« 高野街道① | トップページ | 高野山町石道 »

2012年3月30日 (金)

高野街道②

2012年3月11日

学文路駅(南海高野線)・国道370号・・・道標・・・(南海高野線踏切)・・・石童丸物語玉屋宿跡・・・西光寺・学文路刈萱堂・・・道標・・・第三の地蔵・・・(ゆめさきトンネル)・・・大師の硯水?・・・丹生神社・日輪寺・・・河根地区・元本陣中屋旅館・・・二里石・千石橋(丹生川)・・・作水坂・・・作水地区・第五の地蔵・・・西郷集会所・・・第六の地蔵・・・黒岩・高野の仇討説明板・・・殉難七士の墓・・・一里石・道標・・・御成婚記念道程標・・・旧白藤小学校・・・道標・・・地蔵・・・極楽橋・・不動坂・・いろは坂分岐・・・萬丈が嶽標柱・・・清不動堂・・・花折坂・・・女人堂・お竹地蔵・・・浪切不動尊・・・刈萱堂・・・一の橋・奥の院参道・・・中の橋・汗かき地蔵・姿見の井戸・覚鑁坂・・・御廟橋・・奥の院弘法大師御廟

  【ル-ト地図】(17.0km)

 学文路駅から第六の地蔵、一里石を通過し、高野街道の終着点、高野山女人堂まで登る。時折、風に舞う雪の中を弘法大師御廟の奥の院まで行き、遅ればせながら四国遍路の満願報告をした。明日は町石道を慈尊院まで下る予定だが、雪の降り具合が心配だ。

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4010石童丸物語玉屋宿跡(右に標柱)

父(刈萱道心)に会いに女人禁制の高野山へ上った石童丸を、母の千里はここに逗留して待ったという。石童丸の旧跡は大阪、長野の善光寺、博多などにもある。『善光寺街道④』・『唐津街道⑤

Img_4013 路面に「高野街道道標」

Img_4015 学文路刈萱堂・西光寺 《地図

石童丸ゆかりの品々が残る。「人魚のお堂」とは「人魚のミイラ」といわれる珍品のこと。母の千里が常に傍らにおいて信仰していたものという。ミイラ写真は『せんとくんと一緒』で。

Img_4016 説明板

Img_4017 親子3人の像

悲しいかな3人一緒に過ごした時はなかったが。

Img_4022 紀ノ川の眺め。

Img_4024 右に集落に入る。

Img_4030 女人堂九十町標石

分岐を左に上り繁野の集落に入る。

Img_4032 展望が開ける。

Img_4033 第三の地蔵

Img_4036 ゆめさきトンネルを右に見て上って行く。 《地図

Img_4038 大師の硯水(右)?

Img_4041 河根地区へ下りとなる。かなり下って千石橋から作水坂の急な上りとなる。

Img_4048 第四の地蔵

Img_4049 説明板

Img_4051 昨日から工事か。いやな予感がしたが難なく通過できた。

Img_4054 丹生神社 《地図

応永26年(1419)銘の狛犬とは鳥居脇のものではないようだ。

Img_4052 説明板

Img_4053 日輪寺

本尊は大日如来像。昨日歩いた三日市宿の月輪寺の本尊は阿弥陀如来像。

Img_4056 河根地区の家並み

千石橋までの街道筋には旅籠、茶店が立ち並んでいたという。

Img_4058 塩竈説明板

弘法大師が村人に教えた冷泉の洞穴で、安産・子育て・諸病に効く霊泉だった。今は説明板の字もかすれ、遠い昔話になってしまったか。

Img_4059 本陣跡中屋旅館

「高野の仇討」の赤穂藩士の村上一行が泊まって密議をこらしたという。

Img_4060 説明板

Img_4064 二里石(千石橋の手前)

千石橋は寛永11年(1634)に高野山の参詣者への便宜を図るため江戸幕府が架けた橋。その後、7年ごとに営繕費千石をもらい架け替えられたので、こう呼ばれるようになったそうだ。

Img_4068 作水坂(さみずざか)を上る。 【ル-ト地図】の①

高齢の参拝者の背中を土地の子どもたちが押して、駄賃をもらったというほどの急坂だ。

高野山へ登る途中の良寛は「さみつ坂といふところに里の童の青竹の杖をきりて売りゐたりければ」・「黄金もて いざ杖買わん さみつ坂」と詠んだ。子供を愛し、子供と遊んだ良寛の人柄が感じられる句だ。今も坂沿いに良寛の杖になった何代目かの竹が育っている。

Img_4072 坂上方向

Img_4075 第五の地蔵(作水集落)

Img_4077 河根地区、向うは和泉山脈

Img_4082 第六の地蔵(桜茶屋集落)

これが最後の地蔵。かつては茶店があったのか。

Img_4086 ずっと舗装されている道で時々車も通る。

Img_4091 日本最後の「高野の仇討」説明板・黒岩

Img_4090 説明板

「仇討」といえばやっぱり「赤穂藩」の登場だ。

熊野古道紀伊路の大阪府と和歌山県境にも「日本最後の仇討場」がある。そこでの仇討は文久3年(1863)だから、こちらが本当の「最後の仇討」か。『熊野古道 紀伊路④』に記載。

Img_4094 殉難七士の墓(仇を討たれた者の墓所)

墓石は6基しかない。田川運六の弟で、仇討事件とは関係のない岩吉も深い傷を受けて死んだという。そして兄の墓に一緒に葬られたそうだ。

Img_4095 一里石・道標(神谷地区の入口)

Img_4096 左から2番目が一里石

Img_4100 御成婚記念道程標

大正13年に昭和天皇の結婚記念に名古屋の人々が建立。「高野山女人堂壱里四町二十間 四四00メートル」と尺貫法とメートル法で表記されている。

Img_4103 旧白藤小学校

Img_4106 高野山4200m里程標

かつて神谷地区は高野山目前の宿場として賑わっていたそうだ。

Img_4108 地蔵

道標にもなっている。

Img_4111 廃屋の間を抜けて行く。

上に架かっているのは樋か通路か?

この先で開けた所に出る。

Img_4115 下は南海高野線

Img_4118 極楽橋駅

Img_4119 極楽橋を渡る。

地蔵が見守ってくれる。

Img_4130高野山ケーブルカーをくぐる。

Img_4131 不動坂を上る。 【ル-ト地図】の②

この道は大正4年に開かれた新道で、それまでの不動坂は48曲りの通称「いろは坂」の急坂だった。今の坂は傾斜の緩い「ダンダラ坂」とか。

Img_4133 ケーブルカーは楽だろう。海抜539mの極楽橋から867mの高野山まで5分で登ってしまうのだから。

Img_4135 いろは坂分岐点

右に折り返して上るのが「いろは坂」で、調査・復元中らしい。

Img_4136 説明板

Img_4138 高野山2000m里程標

Img_4140 高野山1400m里程標

Img_4144 萬丈が嶽標柱

「万丈転の刑」の刑場と関係があるのか?

Img_4145 木々の間の向うに見えるのは稚児の滝か?

Img_4146 清(きよめ)不動堂

もとは旧不動坂(いろは坂)にあった外不動を移転改築した。ここで新たに心を浄め高野山内に入るということだろう。

Img_4147 地蔵・不動・大乗経典供養塔

この前の坂が花折坂だが傾斜はゆるい。

Img_4149 花折坂 【ル-ト地図】の③

ここを上れば高野山駅からのバス専用道へ出て女人堂はすぐだ。

 この先は『高野山山内マップ』で。

Img_4150 高野山女人堂 【ル-ト地図】の④

ここが高野街道の終着点。高野七口の一つ不動坂口で、ここから先は明治38年まで女人は入れなかった。七口にあった女人堂で残るのはここのみ。右はお竹地蔵

Img_4210 説明板

Img_4213 お竹地蔵由来

 奥の院へ向かう。高野山は2度目だが奥の院まで行ったかどうかの記憶がない。

Img_4205 高野山交番

巡査も坊さんではなかろう。

Img_4181 刈萱堂

苅萱道心が出家し、実の子である石道(童)丸とともに父子を名乗ることなく仏道修行に明けくれた所。

Img_4153 一の橋

奥の院弘法大師御廟への入口。

Img_4152 説明板

Img_4173 中の橋

渡った左に汗かき地蔵と姿見の井戸。その先の石段が覚鑁坂。

Img_4156汗かき地蔵・姿見の井戸

本来は霊水の「薬井」だそうだ。

Img_4155 説明板

「三年以内に死ぬ」というのは、各地にある「三年坂」と同じだ。

Img_4157 覚鑁坂(かくばんざか)

覚鑁の自所の覚鑁堂(密厳(堂)院のことか?)への坂で、この坂も転ぶと寿命は3年以内という「三年坂」だ。

Img_4169 奥之院頌徳殿(茶処)

ここで温かいお茶を頂いて一休み。

Img_4167 御廟橋から奥の院 【ル-ト地図】の⑤

ここから先は撮影禁止。

東海道』→『京街道』(東海道57次)→『東高野街道』→『高野街道』と進み、『四国遍路』の満願報告をしたことになる。明日は、金剛峰寺→壇上伽藍→大門から町石道を慈尊院まで下る。

|

« 高野街道① | トップページ | 高野山町石道 »

「旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/161343/54343400

この記事へのトラックバック一覧です: 高野街道②:

« 高野街道① | トップページ | 高野山町石道 »