大山街道(長津田駅→愛甲石田駅)
2012年1月29日
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【ル-ト地図】
*『青葉区・緑区の坂』(大山街道(市ヶ尾竹下地蔵堂→長坂))の続きです。
写真をクリックすると拡大します。
辻地蔵堂・横浜道祖神 《地図》
もとは『浜街道(絹の道)』(町田街道)と交差する町田市辻(長津田辻)に立っていたのだろう。
右から左が「浜街道」
大ヶ谷戸庚申塔(文久3年(1863)) 《地図》
前を南北に鎌倉道が通っている。
台座の左側面に「右 大山道 左 江戸道」
武相卯歳観音札所の第1番。境内を「鎌倉街道上の道」が通る。
当家とは元新田氏(高下宗家)ということらしいが、よく分からず。「新田義貞公鎌倉進撃路」の地図などが敷地内にあるが、大山阿夫利神社御分霊社に関しての案内板などはない。不思議な一画だ。
大山参拝者はここで財布を清め、金運にあやかるように祈願したそうだ
江戸よりおよそ11里で、大山街道沿いに松屋、三津屋、角屋といった旅籠や、染物問屋、居酒屋、餅屋、質屋などの商家があり、家数は122軒でたいそう賑わっていた。宿内の大山道の道幅は4間と広く、交差する八王子道は幅2間で交通の要衝であった。伊能忠敬測量隊も文化13年(1816)3月18日にこの地を訪れ組頭長谷川彦八家に宿泊している。
左は雑貨商の旧小倉家で、「下鶴間ふるさと館」として公開している。前が高札場跡。このあたりは『大和市の坂⑥』にも記事あり。
小倉家(左)・長谷川家(右)、右から3番目が旅籠松屋。
文化13年(1816)に伊能忠敬測量隊が宿泊した。
渡辺崋山が泊まった旅籠跡。参考:『渡辺崋山と大山道を歩く』 電柱下に小さな道標が立つ。
崋山が家老を務めた三河田原藩城下は、『田原街道②』に記載。
この前で東京八王子の滝山城から鎌倉玉縄城をつなぐ滝山街道が交差している。
塔身に「右神名川道 左江戸道」
この先、海老名駅までは『海老名市の坂②』にも記事あり。
「お銀さまの墓」は『綾瀬市の坂②』で訪れている。
大山(左)はまだ遠し。
坂下から県道に出て目久尻橋を渡る。
宝暦7年(1757)の頃、それまでの木橋を大山道で唯一の石橋に造り替えた。その募金活動を勧めた地元の篤志家の重田七三郎を記念する碑。
「史跡逆川碑」の所にある。
右上の国分堰で目久尻川から取水し、ここで向きを変えて国分寺跡、船着場跡、国分尼寺跡の方へ流して耕地に注いでいた。
国分の辻 《地図》
ここ堂坂(正面・藤沢道(鎌倉道))下は、国分宿の中心で高札場があった。国分宿は江戸から14里、鶴間へ2里、厚木へ1里で、かつては村役場、登記所、駐在所などの公共施設があり、海老名村の中心地として賑わった。料亭や旅籠が軒を連ねていたそうだ。今は海老名駅周辺に中心部は移っている。
左前方に七重の塔が立っていた。
実物はこの3倍ほど。
無残な姿になってしまったと思ったが、冬で葉が落ちているだけか。
梵鐘(国重文)
正応5年(1292)、国分次郎源季頼が国分尼寺に寄進したもの。
「尼の泣き水」坐像(供養塔)
漁師に恋した尼さんの悲しい物語。「八百屋お七」を思い出した。尼さんが処刑されたのは、現在の海老名小学校の上の台地という。尼の泣き水は、昭和40年頃まで流れ出ていたが、周辺に家ができたりして、いつか涸れてしまったそうだ。
一大縄の直線道(海老名跨線橋から)
古代の口分田の区画割り、「条里制」の名残り。この付近の海老名耕地の大半も整理され、その東西の基準線が「一大縄」と呼ばれ、大山街道の起源となった。ここから南に「一大縄~五大繩」という地名が残る。
大山は近づいたか。
相模線を渡り直進し、七曲りを進む。
左側面に「右 大山 此方 江戸道」で、ここを右折する。
あゆみ橋は延伸工事中(24年5月31日までとあるがもっと延伸するだろう)で渡れず、下流の相模大橋まで迂回する。右は八大龍王の石碑と祠。
烏山藩厚木役所跡 《地図》
那須与一も眼病祈願したという、「厚木のお天王様」。
天保2年(1831)9月22~24日に渡辺崋山が泊まった旅籠。崋山は逗留中、当地の著名人・知識人との交流を深め、厚木の景勝を描いた「厚木六勝絵」を残している。
昔、旅の僧が動かなくなった阿弥陀仏を拝んだところ、村が流行り病を免れたので、宿にした閻魔堂の隣に寺を建立したのが始まりとか。
渡辺崋山の「厚木六勝絵」の「熊林暁鴉」図の「熊野の森」も跡形なしで、大イチョウが聳えるのみか。
手前角に「きりんど橋」の標柱のあるはずだが見つからず。県道の西側にあるのか。
ここを左斜めに入って行く。《地図》
渡辺崋山の「厚木六勝絵」に「桐堤の賞月」として描かれているというが、今は何の風情もない所だ。往時、八王子道と重なった部分で、平塚へ行くのに利用された。
岡田一本杉バス停
樹齢250年という杉の大木は関東大震災で根元が痛み、枯れ死状態となり切り倒されてしまったそうだ。右に御嶽神社の小祠がある。
三島神社の東の相模川に、対岸の社家と結ぶ「岡田の渡し場」があった。
木造聖徳太子立像(室町~桃山時代の作)を安置。
ここを右折する。ここに酒井薬師堂に移された不動明王道標が立っていた。
木造不動明王立像(12世紀頃の作・神奈川県指定重要文化財)を安置。
寅薬師と呼ばれ、寅年の10月10日頃に開帳され、双盤念仏が奉納される。
堂の右前は「酒井の道標」で、もとは先ほど辻に立っていた。不動明王の台座の4つの側面に東・西・南・北と刻まれ、その下にも文字が刻まれているが読めず。西の下には「享保 再建立安永」などとある。酒井村は矢倉沢往還(大山街道)や八王子道などの追分けであった。
愛甲宿の道標 《地図》
消火栓箱の右の庚申塔の右側面に「左大山道」、左側面に「右あつぎ、江戸青山道」
「右 大山道」
大坂を上れば愛甲石田駅。《地図》
自宅から長津田駅までは2時間以上かかり、そしてここまで、途中で道を間違えたりしてけっこうな距離を歩いて疲れた。今日は厚木に泊まって、明日大山の参道下あたりまで歩くとするか。
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