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2012年3月31日 (土)

高野山町石道

2012年3月12日

金剛峰寺・・・壇上伽藍・1町石・・・大門・・・10町石・・・20町石・・・鏡石・・28町石・・・36町石・・(四里石)・・・展望台・・・53町石・・押上石・54町石・・・袈裟掛石・・55町石・・・矢立茶屋・・砂捏地蔵尊・・60町石・・・見守地蔵・・・63町石・・・三里石・72町石・・・85町石・・笠木峠・・・90町石・・・二里石・108町石・・・神田地蔵堂・・・115町石・・・白蛇の岩と鳥居・・・二つ鳥居・展望所・・121町石・・・古峠・124町石・・・六本杉峠・・136町石・・・144町石・一里石・・・大師像・・・150町石・・・雨引山分岐・・・156町石・・銭壺石・・道標・・・展望台・・・170町石・・・(新池橋)・・新池・・・勝利寺・・・179町石・・丹生官省府神社・180町石・・慈尊院・・・丹生橋(丹生川)・・・真田庵・・・伝真田の抜け穴(真田古墳)・・・対面石・・・谷本万寿堂・・・九度山駅(南海高野線)

 雪の高野山から町石道を下る。弘法大師が母を訪ねて、九度山の慈尊院まで月に9度も下ったというの道だ。けっこうな距離はあるが1町(109m)ごとに町石が立ち、何せ下りだし世界遺産の参詣道でよく整備されていて、歩き安い快適な道だった。

参考:『高野山町石道(和歌山県街道マップ)』・『高野山町石道』(わかやま観光情報)
      『九度山町商工会

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Img_4222 うっすらと雪化粧の金剛峰寺

Img_4226 雪道を大門(右)に向かう。雪が舞い歩道は凍結していて歩きにくい。

Img_4229 大門

道路に設置してある温度計は「-4.6度」の標示。寒く冷たいはずだ。体の動きも鈍くなっている。

Img_4308 町石道概略図

1町石(壇上伽藍前)から8町石は一般道にある。奥の院町石道は壇上伽藍(1町石)~奥の院(36町石)で、そこは昨日歩いている。

Img_4230 大門の前から山道の町石道に入り下って行く。それほどの積雪でもなく、凍結、ぬかるんだ道でもなく歩きやすそうだ。何せ1町(109m)ごとに町石がある世界遺産の道なのだから。そして少し下れば雪もなくなるだろう。 《地図

右にカーブする所に9町石が立つ。

Img_4234 10町石(右)

Img_4239 小橋を渡る。

Img_4252 20町石

町石と里石のかたち

Img_4256 時折木々の間から雪景色も楽しめる。

Img_4265 靴跡と小動物の足跡

上って来ている。犬連れか兎か?

Img_4273 鏡石 《地図

平らでもないし光ってもないようだが。

Img_4272 説明板

Img_4282 30町石

Img_4291 眺め

Img_4300 36町石あたりで国道に近づく。

このあたりに一里石があるのだが見逃した。37町石~39町石は国道沿いにある。

Img_4306 展望台から龍門山、飯盛山方向

Img_4309 小さな石地蔵がいくつも木の根元に祀られている。

Img_4311国道を横切り下って行く。

Img_4322 雪景色は終わったようだ。

Img_4325 新旧の53町石が並んでいる。

Img_4327 説明板

Img_4330 押上石

母を守ってこの石を押上げた弘法大師の手形が残っているとか。

Img_4332 説明板

Img_4342 袈裟掛石(くぐり石)

ここをくぐれば長生きだと。かなり狭い。スリムな私でもここをくぐるのはちょっときついか。岩が動いて挟まれてお陀仏となったら短命に終わってしまう。

Img_4341 説明板

Img_4344_2 時折眺望が開ける。

Img_4349 矢立地区へ入る。

Img_4353 矢立茶屋

Img_4352 「やきもち」と抹茶で一休み。

Img_4354矢立茶屋の向いに60町石

手前の石段上に砂捏地蔵堂

Img_4356 砂捏(すなこね)地蔵堂

Img_4355 説明板

Img_4360 砂捏地蔵尊

弘法大師の作とか。

Img_4361 砂捏地蔵堂から来た道を振り返る。

Img_4362 60町石のすぐ先で左に町石に入る。

Img_4372 見守地蔵(左・61町石と62町石の間)

小さいので気づかずかなり通り過ぎ、引き返してもなかなか見つからなかった。

Img_4371 愛らしい地蔵が道中の安全・無事を見守ってくれるか。ありがたや、ありがたや。

Img_4367 63町石

その先に欠けた町石

Img_4382 三里石(手前)・72町石

Img_4403 笠木峠

眺望はない。

Img_4415 左にゴルフ場を見ながら進む。

Img_4417 90町石

もう半分か、やっと半分か。

Img_4419 誰が入るかよ。

Img_4425 二里石・108町石が杉林の中に。

Img_4428 薄暗い杉林を行く。

Img_4429 神田(こうだ)地蔵堂

子安地蔵を祀り、旅人の休憩所にもなっていた。

Img_4431 応其池 《地図

応其上人が丹生都比売神社の御供田である神田の里のために築造した溜池と伝わる。今はゴルフ場の敷地内。

Img_4432 白蛇の岩(垂迹岩)

Img_4433 説明板

Img_4434 二つ鳥居

神仏習合の神社に多い両部鳥居というが、屋根は付いていない。

Img_4435 説明板

Img_4436 展望台から天野の里

Img_4438 古峠・124町石

Img_4439 落葉を踏みしめ進む、快適な道。

Img_4441 六本杉峠

丹生都比売神社へ下れるのだが遥拝のみ。

Img_4444 右に折り返すように下って行く。

Img_4445 「つらら」を見るのは久しぶりだ。

Img_4446 144町石・一里石

Img_4449 弘法大師像

Img_4455 紀ノ川が見え始める。

Img_4457 銭壺石

壺のような石かと思ってしまった。

Img_4456 説明板

すぐ先に小さな道標が立つ。

Img_4458 道標

「右慈尊院 左山崎道」で直進する。

Img_4462 風に雪が舞っている。

Img_4471 蛇行する紀ノ川

163町石前から

Img_4474 展望台へ

Img_4478 国城山方向だが霞んでいる。

Img_4481 風で雪が運ばれてくる。

Img_4484 新池橋を渡らず直進し、新池沿いを進む。

Img_4487 新池 《地図

Img_4490勝利寺

勝負事祈願で勝利するか。世の中そんな甘いものではない。

Img_4492 179町石(右)の前を上り、丹生官省府神社の境内に入る。

Img_4495丹生官省府神社 《地図

弘法大師が慈尊院を開いた時、紀ノ川河畔の宮の橋付近に地主神として丹生都比売明神、狩場明神を勧請したのがその始まりであると伝える。

Img_4494狩場明神と空海」出会いの図

正面の石段を慈尊院へ下る途中に最後の180町石が立つ。

Img_4499 180町石から慈尊院

弘法大師は讃岐からここへ移り住んだ母のために月に9度、高野山から訪れたと伝える。それがこの地「九度山」の由来とか。

Img_4502 慈尊院山門

九度山といえば真田幸村、真田十勇士だ。九度山駅に向かいながらその史跡を訪ねる。

Img_4512真田庵 《地図

Img_4522 右に伝真田の抜け穴 《地図

Img_4525 伝真田の抜け穴(真田古墳)

Img_4523 説明板

Img_4531 対面石 《地図

今では弘法大師と母君と対面した所というが、本来は大師が槇尾明神と対面した所だそうだ。

Img_4530 説明板

Img_4534 電柱には真田十勇士だが、駅周辺の商店街はシャッター通りになっていて寂しい。九度山駅に着いた時にちょうど電車が発車してしまった。40分の待ち時間だ。腹も空いてきたし「真田いこい茶屋」に行ってみたが、閉鎖したのかやっていない。駅に引き返す途中の「谷本万寿堂」で、串だんごをほおばりながら、店の主人と世間話だ。時間の経つのは早い。次の電車に乗り遅れそうになって、あわてて駆け足で駅に向かった。

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2012年3月30日 (金)

高野街道②

2012年3月11日

学文路駅(南海高野線)・国道370号・・・道標・・・(南海高野線踏切)・・・石童丸物語玉屋宿跡・・・西光寺・学文路刈萱堂・・・道標・・・第三の地蔵・・・(ゆめさきトンネル)・・・大師の硯水?・・・丹生神社・日輪寺・・・河根地区・元本陣中屋旅館・・・二里石・千石橋(丹生川)・・・作水坂・・・作水地区・第五の地蔵・・・西郷集会所・・・第六の地蔵・・・黒岩・高野の仇討説明板・・・殉難七士の墓・・・一里石・道標・・・御成婚記念道程標・・・旧白藤小学校・・・道標・・・地蔵・・・極楽橋・・不動坂・・いろは坂分岐・・・萬丈が嶽標柱・・・清不動堂・・・花折坂・・・女人堂・お竹地蔵・・・浪切不動尊・・・刈萱堂・・・一の橋・奥の院参道・・・中の橋・汗かき地蔵・姿見の井戸・覚鑁坂・・・御廟橋・・奥の院弘法大師御廟

  【ル-ト地図】(17.0km)

 学文路駅から第六の地蔵、一里石を通過し、高野街道の終着点、高野山女人堂まで登る。時折、風に舞う雪の中を弘法大師御廟の奥の院まで行き、遅ればせながら四国遍路の満願報告をした。明日は町石道を慈尊院まで下る予定だが、雪の降り具合が心配だ。

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4010石童丸物語玉屋宿跡(右に標柱)

父(刈萱道心)に会いに女人禁制の高野山へ上った石童丸を、母の千里はここに逗留して待ったという。石童丸の旧跡は大阪、長野の善光寺、博多などにもある。『善光寺街道④』・『唐津街道⑤

Img_4013 路面に「高野街道道標」

Img_4015 学文路刈萱堂・西光寺 《地図

石童丸ゆかりの品々が残る。「人魚のお堂」とは「人魚のミイラ」といわれる珍品のこと。母の千里が常に傍らにおいて信仰していたものという。ミイラ写真は『せんとくんと一緒』で。

Img_4016 説明板

Img_4017 親子3人の像

悲しいかな3人一緒に過ごした時はなかったが。

Img_4022 紀ノ川の眺め。

Img_4024 右に集落に入る。

Img_4030 女人堂九十町標石

分岐を左に上り繁野の集落に入る。

Img_4032 展望が開ける。

Img_4033 第三の地蔵

Img_4036 ゆめさきトンネルを右に見て上って行く。 《地図

Img_4038 大師の硯水(右)?

Img_4041 河根地区へ下りとなる。かなり下って千石橋から作水坂の急な上りとなる。

Img_4048 第四の地蔵

Img_4049 説明板

Img_4051 昨日から工事か。いやな予感がしたが難なく通過できた。

Img_4054 丹生神社 《地図

応永26年(1419)銘の狛犬とは鳥居脇のものではないようだ。

Img_4052 説明板

Img_4053 日輪寺

本尊は大日如来像。昨日歩いた三日市宿の月輪寺の本尊は阿弥陀如来像。

Img_4056 河根地区の家並み

千石橋までの街道筋には旅籠、茶店が立ち並んでいたという。

Img_4058 塩竈説明板

弘法大師が村人に教えた冷泉の洞穴で、安産・子育て・諸病に効く霊泉だった。今は説明板の字もかすれ、遠い昔話になってしまったか。

Img_4059 本陣跡中屋旅館

「高野の仇討」の赤穂藩士の村上一行が泊まって密議をこらしたという。

Img_4060 説明板

Img_4064 二里石(千石橋の手前)

千石橋は寛永11年(1634)に高野山の参詣者への便宜を図るため江戸幕府が架けた橋。その後、7年ごとに営繕費千石をもらい架け替えられたので、こう呼ばれるようになったそうだ。

Img_4068 作水坂(さみずざか)を上る。 【ル-ト地図】の①

高齢の参拝者の背中を土地の子どもたちが押して、駄賃をもらったというほどの急坂だ。

高野山へ登る途中の良寛は「さみつ坂といふところに里の童の青竹の杖をきりて売りゐたりければ」・「黄金もて いざ杖買わん さみつ坂」と詠んだ。子供を愛し、子供と遊んだ良寛の人柄が感じられる句だ。今も坂沿いに良寛の杖になった何代目かの竹が育っている。

Img_4072 坂上方向

Img_4075 第五の地蔵(作水集落)

Img_4077 河根地区、向うは和泉山脈

Img_4082 第六の地蔵(桜茶屋集落)

これが最後の地蔵。かつては茶店があったのか。

Img_4086 ずっと舗装されている道で時々車も通る。

Img_4091 日本最後の「高野の仇討」説明板・黒岩

Img_4090 説明板

「仇討」といえばやっぱり「赤穂藩」の登場だ。

熊野古道紀伊路の大阪府と和歌山県境にも「日本最後の仇討場」がある。そこでの仇討は文久3年(1863)だから、こちらが本当の「最後の仇討」か。『熊野古道 紀伊路④』に記載。

Img_4094 殉難七士の墓(仇を討たれた者の墓所)

墓石は6基しかない。田川運六の弟で、仇討事件とは関係のない岩吉も深い傷を受けて死んだという。そして兄の墓に一緒に葬られたそうだ。

Img_4095 一里石・道標(神谷地区の入口)

Img_4096 左から2番目が一里石

Img_4100 御成婚記念道程標

大正13年に昭和天皇の結婚記念に名古屋の人々が建立。「高野山女人堂壱里四町二十間 四四00メートル」と尺貫法とメートル法で表記されている。

Img_4103 旧白藤小学校

Img_4106 高野山4200m里程標

かつて神谷地区は高野山目前の宿場として賑わっていたそうだ。

Img_4108 地蔵

道標にもなっている。

Img_4111 廃屋の間を抜けて行く。

上に架かっているのは樋か通路か?

この先で開けた所に出る。

Img_4115 下は南海高野線

Img_4118 極楽橋駅

Img_4119 極楽橋を渡る。

地蔵が見守ってくれる。

Img_4130高野山ケーブルカーをくぐる。

Img_4131 不動坂を上る。 【ル-ト地図】の②

この道は大正4年に開かれた新道で、それまでの不動坂は48曲りの通称「いろは坂」の急坂だった。今の坂は傾斜の緩い「ダンダラ坂」とか。

Img_4133 ケーブルカーは楽だろう。海抜539mの極楽橋から867mの高野山まで5分で登ってしまうのだから。

Img_4135 いろは坂分岐点

右に折り返して上るのが「いろは坂」で、調査・復元中らしい。

Img_4136 説明板

Img_4138 高野山2000m里程標

Img_4140 高野山1400m里程標

Img_4144 萬丈が嶽標柱

「万丈転の刑」の刑場と関係があるのか?

Img_4145 木々の間の向うに見えるのは稚児の滝か?

Img_4146 清(きよめ)不動堂

もとは旧不動坂(いろは坂)にあった外不動を移転改築した。ここで新たに心を浄め高野山内に入るということだろう。

Img_4147 地蔵・不動・大乗経典供養塔

この前の坂が花折坂だが傾斜はゆるい。

Img_4149 花折坂 【ル-ト地図】の③

ここを上れば高野山駅からのバス専用道へ出て女人堂はすぐだ。

 この先は『高野山山内マップ』で。

Img_4150 高野山女人堂 【ル-ト地図】の④

ここが高野街道の終着点。高野七口の一つ不動坂口で、ここから先は明治38年まで女人は入れなかった。七口にあった女人堂で残るのはここのみ。右はお竹地蔵

Img_4210 説明板

Img_4213 お竹地蔵由来

 奥の院へ向かう。高野山は2度目だが奥の院まで行ったかどうかの記憶がない。

Img_4205 高野山交番

巡査も坊さんではなかろう。

Img_4181 刈萱堂

苅萱道心が出家し、実の子である石道(童)丸とともに父子を名乗ることなく仏道修行に明けくれた所。

Img_4153 一の橋

奥の院弘法大師御廟への入口。

Img_4152 説明板

Img_4173 中の橋

渡った左に汗かき地蔵と姿見の井戸。その先の石段が覚鑁坂。

Img_4156汗かき地蔵・姿見の井戸

本来は霊水の「薬井」だそうだ。

Img_4155 説明板

「三年以内に死ぬ」というのは、各地にある「三年坂」と同じだ。

Img_4157 覚鑁坂(かくばんざか)

覚鑁の自所の覚鑁堂(密厳(堂)院のことか?)への坂で、この坂も転ぶと寿命は3年以内という「三年坂」だ。

Img_4169 奥之院頌徳殿(茶処)

ここで温かいお茶を頂いて一休み。

Img_4167 御廟橋から奥の院 【ル-ト地図】の⑤

ここから先は撮影禁止。

東海道』→『京街道』(東海道57次)→『東高野街道』→『高野街道』と進み、『四国遍路』の満願報告をしたことになる。明日は、金剛峰寺→壇上伽藍→大門から町石道を慈尊院まで下る。

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2012年3月28日 (水)

高野街道①

2012年3月10日

河内長野駅(南海高野線)・・・吉年邸・大クスノキ・・・長野神社・・・西条酒造・・・旧西条橋(石川)・・別久坂・・・(国道371号)・・・道標・・・烏帽子形八幡神社・烏帽子形城跡・・・地蔵堂・・・三日市宿高札場跡・増福寺・・松屋坂(煎餅坂)・・(国道371号)・・・林家代官所跡(三日市村役場跡)・・三日市交番跡・・月輪寺・・三日市橋(天見川)・・油屋本陣跡・・八木家住宅・・・弘法大師常夜灯・三日市駅前・・・八里石・新高野橋(石見川)・・・国道371号・・新町橋(天見川)・新町橋交差点・・旧道・・・石仏寺・・国道371号・・旧道・・・(南海高野線)・・・千早地区・・御所の辻(御堂・道標・常夜灯)・・・松明屋跡・・・国道371号・・・七里石・・・出合ノ辻・・・旧道・・・国道371号・・・旧国道・・・紀見峠・六里石・岡潔生誕地碑・紀見峠宿・丹波屋・・・阿弥陀如来祠・・・国道371号・・・慶賀野交差点・・旧道・不動堂・・・大福寺・・国道371号・・・五里石・・・清恭寺・・旧道・・・地蔵祠・・・御幸辻・・・牛頭天王社・・・国道371号・・・辻原橋(菖蒲谷川)・・旧道・・・国道371号・・・(京奈和自動車道)・・・(南海高野線)・・・(JR和歌山線)・・・大和(伊勢)街道追分・・道標・・・(国道24号)・・四里石・常夜灯・歯痛地蔵・・・新御殿橋(橋本川)・・・応其寺・・ほんまち商店街・・・橋本橋(紀ノ川)・・・三軒茶屋常夜灯・大師堂・・・第一の地蔵・西行庵(跡)・・清水地区・・・(国道371号)・・・清水不動寺・・・成就寺・・・学文路天満宮鳥居・・・第二の地蔵・国道370号・・・土居橋(大谷川)・・・三里石・かむろ地蔵・かむろ大師堂・・・(国道370号)・・・興山寺領御国領境界標石・・・道標・国道370号・・・学文路駅(南海高野線)

  【ル-ト地図】(25.8km)

 東高野街道と西高野街道は河内長野で合流し、高野街道となって高野山へと続く。今日は紀見峠を越えて学文路まで歩く。

 *『東高野街道③』・西高野街道

 参考:『和歌山県街道マップ(高野街道京大阪道)』・『高野街道(河内長野観光協会)』・『歴史の道調査報告書 第二集(高野街道)』(大阪府教育委員会)

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Img_3643 河内長野駅前

「高野山 女人堂へ 南約35km」の標柱。

Img_3645 吉年(よどし)邸・道標・大クスノキ

道標は銅鐸と梵鐘をイメージしたもの。

Img_3646 説明碑

Img_3648 説明板(大くすのき)

Img_3651 長野神社

Img_3659 西條合資会社

Img_3660 「天野酒」は女人高野の天野山金剛寺僧房(坊)酒から生まれたもの。

Img_3665 別久坂(べっくざか)を上る。【ル-ト地図】の①

「ビック坂」とも呼ばれるそうだ。

Img_3672 国道を越えてさらに上る。

Img_3676 道標(左)

「右 かうや道」

Img_3678 烏帽子形八幡神社

上は楠木正成が築いた楠木(河内)七城の一つの烏帽子形城跡

Img_3679 説明板

Img_3684 高札場跡(増福寺前)

ここは三日市宿の北の入口

Img_3685 説明板

Img_3691 周辺案内図

Img_3692 松屋坂(煎餅坂)を下る。 《地図

坂沿いに煎餅を売る茶店があったのか?

Img_3695 坂下方向

国道を越えてさらに下り、三日市宿の中心部へ入る。

Img_3697 空地の所が林家代官所跡(三日市村役場跡)で、その向こうが三日市交番跡か。

Img_3700 三日市交番(大正10年建築)の写真

Img_3708 月輪寺(がちりんじ)

平安時代初め頃、長野村の諸越長者は弘法大師から薬師如来を与えられて大切にしていた。長者が亡くなると妻が郷里の三日市に戻り、そこに堂を建てたのが月輪寺の起こり伝える。本尊の薬師如来坐像は鎌倉時代初期の作だが。

Img_3706 説明板

Img_3714 油屋本陣跡 《地図

江戸時代には本業は菜種油の製造、販売を営みながら、高野詣の本陣格の旅籠として有名だった。幕末の文久3年(1863)には、油屋の主人・庄兵衛が、天誅組の吉年米蔵、水郡善之祐と親しくしていたのが縁で、天誅組の一団が宿泊した。油屋で一泊したあと、観心寺、後村上天皇陵、楠木正成の首塚に参詣して尊皇攘夷成就を祈願し五條へ向かったという。明治以降は旅館を営なんできたが、戦後は高野街道を歩く参詣者が減少し廃業した。

Img_3719 三日市宿の家並み

Img_3725 八木家住宅

木綿問屋から酒造業を営んでいた。屋号を「東家屋」

Img_3724 説明板

Img_3728 旧家

Img_3731 弘法大師常夜灯(明和7年(1770)) 《地図

Img_3730 説明板

Img_3732 三日市駅

高野街道、三日市宿に気を使ったいい感じの駅前だ。

Img_3735 八里石(新高野橋北側脇) 【ル-ト地図】の②

Img_3733_3説明板

県道に出て、新町橋交差点の先で旧道に入る。

Img_3740 右に旧道に入り、石仏寺の先で国道に下りる。《地図

Img_3745 石仏(いしぼとけ)寺

もとは阿弥陀寺といい、江戸時代には栄えた寺だったが明治時代に廃寺となった。平成17年に地域住民が新堂を再建。弘法大師の作という、阿弥陀如来像など三尊を安置する。『石仏の歴史(石仏小学校)』

Img_3748 国道は車の往来が激しく、この先は歩道がない所もあるので天見川沿いの道に下る。

Img_3749 下の道は車は通っていない。

Img_3753 歩き安い道だ。右上に国道が走る。《地図

Img_3754 紀見峠方向

千早駅の手前で南海高野線のガードをくぐる。

Img_3762 御所の辻(御堂(地蔵堂)・常夜灯・道標) 《地図

正平3年(1348)に、南朝の後村上天皇が大和賀名生(奈良県五條市)から、天野山金剛寺に皇居を移す際に、この付近で一夜を明かしたという。そのことから村人が「御所の辻」と呼ぶようになったという説がある。また、高野山に参詣する途中の皇族の姫君が、この御所の辻あたりで「神隠し」にあい、村人が総出で探したが見つからず、姫君の菩提を弔うために御堂を建てて、菊と桐の紋章の使用が許可されたとも。御堂(地蔵堂)の線香立てには菊と桐の紋が入っているというが、気づかなかった。

Img_3764 説明板

道標①は常夜灯の左脇のもので、「左ハかうんこうせミチ」は「金剛山道」で金剛山のこと。

道標②は堂の外の左側の地蔵に彫られているのか?未確認。

Img_3763 堂内の地蔵

Img_3770 千早地区を抜けて行く。

Img_3772 松明堂(松明茶屋跡) 《地図

弘法大師が東寺から高野山に百日参りをした最終日に、この地で夜明けを迎え松明を大地に突き刺すと、松明から根と枝が伸びて、大木に成ったという伝承地。大師は松明屋付近の村人のもてなしのお礼に、粽(ちまき)の製法を教えたという。大師直伝の粽は、食べれば病人がたちまち治る霊験あらたかな「大師粽」として、多くの高野山参詣者が求めたという。今でも地元では、お大師さんの日(毎月20日)に粽や色餅を供え大師を偲ぶそうだ。

Img_3777 標柱

この先で国道に出る。

Img_3782 七里石(右)

Img_3788 出合ノ辻 《地図

正慶2年(1333)正月、楠木正成が率いる南朝軍と北朝軍とが、この辻で出くわした「安満見合戦」の地。

この先で右に旧道に入る。

Img_3793 旧道を進み、再び国道に出る。

Img_3795 国道を紀見峠へと上って行く。

Img_3798 紀見峠トンネル(左前方)の手前で右に旧国道を上る。《地図

Img_3799 紀見峠トンネルの上を越え、ジグザグに上って行く。

「橋本の柿」はそんなに美味いのか。

Img_3806 紀見峠(400m)へ着く。ここから「紀の国」、和歌山県に入る。

ここを左に上れば紀見峠宿の集落だ。

Img_3807 「紀の国がよく見える」ことから紀見峠

慶長19年(1614)10月9日、九度山に幽閉されていた真田幸村が脱出行で、深夜の紀見峠から高野街道を北上して大坂城に入城したとか。

Img_3808 周辺案内図

Img_3810 六里石 【ル-ト地図】の③

Img_3814 岡潔生誕地碑

生まれは大阪市、幼少年時代をこの地で過ごす。フランス留学から帰国後も住んでいた時があるようだ。

Img_3817 紀見峠宿の家並み

慶安元年(1648)に紀州藩が伝馬所をもうけたことから、人々が移住しはじめ、大坂屋、虎屋などの旅籠や茶店が軒を連ねて、1日に300人もの旅人が寝泊まりできる宿場町にまで発展した。しかし、明治33年の紀和鉄道(現JR和歌山線)の開通、大正4年の大阪高野鉄道(現南海高野線)の紀見峠トンネルの完成などで、紀見峠を利用する高野山参詣者は激減し、宿場町としての役割を終えた。

Img_3819_2 「峠の茶屋」丹波屋看板

上の写真の右奥の家

Img_3821 紀見峠の集落を抜けて行く。この先は下りとなる。

Img_3822車道を横切り、細い旧坂を下り沓掛地区へ下って行く。

Img_3825 落葉の間を下る。《地図

Img_3828 沓掛地区

この先で国道に出る。

Img_3832 やけにだだっ広い国道の風景だ。

慶賀野交差点の先で左に旧道に入る。

Img_3836 すぐ左に不動堂がある。《地図

Img_3840 慶賀野地区を進む。

Img_3841 畑の中の道となり、大福寺の前で国道に下りる。

Img_3846 五里石 《地図

もとは300mほど南にあったもの。

Img_3850 清恭寺の先で右に旧道に入る。

Img_3853 うねった旧道を行く。《地図

Img_3862 右に進む。

御幸辻《地図》に道標があるというがうっかり通り過ぎた。

Img_3865 牛頭天王社 《地図

国道へと下って行く。辻原橋の先で左の旧道っぽい道に入る。

Img_3874 ここで左折してすぐ右折して行くと再び国道に出る。

Img_3877 京奈和自動車道をくぐって行く。

Img_3879 南海高野線をくぐる。「高野街道」とある。

すぐ先でJR和歌山線をくぐる。

Img_3880 大和(伊勢)街道追分 《地図

左折して行くのが大和街道で、すぐ先の松ヶ枝橋には一里塚があったそうだ。東家は宿場町として栄え本陣の池永家住宅も残っているようだが、駅周辺は衰退が激しいようだ。すぐ先の二又の分岐にある東家四つ辻道標は、もとはこの辻に立っていたのだろう。

Img_3881 松ヶ枝橋(橋本川)

ここに大和街道の一里塚(和歌山を起点にして11番目)があったという。

Img_3883東家四つ辻道標

「西 右かうや道 左京大坂道」、ここは左に進む。

Img_3891 四里石(左)・東家の常夜灯(文化11年(1814))・歯痛地蔵 《地図

もう1基の常夜灯は紀ノ川の洪水で流失した。

このあたり一帯は工事中で歩きづらい。

Img_3896 説明板

Img_3893 歯痛地蔵

Img_3898 紀ノ川の渡し跡あたり

天正15年(1587))応其上人によって架けられた橋は3年後の洪水で消失し、無銭の舟の横渡しで対岸の三軒茶屋の常夜灯の間を渡っていた。左は橋本橋。

Img_3904応其寺

Img_3906 大和街道沿いの「ほんまち商店街」の荒廃した無残な姿。『橋本まちかど博物館』も閉鎖されたままだ。再開発されるのか? 《地図

Img_3913 橋本橋から紀ノ川

Img_3916 右に紀ノ川沿いを進む。《地図

Img_3920 三軒茶屋常夜灯(宝暦2年(1752))

このあたりには茶店、旅籠が並び賑わっていたという。

Img_3918 説明板

Img_3931 第一の地蔵・西行庵(跡) 【ル-ト地図】の④

女人堂までの間に第六の地蔵まである。西行庵の堂は取り壊されている。高野山に向かう西行が滞在した所という。

Img_3933 清水地区の家並み

高野山領の宿場町で、高野山へ物資を運ぶ伝馬所もあった。

Img_3942 清水不動寺 《地図

ここも弘法大師ゆかりの寺で「鎌不動尊」の石柱、「鎌不動明王」の常夜灯が立つがよく分からず。

Img_3948 成就寺

嘉永5年(1852)の紀ノ川の氾濫の際、舟を出して民家の屋根の上に避難していた近辺の住民を救った船頭の船越喜右衛門の碑がある。

Img_3951 学文路天満宮鳥居

ここから南に1kmほどか。この先で国道に出る。

Img_3953 第二の地蔵(右) 《地図

Img_3954 説明板

Img_3966 左に旧道に入る。

Img_3970 三里石 【ル-ト地図】の⑤

かむろ大師前の民家の玄関にある。

Img_3973 かむろ地蔵・「腰掛け石」

Img_3972 説明板

「香室」を「学文路」と書くようになった由来が書かれている。

Img_3976 かむろ大師堂

Img_3978 学文路の家並み

Img_3983 紀ノ川が近い。

Img_3985 興山寺領御国領境界標石(学文路郵便局前)

ここに移設されたもの。

Img_3988 説明板

Img_3986 「是ヨリ南御国領」

Img_3990 道標(学文路郵便局前)

この先の突き当りを左折する。

Img_3995 道標 《地図

高野街道は直進し上って行く。

Img_3998 「右慈尊院みち是ヨリ一里」・「左高野みち女人堂迄三里」

明日、高野山へ登り、翌日に慈尊院道(町石道)を慈尊院まで下る。今日はここまで右折して学文路駅に向かった。

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2012年3月25日 (日)

二見道

2012年3月9日

宇治山田駅(近鉄山田線)・・・小田橋(勢田川)・伊勢街道追分・・・(JR参宮線)・・・稲荷社・・・宇治道慈悲地蔵・・・寝起松神社・・・円満地蔵・・・道標・・・清浄坊橋(勢田川)・・・河崎地区・川辺七種神社・吉家稲荷神社・商人蔵・伊勢河崎商人館・・北新橋・・・橋本家・・・六地蔵・庚申塔祠・・・伏見稲荷神社・・・かどや民具館・明治天皇上陸記念碑(二軒茶屋船着場跡)・二軒茶屋餅角屋・・・浜郷交差点・・・勝広稲荷神社・橘神社・・・(国道23号)・・・道標・汐合橋(五十鈴川)・・・地蔵・・・二見神社(姫宮稲荷神社)・・・神宮御園石標・・・三津踏切(参宮線)・・・明星寺・・・高札場跡・庚申塔・・・地蔵・・・天狗岩・・・鳥羽第二踏切(参宮線)・・・(国道42号)・・・二見町・・茶屋庚申堂・亀甲地蔵・・・賓日館・・・夫婦岩・二見興玉神社・・・御塩殿神社・御塩汲入所・御塩焼所・・・二見駅(参宮線)

 【ル-ト地図】(15.9km)

 二見は倭姫命がこの浦の素晴らしさに二度振り返ったという伝説の地。明治初期までは参宮者が禊をした清浄な浜で、今でも御塩殿神社で作られた塩は外宮へ運ばれる。

 冷たい雨の中、伊勢街道との追分の小田橋を渡り、古い家並みの残る河崎地区を通り、二軒茶屋船着場跡から御塩道もたどり、汐合橋、茶屋町、夫婦岩の二見浦から御塩殿神社へ向かう。御塩殿神社では御塩焼固めの神事中で、グッドタイミングだった。

  参考:『みえ歴史街道』・『歴史の道調査報告書(三重県)』

 写真をクリックすると拡大します。

Img_3372 小田橋(勢田川)・伊勢街道追分 【ル-ト地図】の①

伊勢街道は直進、二見道は橋を渡って左折し勢田川沿いに進む。

Img_3373 道標(弘化4年(1847))

「すぐ二見」

Img_3377 勢田川

JR参宮線をくぐって行く。

Img_3383 宇治道慈悲地蔵 《地図

御塩道はこの前を右折し、清浄坊橋を渡り外宮へ向かった。「宇治道」とは「御塩道」のことだろう。

Img_3384 寝起松神社 【ル-ト地図】の②

夜泣き、疳虫封じに霊験あり、子供の寝起きがよくなる神社か。

日光街道』の間々田宿の龍昌寺は寝起不動を祀っている。

Img_3387 円満地蔵

こちらは夫婦円満か?

Img_3389 道標(嘉永6年(1853)) 《地図

「北すぐ外宮山田内宮古市道」

Img_3390 勢田川から河崎地区

Img_3392 かつての河崎風景

河崎は伊勢湾から勢田川を遡ってさまざまな物資が運び込まれ、「伊勢の台所」と呼ばれていた。川沿いに立ち並ぶ蔵は、川から直接荷物を運び込めるように、川に向かって入り口が開いていた。

Img_3391 説明板

Img_3476 案内図

Img_3402 河崎地区 《地図

Img_3406 家並み

Img_3409 水野商店

明治10年創業の履物問屋

Img_3420 雨の通りも風情がある。

Img_3428 コワフュール千代

約250年前に創業の雑貨問屋、角仙(村田家)の店舗を利用した美容院。

Img_3431 河崎蔵(伊勢まちかど博物館)

明治中期に建築の白壁の土蔵を利用した喫茶店になっている。

Img_3436 道標(明治15年)

「右 宮川道」・「すぐさんぐう道」・「左 二見神社大湊道」

Img_3452 川辺七種神社

毎年7月には「天王さん」と親しまれている例祭が行われ、勢田川沿いで花火が上げられる。

Img_3463 伊勢河崎商人館

Img_3480 今崎家

北新橋を渡った所。

Img_3481_2説明板

Img_3483 橋本家(右) 《地図

ここを右にカーブして行く。

Img_3486 橋本家

Img_3485 説明板

Img_3487 六地蔵

Img_3492 左に旧道に入る。《地図

Img_3495 かどや民具館(左)・二軒茶屋餅角屋(右) 《地図

大木の隣に「明治天皇上陸記念碑」が立つ。

Img_3508 二軒茶屋船着場跡(今は川の駅でかどや民具館の裏)

船での参宮者はこのあたりで上陸し、茶屋で休憩してから外宮に向かったという。明治5年5月25日に明治天皇も上陸した。

Img_3510二軒茶屋角屋(創業天正3年(1575))

かつては「角屋」と「湊屋」の二軒の茶屋があった。

Img_3512 びやぐら(麦酒蔵)

Img_3515 浜郷交差点

左に「御塩道」(みしおみち)に入る。

Img_3521 橘神社

御塩道の休息所で、ここ以外では御塩を入れた櫃(ひつ)を降ろすことは許されなかった。かつては人力で運んだが、今は自動車輸送で味気ない。

遥か海上から波に乗って寄り来る常世神の依り代のが神木であったとも。祭神は不詳というが、『みえ歴史街道』では橘諸兄、『歴史の道調査報告書(三重県)』では「酒造りの神」(具体的な祭神名は記さず)という話があるとする。 

Img_3525 県道に出て国道23号をくぐって直進し、汐合橋へ向かう。ここは「通縄手」(とおりなわて)という。左の通村・一色村は明治の初めまでは製塩地帯で、幾筋もの塩焼きの煙が上っていたそうだ。

Img_3529 道標「西 すぐ二見」 《地図

渡し場跡で干潮時は徒歩渡りだった。かつてはここから左方に御塩浜(御塩殿神社に付属する塩田)が見えたという。《地図

左は汐合橋、右の橋脚は明治36年に山田~二見間に開通した神都電車の鉄橋の名残り。鉄橋を渡ると「姫宮前」駅があったが、昭和36年に廃線となった。

Img_3530 小地蔵

汐合橋を渡った所。

Img_3532 二見神社石標

Img_3542 二見神社 《地図

もとは姫宮稲荷神社で明治になって数社を合祀した。

Img_3539 説明板

Img_3543 神宮御園石標

伊勢神宮に供える野菜・果樹などを清流五十鈴川の水を用いて栽培しているそうだ。開園は明治32年だが、その起源は古く今から約2千年前だとか。

Img_3544 右に進む。《地図

Img_3549 密厳寺跡方向(山田原公民館前から)

阿弥陀如来像(県指定文化財)は現在、明星寺にある。

山田原公民館が大盛庵跡で、後の二見学校の跡だそうだ。《地図

Img_3554 明星寺 《地図

木造薬師如来坐像は国指定重要文化財。

Img_3571 高札場跡 《地図

右奥は自然石の庚申塔7基。

Img_3565 地蔵(高札場跡から南に進んだ左側)

文禄3年(1594)で二見で最古とか。

Img_3568 天狗岩 《地図

天狗が山から投げたといわれているそうだが。

参宮線・国道42号を渡り二見の茶屋町に入る。

Img_3583 茶屋庚申堂・亀甲地蔵 【ル-ト地図】の③

Img_3579 説明板

Img_3582 庚申塔

Img_3581 亀甲地蔵

もとは小川に架かっていた橋の石。亀甲模様を地蔵に見立てたのか? 歯にご利益があるという。

Img_3585 二見町茶屋地区を二見浦に向かう。

Img_3615 旅館朝日館

Img_3614 賓日館(ひんじつかん) 《地図

もとは伊勢神宮の迎賓館。今は資料館として公開されている。

Img_3613 説明板

Img_3603 雨の夫婦岩も風情がある。 【ル-ト地図】の④

Img_3605 日の出の遥拝所で、5月から7月が見頃だそうだ。

Img_3610 説明板

Img_3616 案内図

少し離れているが御塩殿神社に向かう。

Img_3617御塩殿(みしおどの)神社 【ル-ト地図】の⑤

Img_3635 由緒碑

Img_3629 御塩汲入所(左)・御塩焼所(右)

御塩浜から濃い塩水を汲入所に運び、焼所で荒塩にする。

Img_3634御塩殿

年2回(3月・10月)、荒塩を焼き固め堅塩にして、御塩道を通り外宮へ奉納する。

ちょっど御塩焼固めの神事が行われていた。若い宮司さんが出てきて詳しく説明してくれた。参拝者は我一人。雨の中、ここまで歩いて来ていい機会を得て疲れも忘れた。

Img_3639酒素饅頭「旭家」(創業大正2年)

饅頭を買って、駅のベンチでほうばりながら電車を待った。

Img_3640 二見駅

Img_3641 参宮線で松阪に出て、近鉄線で大阪難波に向かった。明日は河内長野から高野街道の続きを歩く。

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2012年3月20日 (火)

伊勢別街道

2012年3月8日

関駅(JR関西本線)・・・東海道関宿・・・東の追分・伊勢別街道(県道10号)・・・(国道1号)・・・(関西本線)・・・勧進橋(鈴鹿川)・・・鈴鹿駅跡・御厩の松跡・旧道・・・県道10号・・(国道25号)・・・石山観音道石標・・・庚申坂・・庚申塚・・・旧道・・・楠原宿・・明神社石標・・・(県道10号)・・・明神社・(おさよの池)・・・楠原宿・・・県道10号・・・新玉橋(中ノ川)・・・旧道・・畑坂・・・芸濃町資料館・蛭谷道分岐・・・常夜灯・(県道10号)・・・新立寺・・・横山池・・駒越翁顕彰碑・仁王経碑・・・西性寺・・椋本宿・・仏性寺・・椋本神社・・問屋場跡あたり・・東日寺・・椋本の大椋・・道標・・角屋旅館・・・延命地蔵堂・・・仁王経碑・・・豊久野地区・・・(伊勢自動車道)・・・地蔵祠・・・安楽寺・・・中町橋・・・ぜにかけ松・・・向沖橋(中ノ川)・・・窪田宿・・青木地蔵・・汐見坂・・本陣跡・・正福寺・・六大院・・・真楽寺・・・仲福寺・・・(中勢バイパス)・・・窪田常夜灯・・・旧道・・・例禊洲橋(毛無川)・・・一身田踏切(紀勢本線)・・・安楽橋・・一身田寺内町・・専修寺・・慈智院・・黒門?・・寺内町の館・・一御田神社・・常盤小橋・・高札場跡・道標・・黒門跡・常盤橋(毛無川・外濠)・・橋向通り(橋向遊郭あたり)・・・桜橋(毛無川)・・・一心龍王権現・延命地蔵・・・延命地蔵堂・・・(伊勢鉄道)・・・五六橋(五六川)・・・慈眼寺・見初大明神・・・江戸橋2号踏切(近鉄名古屋線)・・・伊勢街道合流地点・・・江戸橋駅(近鉄名古屋線)

  【ル-ト地図】(26.1km)

 関宿東の追分で東海道と分岐し、楠原宿・椋本宿・窪田宿を通り、津の江戸橋で伊勢街道と合流する伊勢参宮道で、江戸時代には「いせみち」・「参宮道」・「山田道」などと呼ばれていた。「伊勢別街道」の名は明治10年以降に使われるようになったという。街道の総距離は約4里26町(5里半とも)というが、ゆっくりと寄り道をしながら1日かけて歩くのにぴったりの街道だ。

  参考:『みえの歴史街道』・『伊勢別街道むかしいま』(佐脇嘉臣)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2971 関宿(東海道)の家並み

どしゃぶりの雨の中、ここを通ったのが2年前の4月12日だった。なんだが懐かしい気がする。

Img_2981 伊勢別街道追分 【ル-ト地図】の①

伊勢神宮一の鳥居。内宮の宇治橋の南詰めの鳥居を式年遷宮の時に移設。ここにあった道標「右さんぐう道」・「左江戸道」、道標「是より外宮十五里」、火袋と屋根の欠けた常夜燈などは町民会館へ移されているそうだ。再びここに戻されるのか?

Img_2983 説明板

鳥居をくぐって伊勢別街道に入る。

Img_2986 勧進橋

たびたび洪水で流失し、勧進により浄財を集めて架けた橋。

Img_2989 鈴鹿駅跡・御厩の松跡・大井神社遺跡碑(駅の井戸とされる清水を神体とした神社) 《地図

Img_2990 説明板(鈴鹿駅跡)

Img_2991 説明板(御厩の松)

Img_2992 ありし日の御厩の松

松喰虫の被害で昭和58年に伐採されてしまった。

Img_2995 小堂内に保存された松の根株。

Img_2998 地蔵祠の前を通って旧道に入る。このあたりは古厩という。

県道10号に出て国道25号をくぐる。

Img_3006石山観音道石標(右) 《地図

今は寺はなく、一帯が石山観音公園になっていて、「石山観音磨崖仏」で有名のようだ。

Img_3010 庚申坂を下る。《地図

左前方が庚申塚。

Img_3011 庚申堂

Img_3013 庚申塔

Img_3018 すぐ先で右に旧道入る。

Img_3020 童子谷城跡(中ノ川の対岸)

「応仁記」の楠原落城はこの城ともいわれるそうだが、調べても分からず。一角に覚順和尚の寿塔と墓石があるそうだ。

Img_3026 楠原宿の家並み 《地図

このあたりは問屋垣内といい、問屋場がある楠原宿の中心地だった。

Img_3028 明神社石標

県道を渡って常夜灯の前を通り明神社に向かう。

Img_3031 明神社

鳥居前を猪よけの電気柵が張ってあり境内に入れず、伝説の「おさよの池」も見られなかった。

伝説:「昔、大雨のたびに池の堤が破れるので人柱を立てることになり、参宮の途中で親とはぐれて迷子になっていた才(又はさよ)という少女を、人柱の生き埋めにしたところ雨も降らないのに大水が出たり病人が出たりと災いが続いたため手厚く供養したという」

昔話『さよが池』、楠原宿の浄蓮寺に覚順和尚の建てた「おさよ」の供養塔がある。

Img_3035 猪の被害がひどいとの話。

Img_3038 楠原宿の街道

かぎ型に曲がって行く。

Img_3042 楠原宿を抜けて行く。

この先で県道10号に出て中ノ川(新玉橋)を渡り、左に旧道に入り、畑坂を上って行く。

Img_3053 畑坂 《地図

坂上には立場茶屋があった。

Img_3055 ここは猿だ。

Img_3059 芸濃町の旧家

Img_3063 芸濃町資料館 《地図

大正5年建築の旧明村役場。老朽化で閉館している。

この前を右折する。東進するのは白子への蛭谷道。

Img_3070 常夜灯道標(安永5年(1776)) 《地図

「右さんぐう道」・「左 京道」、もとは芸濃町資料館の辻にあったようだ。この東側に、大正時代に安濃鉄道の終点の林駅があった。県道は椋本までの間、線路敷を拡幅したものという。

県道を渡り直進する。

Img_3077 中縄地区

かつては老松の並木が300mも並んでいたという。

Img_3082 正面で横山池にぶつかる。

Img_3085 横山池

駒越五良八が私財を投じて慶応2年(1866)に造った灌漑用池。参宮道者はこの堤に上り、旅に出た解放感もあってか声高に百人一首や唐詩選を高吟したりして楽しんだという。

Img_3089 駒越翁顕彰碑・仁王経碑

Img_3091 仁王経碑(文化2年(1805))

村内安全・五穀豊穣・疫病退散のために建てられた。

Img_3098 椋本宿高札場・問屋場あたり 《地図

かぎ型に曲がって行く。

Img_3103 東日寺

横山池で水没した千数寺の地蔵堂が移されているそうだ。三重四国八十八所の60番

Img_3107 椋本宿の家並み

Img_3118 大椋石標

Img_3126 大椋 【ル-ト地図】の②

Img_3127 説明板

Img_3130 玉石垣の間の坂を上って街道へ戻る。

Img_3131 道標 《地図

道標に従いここを左折する。突当りに角屋旅館がある。

Img_3115 道標

「左さんくう道」

Img_3116 説明板

Img_3133 角屋旅館(正面)

Img_3141 角屋旅館

今も営業中。明治初年の頃には20軒ほどの宿屋が軒を連ね遊郭もあった。参宮鉄道開通後も関西方面からの参宮者は関駅で下車し、伊勢別街道を歩き椋本宿に泊まる者が多かったという。

平成25年12月に廃業したそうです。「まるごとみえ」さんから下記にコメントを頂きました。

Img_3134 説明板

Img_3140 伊勢参宮の講札

Img_3143 延命地蔵堂

Img_3147 延命地蔵尊(正徳5年(1715))

Img_3151 ここにも仁王経碑

Img_3153 豊久野地区 《地図

かつては武蔵野より広いといわれた原野が広がり、都にもその名が知られていた。

「とよく野のすゑはるばるとかぎりなく過ぎ行くに 音に聞ゆるむさし野とても 是には過ぎ侍らやなど詠めやり侍るに」・「武蔵野に伊勢のとよくのくらぶればなほこの国ですゑはるかなり」(「室町殿伊勢参宮記」・応永31年(1424)の将軍足利義持の参宮記)、と自慢している。

戦前までは「豊久野の松並木」が続いていた。今は車の往来が多い味気ない道が続く。

伊勢自動車道をくぐって進む。高野尾地区には茶屋、丸屋、花屋、団子屋、ちょうちん屋などの屋号が残る家があるというが見当たらず。

Img_3179 ぜにかけ松 【ル-ト地図】の③

昔、病気になった参宮道者が、旅の半ばで引き返す際、この地の松に銭を結びつけ、松を拝んで立ち去った。別の人がその銭を取ろうとすると、銭が蛇に化けて襲いかかったといわれ、この松に銭を掛けると参宮したのと同じくらいのご利益があるという伝承がある。

銭を掛けた参宮道者は小野篁(たかむら)の妻女という話もある。『銭懸松

Img_3181 初代の松の幹を祀っている。なるほど今も銭が掛かっている。敷地内には若い松が1本?植わっていた。

Img_3180 句碑

可布多かと 松に一声 郭公(ほととぎす)」で、「掛けたかと・・・・」だろう。

Img_3191 青木地蔵(右) 《地図

ここは窪田宿の入口。

Img_3192 地蔵

Img_3202 汐見坂 【ル-ト地図】の④

親鸞聖人が一身田をご覧になったという伝承の坂。往古はここまで海がせまっていたとも。

Img_3197 坂下方向

Img_3210 窪田宿の家並み

Img_3207 廃屋か?壊れかけている。

Img_3212 窪田宿本陣跡 《地図

本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねた国府家で、「史蹟 明治天皇窪田小休所」碑が立つ。千年以上も天皇の伊勢神宮参拝はなかったが、明治天皇は関から伊勢別街道を進み参宮した。斎王群行と同様、葱華輦(そうかれん)に乗っていたそうだ。

Img_2151 葱華輦

こんなきらびやかではなかったか。

Img_3224 六大院

本尊は室町期の千手観音像

Img_3228 仲福寺

三重四国八十八所の62番。阿弥陀如来坐像を安置。

 この先を右折して行く。

Img_3236 窪田常夜灯 《地図

振り返って撮影。高さ約8.6mで津市内最大。近江から伊勢神宮へ寄進するために大勢で運んできたが、あまりの大きさに運びきれずここに設置したという。

Img_3234 説明板

Img_3237 旧道は直進し例禊洲橋を渡っていた。今は左へ曲がって紀勢本線の踏切を渡って行く。

Img_3241 例禊洲(れいけいす)橋 《地図

斎王が禊ぎをしたという格調高い名の橋だが今は橋とは呼べない代物。この先の踏切は廃され渡れない。(線路を跨げば渡れるが)

Img_3242 今は斎王群行でなく、たった1輛の紀勢線が毛無川を渡って行く。

先ほどの分岐に戻り紀勢本線を渡り、専修寺のある環濠地区の『一身田寺内町』を巡る。

Img_3261 高田本山専修寺唐門

奥が如来堂

Img_3256 案内図

Img_3279 御影堂前の銅燈籠

伊勢街道沿いの寺にいくつもある辻(越後・但馬)守一族の越後守陳種の作。

Img_3272 説明板

Img_3288 鐘楼

銅鐘は辻越後守重種と氏種の作。

Img_3286 説明板

Img_3293 太鼓門

Img_3294 説明板

Img_3302 慈智院

一身田最古の建築物。

Img_3303 説明板

Img_3304 寺内町の館

Img_3300 黒門?(高田幼稚園) 《地図

『みえ歴史街道 ウォーキングマップ』では常盤橋から移築した黒門という。「寺内町の館」の管理人さんの話では黒門は廃仏毀釈で破壊されたという。もっと立派な門だったという話だった。

Img_3305 一御田神社

Img_3306 常盤小橋

Img_3310 高札場跡・道標(百五銀行の前)

道標(天保8年(1837)) 「右さんくう道」・「右江戸みち」・「左御堂京道」、「」は「並びに」だろう。

Img_3254 説明板

Img_3315 常盤橋 《地図

ここに寺内町の惣門の黒門があり番所があった。これより南側が橋向遊郭のある通りだった。

Img_3316 説明板

Img_3319 外濠

Img_3318 説明板

Img_3321 橋向地区

橋向遊郭、芝居小屋、水茶屋などが立ち並び昭和30年頃まではたいそう賑わっていたそうだ。滝沢馬琴も古市、松阪に次ぐ遊里と評している。

Img_3317 説明板

Img_3338 一心龍王権現・延命地蔵

Img_3339 例禊洲橋を渡った旧道はここへ出ていたようだ。《地図

Img_3343 延命地蔵堂 《地図

Img_3348 延命地蔵

文政9年(1826)に大古曽地区の床下から現れた地蔵という。

Img_3350 大古曽の家並み

伊勢鉄道をくぐり、五六橋(五六川)を渡って行く。

Img_3359 見初大明神 《地図

3年に一度、中野獅子舞が奉納される。

 近鉄名古屋線を渡り、江戸橋駅の東側を南進する。

Img_3368 伊勢街道合流地点 【ル-ト地図】の⑤

常夜灯と道標「高田本山道」が立つ。『伊勢街道』は直進して行く。今年の2月6日に歩いたばかりだ。

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2012年3月16日 (金)

香良洲道

2012年3月7日

阿漕駅(JR紀勢本線)・・・(国道23号)・・・(県道114号)・・・伊勢街道・・・思案橋・香良洲道追分・・・藤方北交差点(国道23号)・・・下相川橋(相川)・天神川・・・国道23号・・・高茶屋小森南交差点・旧道・・・杉縄橋(川関川)・・・(国道165号)・・・雲出地区・・小祠(地蔵・庚申塔)・山神・・浄蓮寺・・常念寺・・雲出神社・・・雲出小南交差点・県道698号・・・香良洲橋(雲出古川)・・・常夜灯・道標・・・道標・・・香良洲神社・・・香良洲公園・香良洲浦・・・香良洲大橋(雲出川)・・・明照寺・・波氐神社・・・かささぎ(鵲)橋・歌碑・・・五社稲荷・海運寺・八雲神社・・・松養寺・・・八雲神社・・・(国道23号)・・・道標・伊勢街道合流地点・・・月本追分・・・(国道23号バイパス)・・・道標・常夜灯・・・六軒駅(JR紀勢本線)

  【ル-ト地図】(18.4km)

 伊勢街道沿いの追分から香良洲道・伊勢別街道・二見道を歩き、大阪へ飛び高野街道の続きを河内長野から高野山奥の院まで登り、高野山町石道を慈尊院まで下る。そして最後は西高野街道の追分から女人高野の金剛寺までの天野街道を行く。雨、雪、風おかまいなし、7日連続の質より量の坂道散歩としよう。

 まずは、「お伊勢詣らば可良須に詣れ、可良須詣らな片参宮」といわれた、天照大神の妹神の稚日女尊を祀る香良洲神社への香良洲道を行く。道沿いは開発されて昔の面影は薄く、あまり面白味のある道ではないが。

  参考:『みえの歴史街道(伊勢街道)』

 写真をクリックすると拡大します。

Img_2821 思案橋 【ル-ト地図】の①

伊勢街道(右)と香良洲道(左)の追分

Img_2833 相川を渡り天神川沿いを進む。《地図

街道風情などは皆無だ。

国道23号に出て、高茶屋小森南交差点で左に旧道に入る。

Img_2840 旧道といっても何の変哲もないただの道だが。《地図

杉縄橋を渡り雲出地区に入る。

Img_2845 雲出地区

右に山神と地蔵2体、庚申塔の祠

Img_2849地蔵

いぼ取りにご利益ありという。

Img_2851 旧雲出小学校玄関 《地図

Img_2850 説明板

Img_2857かんこ踊り」の説明板

文字が薄れ、消えていて読めない。

Img_2865 雲出神社 【ル-ト地図】の②

Img_2869 常夜灯(元禄8年(1695))

境内の片隅

Img_2872 味気ない県道を香良洲橋へ向かう。車が少ないのが救いだ。《地図

Img_2875 香良洲橋(雲出古川)を渡る。

昔は舟渡しだった。

Img_2878 「海と川をきれいにしよう」

ついでにこのアーチもきれいにしよう。正面向うに香良洲大橋。

Img_2879 雲出古川(手前)と雲出川

Img_2881 常夜灯(元治2年(1865))・道標(3基) 《地図

すべてここに移設されたもの。

Img_2882 右の道標(文政6年(1823))は、「右さんくう道」・「左からす道」。中央の道標(明治2年)は「すぐ からす道」・「右 津みち」・「左 さんくう道」。左の道標は「右 津みち」

Img_2893 香良洲の家並み

Img_2895 道標 《地図

右の電柱脇に下が埋もれている。

Img_2896 道標

「右 矢野(の渡し)」か?

Img_2898香良洲神社 【ル-ト地図】の③

Img_2906 拝殿

平成26年が20年毎の式年遷宮(座)の年。伊勢神宮は来年(平成25年)

Img_2916 香良洲公園

伊勢参宮者は香良洲神社へ参拝後は、「五百枝松」・「竜燈松」などの名松が並ぶ白砂青松の景色を楽しみ、香良洲大橋付近にあった矢野の渡しで雲出川を渡り、香良洲道を伊勢街道へと向かった。

Img_2910 香良洲浦(伊勢湾) 《地図

白砂青松とは昔のお話。

Img_2925 香良洲大橋から雲出川

かつては「矢野の渡し」で渡っていた。

Img_2931 「星合の浜」と呼ばれ五主新田が開発されるまでは、ここも白砂青松の浜だったそうだ。 《地図

Img_2935 波氐(はて)神社

延喜式内波氐神社」の標柱が立つ。

Img_2940 かささぎ(鵲)橋 【ル-ト地図】の④

渡った左に歌碑:「鵲の わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」(大伴家持)

向うは鵲小学校で、七夕祭りには生徒が織姫と彦星になる。

Img_2946 五社稲荷の鳥居・海運寺・八雲神社(左奥の鳥居) 《地図

八雲神社は北斗七星社が祀られているそうだ。

松養寺の角を右折し西に向かい、八雲神社の前を通り、国道23号を渡って進む。

Img_2958 伊勢街道合流地点 【ル-ト地図】の⑤

右に「からすみち」道標。ちょうど1か月前(2月7日)に歩いた所へ出た。左折して伊勢街道を南に進むと、いくつかの香良洲道との追分がある。

Img_2966ここを右折して六軒駅に向った。《地図

左に常夜灯と道標。

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2012年3月 1日 (木)

伊勢街道⑤(宮町駅→伊勢神宮外宮→内宮→五十鈴川駅)

2012年2月9日

宮町駅(近鉄山田線)・・・茶屋町の道標・・・筋向橋(熊野街道追分)・・・福島みさき太夫邸跡・・小西万金丹・・・須原大社・・月夜見宮・・・伊勢神宮外宮・・・勾玉池・豊川茜稲荷神社・茜天神社・・・旧豊宮崎文庫・・・(近鉄鳥羽線)・・・小田橋(勢田川)・・道標・二見道追分・・・尾部坂(間の山)・お杉お玉碑・・・備前屋跡・・・油屋跡・・・お紺と斉の比翼塚(大林寺)・・(近鉄鳥羽線)・・・長峯神社・・・麻吉旅館・・・寂照寺・・・参宮街道資料館・・・(伊勢自動車道)・・・道標(月読宮)・・・桜木地蔵・・・牛谷坂・・・猿田彦神社・・・宇治浦田町交差点(国道23号)・・・道標(月読宮)・・おはらい町・おかげ横丁・・・宇治橋(五十鈴川)・・・内宮・・・宇治橋・・・旧林崎文庫・・・上田神社・・・月読宮・・・五十鈴川駅(近鉄鳥羽線)

 5日目にしてようやく晴れた。終わりよければすべてよし。「伊勢に行きたい伊勢路が見たい。たとえ一生に一度でも」の旅も無事終わり、歩いて京へ向かう弥次喜多と別れ、名古屋から新幹線で帰京した。

  【ル-ト地図】(15.9km)

 写真をクリックすると拡大します。

Img_2354 筋向橋 【ル-ト地図】の①

川は暗渠になっている。欄干の擬宝珠は嘉永2年(1849)のもの。ここは熊野街道伊勢路との分岐点。もともと伊勢神宮は皇祖神を祀る神社で、一般人は参拝できず、熊野詣での通過点、休憩地に過ぎなかったが、御師などの活躍で、伊勢神宮への信仰が盛んになり、険しい道をわざわざ熊野まで行く参詣者も減り、熊野詣もすたれてきたようだ。本来、信仰の道は険しいはずなのだが、安直に流れるのが世の常だろう。この道も熊野本宮からここまで、いずれ歩くことになるか。

Img_2355 説明板

Img_2366 福島みさき太夫邸跡 《地図

ここに広大な屋敷を構えていた御師で、徳川将軍家の祈祷所もつとめたいた。黒門は神宮文庫入口に移築されている。

Img_2368 小西万金丹

Img_2372 店内

営業はしていないが。

Img_2370 説明板

Img_2378月夜見宮

Img_2384 旧家

Img_2388伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)北御門参道

Img_2391 外宮の正宮

Img_2393 来年は式年遷宮で殿舎も新築中。

Img_2392 説明板

Img_2411 勾玉池 《地図

古くからある池と思っていたが、明治2年に造られた人造池だそうだ。

Img_2409豊川茜稲荷神社(あこねさん)

「赤畝(あかうね)」の社が訛って、「あこね」となり、「茜」の字が当てられた。

Img_2413 由緒

Img_2416 旧豊宮崎文庫

お屋根桜は健在のようだ。

Img_2431 小田橋(勢田川)

この先は尾部坂の上りとなる。

渡って左折するのが『二見道』。

Img_2428 小田橋

Img_2433 説明板

Img_2438 道標

「すぐ二見」で、夫婦岩の二見浦への道。

Img_2444 尾部坂沿いの旧家

Img_2450 尾部(おべ)坂を上る。【ル-ト地図】の②

外宮から上って内宮へ下るので、「間(あい)の山」ともいう。坂上には古市の遊郭(京の島原・江戸の吉原と並ぶ三大遊郭)があり賑わった。

Img_2453 お杉お玉碑

このあたりに、三味線や胡弓をかき鳴らし、参宮者に投げ銭を乞うことで有名だった芸人。

Img_2442間の山伊勢参宮名所図会

三味線を弾く、お杉・お玉に銭を投げる旅人。弥次喜多が通った時にも、「いにしへのお杉おたまが、おもかげをうつせし女」が三味線を弾いていた。弥次喜多は女の顔に銭を投げるが、上手くよけられる。喜多さんが小石を投げると女はバチで受けて投げ返し、弥次さんの顔へぴしゃりと当たった。「とんだめにあい(間)の山とや うちつけし 石かへしたる 事ぞおかしき」 と痛さをこらえて洒落る。「石かへし」に「意趣返し」を掛けている。

Img_2458 坂下方向

Img_2462 備前屋(牛車楼)跡(テニスコート前バス停そば)

天明年間(1781~88)には70数軒あったという古市遊郭の三大妓楼(油屋・杉本屋)の一つ。その中でも屈指の大楼閣で、桜の間での伊勢音頭総踊りが有名だったという。『古市界隈

Img_2435 千束屋で遊ぶ弥次喜多『東海道中膝栗毛』

弥次さんは道連れの上方者と敵娼(あいかた)を取り合う。翌朝は、「ふんどしを忘れて帰る朝熊嶽 万金たまふる市の町」と卑猥に洒落のめして店を出て、旅籠の藤屋に戻り、内宮に向かう。何せまだ外宮、内宮とも参拝してないのだから、偉い!

千束屋は後に貸衣装屋に転じ、伊勢歌舞伎を支えたそうだ。(後述)

Huruiti古市のにぎわい(伊勢参宮名所図会)

Img_2466 油屋跡 【ル-ト地図】の③

ここでの刃傷事件の『油屋騒動』を題材にして、歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」が作られた。

Img_2473 油屋騒動の「お紺と斉の比翼塚」(大林寺)

Img_2471 説明板

Img_2482 長峯神社

このあたりは「寒風(さむかぜ)の里」いわれ、『東海道中膝栗毛』は名所として紹介している。

Img_2480 説明板

Img_2484 麻吉旅館 《地図

創業200年以上の老舗旅館

Img_2492 道標(麻吉旅館前)

「左 あさま 二見へちか道」・「此おく つづらいし」

Img_2486 石段を下りる。

Img_2500 見上げる

Img_2496 石段下から

左端は道標(文化10年(1813))「つづら石道」で、その左側につづら石(葛籠石)と浅香稲荷の小祠があるようだが見落とした。

Img_2517 寂照寺

家康の孫の千姫の菩提寺。千姫はこの地とは縁はないようだが。

Img_2514 説明板

Img_2520参宮街道資料館

Img_2525 道標(明治26年)

「月よみの宮さんけい道」で、月読宮への道標。

Img_2532 桜木地蔵 《地図

山田奉行(伊勢奉行)の時に大岡越前守忠相はこの地蔵を訪れ、江戸奉行に出世したとの伝えから「出世地蔵」とも呼ばれている。

Img_2529 由来

Img_2530 岩に浮彫された3体(4体?)の地蔵。

Img_2533 牛谷坂を下る。 【ル-ト地図】の④

「牛鬼伝説」による坂名。かつて参宮者の多くは、先ほどの「月読宮」の道標で左折し内宮へ向かった。この坂は何度か改修され、文化3年(1806)に「千束屋の主人りと」(坂名の由来となった「牛鬼伝説」も載る)が私財を投げ打って改修され、内宮への近道となるこの坂を参宮者が利用するようになった。間の山の「お杉・お玉」と同様「お鶴・お市」と呼ばれる芸人がいて参宮者から投げ銭を乞うていたという。

Img_2536 坂下方向

今でも直線のけっこうな坂だ。

Img_2539 猿田彦神社

Img_2540 説明板

Img_2543佐瑠女神社

ストリップの元祖?、アメノウズメ命を祀る。

Img_2541 説明板

Img_2544 道標(月読宮) 《地図

Img_2551 おはらい町に入る。 《地図

Img_2549 郵便局もレトロな造りだ。

Img_2553 赤福本店(右)

Img_2556 おかげ横丁 【ル-ト地図】の⑤

正面は「おかげ座

Img_2561 宇治橋を渡って内宮へ。

Img_2563 五十鈴川

Img_2815 橋の上から参宮者が投げた銭を、下で網で上手に受け止めている。弥次喜多も夢中で投げた。「なげ銭をあみにうけつつおうらいの人をちゃ()にする宇治ばしのもと」

今は警備員が監視の目を光らせていて、こんな風な開放的な雰囲気はない。

 弥次喜多は宮めぐりの間は、「自然と感涙肝にめいじて、ありがたさに、まじめとなりて、しゃれもなく、むだもいわねば しばらくのうちに順拝おはりて」となる。2人とも性に合わない所は早く切り上げたかったのだろう。

Img_2574 内宮の正宮

Img_2571 式年遷宮の準備も進行中。

Img_2581 御料馬「空勇号」(アングロアラブ種)

平成5年生まれの大人しい老馬。

Img_2587 旧林崎文庫 《地図

Img_2585 説明板

弥次さん喜多さんはこの後、外宮から京に向かうが、こちらはおはらい町前の道標に戻り、月読宮から五十鈴川駅に出て伊勢街道歩きの終点とした。

Img_2592 月読宮 《地図

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