伊勢街道①(追分駅→磯山駅)
2012年2月5日
追分駅(近鉄内部線)・・・日永の追分(東海道)・伊勢街道・・・(国道1号)・・・道標・地蔵・・・高寺・・密蔵院・・・大治田神明社・・・県道103号・・・旧道・・・県道103号・・・河原田橋(内部川)・旧道・・・又兵衛橋・・河原田地区・・采女道・・常夜灯・・・距離標・・・河原田神社・・庚申塔・・・(県道103号)・(鈴鹿市)・・・河原田踏切(JR関西本線)・・・(県道103号)・・・常夜灯・・・高岡橋(鈴鹿川)・・・常夜灯・・・高岡地区・・・常夜灯・・・神戸の見附跡・・旅館加美亭・・近鉄鈴鹿線踏切・・・大橋(六郷川)・・札の辻・・・地蔵院・・・観音寺・・・高市神社・・龍光寺・・・神戸城跡・・・善導寺・・・浄願寺・・・幸橋(六郷川)・・・矢椅神社・・・大日如来道・・・大日堂跡・鎌倉権五郎塚・・・伊勢鉄道ガード・・・宇気比神社・八幡社・・・山神・・・願正寺・・・肥田橋(金沢川)・・・(国道23号)・・・島橋・・・天白社・・・道標・正信寺・・・道標・・・西玉垣町交差点(国道23号)・・・地蔵大マツ・・・弥都加伎神社・・・フジクラ・・・菅原社・・・白子7号踏切(近鉄名古屋線)・・北の端の地蔵堂・・役行者神変大菩薩・・・江島若宮八幡神社・・・江島地区・・高札場跡・・河芸郡役所跡・・・白子港・・・和田橋・・・久留真神社・・唯信寺・道標・・・目付役所跡・・・釜屋橋(釜屋川)・・・正因寺・・西方寺・・子安観音寺・・・道標・・・磯山8号踏切(近鉄名古屋線)・・・堀切橋(堀切川)・・・磯山地区・・・八幡神社・・・磯山駅(近鉄名古屋線)
【ル-ト地図】
「おかげ参り」か「抜け参り」か。まあそんなことどうでも「ええじゃないか」と、思い立ったが吉日、弥次喜多顔負けの軽薄さで、東海道の日永の追分から俄か道者は伊勢神宮へ向かう。
*参考:『みえの歴史街道(伊勢街道)』・『歴史の道調査報告書(伊勢街道)』・その他
写真をクリックすると拡大します。
日永の追分 【ル-ト地図】の①
東海道は右、伊勢街道は左へ。
かつて鳥居は伊勢街道上に建っていて、周辺には茶屋や旅籠が立ち並んでいた。今は茶屋はないが鈴鹿山系からの伏流水という湧き水(追分の名水)は健在で、今日も車で来てポリタンクにいくつも水を詰めて行く人で混んでいた。
弥次さん(東海道中膝栗毛)は鍵屋で饅頭の食べ比べをして、まんまと大金を支払わされる。弥次喜多と同様ここから伊勢神宮へ向かう。首に荷をつけた犬も鳥居をくぐってお伊勢参りだ。「猫も杓子も」犬も我もだ。『犬のおかげ参り』
猫がお伊勢参りをして人間に生まれ変わり、助けてくれた貧しい男に恩返しをするという、『猫女房』という民話もある。この猫は岩手の遠野から伊勢を往復したのだ。
「左いせ参宮道」・「右京大坂道」
三重四国八十八ヵ所霊場第12番の密蔵院への道標
蟹築山密蔵院 《地図》
海中より蟹が薬師如来を運び来て、当山に安置しという故事により、本尊を「かに薬師」と呼び、「大治田の薬師さん」と親しまれている。伊勢七福神の弁財天。
右へ旧道に入る。《地図》
この先で内部(うつべ)川にぶつかるが、今は人の渡れる橋ではなく、左の河原田橋を渡る。
「抜けまいりならばぶさをもうつべ川 渡しの銭も仮橋にして」と弥次さんは洒落ている。
河原田地区へ入る。《地図》
下は又兵衛橋。
常夜灯(天保14年(1843)) 《地図》
もとは内部橋にあったもので、ここの旧采女道沿いに移設。
鈴鹿川北岸 嘉永6年(1853)に無銭渡しの木橋が完成した。それまではすぐに増水して大変不便だったという。橋は現在の高岡橋より少し西にあった。 鈴鹿川南岸 古代条里制の一直線の畦道跡。 「木戸を支えた溝」というのが残るというが分からず。 河原田神社
高岡地区 《地図》
創業から250年以上で、今も現役の旅館。このあたりには旅籠が立ち並び、茶店女(女郎)を置く旅籠もあり、この先の神戸宿中心部に比べ賑わっていて、「神戸の町は口ばっかり」といわれたという。神戸宿は入口だけと意だが、きっと女郎も口先ばっかりだったのだろう。
かつては神戸藩士の水練場だったといい、蛍の名所でもあったそうだ。
札の辻(高札場跡) 《地図》
正面の「あぶい旅館」の前に距離標が立つ。伊勢街道は左から右へ進む。その先の左側に本陣があった。
地蔵院 《地図》
『東海道中膝栗毛』で、「安穏に火よけ地蔵の守るらん 夏のあつさも冬の神戸も」と詠まれた。神に寒を掛けている。
伊勢街道の一本西側の道を行く。
観音寺 《地図》
毎年3月に「神戸の寝釈迦祭り」が行われる。
地子町南交差点を右折し、小公園に寄る。《地図》
明治18年の洪水で倒れ、小公園内に竿部分だけが残る。もとは幸橋にあったもの。
「右いなふ道」・「左志ころ道」で、これも幸橋から移設されたもの。
常夜灯(昭和5年) 《地図》
幸橋を渡った所。
ここを入って行く。
鎌倉権五郎塚(左の石円柱)・大日堂跡(正面奥) 【ル-ト地図】の③
石円柱には寛治元年(1087)と刻まれているが、新しいものだろう。この前にあった小池には片目の鯉がいて、その水は眼病に効き目があったという。今は池は跡形もない。ここは『東海道中膝栗毛』にも載る古蹟で、「権五郎ならねど馬士のいつさんにおつかけてゆくとりの海」。
目玉に刺さった敵の鳥海弥三郎の矢を、自ら目玉とも引き抜いたという武者の鎌倉権五郎は、鎌倉の御霊神社、四国75番札所善通寺のそばの鎌倉神社にも祀られている。『鎌倉市の坂④』・『四国遍路道(香川県②)』
伊勢鉄道ガードをくぐり、宇気比神社前から旧道に入る。《地図》
このような山神があちこちに祀られている。「常夜灯、道標(みちしるべ)に山神と見つけたり参宮道」か。
道標は「右若松道□□□□」らしい。
天白社 《地図》
天白信仰を各地に広めたのは、伊勢の御師で、御札を配り、神楽歌を歌って各地に流布させたようだ。
道標(文化4年(1807)) 《地図》
電柱の右下、左は正信寺。「右さんぐう道」に従い右折し、すぐ旧家の角を左折して行く。
道標(元治2年(1865) 《地図》
正面の電柱の右下。「左さんぐう道」だが西玉垣町交差点(国道23号)を渡り、地蔵大マツに寄る。
見事な松で一見の価値あり。左が地蔵堂。
フジクラ鈴鹿工場沿いを進む。《地図》
通信ケーブルや電線を製造する三井グルーの非鉄金属メーカーで、本社は東京の江東区のようだ。
道路の向う側が役行者神変大菩薩堂。
本能寺の変の時には,この神社の前の浜から徳川家康が知多に脱出したといわれている。
高札場跡(右角) 《地図》
紀州藩白子代官所の高札場
江戸時代は紀州藩の領地で、江戸への荷物運搬の母港として栄えた。天明2年(1782)に大黒屋光太夫がここから江戸へ向け出港し、遭難し漂流した。
道標 《地図》
和田さんが再々建て直した、分かりやすい指差し道標。
「風を孕(はら)む沖の白帆は観音の加護にやすやす海わたるらん」(東海道中膝栗毛)は航海の安全と安産の意。
三重四国八十八ヵ所霊場の16番
辻越後守玄種の作。玄種は津市釜屋町の鋳工として、江戸時代に名声を博した辻越後の但馬家の祖、辻但馬守吉種の次男。
花も葉もないようだが。
道標(弘化4年(1847)) 《地図》
「右さんぐう道」・「左くわんおん道」で右へ進む。すぐ先に次の道標がある。
「左いせみち」と進む。上の凹みは砥石をならした跡だそうだ。
近鉄名古屋線の磯山8号踏切を渡る。《地図》
街道が堀切川を渡った正確な位置は不明という。
磯山地区へ入る。《地図》
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