伊勢街道③(阿漕駅→松阪駅)
2012年2月7日
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【ル-ト地図】
*松阪城下散策(松阪駅・・継松寺・・御厨神社・・矢下小路・・長谷川邸・・本居宣長旧宅跡・・小泉見庵邸跡・・歴史民俗資料館・・松阪城跡・・鈴屋・・御城番屋敷・・同心町・・松阪神社・・常教寺・・来迎寺・・真台寺・・樹敬寺・・龍泉寺・・松阪駅)
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薬師如来庵跡 《地図》
平成18年に火災で焼失。
室町時代、足利将軍が男山八幡宮の分霊を垂水の千歳山に祀った。時代が下り藤堂家の2代藩主高次が鷹狩の時の大雨で雨宿りに使ったのが縁で結城の森に社殿を造営したそうだ。
地蔵堂・松源寺(左) 《地図》
今日も雨模様の街道を行く。
宝暦の頃(1751~63)松源寺に立ち寄った後、富士参りに向った度会郡の人が富士山中で道に迷っていると旅僧に姿を変えた地蔵に助けられたという伝説があるそうだ。
このあたりは遊郭街で、月花楼、桜井楼、旭楼、可祝楼などが軒を連ねていた。今やその面影はなし。
遊郭、色街ある所、「行こか、戻ろか」の思案橋ありき。ここは天照大神の妹神の稚日女尊を祀る香良洲神社への香良洲道(左へ)との追分で、「香良洲参らぬは片参宮」といわれた。月本追分の近くで再び伊勢街道に合流する。
松・扇・梅の浮彫り。「山半 文政六年」と刻まれているそうだ。山半も遊郭の名。
垂水南交差点(国道23号)→藤枝踏切(紀勢本線)を渡る。
成就寺 《地図》
左が西行ゆかりの「さる稚児桜」で、埼玉県秩父市には「西行戻しの坂」・日光街道の鉢石には「西行戻し石」、奥州街道白河宿には「宗祇戻しの橋」があり、似たような話が伝わっている。
石段を上って社殿へ。
垂水村の産土神
ここを進んで加良比乃神社へ。
加良比乃神社 《地図》
倭姫命が天照大神を奉戴しての遍歴の際、ここに神殿を設けたが、水利が不便だったので樋で水を通したことから片樋宮と称した。左が「片樋宮」の石標(寛保2年(1742))
このあたりは桜茶屋と呼ばれ、昭和20年頃まfで数軒の茶店が残っていたそうだ。
常夜灯には「十社の森」と刻む。
高茶屋神社 《地図》
「十社の森」と称され、伊勢参宮の勅使の休泊所として使われた。
国道165号をくぐり、高茶屋踏切(紀勢本線)を渡る。
ここは雲津(雲出)宿の本陣柏屋跡で、近くに高札場があり、魚屋・紀の国屋・大和屋などの旅籠があった。参宮線の開通で徐々に宿の灯りは消えて行ったが、昭和の初め頃までは津屋、京屋、大阪屋などが残っていたそうだ。
弥次さんは「十返舎一九」に、喜多さんはその弟子になりすまし、道連れになった南瓜の胡麻汁(かぼちゃのごまじる)の家に案内される。蒟蒻(こんにゃく)を当てて水気を抜く熱い石を料理と間違え赤恥をかき、さらに江戸から本物の十返舎一九がやって来てバレてしまい、嘲笑を背に夜中に出て行くはめとなる。『東海道中膝栗毛』
正面は雲出川の土手
ここは毘沙門堂跡で、境内の島貫の松は伊勢湾台風(昭和34年9月)の後に枯れてしまった。
雲出川北岸
雲出橋(雲出川)を渡る。《地図》
左の常夜灯(寛政12年(1800))は、もとは小野江地区への入口の土手に立っていたようだ。昔は橋はなく舟渡しだった。
正面の屋根は本楽寺
家並み 《地図》
渡海屋、柿屋、樽屋などの旅籠が並んでいた。
松浦武四郎誕生地
近くに記念館もある。
金剛寺の西側の辻
「右からすみち」、思案橋で分かれた香良洲道がここで合流する。この先にも合流地点がいくつかある。
直進が伊勢街道、右折が奈良街道。道標(天保13年(1842))は伊勢街道で最大のもの。ここには立場や茶屋、煮売屋などが軒を連ねていた。
曽根原茶屋があり、こわめし、でんがく、さざい(さざえ)の壺焼きを売っていたという。
正面奥に碑が立つ。
道標「右さんぐう道」・常夜灯(中道公会所前) 《地図》
参宮者相手のからくり的屋、射的、文楽、土産店などがあったようだ。
小野一里塚跡碑(昭和54年) 《地図》
「一里塚竜宮橋より南凡そ95メートル」と刻まれているという、よく分からない代物。
常夜灯(明治45年)・道標(大正3年) 《地図》
道標は「右松阪及山田□□」・「左津及香良洲□□」。明治26年に参宮線が開通しても白装束姿の参宮者は六軒駅(明治27年開業)で降り、ここを右折し(写真では直進)伊勢に向かったという。
初瀬街道との追分で右に道標が立つ。左に常夜灯(文政元年(1818))
道標は「やまとめぐりかうや道」、中世には渡し口が3か所あったため、「三渡」の名がついたという。別名は泪(涙)川。
夜中に南瓜の胡麻汁の家を追い出された弥次喜多は、松阪へ急ぐ夜道で「三渡の藤九郎狐」に化かされたか。『東海道中膝栗毛』
*大阪から『暗越奈良街道』→『上街道』→『初瀬街道』でここまで歩いた。
「しちば」は「いちば」の間違い。
屋号「藤音」
用水桶(左下)にも「銀米」と彫られている。
「忘井之道」でここを左折して忘れ井へ。
左が「別れゆく・・・」の歌碑(『千載和歌集』)
もとは大正7年に建てられた米ノ庄役場。昔の役場の雰囲気を感じさせる建物だ。
ここは久米地区の入口
舟木家(左) 《地図》
舟木家は南北朝時代から続く名家で、江戸時代には紀州藩から目見得を許されていた。
どこも2体で男女神か?
常夜灯(嘉永5年(1852))
薬師寺仁王門 《地図》
永禄12年(1569)、大河内城を攻めあぐねた信長は和睦の条件に二男・信雄を北畠家の養子にした。その時、信雄が預けられたのがこの寺で、養父の北畠信意との対面の式を行ったのもこの寺という。
唐様を基調として和様を混入した建物で、承応2年(1653)の建築。薬師如来坐像(平安後期の作)は県指定文化財。
大橋の手前
大橋を渡り、松阪宿の中心部へ。 《地図》
江戸期の豪商、小津清左衛門の邸宅を資料館として公開。
三井財閥の基礎を築いた三井高利が生まれ育った家。昭和57年に三井グループにより整備されたが内部は非公開。
天正3年(1575)創業の和菓子の老舗
本陣美濃屋跡 《地図》
松崎屋食堂の前に小さな「本陣跡」碑が立つが、文字が車道を向いているので分かりにくい。ここで本居宣長は浜田藩主の松平康定に源氏物語を講釈した。脇本陣大和屋与兵衛は場所が不明だが、手前の快楽亭あたりとも。
左の美濃屋小路を入ると背割下水が流れている。
表通りに面した町屋の裏側に下水溝が流れる仕組みになっていた。中町と魚町の境にもなっている。
この先が新上屋跡。
本居宣長と賀茂真淵の対面の地で、「松阪の一夜」(佐佐木信綱)は教科書にも載っていた。宣長邸の「鈴屋」からは600m位しか離れていない。
東海道浜松宿には賀茂真淵の養子先の梅屋本陣跡、賀茂真淵記念館近くには生家跡があり、石薬師宿には佐佐木信綱の生家がある。
追分・日野町の道標 《地図》
伊勢街道は直進、和歌山街道は右折。横断歩道を渡った所に道標。
「右 わかやま道」・「左 さんぐう道」
**************松阪城下散策(2月9日)**************
【地図】(松阪城下)
*参考:『松阪偉人マップ』(『豪商の道』・『武将の道』・『国学の道』)
本居宣長が浜田藩主の松平康定に源氏物語を講釈した際に贈られた鈴がモデルだそうだ。『鈴の町松阪』
「岡寺さん」と呼ばれ、厄除け観音として信仰されている。
飛鳥時代に内宮の平生御厨の奉祀神として祀られたが、蒲生氏郷が松阪城の鬼門除けとして飯高郡平尾から遷社した。本居家の氏神でもあり、国学者本居宣長は「古事記伝」全44巻を奉納したという。
松阪城を守るため1町先を見通せない工夫という。「のこぎり状の家並み」は各地にあり、その理由もまちまちのようだが。
屋号「丹波屋」の豪商・長谷川家の本宅。
本居宣長旧宅跡 《地図》
「鈴屋」(すずのや)は松阪城内へ移築。
宣長の親友で、飛鳥、吉野への『菅笠日記』の旅にも同行している。8年ほど前に吉野で宣長がたどった道を歩いたことがある。そして彼の健脚さには驚かされた。今と比べれば昔の人は皆、健脚なのだろうが。
もとは明治44年建築された飯南郡図書館の建物。
「伊勢の壺屋の煙草入」は落語の三題噺の『城木屋』に登場する。
「黒丸子」と「万能千里膏」の看板は池大雅の書。
本物は擬革紙製でも丈夫で、皮のような風合いを出していたようだ。街道沿いには「壷屋の煙草入」の店がたくさん並び、参宮者の土産として好評だったという。
そばに本居宣長記念館がある。
松阪城下を警護する「松坂御城番」という役職の武士20 人とその家族が住んだ武家屋敷の土蔵。
左は紀州藩初代藩主徳川頼宣を祀る南龍神社。向い側に公開屋敷があるのに気づかなかった。
紀州藩士の同心および鳥見(御鷹場の管理、密猟の取締り)クラスの紀州藩士60 人余りの役宅が置かれていた。
松坂城を取り囲むお堀の総延長は2.1 kmといわれている。
来迎寺鐘楼門
三井家や長井家・角屋家の菩提寺
釣鐘(貞享元年(1684))は辻但馬守秀種の作。辻越後と辻但馬にはよく出会う。裏門は松坂城の中門を三井家がもらい受け菩提寺であるこの寺へ寄進したと伝えられる。
標石の左が宣長夫妻、右が長男の春庭
夫妻の墓。
松阪市で最古の山門があるのだが、境内は工事中で見落とした。
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