに左折する。

Img_1225 道標 《地図

和田さんが再々建て直した、分かりやすい指差し道標。

Img_1226 説明板

Img_1231 目付役所跡(右)

Img_1232 説明板

Img_1238 子安観音寺 《地図》 《地図

「風を孕(はら)む沖の白帆は観音の加護にやすやす海わたるらん」(東海道中膝栗毛)は航海の安全と安産の意。

三重四国八十八ヵ所霊場の16番

Img_1239 説明板

Img_1241 銅燈籠(寛文6年(1666))

辻越後守玄種の作。玄種は津市釜屋町の鋳工として、江戸時代に名声を博した辻越後の但馬家の祖、辻但馬守吉種の次男。

Img_1246 不断桜

花も葉もないようだが。

Img_1245 説明板

Img_1249 道標(弘化4年(1847)) 《地図

「右さんぐう道」・「左くわんおん道」で右へ進む。すぐ先に次の道標がある。

Img_1251 説明板

Img_1253 道標(ミラーの下・上の説明板の②のもの)

「左いせみち」と進む。上の凹みは砥石をならした跡だそうだ。

Img_1256 細い道を抜けて行く。

Img_1260 近鉄名古屋線の磯山8号踏切を渡る。《地図

Img_1262 堀切橋を渡る。

街道が堀切川を渡った正確な位置は不明という。

Img_1267 磯山地区へ入る。《地図

Img_1268 八幡神社(右)の先で左折し、磯山駅に向かった。

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2012年2月13日 (月)

大山街道(愛甲石田駅→こま参道入口)

2012年1月30日

愛甲石田駅(小田急線)・・(伊勢原市)・・愛甲石田1号踏切(小田急線)・・国道246号・・・浄心寺・・・石田交差点・旧道・・・(小田急線)・・・長龍寺・・小金塚神社・小金塚古墳・・・(小田急線)・・・白金地蔵・・・歌川橋(歌川)・・・(県道22号)・・・糟屋宿・・普済寺・・道灌橋(渋田川)・・大慈寺・・・大田道灌の墓(首塚)・・・高部屋神社・・・跨道橋(国道246号)・・丸山城址公園・・・下糟屋交差点・旧道・・・東海大付属病院・・・咳止地蔵尊・・せきど橋(渋田川)・市米橋交差点(矢倉沢往還分岐地点)・・・旧道・・・峰岸団地・・・厚木18ガード(東名高速)・・東〆引の道標・・・千石堰用水・・・三所石橋供養塔・・・洞昌院・・太田道灌の墓(胴塚)・・・七人塚・・上粕屋神社・・・台の道標・山王橋(千石堰用水)・・・石倉橋交差点・上粕屋石倉中遺跡(発掘現場)・・・比々多神社①・・・千歳橋・・・易住寺・旧道・比々多神社②・這子坂・・・諏訪坂・・諏訪神社・・・阿夫利神社三の鳥居・・・二つ橋・高札場跡・・・新玉橋(鈴川)・・・加寿美橋(鈴川)・・・阿夫利神社社務所・・・愛宕滝・愛宕橋・・・開山堂・良弁滝・・・旧道・とうふ(豆腐)坂・・・千代見橋・・・こま参道入口・もみじ坂下・・大山ケーブルバス停→伊勢原駅(小田急線)

 愛甲石田駅で伊勢原市に入り、西へ大山を目指す。うっすらと雪化粧した大山が少しづつ近づいてくる。石倉橋交差点あたりから徐々に上って這子坂、豆腐坂を過ぎ、こま参道入口に着いた。この先、大山山頂(1252m)の阿夫利神社本社までは春になってから、大山登山を楽しみながら歩くとしよう。

  【ル-ト地図】(13.6km)

  大山街道(女坂→大山山頂→男坂)』へ続く。

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Img_0751浄心寺 《地図

本尊は阿弥陀如来を中尊とする三尊像で、阿弥陀如来立像は南北朝時代の作という。どっしりと趣のある茅葺きの山門だ。

Img_0762小金塚神社 《地図

相模最大の円墳、小金塚古墳(直径45m、高さ6m)の上に建つ。

Img_0774白金地蔵 【ル-ト地図】の①

ここは荻野道との三叉路

Img_0775縁起

Img_0781歌川橋から大山

だいぶ近くなってきた。

Img_0787屋下宿の家並み 《地図

糟屋宿は東から下宿、中宿と上宿と続き、旅籠、問屋、万屋などが並び、大山参詣人や物資の運搬人で賑わっていた。

Img_0790普済寺

Img_0794多宝塔

幕命で北海道へ派遣された僧が帰還後、北辺の地の安泰を祈願して神宮寺(廃寺)に建立。高さは7mを越え、市内最大の石造建築物という。去年の大地震で上部は落下したのか?

Img_0796説明板

Img_0802大慈寺(太田道灌の菩提寺)

道灌の叔父で、鎌倉建長寺の長老の周厳淑悦禅師が法雨山大慈寺をこの地に移して住んでいた。

Img_0811太田道灌の墓(首塚) 【ル-ト地図】の②

Img_0808説明板

Img_0813下糟屋公会堂

何となく懐かしさを感じる建物だ。

Img_0816高部屋神社(旧八幡社)

延喜式内社で、拝殿(慶応元年(1865))は茅葺きの総ケヤキ造りで本殿は五間流造。

Img_0819説明板

Img_0820銅鐘(至徳3年(1386))

Img_0822雨乞い行事は昭和8年が最後となってしまったようだ。

Img_0830丸山城址公園 《地図

平安時代の終わりから鎌倉時代にかけてこのあたりを支配していた糟屋有季の居館跡と伝える。その後の発掘調査で室町時代後期の資料が多く発見され、15~16世紀に城として機能していたことが確認され、太田道灌が主君の扇谷上杉定正に殺された「上杉館」(糟屋館)という見方も有力となった。

Img_0827説明板

Img_0845咳止地蔵 【ル-ト地図】の③

Img_0846説明板

「戸田道」は相模川「戸田の渡し」からの大山道の一つ。大山道道標は耕雲寺に移されている。

Img_7612 大山道道標(享保13年(1728)・耕雲寺境内)

「左おふや満みち 右ひなたみち」

Img_0847咳止地蔵(享保8年(1723)再建)

願をかけるときは、初めに泥の団子をこねて供え、「咳の病気が治った時は本当のお米の団子をお供えします」と祈り、治った時は本物の団子を供えてお礼参りしたそうだ。初めから本物の団子を供えるべきだろうよ。地蔵さんの力量、功徳を試して、駆け引きしているみたいだ。

Img_0851せきど橋(市米橋・渋田川)

渋田川の流れを堰き止めて変え、新田開発を行った所。そこから辻の地蔵が咳止地蔵となった。

橋を渡って市米橋交差点を直進して行くのが矢倉沢往還で伊勢原宿から善波峠、矢倉沢関所、足柄峠へと向かう。右折し少し進み左折して旧道に入るのが大山街道。

Img_0856旧道に入る。《地図

納め太刀」絵入りの大山街道標識が立っている。

Img_0857大山を眺めながらしばし旧道を行く。

Img_0861峰岸団地を抜けて行く。

Img_0864厚木18ガード(東名高速)をくぐる。

Img_0866東〆引の道標 《地図

双体道祖神の台石が道標になっている。

Img_0868道標(明和9年(1772))

「右 い丶やまみち 七五三引村 左 ひなたみち 」、〆引=七五三(しめひき)。 

Img_0869千石堰用水(道灌堀)

上杉定正の屋敷があった頃、有事に備えて空堀に水を入れるための用水路。

Img_0870三所石橋供養塔 《地図

千石堰用水に架かる三所の石橋で、この台久保の石橋と石倉の石橋、川上の石橋であったという。

Img_0876洞昌院

開基は太田道灌で、開山は崇旭和尚。

Img_0881太田道灌の墓(胴塚)

前の2本の松の切り株は道灌の四十九日の供養に詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が植えた松と伝え、明治半ばまでは立派な松が2本聳えていたという。

太田道灌ゆかりの地は各地にある。だけでも、「道灌坂」(杉並区・横浜市鶴見区)・「道灌山坂」(荒川区)・「山吹坂」(新宿区)・「梅林坂」(皇居東御苑)・「静勝寺の坂」(北区の岩付城址)。

Img_0878説明板

Img_0880説明板

Img_0886七人塚 《地図

今は7人のうちの一人の塚が残るのみだが。ここも大田道灌ゆかりの地。

Img_0884説明板

Img_0890上粕屋神社

Img_0889由緒

Img_0896台の道標(右)・庚申塔(中)・道祖神(左)

Img_0895説明板

Img_0899石倉橋交差点 《地図

右は「上粕屋石倉中遺跡」の発掘現場。このあたりに石倉橋の道標があるはずだが見当たらない。蓑毛・日向越えの大山道を除くほとんどの大山街道はここで合流する。道標には「右 い世原 田村 江ノ島道 左 戸田 あつぎ 青山道 此方はたの道 此方ひらつか道」と刻まれているそうだ。

Img_0906発掘作業中

Img_0904説明板①

Img_0905

Img_0907道標は移設されていた。

Img_0908比々多神社①

Img_0917細くなった向拝の柱(3代目)

昔から安産守護の神として崇められ、柱を削り取って煎じて飲むと安産できると信じられてきた。そのため柱は今ではこのように保護されている。(削り取り禁止の板が貼ってある) 左の柱が男子出産祈願で、右は女子だそうだ。どちらも削り取られて同じくらいの太さになっているから、日本国は安泰か??

Img_0911美人絵馬説明板

Img_0920街道沿いの旧家

廃屋になってしまったか。

Img_0927易住寺(右)の所で左折し、旧道の這子坂を上る。

Img_0931這子坂 【ル-ト地図】の④

這って上るほど、急な坂だったといわれ、この坂で赤ん坊が這っているときに鷲にさらわれたという言い伝えもあるそうだ。

Img_0930坂標

Img_0932諏訪坂の上りとなる。

坂沿い左側に諏訪神社がある。近そうで遠い大山だ。

Img_0936三の鳥居

この鳥居は、江戸火消し「せ組」によって建立され、「せ組の鳥居」ともいわれている。ここから上が門前町。

Img_0937二つ橋

文明18年(1486)、京都の聖護院道興准后(どうこうじゅごう)は東国を廻国の折に大山寺に参詣し、「おぼつかな 流れも分けぬ 川水に かけ並べたる 二つ橋かな」と詠んだ。大山寺に泊まったが、寒くて眠れなかったようだ。『廻国雑記

ここに高札場があった。

Img_0947門柱に「講元 高山善夫」・「常善坊 内海三太夫」

御師(先導師)の「常善坊」の家か。

Img_0952式部旅館

Img_0953大山が近くなった。

Img_0956加寿美橋(鈴川)を渡る。《地図

Img_0957大山ケーブルカーは運休だと。どうせ乗らないから関係ないが。

Img_0967阿夫利神社社務所から

Img_0969愛宕滝

まあこんなものだろう。期待はしてなかったが。

Img_0981開山堂・良弁滝

堂内の正面に良弁僧正坐像、右には、猿が赤子を抱いた像、左に姥大日如来像が安置されているそうだ。

Img_0976説明板

Img_0978良弁滝

愛宕滝、大滝、元滝と並ぶ禊ぎの滝の一つ。

Img_0977説明板

Img_0982とうふ(豆腐)坂(左)に入る。 【ル-ト地図】の⑤

Img_0984坂上方向

夏山祭りなどの暑い盛りに講中が奴豆腐を掌に載せて歩きながら食べ喉を潤したというが、今はまさに寒中、湯豆腐だろうな。

Img_0983坂標

Img_0989坂上方向

Img_0993コマ参道(右)・もみじ坂(左)

少し下って大山ケーブルバス停から伊勢原駅に出た。

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2012年2月11日 (土)

大山街道(長津田駅→愛甲石田駅)

2012年1月29日

長津田駅(東急田園都市線)・・・長坂・・・国道246号・・・旧道・・馬の背・・・(すずかけ台駅)・・・こうま公園・・国道246号・・・町田道祖神・・辻地蔵尊・横浜道祖神・・・町田市辻・浜街道(絹の道)交差地点・(町田市)・・・旧道・・・大ヶ谷戸庚申塔・・・日枝神社・・・円成寺・・・五貫目町交差点・五貫目道祖神・・・鶴瀬橋(境川)・(大和市)・・・観音寺・鎌倉街道上の道交差地点・・・大黒天開運神社・大山阿夫利神社御分霊社・・・下鶴間宿・下鶴間不動尊・鶴林寺・・・道標・まんじゅう屋跡・・・日枝神社・・・山王原公園・・・(鶴間駅・小田急江ノ島線)・・・西鶴寺・・・さがみの1号踏切(相鉄本線)・・・(国道46号)・・・赤坂バス停・不動明王道標・・・赤坂・・・望地交差点・(海老名市)・・南坂・・・目久尻橋(目久尻川)・・・石橋供養塔・・・伊勢山自然公園・・・逆川碑・・・国分の辻(堂坂下)・・相模国分寺跡・・・海老名の大ケヤキ・・(現)国分寺・・・音坂(国分坂下交差点)・県道40号・・・海老名中央公園・・・海老名跨線橋(小田急線)・一大縄・・・相模国分4号踏切(相鉄線)・・・旧道・・七曲り・庚申塔道標・・・厚木の渡し跡・・・八大龍王祠・・(あゆみ橋工事中迂回)・・・相模大橋(相模川)・・(厚木市)・・厚木の渡し跡・県道611号・・・烏山藩厚木役所跡・厚木神社・・厚木宿・渡辺崋山滞留の地碑(旅籠萬年屋跡)・・・最勝寺・・・熊野神社・・・旭町4交差点・旧道・・・旧平塚街道碑(富士見町交差点)・・・岡田一本杉バス停・御嶽神社・・・三島神社・・・(東名高速)・・・長徳寺・・・法徳寺・・・法雲寺・・・酒井薬師堂(寅薬師)・酒井の道標・・・岡田交差点(県道601号)・・・酒井前田交差点(国道129号)・・・新宿橋(玉川)・・・片平交差点(小田原厚木道路)・・・玉川橋・・愛甲宿の道標・・・宿愛甲交差点・庚申塔道標・・・大坂・・・愛甲石田駅(小田急線)

  【ル-ト地図】(26.0km)

 青葉区・緑区の坂』(大山街道(市ヶ尾竹下地蔵堂→長坂))の続きです。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0448馬の背を行く。【ル-ト地図】の①

Img_0446大山(左前方・馬の背から)は遥かなり。

Img_0454「こうま公園」に沿って上り、国道246号に出る。

Img_0457町田道祖神(南つくしの郵便局前)

Img_0459辻地蔵堂・横浜道祖神 《地図

Img_0461辻地蔵説明板

Img_0463辻地蔵(元文5年(1740))

もとは『浜街道(絹の道)』(町田街道)と交差する町田市辻(長津田辻)に立っていたのだろう。

Img_0464町田市辻交差点

右から左が「浜街道」

Img_0469大ヶ谷戸庚申塔(文久3年(1863)) 《地図

前を南北に鎌倉道が通っている。

Img_0482五貫目道祖神(安政3年(1856)) 【ル-ト地図】の②

台座の左側面に「右 大山道 左 江戸道」

Img_0481説明板

Img_0487観音寺

武相卯歳観音札所の第1番。境内を「鎌倉街道上の道」が通る。

Img_0500大山阿夫利神社御分霊社・大黒天開運神社

当家とは元新田氏(高下宗家)ということらしいが、よく分からず。「新田義貞公鎌倉進撃路」の地図などが敷地内にあるが、大山阿夫利神社御分霊社に関しての案内板などはない。不思議な一画だ。

Img_0495

Img_0492新田義貞像

Img_0490元新田氏の由来

Img_0494大黒天開運神社

大山参拝者はここで財布を清め、金運にあやかるように祈願したそうだ

Img_0502下鶴間宿 【ル-ト地図】の③

江戸よりおよそ11里で、大山街道沿いに松屋、三津屋、角屋といった旅籠や、染物問屋、居酒屋、餅屋、質屋などの商家があり、家数は122軒でたいそう賑わっていた。宿内の大山道の道幅は4間と広く、交差する八王子道は幅2間で交通の要衝であった。伊能忠敬測量隊も文化13年(1816)3月18日にこの地を訪れ組頭長谷川彦八家に宿泊している。

左は雑貨商の旧小倉家で、「下鶴間ふるさと館」として公開している。前が高札場跡。このあたりは『大和市の坂⑥』にも記事あり。

Img_0509明治4年頃の写真

小倉家(左)・長谷川家(右)、右から3番目が旅籠松屋。

Img_0526旅籠松屋

Img_0527説明板

Img_0524長谷川家

文化13年(1816)に伊能忠敬測量隊が宿泊した。

Img_0534まんじゅう屋跡(右)

渡辺崋山が泊まった旅籠跡。参考:『渡辺崋山と大山道を歩く』 電柱下に小さな道標が立つ。
崋山が家老を務めた三河田原藩城下は、『田原街道②』に記載。

Img_0539説明板

Img_0543日枝神社

この前で東京八王子の滝山城から鎌倉玉縄城をつなぐ滝山街道が交差している。

Img_0558不動明王道標(宝暦6年(1756))(赤坂バス停の所)

塔身に「右神名川道 左江戸道」

この先、海老名駅までは『海老名市の坂②』にも記事あり。

Img_0560赤坂を下る。

Img_0561説明板

お銀さまの墓」は『綾瀬市の坂②』で訪れている。

Img_0568南坂から 【ル-ト地図】の④

大山(左)はまだ遠し。

Img_0569坂下方向

坂下から県道に出て目久尻橋を渡る。

Img_0575石橋供養塔

宝暦7年(1757)の頃、それまでの木橋を大山道で唯一の石橋に造り替えた。その募金活動を勧めた地元の篤志家の重田七三郎を記念する碑。

Img_0582石橋の石

「史跡逆川碑」の所にある。

Img_0577道祖神がなんとか残っている。(伊勢山公園前交差点あたり)

Img_0581逆川碑

Img_0585説明板

Img_0588地図

右上の国分堰で目久尻川から取水し、ここで向きを変えて国分寺跡、船着場跡、国分尼寺跡の方へ流して耕地に注いでいた。

Img_0589国分の辻 《地図

ここ堂坂(正面・藤沢道(鎌倉道))下は、国分宿の中心で高札場があった。国分宿は江戸から14里、鶴間へ2里、厚木へ1里で、かつては村役場、登記所、駐在所などの公共施設があり、海老名村の中心地として賑わった。料亭や旅籠が軒を連ねていたそうだ。今は海老名駅周辺に中心部は移っている。

Img_0597相模国分寺跡

左前方に七重の塔が立っていた。

Img_0592伽藍配置図

Img_0611七重の塔(海老名中央公園内)

実物はこの3倍ほど。

Img_0610説明板

Img_0604海老名の大ケヤキ

無残な姿になってしまったと思ったが、冬で葉が落ちているだけか。

Photo2006年11月10日の写真

Img_0599説明板

Img_0600(現)相模国分寺

Img_0602梵鐘(国重文)

正応5年(1292)、国分次郎源季頼が国分尼寺に寄進したもの。

Img_0601説明板

Img_0603尼の泣き水」坐像(供養塔)

漁師に恋した尼さんの悲しい物語。「八百屋お七」を思い出した。尼さんが処刑されたのは、現在の海老名小学校の上の台地という。尼の泣き水は、昭和40年頃まで流れ出ていたが、周辺に家ができたりして、いつか涸れてしまったそうだ。

Img_0618一大縄の直線道(海老名跨線橋から)

古代の口分田の区画割り、「条里制」の名残り。この付近の海老名耕地の大半も整理され、その東西の基準線が「一大縄」と呼ばれ、大山街道の起源となった。ここから南に「一大縄~五大繩」という地名が残る。

大山は近づいたか。

Img_0620市立図書館前

相模線を渡り直進し、七曲りを進む。

Img_0627庚申塔道標(左)

左側面に「右 大山 此方 江戸道」で、ここを右折する。

Img_0638厚木の渡し跡(海老名側)から相模川、大山。

Img_0639郷土カルタ

Img_0646あゆみ橋は延伸工事中(24年5月31日までとあるがもっと延伸するだろう)で渡れず、下流の相模大橋まで迂回する。右は八大龍王の石碑と祠。

Img_0656厚木の渡し跡(厚木側) 【ル-ト地図】の⑤

Img_0653厚木渡し碑・渡辺崋山来遊記念碑

Img_0654説明板

Img_0661烏山藩厚木役所跡 《地図

Img_0678説明板

Img_0666厚木神社

那須与一も眼病祈願したという、「厚木のお天王様」。

Img_0663由来

Img_0670旅籠萬年屋跡

天保2年(1831)9月22~24日に渡辺崋山が泊まった旅籠。崋山は逗留中、当地の著名人・知識人との交流を深め、厚木の景勝を描いた「厚木六勝絵」を残している。

Img_0679厚木宿説明板

Img_0681厚木宿の写真

Img_0674最勝寺

昔、旅の僧が動かなくなった阿弥陀仏を拝んだところ、村が流行り病を免れたので、宿にした閻魔堂の隣に寺を建立したのが始まりとか。

Img_0682熊野神社

渡辺崋山の「厚木六勝絵」の「熊林暁鴉」図の「熊野の森」も跡形なしで、大イチョウが聳えるのみか。

Img_0683説明板

Img_0684旭町4交差点 

手前角に「きりんど橋」の標柱のあるはずだが見つからず。県道の西側にあるのか。

ここを左斜めに入って行く。《地図

Img_0687旧平塚街道碑 (富士見町交差点)

渡辺崋山の「厚木六勝絵」に「桐堤の賞月」として描かれているというが、今は何の風情もない所だ。往時、八王子道と重なった部分で、平塚へ行くのに利用された。

Img_0688岡田一本杉バス停

樹齢250年という杉の大木は関東大震災で根元が痛み、枯れ死状態となり切り倒されてしまったそうだ。右に御嶽神社の小祠がある。

Img_0691三島神社

Img_0693説明板

Img_0692周辺案内図

三島神社の東の相模川に、対岸の社家と結ぶ「岡田の渡し場」があった。

Img_0708法徳寺

木造聖徳太子立像(室町~桃山時代の作)を安置。

Img_0711壊れた五輪塔?と右は?

ここを右折する。ここに酒井薬師堂に移された不動明王道標が立っていた。

Img_0713法雲寺

木造不動明王立像(12世紀頃の作・神奈川県指定重要文化財)を安置。

Img_0721酒井薬師堂

寅薬師と呼ばれ、寅年の10月10日頃に開帳され、双盤念仏が奉納される。(写真

堂の右前は「酒井の道標」で、もとは先ほど辻に立っていた。不動明王の台座の4つの側面に東・西・南・北と刻まれ、その下にも文字が刻まれているが読めず。西の下には「享保 再建立安永」などとある。酒井村は矢倉沢往還(大山街道)や八王子道などの追分けであった。

Img_0737愛甲宿の道標 《地図

消火栓箱の右の庚申塔の右側面に「左大山道」、左側面に「右あつぎ、江戸青山道」

Img_0744笠付庚申塔道標(宿愛甲交差点左手前の電柱下)

Img_0747笠付き庚申塔道標(天明元年(1781))

「右 大山道」

Img_0748大坂を上れば愛甲石田駅。《地図

自宅から長津田駅までは2時間以上かかり、そしてここまで、途中で道を間違えたりしてけっこうな距離を歩いて疲れた。今日は厚木に泊まって、明日大山の参道下あたりまで歩くとするか。

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