伊勢街道④(松阪駅→宮町駅)
2012年2月8日
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時折、風に舞って雪が落ちてくる街道を、伊勢市に入り宮川を渡った。もう外宮は間近だ。明日ゆっくりと外宮から間の山を越えて内宮へ参ろう。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
「愛宕の天神さん」で梅鉢紋。正面が本堂で菅原道真を祀る天満宮という変わった寺だ。
信楽寺 《地図》
右に閻魔堂
4日目にして伊勢街道最初の名前のある坂に出会った。
青面金剛像が安置。
白酒を名物とする店が数軒並んでいたという。
常夜灯(文政12年(1829)建立・嘉永2年(1849)に修理)
江戸干鰯問屋などの寄進。
町石には「片岡山大日如来是より三丁」
由来は?
行き倒れた参宮道者の霊が祀られているというが。
この石は酒好きで酒をかけると、段々酒を飲まなくなるという。「断ち物信仰」の一種か。
八柱神社 《地図》
右は明和5年(1768)の常夜灯
「従是外宮四里」で、伊勢神宮はだいぶ近づいてきた。
おもん茶屋跡 《地図》
へんば餅を名物にしていた。「おかん茶屋」もあった。
「旅人はいづれにこころうつるやとおもんおかんが売れる焼餅」(『東海道中膝栗毛』)、旅人はどっちで買うか、「こころうつる」は、どちらの女に心が移る、焼餅は嫉妬という意を含んでいる。
このあたりに藤堂藩の豊原本陣の奥田清十郎家があったそうだ。
豊養稲荷神社(左) 《地図》
櫛田神社の旧地で「櫛田大市」碑が立っている。
「左さんくうみち」で、左折し右折して櫛田川の堤防上に出る。
冬・春の渇水期には仮橋で、夏・秋の増水期には舟で渡し、橋銭・舟銭を取っていた。
右に地蔵(天保9年(1838))、ここは機殿(はたどの)道との分岐点。
かつては茶屋や旅籠が点在していた。
梵字6文字が刻まれている。
祓川(祓川橋)から 《地図》
斎王群行の際には、ここで祓いをして斎宮に向かったというが、今は祓いができるほどきれいな流れではない。
「従是外宮三里」
このあたりに駕籠屋の溜まり場、馬の取次ぎ場がある立場茶屋があり、明治以降は人力車、馬車の溜まり場だった。
近鉄山田線の踏切を渡り、斎宮歴史博物館に寄る。
ちょうど映像展示室では「斎王群行」が上映される時刻だった。あまり面白味のある内容ではなかったが、致し方なしか。
斎王は斎王群行で都から鈴鹿峠を越え、斎宮にやって来た。
伊勢古道 《地図》
伊勢神宮へ、斎王や使者の通った官道跡。
斎王の森 《地図》
大伯皇女歌碑
「わが背子を大和にや(遣)るとさ夜ふ(深)けて あかとき(暁)露にわが立ちぬ(濡)れし」
初代の斎王で、弟の大津皇子が謀反の疑いで処刑される直前に訪ねて来た時に詠んだ歌とも。
いつきのみや歴史体験館に寄り、街道に戻る。
『戦国時代と北畠一族』によれば、野呂三郎の徳政一揆は弘治元年(1555)で、北畠材親(永正14年(1517)に死去)の時代ではないのだが。
毎年6月に行われる「斎王まつり」の斎王行列の出発地点。
「謡曲絵馬」
北野天満宮への道標。
防火にご利益あり。もとは街道沿いにあった。
手前が「斎宮旧蹟蛭澤之花園」で、天然記念物のどんと花(野花しょうぶ)群生地への案内。
後ろは「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」で、天延2年(974)斎宮で病没した斎王の墓への道標。
新笹笛橋を渡る。《地図》
門前の明星茶屋で、浄めの茶として参宮者の喉を潤した。日本三霊水の一つ。 あとの2つは、「忍潮井(忍塩井)おしおい」と、「伏見の直井」(京都伏見のどこにあるのか?)だとか。
明星(茶屋)(伊勢参宮名所図会)
弥次喜多もここで休憩し、派手な大縞の着物の上方者と出会う。弥次さんと上方者は二宝荒神(馬の背に2つの鞍をつけて乗る)で、相手の土地の習慣、風俗を腐しながらの道中となる。『東海道中膝栗毛』
明治初年まで参宮者相手のそうめん屋があったそうだ。
手前が土師器焼成坑跡か?
「従是外宮二里」
屋号「かめや」
参宮者の信仰を集めていたという。
三方荒神(3つの鞍を置いた馬)などでの参宮者が、ここで馬を返し(返馬)一休みしたことから名づけられた。
「へんば餅」を買おうとしたが、店内は客が列をなしているのでやめた。
相合(そうごう)橋(相合川)を渡る。
平時は水量が乏しいが、雨が降るとすぐ増水することから「貧乏川」と呼ばれた。
札の辻(紀州藩高札場跡) 《地図》
街道は左折だが直進し、離宮院跡に寄る。
離宮院跡の土塁跡
煙草入れ、薬などを商っていた。
このあたりは紀州藩と鳥羽藩が接近していたようだ。
板田の橋跡碑には、「名木 板田の薄紅葉跡」とある。むろん橋も紅葉もない。
左に「参宮人見附碑」。元は常夜燈で、夜間の参宮者を監視する参宮人見附を灯していたという。
「桜の渡し」(宮川の渡し)は無料で、泳いで渡る人もいたようだ。明治30年に参宮線が開通するまで続いていた。
日永の追分で鳥居をくぐった「おかげ参りの犬」も無事に川を泳ぎ渡ったようだ。『宮川の渡し』の広重の絵に元気な姿が描かれている。
「桜の渡し」説明板(左) 《地図》
茶屋町の道標 【ル-ト地図】の19
「すぐ 外宮江十三丁半 内宮江壱里三十三丁半」だが、今日はここまでとし左折して宮町駅へ向かう。
治承年間(1177~80)に、平清盛がこの地域を水害から守るため「清盛堤」を築いた。その時に清盛の屯所に張られた幕張の松という伝承。すぐ南の大間国生神社の後方の、土を盛ってやや高くなっている所が、清盛堤の一部ではないかと考えられているそうだ。
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