高野街道②
2012年3月11日
学文路駅(南海高野線)・国道370号・・・道標・・・(南海高野線踏切)・・・石童丸物語玉屋宿跡・・・西光寺・学文路刈萱堂・・・道標・・・第三の地蔵・・・(ゆめさきトンネル)・・・大師の硯水?・・・丹生神社・日輪寺・・・河根地区・元本陣中屋旅館・・・二里石・千石橋(丹生川)・・・作水坂・・・作水地区・第五の地蔵・・・西郷集会所・・・第六の地蔵・・・黒岩・高野の仇討説明板・・・殉難七士の墓・・・一里石・道標・・・御成婚記念道程標・・・旧白藤小学校・・・道標・・・地蔵・・・極楽橋・・不動坂・・いろは坂分岐・・・萬丈が嶽標柱・・・清不動堂・・・花折坂・・・女人堂・お竹地蔵・・・浪切不動尊・・・刈萱堂・・・一の橋・奥の院参道・・・中の橋・汗かき地蔵・姿見の井戸・覚鑁坂・・・御廟橋・・奥の院弘法大師御廟
【ル-ト地図】
学文路駅から第六の地蔵、一里石を通過し、高野街道の終着点、高野山女人堂まで登る。時折、風に舞う雪の中を弘法大師御廟の奥の院まで行き、遅ればせながら四国遍路の満願報告をした。明日は町石道を慈尊院まで下る予定だが、雪の降り具合が心配だ。
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石童丸物語玉屋宿跡(右に標柱)
父(刈萱道心)に会いに女人禁制の高野山へ上った石童丸を、母の千里はここに逗留して待ったという。石童丸の旧跡は大阪、長野の善光寺、博多などにもある。『善光寺街道④』・『唐津街道⑤』
学文路刈萱堂・西光寺 《地図》
石童丸ゆかりの品々が残る。「人魚のお堂」とは「人魚のミイラ」といわれる珍品のこと。母の千里が常に傍らにおいて信仰していたものという。ミイラ写真は『せんとくんと一緒』で。
悲しいかな3人一緒に過ごした時はなかったが。
分岐を左に上り繁野の集落に入る。
ゆめさきトンネルを右に見て上って行く。 《地図》
河根地区へ下りとなる。かなり下って千石橋から作水坂の急な上りとなる。
応永26年(1419)銘の狛犬とは鳥居脇のものではないようだ。
本尊は大日如来像。昨日歩いた三日市宿の月輪寺の本尊は阿弥陀如来像。
千石橋までの街道筋には旅籠、茶店が立ち並んでいたという。
弘法大師が村人に教えた冷泉の洞穴で、安産・子育て・諸病に効く霊泉だった。今は説明板の字もかすれ、遠い昔話になってしまったか。
「高野の仇討」の赤穂藩士の村上一行が泊まって密議をこらしたという。
千石橋は寛永11年(1634)に高野山の参詣者への便宜を図るため江戸幕府が架けた橋。その後、7年ごとに営繕費千石をもらい架け替えられたので、こう呼ばれるようになったそうだ。
高齢の参拝者の背中を土地の子どもたちが押して、駄賃をもらったというほどの急坂だ。
高野山へ登る途中の良寛は「さみつ坂といふところに里の童の青竹の杖をきりて売りゐたりければ」・「黄金もて いざ杖買わん さみつ坂」と詠んだ。子供を愛し、子供と遊んだ良寛の人柄が感じられる句だ。今も坂沿いに良寛の杖になった何代目かの竹が育っている。
これが最後の地蔵。かつては茶店があったのか。
「仇討」といえばやっぱり「赤穂藩」の登場だ。
熊野古道紀伊路の大阪府と和歌山県境にも「日本最後の仇討場」がある。そこでの仇討は文久3年(1863)だから、こちらが本当の「最後の仇討」か。『熊野古道 紀伊路④』に記載。
墓石は6基しかない。田川運六の弟で、仇討事件とは関係のない岩吉も深い傷を受けて死んだという。そして兄の墓に一緒に葬られたそうだ。
大正13年に昭和天皇の結婚記念に名古屋の人々が建立。「高野山女人堂壱里四町二十間 四四00メートル」と尺貫法とメートル法で表記されている。
かつて神谷地区は高野山目前の宿場として賑わっていたそうだ。
道標にもなっている。
上に架かっているのは樋か通路か?
この先で開けた所に出る。
地蔵が見守ってくれる。
高野山ケーブルカーをくぐる。
この道は大正4年に開かれた新道で、それまでの不動坂は48曲りの通称「いろは坂」の急坂だった。今の坂は傾斜の緩い「ダンダラ坂」とか。
ケーブルカーは楽だろう。海抜539mの極楽橋から867mの高野山まで5分で登ってしまうのだから。
右に折り返して上るのが「いろは坂」で、調査・復元中らしい。
「万丈転の刑」の刑場と関係があるのか?
もとは旧不動坂(いろは坂)にあった外不動を移転改築した。ここで新たに心を浄め高野山内に入るということだろう。
この前の坂が花折坂だが傾斜はゆるい。
ここを上れば高野山駅からのバス専用道へ出て女人堂はすぐだ。
*この先は『高野山山内マップ』で。
ここが高野街道の終着点。高野七口の一つ不動坂口で、ここから先は明治38年まで女人は入れなかった。七口にあった女人堂で残るのはここのみ。右はお竹地蔵
奥の院へ向かう。高野山は2度目だが奥の院まで行ったかどうかの記憶がない。
巡査も坊さんではなかろう。
苅萱道心が出家し、実の子である石道(童)丸とともに父子を名乗ることなく仏道修行に明けくれた所。
奥の院弘法大師御廟への入口。
渡った左に汗かき地蔵と姿見の井戸。その先の石段が覚鑁坂。
本来は霊水の「薬井」だそうだ。
「三年以内に死ぬ」というのは、各地にある「三年坂」と同じだ。
覚鑁の自所の覚鑁堂(密厳(堂)院のことか?)への坂で、この坂も転ぶと寿命は3年以内という「三年坂」だ。
ここで温かいお茶を頂いて一休み。
御廟橋から奥の院 【ル-ト地図】の11
ここから先は撮影禁止。
『東海道』→『京街道』(東海道57次)→『東高野街道』→『高野街道』と進み、『四国遍路』の満願報告をしたことになる。明日は、金剛峰寺→壇上伽藍→大門から町石道を慈尊院まで下る。
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