高野街道①
2012年3月10日
河内長野駅(南海高野線)・・・吉年邸・大クスノキ・・・長野神社・・・西条酒造・・・旧西条橋(石川)・・別久坂・・・(国道371号)・・・道標・・・烏帽子形八幡神社・烏帽子形城跡・・・地蔵堂・・・三日市宿高札場跡・増福寺・・松屋坂(煎餅坂)・・(国道371号)・・・林家代官所跡(三日市村役場跡)・・三日市交番跡・・月輪寺・・三日市橋(天見川)・・油屋本陣跡・・八木家住宅・・・弘法大師常夜灯・三日市駅前・・・高野山女人堂八里石・新高野橋(石見川)・・・国道371号・・新町橋(天見川)・新町橋交差点・・旧道・・・石仏寺・・国道371号・・旧道・・・(南海高野線)・・・千早地区・・御所の辻(御堂・道標・常夜灯)・・・松明屋跡・・・国道371号・・・七里石・・・出合ノ辻・・・旧道・・・国道371号・・・旧国道・・・紀見峠・六里石・岡潔生誕地碑・紀見峠宿・丹波屋・・・阿弥陀如来祠・・・国道371号・・・慶賀野交差点・・旧道・不動堂・・・大福寺・・国道371号・・・五里石・・・清恭寺・・旧道・・・地蔵祠・・・御幸辻・・・牛頭天王社・・・国道371号・・・辻原橋(菖蒲谷川)・・旧道・・・国道371号・・・(京奈和自動車道)・・・(南海高野線)・・・(JR和歌山線)・・・大和(伊勢)街道追分・・道標・・・(国道24号)・・四里石・常夜灯・歯痛地蔵・・・新御殿橋(橋本川)・・・応其寺・・ほんまち商店街・・・橋本橋(紀ノ川)・・・三軒茶屋常夜灯・大師堂・・・第一の地蔵・西行庵(跡)・・清水地区・・・(国道371号)・・・清水不動寺・・・成就寺・・・学文路天満宮鳥居・・・第二の地蔵・国道370号・・・土居橋(大谷川)・・・三里石・かむろ地蔵・かむろ大師堂・・・(国道370号)・・・興山寺領御国領境界標石・・・道標・国道370号・・・学文路駅(南海高野線)
【ル-ト地図】
東高野街道と西高野街道は河内長野で合流し、高野街道となって高野山へと続く。今日は紀見峠を越えて学文路まで歩く。
*参考:『和歌山県街道マップ(高野街道京大阪道)』・『高野街道(河内長野観光協会)』・『歴史の道調査報告書 第二集(高野街道)』(大阪府教育委員会)
写真をクリックすると拡大します。
「高野山 女人堂へ 南約35km」の標柱。
道標は銅鐸と梵鐘をイメージしたもの。
「天野酒」は女人高野の天野山金剛寺の僧房(坊)酒から生まれたもの。
「ビック坂」とも呼ばれるそうだ。
「右 かうや道」
上は楠木正成が築いた楠木(河内)七城の一つの烏帽子形城跡
ここは三日市宿の北の入口
松屋坂(煎餅坂)を下る。 《地図》
坂沿いに煎餅を売る茶店があったのか?
国道を越えてさらに下り、三日市宿の中心部へ入る。
空地の所が林家代官所跡(三日市村役場跡)で、その向こうが三日市交番跡か。
平安時代初め頃、長野村の諸越長者は弘法大師から薬師如来を与えられて大切にしていた。長者が亡くなると妻が郷里の三日市に戻り、そこに堂を建てたのが月輪寺の起こり伝える。本尊の薬師如来坐像は鎌倉時代初期の作だが。
油屋本陣跡 《地図》
江戸時代には本業は菜種油の製造、販売を営みながら、高野詣の本陣格の旅籠として有名だった。幕末の文久3年(1863)には、油屋の主人・庄兵衛が、天誅組の吉年米蔵、水郡善之祐と親しくしていたのが縁で、天誅組の一団が宿泊した。油屋で一泊したあと、観心寺、後村上天皇陵、楠木正成の首塚に参詣して尊皇攘夷成就を祈願し五條へ向かったという。明治以降は旅館を営なんできたが、戦後は高野街道を歩く参詣者が減少し廃業した。
木綿問屋から酒造業を営んでいた。屋号を「東家屋」
弘法大師常夜灯(明和7年(1770)) 《地図》
高野街道、三日市宿に気を使ったいい感じの駅前だ。
県道に出て、新町橋交差点の先で旧道に入る。
右に旧道に入り、石仏寺の先で国道に下りる。《地図》
もとは阿弥陀寺といい、江戸時代には栄えた寺だったが明治時代に廃寺となった。平成17年に地域住民が新堂を再建。弘法大師の作という、阿弥陀如来像など三尊を安置する。『石仏の歴史(石仏小学校)』
国道は車の往来が激しく、この先は歩道がない所もあるので天見川沿いの道に下る。
歩き安い道だ。右上に国道が走る。《地図》
千早駅の手前で南海高野線のガードをくぐる。
御所の辻(御堂(地蔵堂)・常夜灯・道標) 《地図》
正平3年(1348)に、南朝の後村上天皇が大和賀名生(奈良県五條市)から、天野山金剛寺に皇居を移す際に、この付近で一夜を明かしたという。そのことから村人が「御所の辻」と呼ぶようになったという説がある。また、高野山に参詣する途中の皇族の姫君が、この御所の辻あたりで「神隠し」にあい、村人が総出で探したが見つからず、姫君の菩提を弔うために御堂を建てて、菊と桐の紋章の使用が許可されたとも。御堂(地蔵堂)の線香立てには菊と桐の紋が入っているというが、気づかなかった。
道標①は常夜灯の左脇のもので、「左ハかうんこうせミチ」は「金剛山道」で金剛山のこと。
道標②は堂の外の左側の地蔵に彫られているのか?未確認。
松明堂(松明茶屋跡) 《地図》
弘法大師が東寺から高野山に百日参りをした最終日に、この地で夜明けを迎え松明を大地に突き刺すと、松明から根と枝が伸びて、大木に成ったという伝承地。大師は松明屋付近の村人のもてなしのお礼に、粽(ちまき)の製法を教えたという。大師直伝の粽は、食べれば病人がたちまち治る霊験あらたかな「大師粽」として、多くの高野山参詣者が求めたという。今でも地元では、お大師さんの日(毎月20日)に粽や色餅を供え大師を偲ぶそうだ。
この先で国道に出る。
出合ノ辻 《地図》
正慶2年(1333)正月、楠木正成が率いる南朝軍と北朝軍とが、この辻で出くわした「安満見合戦」の地。
この先で右に旧道に入る。
紀見峠トンネル(左前方)の手前で右に旧国道を上る。《地図》
「橋本の柿」はそんなに美味いのか。
紀見峠(400m)へ着く。ここから「紀の国」、和歌山県に入る。
ここを左に上れば紀見峠宿の集落だ。
慶長19年(1614)10月9日、九度山に幽閉されていた真田幸村が脱出行で、深夜の紀見峠から高野街道を北上して大坂城に入城したとか。
岡潔生誕地碑
生まれは大阪市、幼少年時代をこの地で過ごす。フランス留学から帰国後も住んでいた時があるようだ。
慶安元年(1648)に紀州藩が伝馬所をもうけたことから、人々が移住しはじめ、大坂屋、虎屋などの旅籠や茶店が軒を連ねて、1日に300人もの旅人が寝泊まりできる宿場町にまで発展した。しかし、明治33年の紀和鉄道(現JR和歌山線)の開通、大正4年の大阪高野鉄道(現南海高野線)の紀見峠トンネルの完成などで、紀見峠を利用する高野山参詣者は激減し、宿場町としての役割を終えた。
上の写真の右奥の家
落葉の間を下る。《地図》
この先で国道に出る。
慶賀野交差点の先で左に旧道に入る。
すぐ左に不動堂がある。《地図》
五里石 《地図》
もとは300mほど南にあったもの。
うねった旧道を行く。《地図》
御幸辻《地図》に道標があるというがうっかり通り過ぎた。
牛頭天王社 《地図》
国道へと下って行く。辻原橋の先で左の旧道っぽい道に入る。
すぐ先でJR和歌山線をくぐる。
大和(伊勢)街道追分 《地図》
左折して行くのが大和街道で、すぐ先の松ヶ枝橋には一里塚があったそうだ。東家は宿場町として栄え本陣の池永家住宅も残っているようだが、駅周辺は衰退が激しいようだ。すぐ先の二又の分岐にある東家四つ辻道標は、もとはこの辻に立っていたのだろう。
ここに大和街道の一里塚(和歌山を起点にして11番目)があったという。
「西 右かうや道 左京大坂道」、ここは左に進む。
四里石(左)・東家の常夜灯(文化11年(1814))・歯痛地蔵 《地図》
もう1基の常夜灯は紀ノ川の洪水で流失した。
このあたり一帯は工事中で歩きづらい。
天正15年(1587))応其上人によって架けられた橋は3年後の洪水で消失し、無銭の舟の横渡しで対岸の三軒茶屋の常夜灯の間を渡っていた。左は橋本橋。
大和街道沿いの「ほんまち商店街」の荒廃した無残な姿。『橋本まちかど博物館』も閉鎖されたままだ。再開発されるのか? 《地図》
右に紀ノ川沿いを進む。《地図》
このあたりには茶店、旅籠が並び賑わっていたという。
女人堂までの間に第六の地蔵まである。西行庵の堂は取り壊されている。高野山に向かう西行が滞在した所という。
高野山領の宿場町で、高野山へ物資を運ぶ伝馬所もあった。
清水不動寺 《地図》
ここも弘法大師ゆかりの寺で「鎌不動尊」の石柱、「鎌不動明王」の常夜灯が立つがよく分からず。
嘉永5年(1852)の紀ノ川の氾濫の際、舟を出して民家の屋根の上に避難していた近辺の住民を救った船頭の船越喜右衛門の碑がある。
ここから南に1kmほどか。この先で国道に出る。
第二の地蔵(右) 《地図》
かむろ大師前の民家の玄関にある。
「香室」を「学文路」と書くようになった由来が書かれている。
ここに移設されたもの。
この先の突き当りを左折する。
道標 《地図》
高野街道は直進し上って行く。
明日、高野山へ登り、翌日に慈尊院道(町石道)を慈尊院まで下る。今日はここまで右折して学文路駅に向かった。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2023年11月~)追加分(2023.12.14)
- 「歩いた坂」追加分(2023.12.10)
- JR京浜東北線を歩く①(2022.10.22)
- 大落古利根川・中川を歩く(2023.11.22)
- 柴又街道②(2023.11.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント