熊野古道(大辺路③ 紀伊日置駅→仏坂→周参見駅)
2012年4月9日
紀伊日置駅(JR紀勢本線)→口ヶ谷橋(日置川)・・・てんぐの里看板・・・大辺路仏坂入口案内板・・・安居の渡し場・・番号道標26・・仏坂・・・番号道標28・・・桂松(一里松)跡・・・仏坂茶屋跡・・・入谷不動尊・・・番号道標33・・・地主神社・・・入谷橋(太間川)・・・大師堂・・・松の本橋(太間川)・・・徳本名号碑・・・松の本踏切(紀勢本線)・・・堀切踏切・・・堀切文殊坊跡・・・堀切大師堂・・・周参見王子神社・・・遠見橋(周参見川)・・・周参見代官所跡・・・萬福寺・・・下地踏切(紀勢本線)・・・すさみ海水浴場・・・周参見駅(紀勢本線)
紀伊日置駅から昨日の終着点の口ヶ谷橋までタクシーで行き、安居の渡し場から仏坂を越えて周参見駅まで歩く。日置川べりの大辺路仏坂入口案内板から安居の渡し場までが、台風12号の被害で荒れていたが、仏坂に入ると気分のいい古道歩きが楽しめた。
【ル-ト地図】
*参考:『和歌山県街道マップ(熊野古道 大辺路 26)』・ 『みんなで歩こう 熊野古道 大辺路・小辺路』(わかやま絵本の会)
写真をクリックすると拡大します。
口ヶ谷橋(日置川)を渡り、安居(あご)の渡し跡(南岸)を目指す。 【ル-ト地図】の77
上流の安居の渡し場方向。
電柱下に「熊野古道 仏坂→」の傾いた木の標識が立っている。
天狗に助けられ、友だちになったという徳兵衛さんの昔話『てんぐさまの話』がある。
動物よけに常時張られたネットだろう。
ここから右へ日置川沿いを進み、安居の渡し場から仏坂へ上るのだが・・・。
安居の渡しは平成17年に復活している。(要予約・有料)
崩土のため通行止だと。
倒木が道を塞ぐ。この先でどんどん川の方へ下ってしまったようだ。
結局これは本来の道ではなかったのだが。
すぐ先が安居の渡し場なのだが。仕方なく道なき道を引き返し、じっくり周りを見ると上に道は続いていた。崩土・通行止を気にし過ぎたようだ。
対岸(北岸)に渡し舟が見える。前もって予約して、舟で渡った方が無難で楽だ。
昔は舟、舟の上に板を並べた船橋、あるいは徒歩(かち)渡りで渡ったそうだ。
坂名の由来は、①険しい山道のため息絶える者が多く、死者=仏ということから。②生い茂った草が草鞋(わらじ)のひもに引っ掛かって「ほどける」が訛って「ほとけ(仏)」になったなど。
仏坂で舎利頭(しゃりこうべ)に出会おうとは、己の行く先を暗示しているのか。「南無・・・・」と供養して立ち去る。猪か鹿か、熊ではあるまい。
和歌山から25里の一里塚とされる桂松があったという。ちなみに中辺路の25里の一里塚跡は上多和茶屋跡の手前にある。
かつては安宅(あたぎ)牛の市場が開かれていたという。安宅はこのあたりの地名。熊野水軍の安宅氏もこの地で興ったそうだ。
なだらかな道となる。
社殿はなく森全体が神体。「空神(そらがみ)さん」と呼ぶ人もいるそうだ。
石段上を左に曲がりさらに上る。もう上りはないと思っていたのでちょっとこたえた。
入り口右手に空海の手を形どったといわれる石碑があるというが、気づかなかった。
徳本上人は紀伊国日高郡出身で弘法大師とは違い実際に各地を歩いている。
松の本踏切(紀勢本線)を渡って進み、前方の堀切踏切を渡り返す。
周参見王子神社 【ル-ト地図】の81
大辺路で始めての王子神社。天文15年(1546)周参見領主の左衛門太夫藤原(周参見)氏安が那智大社から勧請したという。主神は天照大神。船絵馬を中心とした多くの「絵馬」が奉納されている。
天照大神があまりの騒々しさに、岩から出てきた所。
周参見代官所跡 《地図》
禅宗臨済派、京都妙心寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来像。寛政4年(1792)に長沢芦雪が、串本の無量寺からの帰途に障壁画16本に画いたというが、現在は行方知れずだそうだ。
国道に合流した所を今回の大辺路歩きの終点として、すさみ海水浴場で昼寝をして特急電車で紀伊田辺に戻った。
赤い鳥居が立ち、漁師たちは「いなづみさん」を拝んでから漁に出るそうだ。鳥居は大辺路王子社の一つで「山王王子社または雷隅山(いなずみやま)王子社」さらに弁財天伝説もあり、「稲積弁天神社」とも呼ばれている神社のもの。
風もなく陽射しが強い。ベンチで寝ているとじりじりと焼けてきそうだった。
ネコザメ・ニセゴイウツボ(後ろ)・イセエビ(左後方)。周参見は伊勢エビの漁獲高が日本一だとか。
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