伊勢街道②(磯山駅→阿漕駅)
2012年2月6日
磯山駅(近鉄名古屋線)・・・専照寺・・・国道23号・・・中ノ川橋(中ノ川)・(津市)・旧道・・千里2号踏切(近鉄名古屋線)・・・甕冠橋架け替工事中迂回・・・甕釜冠地蔵堂・・・本福寺・・・千里駅・・踏切(近鉄名古屋線)・・・(国道23号)・・・田中地蔵堂・・・大蔵橋(田中川)・・・上野地区(上野宿)・・・最勝寺・・・上野神社・・・円光寺・・・弘法井戸・本陣跡あたり・・上野城跡・・・道路元標跡・・・満流寺・・・安芸郡河芸町役場跡(朝陽中学校)・・(国道23号)・・・高山地蔵・・・松林寺・中瀬八幡神社・・・国道23号・・・中瀬交差点・・痔神社・・・上小川バス停・・旧道・・・観音寺・・・高田本山7号踏切(近鉄名古屋線)・・・逆川神社・・・大円寺・・・(国道23号)・・・巡礼道追分(常夜灯・道標・名残松)・・・大学前交差点・国道23号・・・江戸橋北詰交差点・旧道・・・江戸橋(志登茂川)・・・伊勢別街道追分(常夜灯・道標)・・・託縁寺・・一乗寺・・深正寺・・阿部喜兵衛商店・・・光蓮寺・・・善徳寺・・・初馬寺・・・心覚寺・・・四天王寺・・・塔世橋(安濃川)・・・大宝院・・津観音(観音寺)・・道標・・本陣跡・・脇本陣跡・・・津城跡・・・高山神社・城山稲荷神社・・・岩田橋(岩田川)・・・仏眼寺・・・円通寺・・・大市神社・・阿弥陀寺・・・岩田交差点・旧道・・・閻魔堂(真教寺)・市杵島姫神社・・・教円寺・・・神明社・・・(県道114号)・・・(国道23号)・・・阿漕駅(JR紀勢本線)
【ル-ト地図】
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朝から冷たい雨の中を行く。弥次喜多が歩いた頃には吹矢の見世物(からくり的)が出ていたというが、今は静かな通りだ。
甕冠橋は工事中で大きく左方向に迂回した。正面に屋根が見えるのが甕釜冠地蔵堂。
もとは光明院といい参宮道者の無事を祈願し、茶を接待した休憩所となっていた。ちょうど堂守の月番のおばさんが堂内を清掃していた。甕釜冠の由来を聞いたがよく分からないとのこと。堂に寄付者の一覧板が貼ってあった。おばさんは○万円、旦那さんは○十万円。きっと地蔵さんのご利益が大きいことだろう。左に行くのは巡礼道で、栗真町屋で合流する。
露盤の代わりが釜で、その上に宝珠の代わりに水甕が伏せてある。
なぜ釜と甕が乗るのかは記載されていない。
雨乞いの「かんこ踊り」が行われていたそうだ。雨は止んで欲しいので、ここから遥拝のみ。
大蔵橋(田中川)を渡り、上野地区に入る。
上野神社参道 《地図》
左上は最勝寺で、元亀年間(1570~72)に分部光嘉が中山に城を築く時に、中山からここに移した。辻越後守種茂の梵鐘がある。鋳物師(いもじ)の辻(越後・但馬)にはこの先でよく出会うことになる。
分部氏の菩提寺。
屋号「江戸屋」か。
村人の生活用水、参宮者の喉を潤した井戸だが今は使われていない。このあたりが上野宿の中心で、この先の右側に本陣、その向いが問屋(荒井屋)だったようだ。
「江姫ゆかりの地」でもある。雨の中、登城は控える。
安芸郡河芸町役場跡(朝陽中学校) 《地図》
ここは上野城時代の刑場で、処刑者供養のための地蔵という。
松林寺・中瀬八幡神社 《地図》
もとは「地神」だったとも、神体は白蛇で、毎年4月3日の祭礼日には、名古屋、大阪方面、県内の信者が列をなして参詣し、大いに賑やかであるとか。「痔主」は全国津々浦々にいるようだ。
上小川バス停先で、国道から離れ右に旧道に入る。《地図》
常夜灯(文化3年(1806))
南側に逆川が流れていることからの社名のようだ。「ひび」や「しもやけ」に霊験あらたかというが、今や2つとも死語になりつつあるか。境内に「かっこ踊絵馬」の汚れた説明板があった。
栗間中山地区 《地図》
右は寒紅梅酒造
このあたりに高札場があったようだ。
甕釜冠地蔵堂前で分かれた巡礼道がここで合流する。
常夜灯・名残松・道標が立つ。
江戸に向かう藩主の見送りもここまでということから命名されたという。
江戸橋常夜灯(安永6年(1777))・道標 《地図》
ここは東海道関宿からの『伊勢別街道』(右折)との追分(合流地点)。『東海道(亀山宿→関宿)』
道標は「高田本山道」で、伊勢別街道沿いの高田本山専修寺のこと。
『東海道中膝栗毛』には「津の町にいたるまへに、高田の御堂、右のかたに見ゆる」とある。江戸橋の上から見えたのだろうか。
馬頭観音が本尊か。
昔は参道部分にも人家が並んでいたそうだ。
本尊は馬頭観音、三重四国八十八箇所の第64番。
この梵鐘(延宝8年(1680))は辻越後守陳種(のぶたね)の作。辻越後は藤堂高虎の頃、近江国から津へやって来て釜屋町に住み、燈籠や梵鐘を製作したそうだ。遠祖は渡来人だったのでは。
当初は軍事的目的から橋はなかったが、延宝3年(1675)に土橋が架けられ、河原へ一度下りて橋を渡った。
津藩主藤堂高虎の祈願寺、日本三大観音の一つ。銅燈籠(寛永5年(1628))は辻但馬の吉種と辻越後の重種の兄弟の作。
「津の入口、ひだりの方に、如意輪観音堂あり、又かうのあみだといへるもあり。此所は上方筋より参宮の人おちあふ所にて、往来ことに賑しく」『東海道中膝栗毛』。(津観音の本尊は聖観音像だが)
辻越後守家種とその子、吉種、重種兄弟の作。四天王寺の梵鐘を製作した陳種は重種の子。
「すぐこうのあみだ 右さんぐう道」か?
「国府の阿弥陀」は今は津観音寺に安置されている。かつて宿の中心部だった通りはアーケードの大門商店街となっているが往時の賑わいはない。
左の百五銀行の所、この先の「ニューマツザカヤ」が脇本陣跡。
津城跡 【ル-ト地図】の10
慶長13年(1608)、藤堂高虎が入城すると城下町の整備を行い、それまで城下の東側を通っていた伊勢街道を城下に取り入れた。このため、津の町は藤堂32万石の城下町であるとともに、宿場町としても発展した。
津藩校有造館の講堂正門(移築)
高山神社(藤堂高虎を祀る)・城山稲荷神社に寄り、岩田橋を渡る。
江戸時代には参宮者には茶を接待し、不浄を消す「清めのお茶」といわれた。藩主が神宮参拝の時には、ここで茶を喫することになっていたという。
石田村の産土神だった。
岩田交差点で左へ旧道に入る。
二代津藩主藤堂高次が建立。当時このあたりは町のはずれで、角町の守護として建てられた。
隣向うは市杵島姫神社。手前は五番地蔵大菩薩(延命子安地蔵)の祠。
もとは伊勢国司の北畠氏の守護神。「弁財さん」と呼ばれ、弁財町の由来となった。右は昭和20年の戦火から湯気を発し、社殿を守ったという神木の大イチョウ。
上弁財町地区 《地図》
軒の低い2階建ての古い家並みが続く。
伊勢神宮の分霊社
この先で右折し、阿漕駅に向かった。
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