熊野古道(中辺路③ 滝尻王子→小広王子)
2012年4月6日
紀伊田辺駅→滝尻バス停・・・滝尻王子・・・胎内くぐり・・・乳岩・・・不寝王子跡・・・番号道標1・・・剣ノ山経塚跡・・・飯盛山展望台(340m)・・・針地蔵・・・夫婦地蔵・・・高原熊野神社・・霧の里休憩所・・旧旅籠通り・・・番号道標8・・庚申さま・・・一里塚跡碑(24里)・・・高原池・・・番号道標11・・大門王子・・・番号道標13・・・十丈休憩所(十丈峠)・・十丈王子跡・・・小判地蔵・・・番号道標15・・悪四郎屋敷跡・・・一里塚跡碑(25里)・・・上多和茶屋跡(約600m)・・・三体月伝説地・番号道標20・・・逢坂峠・・・塩尻の谷・・大坂本王子跡・・・大坂(逢坂)・・・一里塚跡碑(26里)・・・箸折峠・牛馬童子像・・・番号道標25・・・北野橋(日置川)・水垢離場跡・・近露王子跡・・伝馬所跡・・・茶屋坂・・・近野小学校・・・近野神社・・・一里石バス停・・・楠山坂・・・番号道標29・・・日待供養塔・・・比曽原王子跡・・・一里塚跡碑(27里)・・・野中伝馬所跡・・継桜王子跡・野中の一方杉・とがの木茶屋・・野中の清水・・秀衡桜(継桜)跡・番号道標34・・・安倍晴明の腰掛石・・・(高尾隧道跡)・・・中川王子跡・・・小広峠・小広王子跡・・番号道標40・・・小広峠バス停→紀伊田辺駅
滝尻王子から険しい山道に入る。番号道標・王子跡・一里塚跡碑をたどりながら、いくつかの峠を越えて小広王子跡の先の小広峠バス停まで進んだ。気温は低めで北側の斜面に出ると風が冷たかったが、歩くのには快適な天気だった。明日は熊野本宮までもう一頑張りだ。
【ル-ト地図】
*参考:『和歌山県街道マップ(熊野古道 中辺路 17・18)』
『熊野古道なかへち』
写真をクリックすると拡大します。
かなり狭い。いくら安産のためとはいえ、スリムな女性でもくぐるのは容易でなかろう。
『熊野の説話』、藤原秀衡夫婦が熊野詣の足手まといとなるので、ここにわが子(後の忠衡)を捨てたということよ。それでも忠衡は父の遺言を忠実に守り、源義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張した。親も親なら子も子か。秀衡が熊野を訪れたことは確認できていないというから、たんなる伝承に過ぎないが。
滝尻王子に合祀。左は紀州藩が享保8年(1723)に建てた緑泥片岩の王子碑。
熊野本宮までの間に500mごとに1~75の道標が立つ。今日は40の先まで行くことになるから20km以上はある。
飯盛山(めしもりやま)展望台(340m)から 《地図》
間違いやすい所立っているから間違えようがないのだが、それでも間違えそうになる所もある。
「歯」の守り神で、歯が痛むとお願いし、痛みが直ったら針を3本立てて、鳥居を作って奉納したそうだ。3体とも針地蔵か?
仲良く♡の前垂れだが、少し離れ気味なのが気になる。倦怠期か?
春日造の本殿は室町時代前期の様式。
正面が焼尾山(450m)・その後方に頭部が少し見えるのが持平山(912m)、右端後方が笠塔山(1049m)
三尾山(484m)、左端が西畑山(441m)、中央後方奥が虎ケ峰(789m)
「近露王子まで3時間30分」と標示してある。
「近露王子まで約4時間」とある。さっきは3時間30分だったのに、10分歩いて時間が長くなるとはこれ如何に?
この付近に熊野本宮の大鳥居があったらしい。樹齢200年の老松は昭和51年に松喰虫にやられ枯れてしまった。
紀州藩の建てた緑泥片岩の王子碑と、左は鎌倉時代後期のものとされる石造笠塔婆で、町石の役目をしていたものか。
十丈峠には茶屋など数軒の民家があったそうだ。
春日神社に合祀。
小判は抜き取られ口は開いたままか。地蔵には「道休禅定門 生国豊後有馬郡 献主愛州」と刻まれている。
「道休禅定門」は戒名ではあるまい。水呑王子跡の先にも「道休禅定門」と刻んだ地蔵がある。
怪力悪四郎の逸話:「四郎は力持ちで、土地の人は「悪四郎」と呼んでいた。ある時、太い松の枝に腰をかけていると熊野詣の一行がやって来て、同じ松の枝に腰かけた。そこで四郎は、「自分はもう出かけるから、お前さんらも腰を上げよ。そうでなければこの枝で跳ね飛ばされてしまうぞ」と言ったが知らん顔をしているので、四郎は仕方なく立ち上がると、みんな松の枝で跳ね飛ばされてしまったとさ」 四郎は怪力というより目方が重かっただけのことか?
ここは標高約600m
ここを上れば三体月鑑賞地だが、むろん今は月日も時間も合わない。
先代が茶店を営んだ杉中花仙の歌。1983年の花仙の十周忌に立てられたもの。
近野神社に合祀され王子碑・笠塔婆が立つのみ。正面の小祠のようなのは王子参拝の記念スタンプが置いてあるようだ。
逢坂峠は近露側から上るには急で大坂と呼ばれる。坂の途中には、女人が蛇に姿を変えた大樹があったと伝える。『中右記』
牛馬童子・役行者(右)、奥に地蔵・不動像その後ろに宝篋印塔(鎌倉時代)
なぜか明治時代に作られた花山法皇の雄姿という牛馬童子が有名になった。カヤの枝を折って箸にしたので「箸折峠」、箸から赤い露がしたたったので、これは「血か露か」で「近露」だとか。愉快に笑えて疲れも忘れる。隣の役行者も童子に合わせてか、可愛い顔をしている。
水垢離をして、近露王子に入った。
近露王子跡 《地図》
近野神社に合祀。
大本教教祖の一人、出口王仁三郎の筆跡。暗い時代の事の顛末は説明板で。
このあたりは道中と呼ばれ、多くの旅籠が軒を連ねていた。今でも旅館が数軒あり、熊野古道歩きの拠点となっている。
近露王子から小広王子までの熊野古道は一部を除いて生活道を兼ねている。大半は舗装され車1~2台は通れる道で、世界遺産からはずれている。
左折して石段を上ると野長瀬一族の墓がある。北朝方に追われ、高野に逃れる途中の大塔宮護良親王を援けるべく、野長瀬六郎、七郎兄弟が駆け付けたという。
近野小学校 《地図》
見事なオール芝の校庭。『街道てくてく旅 熊野古道』では森上亜希子さんが生徒たちとテニスを楽しんでいた。
近野神社 【ル-ト地図】の63
明治時代に近郷の王子社や神社が合祀された。その際に多くの社叢が伐採され、その売上げを役人がガッポリと懐(ふところ)に入れたという。そのための合祀よ。古今東西、「お主も悪よのう」は絶えることなし。
このあたりは一里石という地名だ。前後の一里塚跡(26里・27里)からはかなり離れているが。
かつては「手枕松」という名木があったという。今は近野神社に合祀され王子碑のみが寂しく立っている。
直進した左に碑が立つ。
継桜王子・野中の一方杉 《地図》
境内の9本の杉の大木の枝は南向き(熊野権現方向)に伸びている。近野神社に合祀される際に、南方熊楠らの保存運動で残された。
近野神社合祀後も社殿は残り、その後神体も戻された。
野中の一方杉(参道の石段から)
確かに枝は南向きだ。
1泊できる十分な広さがある。
名物の「茶がゆ」を食べたかったねえ。一人では無理か。
「名水百選」の一つ。「茶がゆ」の代わりにこの水を飲んで、「若者はまた歩き始める」??
服部嵐雪句碑
「すみかねて 道まで出るか 山しみづ」
明治中期に植えられた何代目かの継桜も切り倒されてしまった。ここも松喰虫の被害か?
藤原秀衡(文治3年(1187)没)の刺した杖が桜になったというが、天仁2年(1109)に藤原宗忠が見ているのだから年代が合わない。秀衡が生まれた頃(保安3年(1122)生れとも)には継桜はすでにあったということ。まあ秀衡が熊野に来たというのも伝承臭いから、あまり詮索しない方がよろしかろう。
安倍晴明の腰かけ石
左にかなり上り返した所に王子碑が立つのみ。近野神社に合祀。
新高尾トンネル 《地図》
ここもくぐらないが。
トンネルを抜けた先が今日の終点の小広峠バス停だ。
営業していないようだが。
上部の欠けた王子碑のみ。ここも近野神社に合祀。
滝尻王子から20km歩いたことになる。
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熊瀬川王子は林道を横切り山道へ入って行く。
明日は「現在地」から熊瀬川王子を目指す。
小広峠バス停 《地図》
40分の待ち時間だ、北風が強く日がかげると寒かった。
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