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2012年4月25日 (水)

熊野古道(大辺路③ 紀伊日置駅→仏坂→周参見駅)

2012年4月9日

紀伊日置駅(JR紀勢本線)→口ヶ谷橋(日置川)・・・てんぐの里看板・・・大辺路仏坂入口案内板・・・安居の渡し場・・番号道標26・・仏坂・・・番号道標28・・・桂松(一里松)跡・・・仏坂茶屋跡・・・入谷不動尊・・・番号道標33・・・地主神社・・・入谷橋(太間川)・・・大師堂・・・松の本橋(太間川)・・・徳本名号碑・・・松の本踏切(紀勢本線)・・・堀切踏切・・・堀切文殊坊跡・・・堀切大師堂・・・周参見王子神社・・・遠見橋(周参見川)・・・周参見代官所跡・・・萬福寺・・・下地踏切(紀勢本線)・・・すさみ海水浴場・・・周参見駅(紀勢本線)

 紀伊日置駅から昨日の終着点の口ヶ谷橋までタクシーで行き、安居の渡し場から仏坂を越えて周参見駅まで歩く。日置川べりの大辺路仏坂入口案内板から安居の渡し場までが、台風12号の被害で荒れていたが、仏坂に入ると気分のいい古道歩きが楽しめた。

  *参考:『和歌山県街道マップ(熊野古道 大辺路 26)』・『みんなで歩こう 熊野古道 大辺路・小辺路』(わかやま絵本の会)

 写真をクリックすると拡大します。

Img_5865 口ヶ谷橋(日置川)を渡り、安居(あご)の渡し跡(南岸)を目指す。《地図

上流の安居の渡し場方向。

Img_5866 ここを左折する。

電柱下に「熊野古道 仏坂→」の傾いた木の標識が立っている。

Img_5869 「てんぐの里」の看板

天狗に助けられ、友だちになったという徳兵衛さんの昔話『てんぐさまの話』がある。

Img_5871 通行止め?

動物よけに常時張られたネットだろう。

Img_5873 ここから右へ日置川沿いを進み、安居の渡し場から仏坂へ上るのだが・・・。

Img_5874 説明板

安居の渡しは平成17年に復活している。(要予約・有料)

Img_5875 案内図

Img_5876 いざ出発と思いきや、これだ。

崩土のため通行止だと。

Img_5877 まあ行けるところまで行ってみっか。

Img_5880 柵が川方向に倒れかけている。

Img_5885 荒れている道を進む。

Img_5886 崩土の上を越えて行く。

Img_5887 倒木が道を塞ぐ。この先でどんどん川の方へ下ってしまったようだ。

Img_5888 道がない?

結局これは本来の道ではなかったのだが。

Img_5890 下は日置川でこれ以上先は進めない。

すぐ先が安居の渡し場なのだが。仕方なく道なき道を引き返し、じっくり周りを見ると上に道は続いていた。崩土・通行止を気にし過ぎたようだ。

Img_5896 安居の渡し跡(南岸) 《地図

対岸(北岸)に渡し舟が見える。前もって予約して、舟で渡った方が無難で楽だ。

昔は舟、舟の上に板を並べた船橋、あるいは徒歩(かち)渡りで渡ったそうだ。

Img_5893 説明板

Img_5897 仏坂に入る。

坂名の由来は、①険しい山道のため息絶える者が多く、死者=仏ということから。②生い茂った草が草鞋(わらじ)のひもに引っ掛かって「ほどける」が訛って「ほとけ(仏)」になったなど。

Img_5900 仏坂で舎利頭(しゃりこうべ)に出会おうとは、己の行く先を暗示しているのか。「南無・・・・」と供養して立ち去る。猪か鹿か、熊ではあるまい。

Img_5903 番号道標28地点

Img_5905 桂松(一里松)跡

和歌山から25里の一里塚とされる桂松があったという。ちなみに中辺路の25里の一里塚跡は上多和茶屋跡の手前にある。

Img_5907 説明板

Img_5908 茶屋跡

かつては安宅(あたぎ)牛の市場が開かれていたという。安宅はこのあたりの地名。熊野水軍の安宅氏もこの地で興ったそうだ。

Img_5910 説明板

Img_5913 右へ上って行くのだが、あるはずの道標がない。

Img_5917 番号道標30地点

なだらかな道となる。

Img_5921日置川河口、すさみ(周参見)町、太平洋方向

Img_5925 気持ちのいい林間コースだ。

Img_5933 急坂を下って行く。

Img_5937 すさみ(周参見)方向

Img_5938 入谷(沖見)不動尊

Img_5940 説明板

Img_5942 不動尊

Img_5944 この先で車道に出る。

Img_5945 入谷橋(太間川)を渡って行くのだが、右に地主神社に寄る。

Img_5947 地主(じのし)神社

社殿はなく森全体が神体。「空神(そらがみ)さん」と呼ぶ人もいるそうだ。

Img_5948 説明板

Img_5952 静かで穏やかな道を周参見駅に向かう。

Img_5959 左に上って大師堂に寄る。

石段上を左に曲がりさらに上る。もう上りはないと思っていたのでちょっとこたえた。

Img_5960 大師堂

入り口右手に空海の手を形どったといわれる石碑があるというが、気づかなかった。

Img_5961 帳の中の真ん丸顔の大師さんが、怪しげにこっちを見ている。

Img_5971 徳本名号碑

徳本上人は紀伊国日高郡出身で弘法大師とは違い実際に各地を歩いている。

Img_5976 松の本踏切(紀勢本線)を渡って進み、前方の堀切踏切を渡り返す。

Img_5978 堀切文殊坊跡

Img_5980 堀切大師堂

Img_5983周参見王子神社

大辺路で始めての王子神社。天文15年(1546)周参見領主の左衛門太夫藤原(周参見)氏安が那智大社から勧請したという。主神は天照大神。船絵馬を中心とした多くの「絵馬」が奉納されている。

Img_6009 絵馬「天の岩戸」

天照大神があまりの騒々しさに、岩から出てきた所。

Img_5984 遠見橋(周参見川)を渡ってすさみの町中に入る。

Img_5989 周参見代官所跡 《地図

Img_5990 説明板

Img_5995 萬福寺

禅宗臨済派、京都妙心寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来像。寛政4年(1792)に長沢芦雪が、串本の無量寺からの帰途に障壁画16本に画いたというが、現在は行方知れずだそうだ。

Img_5997国道に合流した所を今回の大辺路歩きの終点として、すさみ海水浴場で昼寝をして特急電車で紀伊田辺に戻った。

Img_5999すさみ海水浴場から『すさみ八景』の一つ、稲積島 《地図

赤い鳥居が立ち、漁師たちは「いなづみさん」を拝んでから漁に出るそうだ。鳥居は大辺路王子社の一つで「山王王子社または雷隅山(いなずみやま)王子社」さらに弁財天伝説もあり、「稲積弁天神社」とも呼ばれている神社のもの。

風もなく陽射しが強い。ベンチで寝ているとじりじりと焼けてきそうだった。

Img_6005周参見駅の水槽

ネコザメ・ニセゴイウツボ(後ろ)・イセエビ(左後方)。周参見は伊勢エビの漁獲高が日本一だとか。

Img_6015 「熊野古道ビール」と伊勢エビ?で乾杯し、今回の熊野古道歩きの〆とした。

なんと、この麦酒の製造元は、伊勢の『二見道』沿いの『二軒茶屋餅角屋』だった。

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2012年4月24日 (火)

熊野古道(大辺路② 朝来駅→富田坂→紀伊日置駅)

2012年4月8日

朝来駅(JR紀勢本線)・・・国道42号・みちびき地蔵・道標・・・不動坂・・子安地蔵堂・岩崎神社・・波切不動院・・・野田踏切(紀勢本線)・旧道・・・郵便橋踏切・国道42号・・・郵便橋交差点・・県道212号・・・紀の国食品・・・覚王寺・・・庚申堂・・・県道212号・・・血深の渡し跡あたり・・・地蔵・・・魚濫観音・大鰻生息地碑・・・富田橋(富田川)・・旧道・四辻地蔵・・伝馬所跡あたり・・・石経地蔵堂・・・飛鳥橋・・・飛鳥神社・・・草堂寺・・・富田坂上り口・・・一里松跡・・・要害山城跡(馬谷城跡)説明板・・・要害山城跡分岐・・・七曲り・・・富田坂茶屋跡・・・番号道標8・・・竜首展望所・・・安居辻松峠・・番号道標10・・・大辺路街道案内図・・・番号道標15・・・祝の滝分岐点・・・姶良火山灰層・・・番号道標17・・梵字塔・・・庚申塔・・・番号道標20・・・(崩落地点)・・・番号道標21・・・三ケ川バス停・・・三ケ川橋(三ケ川)・県道37号・・・(口ケ谷橋)・・・土井城跡標示板・・・紀伊日置駅(紀勢本線)→紀伊田辺駅

 【ル-ト地図】(草堂寺(富田坂上り口)まで)
 富田坂~三ケ川は『和歌山県街道マップ(熊野古道大辺路25)』

 去年の台風12号の被害は大辺路にも及び、安居辻松峠を下ってからの三ケ川沿いに、その爪痕を残していた。

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Img_5652 みちびき地蔵 《地図

Img_5653 みちびき地蔵は「右 しらはま 左 ほんぐう」で昭和45年頃の造立。

右の道標(明治31年)は、「熊野道 右 大辺路 左 中辺路」で、国道のバイパス工事でここに移設された。

Img_5658 不動坂を下る。【ル-ト地図】の①

浪切不動による坂名だろう。

Img_5663 宝篋印塔(宝暦12年(1762)造立)

子安地蔵堂境内

Img_5662 説明板

Img_5666 波切不動院 《地図

不動像は拝めず。

Img_5673 野田踏切を渡り、郵便橋踏切を渡り返し、国道42号を進む。

Img_5675 郵便橋(前方)

明治4年に郵便制度が始まった頃は、富田川の渡しのうち、ここだけは郵便物を乗せるために県営だった。その後、板橋が架けられ「郵便小橋」と通称され、やがて「郵便橋」が正式名となった。現在の橋は昭和33年度完成の5代目で、「郵便橋」という名前の橋は日本唯一だそうだ。

Img_5679 郵便橋交差点から富田川沿いの県道を進み、前方の紀の国食品の手前を右折する。

Img_5685 庚申塔の祠へ寄る。

Img_5686 庚申塔

この先で県道に出る。

Img_5694 血深の渡しあたり 【ル-ト地図】の②

昔は徒歩(かち)渡りや舟を並べての舟橋で渡ったという。

Img_5696_2 地蔵などの石仏が並ぶ。

Img_5699 魚濫観音・大鰻生息地碑 【ル-ト地図】の③

Img_5705 大鰻生息地から富田橋方向

大ウナギは普通のウナギと種類が違い、目方は10~20㎏に達するが、体長は割合に短く胴まわりが太く、腹に斑点が多いのが特徴だそうだ。写真は『和歌山県情報館』で。

富田坂を渡った所で、富田川西岸を進む大辺路と合流する。

Img_5713 富田坂説明板①(富田橋を渡った所)

Img_5714 四辻地蔵祠(右) 【ル-ト地図】の④

もとは四つ辻にあってここに移されたものだろう。左折した富田郵便局あたりが(十九淵の)伝馬所跡で、馬が31頭もいたという記録があるそうだ。

Img_5717 地蔵

Img_5718 富田坂に向かう。

ガードレールに「大辺路・富田坂 あと1.2km」の標示板。

Img_5720 石経地蔵堂か

Img_5725 飛鳥橋を渡って草堂寺へ

Img_5727 富田坂説明板②

Img_5729 指差し道標

「くまのみち」

Img_5731 草堂寺

もとは真言宗の円光寺といい、慶安元年(1648)に再興された際、臨済宗に改宗し、寺号も草堂寺と改められた。18世紀末、京都の絵師円山応挙の高弟、「奇想の絵師」長沢芦雪は大辺路富田坂の上り口にあたるこの寺に招かれ、襖絵や屏風絵(県指定重要文化財)を数多く描いた。芦雪は生来、奔放な性格で応挙からは破門され、その死も謎とされている。

無量寺の襖絵の『龍虎図』(国重文)

Img_5736 富田坂上り口 【ル-ト地図】の⑤

Img_5737 安居辻松峠~安居(あご)の渡し場跡の区間は通行止めだと。

①安居辻松峠からここへ引き返すか。②7、8時間もかかるという塩津山林道を迂回するか。③行ける所まで行くか。まあ、安居辻松峠で考えよう。

Img_5738 富田坂の上りとなる。世界遺産の坂なのだ。

Img_5742 一里松跡

Img_5743 説明板

左上に「世界遺産」の標示

Img_5741 説明板の4基の石碑

Img_5745 要害山城跡(馬谷城跡)説明板

この先に城跡への分岐点がある。

Img_5749 気分のいい道だ。

Img_5752 七曲りの難所となるがさほどの急坂でもない。

Img_5753 木の根道を行く。

Img_5754 白浜方向

Img_5758 番号道標6

(救)は救護の目印ということか、あまり気分のいいものではない。

Img_5767 白浜方向

Img_5770 茶屋跡

Img_5771 説明板

Img_5778 安居辻松(あごつじまつ)峠に着く。

Img_5780 説明板

Img_5779 今は峠には小さな地蔵さんがぽつんと立っているのみ。

Img_5783 通行止め標識(椿駅方向)

Img_5784 迂回路標識(塩津山林道)

Img_5788 大辺路案内板

ここを左に行くのが塩津山林道の迂回路なのだろうが、本来の道を進む。

Img_5792 下りとなってずんずんと進む。いつ行き止まりになるか心配だけども。

Img_5796 天気はいいし、暑くも寒くもない絶好のハイキング日和だ。

Img_5801 祝(しゅく)の滝分岐

この扉は常時設置されているもの。横を通り抜ける。この先はほとんど平坦地を行くことになる。

祝の滝へは1kmくらいで、時間的には余裕があるのだが、気分的な余裕がない。情けなし。「祝」は領主の娘の名前で、「蟹(かに)の恩返し」のような昔話『祝の滝』がある。

Img_5805 姶良(あいら)火山灰層

2万2000年前の九州の霧島火山帯の桜島の大爆発で、九州全土に火山灰が降り積もりシラス台地を形成した。噴き上げられた大量の火山灰は約500kmも離れた紀伊半島にまで偏西風に乗って運ばれ降り積もったそうだ。

Img_5809 梵字塔

もとは尾根上にあったとも、安居の旧家にあったものともいう。

Img_5810 説明板

Img_5811 崩れている三ケ川沿いの道

この川は水量が少なく、雨が降った日だけ水が流れることから「三ケ(日)川」と呼ばれるようになったそうだ。

Img_5812 台風12号被害の標柱

Img_5814 道端が一部崩落か

Img_5821 庚申塔

台風で荒らされているがなんとか立っている。

Img_5832 道を崩土が塞ぐ。

Img_5833 橋は完全に崩れている。

Img_5834 大雨で左からの沢が土石を流し、橋を崩したのだろう。もとからこんな所と思えばなんてことはない。

Img_5838 もうここは三ケ川の集落間近くだ。

Img_5839 復旧工事の標識

「平成24年3月31日」は過ぎているが、手つかずといった感じだ。本格的な復旧工事が始まれば完全に通行止めにされてしまうか。そうなれば塩津川林道を行くしかないかも。

Img_5840 無事三ケ川バス停に着いた。やれやれだ。

Img_5841 ここにも標識

Img_5842 紀伊日置駅行きは15時01分。まだ1時間半もある。駅まで日置川沿いの県道を歩く。

日置川北岸の安居の渡し場から渡し舟で南岸へ渡る方法もある。それが本来の大辺路の道筋だ。ただし、渡し舟は要予約・有料。

Img_5846 日置川

明日は正面の口ケ谷橋を渡って、安居の渡し場(南岸)から仏坂を越えるのだが、どうなることやら。

Img_5847 案内標示

安居の渡しを渡らない本来の迂回ルートで、台風12号の被害による迂回ではない。

Img_5852 車の通行は少ない

Img_5853 土井城跡

熊野水軍領主安宅(あたぎ)氏の山城跡で、安宅氏の内訌の舞台となった所というがよく分からず。

Img_5862 紀伊日置駅から紀伊田辺駅に戻る。

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2012年4月23日 (月)

熊野古道(大辺路① 北新町の道標→朝来駅)

2012年4月5日

北新町の道標・・・蟻通神社・・・若宮神社・・・闘鶏神社・・・つぶり(礫)坂・・・橋谷川・・・(紀伊新庄駅)・・・南海地震津波水位碑・・・大潟神社・・・(国道42号)・・新庄坂・・道分地蔵・・新庄峠・・・峠交差点・国道42号・・・弘法井戸・・延命地蔵堂(大師堂?)・・・糠塚・・・新川橋(新川)・・・旧道・・跨線橋(JR紀勢本線)・・・櫟原神社・・・朝来駅(紀勢本線)

  【ル-ト地図】(7.0km)

 中辺路の滝尻王子から引き返し大辺路を少し歩く。大辺路は田辺から海岸沿いに那智・新宮へ通ずる道で、富田坂・仏坂・長井坂などの峠を越えて行く厳しい道でもある。旧道は消失した部分もあり、ルートも様々で里道、川沿いの道、海路と代替・派生ルートも多い。

  参考:『みんなで歩こう 熊野古道 大辺路・小辺路』(わかやま絵本の会)
        『和歌山県街道マップ 大辺路』(大辺路の一部)
        『上富田町文化財教室シリーズ

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5081 若宮神社

意外と小さな社だった。境内を駐車場にしてしまったのか?

北新町の道標は『中辺路①』に、蟻通神社・闘鶏神社は『紀伊路⑩』に記載。

Img_5077 つぶり(礫)坂を上って下る。【ル-ト地図】の②

昔は小石(礫)の敷いてある坂だったのか?

Img_5064 南海地震(昭和21年)津波水位柱

文里港から津波が遡って押し寄せたのか。

Img_5059 昔は馬道といった緩やかな坂を上る。

Img_5058 大潟神社 《地図

ぎおんさん夜見世』で有名。

田辺バイパス(国道42号)をくぐり、新庄坂を上る

Img_5050 新庄坂 《地図

Img_5052 道分地蔵 【ル-ト地図】の③

地蔵(右?)は道標を兼ねていて、「右ハ大ベチ道 左ハ熊野路」と刻むそうだ。

この先、新庄峠の高地蔵を探したが分からず、随分あちこちとうろついた。畑作業をしている人に聞いてもあいまいな返事で、結局はあきらめた。

Img_5039 廃道のような道を下って行く。

この途中の左上に高地蔵があるはずだが見当たらず。

Img_5037 枯れ枝の間をくぐって進む。

舗装道路に下り、峠交差点に出る。

Img_5036 峠交差点(国道42号) 《地図

Img_5032 弘法井戸

民家の敷地内。

Img_5033 延命地蔵堂(大師堂かも?)

弘法井戸の向いあたり。

Img_5030 糠塚 【ル-ト地図】の④

①ここで熊野に向かってぬかづいたとも、②このあたりがぬかるんでいたからともいう。この付近には朝来大沼が広がり、降雨で沼水が道を浸すと通行不能になったというから、②が妥当か。

Img_5029 糠塚の上

厳島神社の小祠(正面)と、左は「市守長者塔」で市場の守(管理)をしていた長者のことだろう。

Img_5022_2 跨線橋で紀勢本線を越える。《地図

Img_5019富田川の東岸(左折)と西岸(直進)を行く大辺路の分岐点 《地図

西岸沿いのコースを取るが、櫟原神社に寄って今日はここまでとする。『富田川両岸を通る大辺路』(上富田町文化財教室シリーズ)

Img_5012 櫟原(いちはら)神社 【ル-ト地図】の⑤

Img_5016 霊樟(くすのき)

Img_5013 由来

Img_5010 朝来(あっそ)駅

 

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2012年4月21日 (土)

熊野古道(中辺路④ 熊瀬王子→熊野本宮大社)

2012年4月7日

紀伊田辺駅(JR紀勢本線)→小広峠バス停・・・番号道標41・・熊瀬川王子跡・・・一里塚跡・熊瀬坂・・・草鞋峠・・・女坂・・・番号道標43・・・通行禁止・迂回路・・・(岩神峠)・・・蛇形地蔵・・・迂回路終了地点・・・番号道標51・・・湯川王子跡・・・番号道標53・三越峠(約500m)・関所跡・・・音無川・番号道標58・・・赤木越え分岐・・・船玉神社・・・猪鼻王子跡・・・たっくん坂・・番号道標61・・・発心門王子跡・南無房宅跡・・・歯痛の地蔵・・・番号道標65・水呑王子跡・三里小学校三越分校跡・・・菊水井戸・・・一里坂・・・伏拝王子跡・和泉式部供養塔・・・番号道標71・・三軒茶屋跡・小辺路分岐点・九鬼ケ口関所跡・・・番号道標73・・・展望台・・・番号道標75・祓殿王子跡・・袖切坂・・熊野本宮大社・・・大斎原・・・熊野本宮バス停→紀伊田辺駅

 草鞋峠から女坂を下った所からは台風12号の被害で迂回路となる。北風に雪が舞う斜面を上って、古道の雰囲気の残る林間コースに入って下り、蛇形地蔵の先で本来の古道と合流し湯川王子跡へ。最後の三越峠を越えれば後は起伏はあるものの、本宮大社へは緩やかな道となる。
 ほとんど歩いている人には出会わなかった中辺路から本宮大社の大勢の参拝客の間に入ると違和感を覚え、無事に中辺路を歩き終えた感慨には浸れなかった。遅い昼飯の後、バスで紀伊田辺駅に戻った。明日は大辺路の続きだ。

 *参考:『和歌山県街道マップ(熊野古道 中辺路 18)』

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Img_5396 熊瀬川王子へ薄暗い道を上る。

Img_5398 熊瀬川王子跡

小広王子からは1kmもなく、同一の社とする説もある。

Img_5399 説明板

Img_5400 熊瀬坂を草鞋(わらじ)峠へ上る。

右に一里塚跡碑(和歌山から28里) 以前は一里塚の松の株が残っていたという。

Img_5403 草鞋峠は近い

この付近は蛭(ひる)が多く、蛭降峠といわれていて、手足を蛭が這い、頭の上からも降ってきたという。今はいないようだか、気持ちのいいものではなく、何となくムズムズした。

Img_5404 草鞋峠(592m)

Img_5405 説明板

Img_5406 女坂(めざか)の下りとなる。

女坂といってもつづら折れの急坂だ。坂と坂で夫婦坂と呼び、その間を取り持つのが仲人茶屋と、うまくできている。

Img_5408 番号道標43

林道に下って仲人茶屋跡から岩神王子への男坂の上りとなるのだが・・・・。           

Img_5411 台風12号の被害で通行禁止

仲人茶屋跡・男坂・岩神王子・岩神坂・おぎん地蔵一里塚跡(29里)は、パスすることになる。(番号道標44~50の間)

Img_5412 迂回路を行くことになる。

距離的には少し長くなるだけか。だが671m近くまで上ることになる。

Img_5414 迂回路も標識完備で安心だ。

Img_5415 沢を渡って新しい木の階段を上って行く。

Img_5420 北側斜面は風が強く寒い。

Img_5423 雪が舞って吹きつけてくる。

Img_5425 ちゃんと道は続いている。

Img_5428 古道の雰囲気があるがここも迂回路だ。

Img_5431 ここも古くからある道のようだ。

Img_5437 蛇形地蔵

ぜんそくに霊験あらたかとか。

Img_5440 説明板

幸い「ダル」という妖怪には取り憑かれなかったが、野球の「ダル」は大リーグで妖怪になれるだろうか?

Img_5438 蛇の鱗形が浮かぶの地蔵の後背。

Img_5441 迂回路の終点は近い。

Img_5443 ここが迂回路の終点だ。

Img_5445 番号道標51

前方に湯川一族の墓の標識。墓は沢を渡った所にあるのか?

Img_5447 湯川王子跡

近野神社に合祀。左に「湯川一族発祥の地碑」

Img_5449 説明板

Img_5452 三越(みこし)峠への上りだ。

Img_5459 峠は近い

Img_5461 三越峠関所跡(約500m)

Img_5473 音無川への長い下りとなる。

Img_5478 茶屋跡か?

Img_5480 荒れた感じの所を抜けて行く。

Img_5490 右へ下る。

Img_5491 歩きにくい石畳だ。

Img_5497 音無川沿いを行く。

Img_5500 三越峠へと向かう遍路姿とすれ違う。

Img_5504 赤木越え分岐(湯の峰温泉方向)はここを右折。

猪鼻王子、発心門王子は直進。湯の峰温泉は小栗判官を蘇生させた地とされている。

Img_5509 船玉神社 《地図

鎮座地を玉滝山といい、小さな玉滝・音無の滝があったという。滝は明治22年の大水害で埋まってしまったそうだ。並んでいる玉姫稲荷(写真右)は、船玉神と夫婦神という。

Img_5512 右へ猪鼻王子へ下る。

Img_5513 猪鼻王子跡

藤原定家は「今日の道は深山で樹木が多く、苔が枝に懸って藤枝のようだ。遠くから見ると春の柳に似ている」と書く。

Img_5515 説明板

Img_5518 右へ上り返して行く。

Img_5521 たっくん坂を上れば発心門王子だ。

坂名の由来は? 左に番号道標61

Img_5523 発心門が見えた。

Img_5527発心門王子跡 《地図

Img_5528 説明板

Img_5525 南無房宅跡

藤原定家が泊まった尼僧の庵跡。定家は柱に一首書きつけたが、後で聞くと庵主は落書きを厳禁していたということだった。

Img_5524 説明板

Img_5531 水呑王子跡へ

Img_5536 びっくりポイント

鳥獣よけの「ししおどし」のからくり人形で、後ろの水槽に水が溜まると、旗が上がりカラスも上を向いて歓迎してくれる(驚かしてか)のだが、今日はお休みのようだ。

Img_5539 ここにもおじさん人形が日向ぼっこだ。

Img_5546 車は通らない舗装道を行く。

Img_5548 「歯痛の地蔵さん」だが、割れている。

Img_5556 水呑王子跡

Img_5553 説明板

Img_5558 三里小学校三越分校跡

王子跡の分校も跡になってしまった。寂しいかぎりだ。

Img_5564 快適な林間コースを行く。

Img_5565 地蔵

「道休(禅定門)」と刻む。昨日の小判地蔵と同じく愛洲氏が建てたものだろう。

Img_5576 菊水井戸

Img_5584 三里富士(百前森山・782m)・果無山脈(後方)

NHKTV朝の連続ドラマ『ほんまもん』の撮影ポイントだそうだ。

Img_5586 説明板

Img_5587 一里坂を上って伏拝王子へ

ここから本宮大社までほぼ1里であることによる坂名という。一里塚があったのではないようだ。

Img_5595 伏拝王子跡 《地図

和泉式部供養塔(右)・笠塔婆(左)

Img_5596 説明板

Img_5589 大斎原(おおゆのはら・本宮大社の旧社地)方向

Img_5591 和泉式部歌碑

熊野詣の途中で、月のさわりに見舞われた和泉式部が嘆いて詠んだ歌。その夜、式部の夢に熊野権現が現われて、「もろともに 塵にまじはる 神なれば 月のさはりも なにかくるしき」と返歌して、参拝を許されたという伝承。阿弥陀如来による救済は男・女、浄・不浄、貴・賤、阿弥陀への信・不信を問わないとする時宗の無差別の思想によるもので、和泉式部を引合いに出して、時宗の教えを宣伝したともの考えられている。和泉式部の熊野詣は確認できていないようだ。

Img_5603 三軒茶屋跡へ出る。

Img_5607 小辺路分岐点・九鬼ケ口関所跡

いずれ高野山からの小辺路(左折)も歩くことになるか?

Img_5605 道標

「右 かうや 十九里半 左きみい寺三十一里半」で、高野山は遥かなりか。

Img_5611 展望台へ寄る。

Img_5617 大斎原の大鳥居が見える。

明治22年8月の水害時まで熊野本宮大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原」と呼ばれる中洲にあった。

Img_5623 本宮町の街に下って熊野本宮大社へ

Img_5624 袖切坂を下る。

ここで転ぶと片袖をちぎって置いてこなけばならなかったという。本宮大社のゴール間近であせらないようにとの戒めの坂名。「ここで転ぶと3年以内に死ぬ」という三年坂と同じ発想だ。

Img_5627 祓殿(祓戸)王子跡

本宮大社直前の王子。

Img_5626 説明板

Img_5628 熊野本宮裏鳥居

Img_5629 八咫烏(やたがらす)ポスト

黄泉の国に配達されてしまうかも。

Img_5640 熊野本宮大社

「根の国、隠国(こもりく)、黄泉の国」熊野とは全く違う、まさに現世そのもので落胆、この明るさにはついて行けない。やっぱり熊野古道を歩いているうちが熊野を感じる時だ。

Img_5645 表参道

Img_5648 大斎原 《地図

旧本宮大社地

Img_5649 説明板

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2012年4月18日 (水)

熊野古道(中辺路③ 滝尻王子→小広王子)

2012年4月6日

紀伊田辺駅→滝尻バス停・・・滝尻王子・・・胎内くぐり・・・乳岩・・・不寝王子跡・・・番号道標1・・・剣ノ山経塚跡・・・飯盛山展望台(340m)・・・針地蔵・・・夫婦地蔵・・・高原熊野神社・・霧の里休憩所・・旧旅籠通り・・・番号道標8・・庚申さま・・・一里塚跡碑(24里)・・・高原池・・・番号道標11・・大門王子・・・番号道標13・・・十丈休憩所(十丈峠)・・十丈王子跡・・・小判地蔵・・・番号道標15・・悪四郎屋敷跡・・・一里塚跡碑(25里)・・・上多和茶屋跡(約600m)・・・三体月伝説地・番号道標20・・・逢坂峠・・・塩尻の谷・・大坂本王子跡・・・大坂(逢坂)・・・一里塚跡碑(26里)・・・箸折峠・牛馬童子像・・・番号道標25・・・北野橋(日置川)・水垢離場跡・・近露王子跡・・伝馬所跡・・・茶屋坂・・・近野小学校・・・近野神社・・・一里石バス停・・・楠山坂・・・番号道標29・・・日待供養塔・・・比曽原王子跡・・・一里塚跡碑(27里)・・・野中伝馬所跡・・継桜王子跡・野中の一方杉・とがの木茶屋・・野中の清水・・秀衡桜(継桜)跡・番号道標34・・・安倍晴明の腰掛石・・・(高尾隧道跡)・・・中川王子跡・・・小広峠・小広王子跡・・番号道標40・・・小広峠バス停→紀伊田辺駅

 滝尻王子から険しい山道に入る。番号道標・王子跡・一里塚跡碑をたどりながら、いくつかの峠を越えて小広王子跡の先の小広峠バス停まで進んだ。気温は低めで北側の斜面に出ると風が冷たかったが、歩くのには快適な天気だった。明日は熊野本宮までもう一頑張りだ。

  参考:『和歌山県街道マップ(熊野古道 中辺路 17・18)』
        『熊野古道なかへち

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5088 滝尻王子からすぐに急な上りとなる。

Img_5092 胎内くぐり

かなり狭い。いくら安産のためとはいえ、スリムな女性でもくぐるのは容易でなかろう。

Img_5091 説明板

Img_5099 乳岩

熊野の説話』、藤原秀衡夫婦が熊野詣の足手まといとなるので、ここにわが子(後の忠衡)を捨てたということよ。それでも忠衡は父の遺言を忠実に守り、源義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張した。親も親なら子も子か。秀衡が熊野を訪れたことは確認できていないというから、たんなる伝承に過ぎないが。

Img_5095 説明板

Img_5101 不寝王子跡

滝尻王子に合祀。左は紀州藩が享保8年(1723)に建てた緑泥片岩の王子碑。

Img_5102 説明板

Img_5104 番号道標1

熊野本宮までの間に500mごとに1~75の道標が立つ。今日は40の先まで行くことになるから20km以上はある。

Img_5107 木の根道に足をとられて進む。

Img_5110 急な石段もある、なかなか険しい上りだ。

Img_5115 剣ノ山経塚跡

Img_5116 説明板

Img_5117 平坦な道でほっと一息。

Img_5124 飯盛山(めしもりやま)展望台(340m)から 《地図

Img_5130 石畳の道を行く。

Img_5131 親切な標示板

間違いやすい所立っているから間違えようがないのだが、それでも間違えそうになる所もある。

Img_5132 この先で舗装道路を横切る。

Img_5140 針地蔵尊

Img_5141 「歯」の守り神で、歯が痛むとお願いし、痛みが直ったら針を3本立てて、鳥居を作って奉納したそうだ。3体とも針地蔵か?

Img_5142 厳しい道が続く。

Img_5149 夫婦地蔵

仲良くの前垂れだが、少し離れ気味なのが気になる。倦怠期か?

Img_5150 平坦な所へ出ると民家が並んでいる。

Img_5152 中央に国道311号が見える。

Img_5161 高原熊野神社 《地図

春日造の本殿は室町時代前期の様式。

Img_5160 説明板

Img_5170 霧の里休憩所・展望所

Img_5167 正面が焼尾山(450m)・その後方に頭部が少し見えるのが持平山(912m)、右端後方が笠塔山(1049m)

Img_5169 三尾山(484m)、左端が西畑山(441m)、中央後方奥が虎ケ峰(789m)

Img_5172 旧旅籠通り

「近露王子まで3時間30分」と標示してある。

Img_5178 ここから山道になる。少し先に庚申塔と大日如来の祠がある。

Img_5180 庚申塔と大日如来

Img_5181 「近露王子まで約4時間」とある。さっきは3時間30分だったのに、10分歩いて時間が長くなるとはこれ如何に?

Img_5185 一里塚跡(和歌山から24里)

Img_5189 高原池

Img_5192 大門王子跡

この付近に熊野本宮の大鳥居があったらしい。樹齢200年の老松は昭和51年に松喰虫にやられ枯れてしまった。

Img_5193 説明板

Img_5194 紀州藩の建てた緑泥片岩の王子碑と、左は鎌倉時代後期のものとされる石造笠塔婆で、町石の役目をしていたものか。

Img_5197 熊野の山並み

Img_5199 杉林の間を行く。

Img_5201 十丈休憩所

十丈峠には茶屋など数軒の民家があったそうだ。

Img_5204 十丈王子跡

春日神社に合祀。

Img_5203 説明板

Img_5210 小判地蔵

小判は抜き取られ口は開いたままか。地蔵には「道休禅定門 生国豊後有馬郡 献主愛州」と刻まれている。

Img_5209 説明板。

「道休禅定門」は戒名ではあるまい。水呑王子跡の先にも「道休禅定門」と刻んだ地蔵がある。

Img_5212 悪四郎屋敷跡あたり(番号道標15地点)

怪力悪四郎の逸話:「四郎は力持ちで、土地の人は「悪四郎」と呼んでいた。ある時、太い松の枝に腰をかけていると熊野詣の一行がやって来て、同じ松の枝に腰かけた。そこで四郎は、「自分はもう出かけるから、お前さんらも腰を上げよ。そうでなければこの枝で跳ね飛ばされてしまうぞ」と言ったが知らん顔をしているので、四郎は仕方なく立ち上がると、みんな松の枝で跳ね飛ばされてしまったとさ」 四郎は怪力というより目方が重かっただけのことか?

Img_5214 説明板

Img_5217 一里塚跡(和歌山から25里)

Img_5221 上多和茶屋跡

ここは標高約600m

Img_5222 説明板

Img_5228 緩やかな下り道

Img_5229 三体月伝説地

ここを上れば三体月鑑賞地だが、むろん今は月日も時間も合わない。

Img_5230 説明板

Img_5235 逢坂峠茶屋跡歌碑

先代が茶店を営んだ杉中花仙の歌。1983年の花仙の十周忌に立てられたもの。

Img_5239 木橋を渡る。

Img_5241 大坂本王子跡

近野神社に合祀され王子碑・笠塔婆が立つのみ。正面の小祠のようなのは王子参拝の記念スタンプが置いてあるようだ。

Img_5242 説明板

Img_5245 大坂(逢坂)を下り、沢を渡って流れに沿って進む。

逢坂峠は近露側から上るには急で大坂と呼ばれる。坂の途中には、女人が蛇に姿を変えた大樹があったと伝える。『中右記』

Img_5254道の駅中辺路」を右下に見ながら進む。《地図

Img_5258 一里塚跡(和歌山から26里)

Img_5262 牛馬童子・役行者(右)、奥に地蔵・不動像その後ろに宝篋印塔(鎌倉時代)

なぜか明治時代に作られた花山法皇の雄姿という牛馬童子が有名になった。カヤの枝をってにしたので「箸折峠」、箸から赤い露がしたたったので、これは「か」で「近露とか。愉快に笑えて疲れも忘れる。隣の役行者も童子に合わせてか、可愛い顔をしている。

Img_5260 説明板

Img_5265 近露の集落が見えてきた。この先は歩きにくい石畳道となる。

Img_5274 北野橋(日置川)

水垢離をして、近露王子に入った。

Img_5277 近露王子跡 《地図

近野神社に合祀。

Img_5282 説明板

Img_5280 近露王子碑

大本教教祖の一人、出口王仁三郎の筆跡。暗い時代の事の顛末は説明板で。

Img_5279 説明板

Img_5286 近露伝馬所跡

このあたりは道中と呼ばれ、多くの旅籠が軒を連ねていた。今でも旅館が数軒あり、熊野古道歩きの拠点となっている。

Img_5287 説明板

近露王子から小広王子までの熊野古道は一部を除いて生活道を兼ねている。大半は舗装され車1~2台は通れる道で、世界遺産からはずれている。

Img_5288 茶屋坂(正面)を上って行く。

左折して石段を上ると野長瀬一族の墓がある。北朝方に追われ、高野に逃れる途中の大塔宮護良親王を援けるべく、野長瀬六郎、七郎兄弟が駆け付けたという。

Img_5299 近野小学校 《地図

見事なオール芝の校庭。『街道てくてく旅 熊野古道』では森上亜希子さんが生徒たちとテニスを楽しんでいた。

Img_5300 近野神社

明治時代に近郷の王子社や神社が合祀された。その際に多くの社叢が伐採され、その売上げを役人がガッポリと懐(ふところ)に入れたという。そのための合祀よ。古今東西、「お主も悪よのう」は絶えることなし。

Img_5301 一里石バス停

このあたりは一里石という地名だ。前後の一里塚跡(26里・27里)からはかなり離れているが。

Img_5305 楠山坂の上りとなる。

Img_5308 舗装道路に出てさらに上る。

Img_5311 日待供養塔などが並ぶ比曽原の集落に出る。

Img_5313 小高い比曽原地区を抜ける。

Img_5318 比曽原王子跡

Img_5320 説明板

Img_5321 王子碑

かつては「手枕松」という名木があったという。今は近野神社に合祀され王子碑のみが寂しく立っている。

Img_5324 一里塚跡(和歌山から27里)

直進した左に碑が立つ。

Img_5329 野中伝馬所跡

Img_5330 説明板

Img_5331 継桜王子・野中の一方杉 《地図

境内の9本の杉の大木の枝は南向き(熊野権現方向)に伸びている。近野神社に合祀される際に、南方熊楠らの保存運動で残された。

Img_5332 説明板

Img_5333 王子社

近野神社合祀後も社殿は残り、その後神体も戻された。

Img_5334 野中の一方杉(参道の石段から)

確かに枝は南向きだ。

Img_5336 巨杉の根元の空洞

1泊できる十分な広さがある。

Img_5337 とがの木茶屋

名物の「茶がゆ」を食べたかったねえ。一人では無理か。

Img_5339 野中の清水

名水百選」の一つ。「茶がゆ」の代わりにこの水を飲んで、「若者はまた歩き始める」??

Img_5340 説明板

Img_5341服部嵐雪句碑

「すみかねて 道まで出るか 山しみづ」

Img_5352 秀衡桜(継桜)跡

明治中期に植えられた何代目かの継桜も切り倒されてしまった。ここも松喰虫の被害か? 


Img_5350 説明板

藤原秀衡(文治3年(1187)没)の刺した杖が桜になったというが、天仁2年(1109)に藤原宗忠が見ているのだから年代が合わない。秀衡が生まれた頃(保安3年(1122)生れとも)には継桜はすでにあったということ。まあ秀衡が熊野に来たというのも伝承臭いから、あまり詮索しない方がよろしかろう。

Img_5351 往時の秀衡桜

Img_5354 似たような桜が咲いているのが救いだ。

Img_5355 「はい、ありがとう」

Img_5358 安倍晴明の腰かけ石

Img_5357 説明板

Img_5360 高尾トンネル跡

Img_5362 中川王子跡

左にかなり上り返した所に王子碑が立つのみ。近野神社に合祀。

Img_5363 説明板

Img_5364 紀州藩の建てた王子碑がぽつんと。

Img_5369 新高尾トンネル 《地図

ここもくぐらないが。

Img_5373 小広トンネルが見える。

トンネルを抜けた先が今日の終点の小広峠バス停だ。

Img_5375 熊野古道なかへち休養村(右)

営業していないようだが。

Img_5379 小広王子跡

上部の欠けた王子碑のみ。ここも近野神社に合祀。

Img_5380 説明板

Img_5382 番号道標40地点

滝尻王子から20km歩いたことになる。

Img_5384 ここを右に下って行く。

Img_5385 舗装された林道に出て、右に下り小広峠バス停に下る。

熊瀬川王子は林道を横切り山道へ入って行く。

Img_5387 周辺図

明日は「現在地」から熊瀬川王子を目指す。

Img_5389 小広峠バス停 《地図

40分の待ち時間だ、北風が強く日がかげると寒かった。

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2012年4月15日 (日)

熊野古道(中辺路② 稲葉根王子→滝尻王子)

2012年4月5日

紀伊田辺駅(JR紀勢本線)→稲葉根王子バス停・・・国道311号・・・根皆田橋(根皆田川)・・・新市ノ瀬橋(富田川)・・・清水橋(清水谷川)・・・一ノ瀬王子跡・・・庚申塔道標・・・加茂橋(富田川)・・・国道311号・・旧道・・・花折地蔵・・・国道311号・鮎川王子跡・・・鮎川新橋(富田川)・・・大宮橋(内ノ井川)・・・住吉神社・・・御所平・お薬師さん・・・(のごし橋)・藤原定家歌碑・・・道祖神と庚申塚・・・念仏淵・・・(蕨尾橋)・・・大鰻指定地域境界標・・・日待供養塔・庚申塔・・・北郡橋(富田川)・・・清姫橋(西谷川)・・清姫の墓・清姫堂・・清姫茶屋・・・真砂清姫会館・・・国道311号・・・滝尻橋(富田川)・・滝尻王子・熊野古道館・・滝尻バス停→紀伊田辺駅

  参考:『和歌山県街道マップ(熊野古道中辺路 15)』

 稲葉根王子から富田川を5回渡り返し、熊野の霊域への入口の滝尻王子まで進む。バスで紀伊田辺駅へで引き返し、大辺路を朝来駅まで歩いた。(大辺路は別途記載する)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4796 富田川沿いの国道311号を行く。

Img_4799 富田川(新市ノ瀬橋から) 《地図

熊野詣では幾度も川を渡る水垢離の苦労を、清らかな水で心身を清め、現世の罪業を祓う禊ぎとして、熊野本宮を目指したのだ。承元4年(1210)には川が増水し、随行者9名が命を落としたという。熊野詣は苛酷な試練が続く、難行苦行の道中だったのだろう。

Img_4794 説明板

Img_4802 龍松山城(正面) 《地図

春日神社の裏山にあり、室町幕府の奉公衆で、紀南地方の領主・山本氏代々の本城という。二代目の城主の忠継が城郭を修築したとき、城内にあった巨大な老松が龍が寝た姿に似ていたことから、「龍松山城」の名で親しまれるようになったとの伝承がある。山本氏は応永34年(1427)の足利義満の側室の熊野詣で、警護に当たっている。

Img_4807 清水橋(清水谷川)を渡り、畦道に入る。《地図

Img_4809 のどかな道だ。

Img_4810 右に上って行く。

Img_4814 一ノ瀬王子跡

対岸の春日神社に合祀。

Img_4812 説明板

Img_4816 富田川沿いを進む。《地図

Img_4821 庚申塔の祠(右)

Img_4823 庚申塔

道標になっている。「左 くまの道 右・・・道」

Img_4830 加茂橋を渡ってこの坂を上り、大塔地区の高台を行く。《地図

Img_4832 富田川の眺め

正面の鮎川新橋へ下って渡ることになる。

Img_4838 花折地蔵(舗装道路から右へ入った所)

昔は耳や目の地蔵として祀られていたものが、地元の人たちが花を手折って供えたことから「花折地蔵」と呼ばれている。左端に道標がある。

Img_4836 「右 くまのみち」で、ここが往古の熊野街道という。

Img_4841 下りとなる。

Img_4852 鮎川王子跡 《地図

住吉神社に合祀。「大塔宮神社」碑は、大塔宮護良親王の側近、平賀三郎国綱は、宮の死後も再起を期して熊野にとどまり、この地で最期を迎えた。宮から拝領した刀を大塔宮神社(住吉神社に合祀)に祀ったという。平賀三郎国綱の墓はこの上にあるようだ。

民話餅つかぬ里』(大塔中学校HP)は、大塔宮と知らずに餅を出さなかったという伝承で、以来この里では正月の餅をつかなくなったという。(昭和10年まで) 実際はすでに村中に北朝方の手が回り、大塔宮であっても餅をあげられなかったのかも。

Img_4851説明板

鮎川新橋を渡り、大宮橋(内ノ井川)を渡って住吉神社へ。

Img_4862 住吉神社

右が「宮」で、その右は神木の槇と無患樹(ムクロジ)の夫婦樹

Img_4866 おがたまの木

かなり傾いている。以前からこうなのか? 根元の石は台風12号で崩れてきたのか?

Img_4856 説明板

Img_4872 右に上る。

Img_4877 右へ御所平に寄る。

Img_4889 御所平

後白河上皇の最初の熊野詣の頓宮があったという。

Img_4879 説明板

Img_4880 御所の瀬あたり

Img_4881 お薬師さん

耳の病いになると穴の開いた小石を供えてお参りするという。

Img_4883 穴の開いた石がぎっしり。

Img_4891 のごし橋(左)

右に藤原定家の歌碑

Img_4893 歌碑(滝尻王子での歌会で詠んだ)

後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家は田辺から滝尻王子までを1日で歩いている。軟弱な公家歌人のイメージが一新し、親しみを感じてきた。

Img_4894 説明板

Img_4895 こんな物も掛かっている。

藤原定家は鮎川王子から滝尻王子までの道程を、「景気殊勝なり、崔嵬(さいか)の険阻を昇り」と表している。その険阻な道に入る。

Img_4896 梅畑の間を行く。

Img_4899 道祖神と庚申塚

Img_4900 説明板

Img_4904 やけに頭の長い青面金剛だ。道祖神は陰陽合体というがよく分からない形だ。

Img_4911 念仏淵あたり

対岸が鮎川温泉

Img_4906 説明板

Img_4913 ちょっと崩れているか。

Img_4914 蕨尾橋(左)をくぐって行く。

Img_4921 ここも小崩れか。

Img_4922 枯れた竹藪?の間を抜ける。

Img_4923 折れた枝をくぐって。

Img_4930 地蔵の小祠(右)

Img_4927 大鰻指定地域境界標

Img_4924 大鰻棲息地あたりから蕨尾橋を振り返る。

富田川は熱帯性の大鰻の北限の棲息地。

Img_4932 左前方に吊り橋の北郡橋(ほくそぎばし)が見える。

Img_4933 日待供養塔(享和元年(1801))と庚申塔2体

Img_4940 一般道に出て北郡橋へ下る。

Img_4944 北郡橋を渡る。

Img_4971 清姫の墓・清姫堂 《地図

安珍清姫伝説

Img_4958 清姫伝説碑

清姫は荘司ケ淵に身を投げ、その怨霊が大蛇となって安珍を追い、道成寺で鐘に隠れる安珍を焼き殺したとある。

「清姫の大蛇となりし所とて ぬたくり歩く 旅のくたびれ」(十返舎一九)

Img_4962 清姫の墓

ここ真砂(まなご)が清姫の生誕地という。

Img_4966 清姫堂の前の小さな鐘

安珍が隠れた鐘のイメージか。叩くと”(安)ちん”と音がした。安珍の生誕地という奥州街道の根田宿には、安珍堂と安珍の墓がある。

Img_4976 左に上って行く。

Img_4979 下に国道と富田川を見ながら進む。

Img_4981 下って国道歩きとなる。右は犬ショップ

Img_4983 下の犬小屋でワンワン・きゃんきゃん吠えている。去年の台風12号の時は恐かったろう。

Img_4986 ここからは台風の土砂崩れ復旧工事中で歩きにくい。

Img_4989 土石が富田川を覆っている。

Img_4993 木も根こそぎ崩れ落ちそうだ。

Img_4997 復旧までには時間がかかるだろう。

Img_5004 滝尻橋を渡って熊野古道館(正面)、滝尻王子跡へ。

Img_5006 滝尻王子 《地図

五体王子の一つで、舞いなどの芸能、歌会が奉納された。ここから熊野の神域・霊域に入り、険しい山道の上りとなる。熊野古道館で近露王子までの古道は歩けるかを確認し、バスで紀伊田辺駅に戻った。

Img_5007 説明板

Img_5005 世界遺産碑

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2012年4月11日 (水)

熊野古道(中辺路① 北新町の道標→稲葉根王子)

2012年4月4日

紀伊田辺駅(JR紀勢本線)・・・北新町の道標(中辺路・大辺路追分)・・・(紀勢本線)・・・大師橋(会津川)・・・高山寺・・・青木歩道橋(右会津川)・・・紀伊民報社・・・秋津王子跡・・・会津小学校・・・目座橋(左会津川)・・・天王池・須佐神社・・・熊野橋(左会津川)・県道35号・・万呂王子跡・・・三栖廃寺塔跡・・・五郎地蔵寺・・・県道35号・・旧道・・善光寺橋(左会津川)・・報恩寺・・・三栖王子跡・・・八上王子跡(八上神社)・・・大賀蓮畑・・田中神社・・・県道35号・・・下岡バス停・・王子谷越へルート・・・稲葉根王子跡・・水垢離場跡(富田川)・・・潜水橋(畑山橋)(跡)・・・稲葉根王子バス停→紀伊田辺駅

 紀伊田辺を基点にして中辺路を熊野本宮まで行き、大辺路を富田坂、仏坂を越えた周参見まで歩く。昨年9月の台風12号の爪痕が残り、通行禁止や迂回路などで身体より気分的な疲れが大きい熊野古道歩きの6日間だった。

 熊野古道(紀伊路⑩)』からの続きです。

 参考:『和歌山県街道マップ(熊野古道 中辺路 14)』
          『上富田町文化財教室シリーズ』・その他(熊野古道関連)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4636北新町の道標 《地図

中辺路は左折、大辺路は直進。

Img_4635 説明板

大師橋で会津川を渡り高山寺に寄る。

Img_4646高山寺 《地図

「弘法さん」と親しまれている寺で、南方熊楠の墓、高山寺貝塚(左に石碑)がある。

右会津川沿いを進み、青木歩道橋を渡る。

Img_4656 紀伊民報の先で右折する。

Img_4659 秋津王子跡 《地図

会津川の氾濫で王子、街道も何度も変わり、王子の旧地、熊野古道の道筋をたどるのは難しいという。竜神橋(左会津川)のそばにも秋津王子跡の説明板があるようだ。現在は豊秋津神社《地図》に合祀されている。

Img_4657 説明板

Img_4661 「魚の店」の前を右折し、目座橋(左会津川)を渡る。《地図

Img_4670須佐神社から天王池 《地図

万呂王子が合祀されている。『万呂の獅子舞』が奉納される。

Img_4672 左会津川沿いを進む。道路建設で架橋工事中。

この先で熊野橋を渡る。

Img_4677 万呂王子跡 《地図

少し先の左側に説明板が立つ。現在は須佐神社に合祀されている。

Img_4678 説明板

Img_4684 三栖廃寺塔跡 《地図

白鳳時代(8世紀頃)の創建といわれる三栖廃寺の三重塔の心礎。周囲の礎石は復元。牟婁郡の郡寺(豪族の氏寺とも)で、下三栖は熊野地方の文化の中心として栄えていた証しという。正面は大師堂(地蔵堂?)

Img_4681 説明板

Img_4688 五郎地蔵寺

『地蔵縁起』によれば、この地蔵を厚く信仰していた五郎は罪を犯したが地蔵のおかげで命を救われた。それが今の話では「五郎は無実の罪で首を斬られるが、3本の刀が折れてしまった。地蔵が身代りになっていたのだ。その後、剣難除けの地蔵として信仰を集めた」となる。

県道に出て下三栖交差点の先で右折し、善光寺橋を渡る。《地図

Img_4696 報恩寺の脇を上る。

Img_4711 三栖(みす)王子跡 《地図

珠簾神社に合祀。王子碑の左に、道標「左くまの道」「右きみいでら道」が立つ。(写真には写らず)

Img_4712 説明板

Img_4713 額田王歌碑(万葉集)

「檀弦はけ」は、「まゆみつらはけ」

Img_4714 折口信夫の訳

Img_4706 三栖王子跡前から

右は隧道橋(左会津川)か。

Img_4718 下って車道を横切る。

Img_4719 崩落による迂回路案内板。

Img_4726 本来の熊野古道を進む。

崩落箇所らしい所はあったが、それほどでもなかった。

Img_4727 木漏れ日の気分のいい道を行く。

Img_4735 南方熊楠裸像撮影場所

熊楠は熊野の森が伐採されることを憂い、神社合祀に反対し保存運動に奔走していた。

Img_4737 写真方向

今は熊楠の横の松はない。

Img_4741 下って行くと新岡坂トンネルの出口に出る。《地図

Img_4742 来た道を振り返る。

Img_4745 桜は今が見頃か。今日は西行の歌の「三栖の山風」も吹き下ろしていない。

Img_4746 八上王子跡・八上神社

Img_4747 説明板

Img_4751 西行歌碑

西行が社殿に書きつけたという歌。

Img_4752 田中神社の森 《地図

その昔、ここから6kmほど上流にある岡川八幡神社の上手の倉山から大水で森全体が流れ着いたと伝えられている。

Img_4757 田中神社 《地図

右が岡藤(オカフジ)。

Img_4755 説明板

Img_4762 王子谷越えのコースに入る。《地図

Img_4763 「健脚コース」とあるが、ここで苦労するようならこの先の中辺路は歩けない。

Img_4764 民家の脇を抜けて上って行く。

Img_4765 荒れているのは台風12号以前から。

Img_4767 道筋がはっきりしない所もある。 

Img_4771 このあたりから下りとなり、稲葉根トンネルを越えて行く。

Img_4774 竹林の間を抜ければ稲葉根王子だ。

Img_4775 稲葉根王子跡 《地図

五躰王子の一社。岩田神社に合祀されたが、昭和31年に旧地に復社された。

Img_4783 説明板

Img_4780 周辺図

畑山橋(潜水橋)は台風12号で流されて渡れない。

Img_4787 水垢離場跡

ここから滝尻王子まで何度も岩田川(富田川)を渡り返し進んだという。

Img_4788 説明板

Img_4789_2 潜水橋(畑山橋) 《地図

台風12号で流されて、橋の中央部分はない。『街道てくてく旅』(NHK)ではこの橋を渡り、興禅寺(だるま寺)から一ノ瀬王子へ向かっていた。稲葉根王子バス停から紀伊田辺駅に戻った。

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2012年4月 3日 (火)

天野街道

2012年3月13日

金剛駅(南海高野線)・・・狭山神社・・・浦ノ庄交差点(県道202号)・・狭山池・・・亀の甲交差点(国道310号)・・岩室橋(三津屋川)・・・西小学校・・・大阪ガス狭山供給所・・・西高野街道追分・・・三都神社・・・二つ池・・・穴地蔵・・・道標・・・青賀原神社・・・天野地区・・・門前橋(天野川)・・・天野山金剛寺・・・門前バス停→河内長野駅

  【ル-ト地図】(13.6km)

 今回の街道歩きの最後は、西高野街道との追分から河内と和泉を分ける陶器山の尾根筋を通る、女人高野の天野山金剛寺への参詣道、天野街道を行く。

  参考:『ぼちぼちてくてくマップ』(南海鉄道)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4535 狭山神社 《地図

狭山池の築造以前に創建されたともいう延喜式内社。

Img_4539狭山池

7世紀前半に築造されたという我国最古のダム式のため池で『古事記』・『日本書紀』にも登場する。築造には蘇我氏、渡来人の技術者が関わったか。

1周は2.85kmありウォーキングを楽しむ人たちが多かった。

Img_4544 天野街道案内標識

右後方は大阪ガスのガスタンク

Img_4546 西高野街道追分 【ル-ト地図】の①

天野街道は右へ進む。地蔵祠の左に道標「右 あまの山二里 左 かうや山十里」で、「あまの山」は女人高野の天野山金剛寺のこと。地蔵祠の右に高倉寺(法起菩薩)への新しい道標も立っている。

Img_4550 遊歩道に入る。

ここもウォーカー、ジョギングを楽しむ人が多く、すれ違いに挨拶を交わしながら進む。

Img_4557 道沿いにはいくつか地蔵が祀られていて古くからの道であることが分かる。

Img_4558陶器山(149m)の尾根道で、少し起伏のある気分のいい道だ。古代には、この斜面を利用して「登り窯」が築かれ、多くの陶器が焼かれていたという。

Img_4562 新しい「あまの街道」の標柱も立っている。

Img_4567 三都神社 【ル-ト地図】の②

熊野三山を勧請し、熊野神社とも呼ばれる。天野街道は高野山から熊野に通じる道でもある。ここの地名は今という。

Img_4570 葛城山(左)・水越峠・金剛山(右)

Img_4575 二上山

Img_4580 二つ池 【ル-ト地図】の③

正面の堤の向うも池で2つか。

Img_4582 道標

「右高野山」

Img_4585 穴地蔵の祠

ここは狭山市・堺市・河内長野市の境。ここまで来るとウォーキングをしている人はほとんどいなくなる。

Img_4586 穴地蔵

穴の病気に霊験があり(すべての穴よ)、子宝に恵まれるという地蔵だそうだ。

Img_4589 葛城山方向

Img_4592 畑の中の道を行く。

Img_4593 道標(文政4年(1821))

Img_4594 「右 あまの 左 かうや道」・「右さかい道」

Img_4596 この先で一般道に出る。

Img_4601 青賀原神社 【ル-ト地図】の④

説明板によれば、祭神の丹生大明神=月読之尊で、弘法大師を助け高野山へ導いた狩場明神だそうだ。

Img_4602 説明板

Img_4607 天野地区を行く。

Img_4613 道標

「右葛井寺道是ヨリ四里」・「左槇尾山道是ヨリ七十二丁」

Img_4633 天野山金剛寺総門 【ル-ト地図】の⑤

行基が聖武天皇の勅願によって草創し、後には弘法大師が修行した地。真言宗御室派の大本山で、女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。

Img_4616 境内図①

南朝の後村上天皇の行在所、また北朝の行在所となった時期もあった。

Img_4617

Img_4621 南朝行在所(摩尼院)

Img_4632 女人高野講籠堂(無量寿院)

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