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2012年5月22日 (火)

北国街道松代道②(長沼宿→神代宿→北国街道追分)

2012年5月2日

柳原駅(長野電鉄長野線)・・・国道406号・・・県道368号・・(村山の一里塚跡あたり)・・・長沼宿・南の枡形・・本陣跡・・長沼神社・・林光寺・越後道道標・・西厳寺・・善導寺・・長沼城侍屋敷跡・・守田神社・・長沼村道路元標・・妙笑寺(千曲川洪水水位標)・・・妙願寺・・大田神社・・・赤沼交差点(国道18号)・・・大道橋(浅川)・・・跨線橋(JR信越本線)・・流死人菩提碑・子育地蔵尊・・多賀神社・・神代宿・・飯山道道標・・問屋跡・・御番所跡・・本陣跡・・脇本陣跡・・観音堂・大日堂・石造三十三観音像・・道標・・油沢川・・神代坂・・大石・馬頭観音・・・白坂峠一里塚跡・・(新)白坂峠・・丹霞郷・・(旧)白坂峠・・・平出地区・・長沼道道標・・平出追分(北国街道合流地点)・・・平出神社・・平出公民館バス停→長野駅

  【ル-ト地図】(18.5km)

 昨日、柳原駅まで進んだので今日の行程は楽だ。途中から風が強まり雨も少し落ちてきたが、神代宿から長い神代坂を上り、難なく丹霞郷の広がる白坂峠へ着いた。峠から緩やかに下ればすぐに平出の追分で、北国街道に合流する。ここは4日前に歩いたばかりだ。平出神社に寄りバスで長野駅に戻った。

 この先は『北国街道⑤』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7313 千曲川の土手から下りて、長沼宿へと進む。

手前の河川敷内の稲荷社あたりに長沼一里塚跡の標柱が立っているようだが、稲荷社も標柱も未確認。

Img_7312 長沼宿入口の枡形 《地図

ここを右折して行く。長沼は南部は宿場、北部は城下町だったため、街道が10か所で直角に折れる。宿場と城下町の面影はなく、枡形にその名残りを見るだけか。
長沼ぐるっと歴史散歩ガイド

Img_7309 本陣跡西島家(右)

Img_7307 長沼神社

長沼の鎮守で、創建は平安時代という。

Img_7304 林光寺前

正面に道標(文久元年?(1861))

Img_7302 「従是 右ハゑちご道 左ハぜんく王じ道」

松代道は北国街道に合流して越後へ向かう。

Img_7300 西厳寺 《地図

蓮如上人が2度滞在している。蓮如上人絵伝を所蔵する。

Img_7284 長沼城侍屋敷跡あたり

一茶の門人句碑と説明板、後ろは何の堂だったか?

Img_7287 長沼城跡復元図

江戸時代の慶長8年(1603)には森氏の転封によって長沼藩の佐久間氏の居城となったが、元禄元年(1688)に佐久間氏が改易された後、廃城となった。佐久間象山は一族の子孫だそうだ。

Img_7271 枡形跡を右折、左折して行く。

Img_7281 守田神社 《地図

正保年間(1644~47)に守田島から当地に遷座してきたという。ここは外堀内の大手門の近だ。一時は長沼城の守護社だったか。

Img_7270 千曲川洪水水位標(妙笑寺)

戌の満水の時は一番上。本堂にも水位柱を残している。

Img_7258 アップルロードか。

明治29年の大洪水では桑の被害が大きく、養蚕に代わってリンゴ栽培が急増した。国道18号はアップルライン呼ばれる。

大田神社の先で赤沼交差点を渡って行く。

Img_7244 赤沼交差点でアップルラインを横切る。《地図

赤沼一里塚跡はどのあたりか?

Img_7551 流死人菩提碑(左)・子育地蔵尊 【ル-ト地図】の①

碑の高さは戌の満水の時の水位。

Img_7547 説明板

Img_7237 多賀神社

鎌倉時代に近江の多賀神社の分霊を祀ったという。石殿型庚申塔があるようだ。

Img_7236 神代(かじろ)宿に入る。《地図

宿に指定されたのが遅く、それまでは飯山道の宿として本陣が置かれていた。

Img_7226 宿場案内図

北国街道の新町宿で分岐した飯山道が、西(左)から来て、東(右)に抜けて行く。

「雨降り宿」とは、北国街道が川留めとなり、矢代の渡し、丹波島の渡しが渡れない時には松代道を通ったのでこう呼ばれた、

Img_7234 道標(飯山道と松代道が交差する左の角)

Img_7233 「是ハ善光寺ミち」・右側面に「これより右せんく王じミち」で、善光寺へ通ずる飯山道を示している。北隣が旅籠屋跡。

Img_7230 御番所跡・神代村道路元標

ここは問屋場跡で、向い側の角が御番所跡。

Img_7228 本陣藤沢家跡(左の公民館の所)・脇本陣横地家跡(本陣の向い側) 【ル-ト地図】の②

Img_7222 観音堂の石段から神代宿

Img_7221 観音堂

右隣に大日堂がある。

Img_7223 説明板

Img_7216 石造三十三観音像

信濃三十三観音

Img_7215 説明板

Img_7214つつじ山道」道標 《地図

ここを左に上って行くのが旧道だが、石垣前の道標に気づかず右の新道をかなり上ってしまい引き返す。

Img_7224 「右名勝つゝじ山道」で、左側に「左ハ牟礼道」と付け加えてあるらしい。「牟礼道」は松代道のこと。 「つつじ山」《地図》、

Img_7198 聖林寺跡伝承地(新道を上った途中)

観音堂の説明板にある13世紀に創建されたと伝える寺跡だろう。

Img_7210 神代坂を上る。 【ル-ト地図】の③

始めは急坂だ。松代道は北国街道の脇街道だが、天正11年(1583)上杉景勝は牟礼より香白(神代)坂、長沼への通行を命じた。善光寺宿を通らないため、この間善光寺の門前は寂れてしまったそうだ。

Img_7206 大石の上に馬頭観音

Img_7208 説明板

Img_7554坂の途中から豊野の町

この先、旧道はリンゴ畑の間に残っている所もあるがはっきりせず、民家の畑内でもあり新道を行く。

Img_7558 新道を白坂峠へ上る。

Img_7565 傾斜は緩いが、何度もカーブして行く。

旧道は直線的に白坂峠へと上る急坂の難所だったようだ。

Img_7569 けっこう上って来た。

Img_7571 白坂峠一里塚跡 【ル-ト地図】の④

左右に塚跡がなんとか残っている。次は北国街道に合流した先の四ツ屋一里塚跡。

すぐ先で(新)白坂峠に出る。

Img_7574 説明板

Img_7576 (新)白坂峠(582.2m)

峠といっても畑の広がる平坦地。北国街道との合流点の平出の追分は左へ行く。右に500mほど行くと、(旧)白坂峠に出る。

Img_7578 案内板

Img_7579 丹霞郷(たんかきょう)

今日は曇っていて北信五岳の黒姫山、妙高山の眺めはない。モニュメントは「鳥になった少年」

Img_7582 (旧)白坂峠(578.8m) 《地図

江戸時代以前の本来の白坂峠で、昭和42年まで国土地理院の地図には、ここが白坂峠と記されていた。北方の古道沿いの番匠地区には番所があったとも。

Img_7583 説明板

Img_7585 古道はここから神代に直線的に下っていたのだろう。

Img_7593 平出の追分へと緩やかに下る。平出側は標高が高く、峠から下る感じはしない。

Img_7595 ここは右へ進み平出の集落に入る。

Img_7599 平出追分 【ル-ト地図】の⑤

正面の突き当りが北国街道との合流地点。すぐ先を左に入った民家の敷地内に追分の道標が移設されている。

Img_7600 追分にあった長沼道(松代道)道標

「是より左長沼みち」・「是より右善光寺みち」で、「善光寺みち」は北国街道のこと。

Img_7605 平出神社 《地図

 

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2012年5月18日 (金)

北国街道松代道①(矢代宿→福島宿)

2012年5月1日

屋代駅(しなの鉄道)・・・北国街道(善光寺街道)・・・谷街道合流地点(横町交差点)・・・矢代宿脇本陣跡・矢代追分・・・旧松代街道踏切(しなの鉄道)・・・屋代高校・・・長野電鉄屋代線踏切跡・・・勝軍地蔵尊・・・法輪寺・・・市大神塔・・・雨宮坐日吉神社・・・雨宮の渡し跡・・・斎場橋(沢山川)・・・謡坂・・・土口地区・・土口の一里塚跡・・土口将軍塚古墳入口標柱・・古大穴神社・・・(上信越自動車道)・・・戌の満水水難供養碑・・・芭蕉句碑・・会津比売神社(謙信槍先の清水・鞍掛松)・・・(上信越自動車道)・・・風雲寺道標・・・象山口駅(長野電鉄屋代線)跡・・・松代城下・松代宿・・大信寺(雨乞い地蔵)・・神田川橋(神田川)・・思案橋跡(小鮒川)・・八田家住宅・・祝神社・・高札場跡・・・道標(荒神町交差点)・・荒神堂・・荒神町窯跡・千曲川通船船場跡碑・・・萬法寺・・・蛭川橋(蛭川)・・・地蔵堂・愛宕社(寺尾城址登り口)・・・川中島合戦供養道標・・・石塔群・・・鳥打峠・・・(上越自動車道)・・・大室地区・・・大室古墳群入口碑・・高井大室神社・・大室駅跡(長野電鉄屋代線)・・・関崎の渡し跡・・川田宿・・町川田神社・・道祖神・・古城山城址入口碑・・錦ヶ池入口碑・・十王堂跡・松代藩口留番所跡・・上組の秋葉社・・本陣問屋跡・高札場跡・旅籠和泉屋跡・・下組の秋葉社・・二十三夜塔・双体道祖神・・・古町宿庚申塔・・国道403号・・・町川田一里塚跡碑・・・瀬在橋(赤野田川)・・・保科川橋(保科川)・・・子育地蔵堂・・・湯島天満宮信濃分社・北野美術館・・・富士宮神社・・・松代道道標・・・稲荷社・・・正満寺・・・綿打西宮神社・綿打追分(谷街道分岐点・綿打駅入口交差点)・・・千曲川土手・・・(屋島橋・県道58号)・・・福島宿・・浄国寺・・本陣跡①・・勝楽寺・・大笹道道標・・天神社・・西福寺・・本陣跡②・・・馬頭観音道標・・布野の渡し跡・・・新百々川橋(百々川)・・村山橋(千曲川)・・(長野市)・・・勝楽寺跡・・・村山神社・道標・・・名主小坂家・・・柳原駅(長野電鉄長野線)

  【ル-ト地図】・【ル-ト地図(松代城下)】

 矢代宿で北国街道と分かれ、神代宿の先で白坂峠を越え、平出の追分で再び北国街道に合流する北国街道松代道を2日で歩く。矢代の渡し、丹波島の渡しが川留めの時にも利用され、「雨降り街道」とも呼ばれていた。また、牟礼宿から善光寺へ行く道を禁じ、松代道の通行を命じられた時期もあり、この間善光寺門前はすっかり寂れてしまったという。

 長野電鉄屋代線は3月末で廃線になってしまった。明日は雨らしく、交通の便も考えて今日は柳原駅まで行くことにする。けっこう距離もあるので、真田十万石の松代城下は街道を通過するだけにし、明日松代道を歩き終えた後にゆっくりと散策することにする。

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Img_6880 谷街道合流地点(横町交差点) 《地図

谷街道は稲荷山宿で善光寺西街道(北国西街道)と分かれ、ここ矢代宿で北国街道と合流し、すぐ先の北国街道松代道との追分で北国街道と分かれ、綿貫の追分で松代道と分かれ、飯山から十日町へと向かう街道。(矢代宿から川田宿までは松代道と重なる)

Img_6881 北国街道(善光寺街道)追分 【ル-ト地図】の①

手前に矢代宿脇本陣跡、その先に本陣跡がある。

Img_6883 右に松代道に入る。

Img_6886 屋代高校

感じのいい造りの校舎だ。

Img_6889 勝軍地蔵尊・祠の隣に二十三夜塔

Img_6890 勝軍地蔵

Img_6892 法輪寺

創建は天正年間(1573~91年)だそうだ。

Img_6894 市大神塔・左は?

Img_6896 雨宮坐日吉神社 《地図

近くの斎場橋で3年に一度、4人の獅子を逆さに吊り下げる「橋懸り」(はしがかり)の神事が行われる。

街道から離れ雨宮の渡し跡に向かう。

Img_6898 長野電鉄屋代線は今年の3月末限りで廃線になってしまった。それでも車は踏切を見ると徐行し、中には一時停止する車もある。廃線になったのを知らないのではなく、運転者の癖、性(さが)なのか。

Img_6900 雨宮の渡し跡 《地図

川中島の戦いで上杉謙信軍が夜に千曲川を渡った所。正面は頼山陽の「鞭声粛々夜河を渡る……」の有名な詩碑。今の千曲川の流れからは1kmほど離れている。

校外学習の中学生?たちが先生の後に続いて、プリントされた教材の「鞭声粛々夜河を渡る……」を読み上げている。いい学習だ。

Img_6902 説明板

街道に戻り、斎場橋を渡ると謡坂の上りとなる。

Img_6906謡坂(うたさか)を上る。 【ル-ト地図】の②

傾斜は緩い。各地にある「うとう坂」(善知鳥・烏頭・宇都布・宇頭・有東・有藤・歌・唄・・・)坂の一つ。

Img_6912 土口の一里塚跡・土口の水屋

千曲川の洪水に備えた石垣上の蔵(水屋)

Img_6916 古大穴神社 《地図

背後の薬師山の尾根に土口将軍塚古墳がある。

Img_6919 千曲川沿いを少し行く。

Img_6921 「川流溺死万霊」碑(寛保2年(1742)左端)

戌の満水の水難者供養碑

Img_6920 説明板

Img_6933 会津比売神社 《地図

謙信槍先の清水(手前)は飲めず、2代目の謙信鞍掛松(石段上の右)も細くて迫力がない。

Img_6937 妻女山方向

本来の妻女山山頂は、南西の斎場山古墳のあたりともいう。川中島合戦で上杉謙信が海津城(後の松代城)を見下ろすこの山一帯に布陣した。山頂の円墳(斎場山古墳)に謙信は床几を置いた伝わる。

線路の上に立っていても電車は来ない。轢かれる心配もないが自殺もできない。寂しいねえ。

Img_6943 風雲寺道標(ここを右折して500m)

信濃三十三観音札所の第4番。松代道は直進。

Img_6944 中道島交差点を右に進んで松代城下に入る。

Img_6947 象山口(ぞうざんぐち)駅跡 《地図

佐久間象山は地元では「しょうざん」ではなく「ぞうざん」

松代町などには、屋代線の線路を活用して次世代型路面電車 (LRT) を走らせる構想があるそうだが。

Img_6951 大信寺

Img_6954 雨乞い地蔵

3体を縄でしばって千曲川に投げ込むそうだ。川から引き上げるのも大変だろう。

Img_6953 説明板

Img_6961旅館定鑑堂

Img_6963 宮坂酒造

Img_6964 枡形跡

Img_6966 思案橋跡

宿場には遊郭あり、遊郭ある所には「行こか、戻ろか」の思案橋ありだが、この橋の由来はちと違っていた。

Img_6965 説明板

Img_6969 県信用組合(右)

ここ先を左折して行く。

Img_6971 八田家住宅

松代藩の御用商人家

Img_6972 説明板

Img_6974 高札場跡(復元)

実際は少し先にあり、検断を兼ねた問屋が管理していた。

Img_6976 説明板

Img_6977 周辺図

Img_6978 中町の旧家

Img_6979 道標(荒神町交差点) 《地図

Img_6980 道標(昭和9年)

「左西寺尾村ヲ経テ長野市ニ至ル」・「・・・松代町ヲ経テ篠ノ井町屋代町ニ至ル」

Img_6982 荒神堂

Img_6983 荒神町窯跡・千曲川通船場跡碑

松代焼の中の荒神町焼の窯跡か。

************松代城下散歩(5月2日)************

 *参考:『ながの観光net(松代)』

Img_7325 松代城跡(旧海津城)

Img_7326 説明板

Img_7318 北不明門

本丸裏口(搦手)の門

Img_7332文武学校

安政2年(1855)に松代藩が藩士の子弟の教育のために建てた藩校。

Img_7333_2 旧白井家表門(移築復元)

松代藩中級武士家の長屋門。

Img_7334 説明板

Img_7335 真田勘解由家

2代藩主信政の子の勘解由信就を始祖とする真田家の分家。

Img_7336 説明板

Img_7341旧樋口家住宅

藩の目付役などを務めた上級武士の家。

Img_7339 説明板

Img_7345真田邸(新御殿) 【ル-ト地図】(松代城下)の①

Img_7342真田邸

Img_7344 説明板

Img_7350 赤沢家住宅

Img_7351 馬場家長屋門

藩重役の馬場家の表門

Img_7352 説明板

Img_7355 高義亭(象山神社境内に移築復元)

Img_7354 説明板

Img_7359 象山神社 【ル-ト地図】(松代城下)の②

Img_7360 説明板

Img_7365旧横田家住宅 【ル-ト地図】(松代城下)の③

Img_7366 郡奉行、表用人などを務めた中級藩士の横田家家

Img_7367 説明板

Img_7372大英寺山門 【ル-ト地図】(松代城下)の④

小松姫(松代藩初代藩主信之の妻・本多忠勝の娘で徳川家康の養女)の菩提寺で、本堂はもとは御霊屋だが、小松姫の墓とする宝篋印塔は今も上田城下の芳泉寺にある。『北国街道②』に記載

Img_7373 説明板

Img_7379 松島藩鐘楼(保存修理工事中)

日本電信発祥の地」でもある。

Img_7380 説明板

Img_7386 「食いしんぼうかじや」

かなり腹が空いてきたが我慢、我慢。

Img_7382長国寺

松代藩真田家の菩提寺

Img_7385 鯱と六文銭が乗る本堂

鯱は松代城の大御門からの移築。

Img_7384 民話

ここにも神出鬼没の左甚五郎の登場だ。

Img_7387 矢沢家表門 【ル-ト地図】(松代城下)の⑤

Img_7388 説明板

Img_7391 松代駅跡

駅舎は今も開いていてちょうど下校時で、生徒たちがバスを待ち、迎えの車を待っていた。

**************ここからは松代道の続き****************

Img_6996 地蔵堂・愛宕社(寺尾城址登り口) 《地図

Img_6997 川中島合戦供養道標 《地図

右へ鳥打峠への上りとなる。

Img_6998 道標

「右川田駅 中柴弥陀道 左善光寺道」、裏に武田方の、高坂昌信・武田信繁山本勘助の墓の場所を記すというが、見ることができず。

Img_7001 鳥打峠石塔群

右に髭題目碑などが建つ。ここは松代藩の刑場跡で、慶長7年(1602)領主の森忠政は検地に反対した一揆の600人を磔(はりつけ)に処したという。二斗八騒動の首謀者の高田村助弥もここで処刑されたそうだ。

Img_7008 大室地区に入る。《地図

Img_7010 大室古墳群入口碑

Img_7014 高井大室神社

Img_7017 仲良く並んで走っていた電車はもう通らない。

往時は千曲川が山麓を洗っていたため、街道は正面の関崎峠を越えていた。

Img_7019 関崎の渡し跡あたり 【ル-ト地図】の③

Img_7021 渡し跡の常夜灯など

Img_7020 説明板

Img_7024 渡し場跡から土手を下り、川田宿へ入る。《地図

Img_7026 町川田神社

宿の入口にある鎮守社。

Img_7028 枡形に曲がって行く。

右に道祖神

Img_7030 古城山城址入口碑

村上氏に属し、後に武田氏に降った川田氏の城跡で、「川田城」・「古城」とも呼ばれる。ここから1時間ほどで上れるようだ。川田小学校あたりがが川田氏の居館跡だが、遺構は残っていないそうだ。

Img_7032 錦ヶ池入口碑(右)

行ってみたが池らしきものは見当たらず。

Img_7048 宿場図(元文4年(1739))

Img_7047 説明板

Img_7034 十王堂跡(右の川田駐在所)・松代藩口留番所跡(正面) 《地図

ここを右折し、コの字形に宿場を通って行く。

Img_7039 上組の秋葉社(右奥)の所で左折して行く。

Img_7040 川田宿の家並み

宿駅制定から5度にわたり千曲川の水害に遭い、現在地に移ったという。かつては用水が中央を流れていて道幅は広くなっているが、家並みには往時の宿場風情を残している。

Img_7043 本陣兼問屋跡西沢家

Img_7052 高札場跡(本陣前)

Img_7050 旅籠和泉屋跡

屋根下の屋号看板は健在だ。本陣前に3軒の旅籠があった。

Img_7053 旧家

Img_7054 下組の秋葉社で左折して宿を抜けて行く。

Img_7058 二十三夜塔・双体道祖神

Img_7060 古町宿庚申塔(右)・双体道祖神

Img_7067 町川田一里塚跡

国道に出て右に進んだ所。

Img_7070_2 子育地蔵堂

向う側は千曲川の土手。

Img_7071 子育地蔵

Img_7076 湯島天満宮信濃分社 《地図

北野美術館の敷地内に、北野建設が奉納した湯島天満宮(東京文京区)の分霊社。

Img_7078 松代道道標(右)

Img_7081 「右ハ松代 左ハ保科 道」

Img_7083 旧家

Img_7086 和菓子店

Img_7089 正満寺山門

Img_7090 説明板

Img_7094 綿打追分 【ル-ト地図】の④

矢代宿で合流した谷街道はここで右に分かれ、飯山から十日町へと進む。

左は綿打西宮神社

Img_7101 手を付け直したようだが、ちょっとでか過ぎる。

Img_7102 千曲川の河川敷を行く。

広い河川敷では桃などの果樹栽培が盛んだ。かっては菜種栽培の一面の菜の花で、黄金島と呼ばれていたそうだ。

Img_7103 右下は養蚕神社か? 《地図

屋島橋の東側で県道をくぐり、福島宿に入る。

Img_7109 浄国寺 《地図

慶長7年(1602)の創建という。(文禄元年(1592)の説もあり) 本堂は天明年間(1781~88)の再建。

Img_7116 福島宿案内図

Img_7108 福島宿本陣跡①

大笹街道の起点で江戸への近道が通じ、江戸後期には千曲川通船が許可され交通の要衝として栄えた。荷蔵を持つ家並みが残っている。本陣はここ宿の南口と北口に2軒あった。

Img_7111 大笹街道道標(寛政2年(1790・右)

右折して大笹街道を進むと、戦国時代の須田氏の居城の福島城跡が左側にある。川中島合戦当時、軍事上の要地だったことから弘治年間(1555~57)に武田氏によって築かれ、須田氏の居城となっていた。その後上杉勢の支配となり、天正13年(1585)に落城した。

Img_7115 「右松代道」・「左草津仁札道

仁礼道は仁礼宿から上州大笹宿を通り、中山道沓掛宿、高崎宿に至る江戸への近道で、北国街道より6里短く穀物や北信濃の菜種油が江戸に運ばれた。

Img_7112 説明板

Img_7122 天神社 《地図

天徳4年(960)に京都の北野天満宮より勧請されたという、福島宿の産土神。当初は千曲川の洪水などの災難除けとして祀られた。

Img_7124 大幟

街道沿いの天神社の塀下に保管されている。

Img_7123説明板

この先の枡形を左折して行く。

Img_7128 本陣跡②

ここ先で右折して行く。

Img_7131 馬頭観音道標

台座に「左北国街道布野船渡善光寺道」・「右中野小布施道」で、もとは堤防の西側の飯山道との分岐点にあったそうだ。

Img_7133 説明板

Img_7132 馬にまたがる珍しい馬上馬頭観音

Img_7130 布野の渡し跡 【ル-ト地図】の⑤

めったに川留めにならず、松代道の発展を支えた。「雨降り街道」と呼ばれた所以だ。斜めに北西方向に村山神社の南側あたりに渡っていたようだ。今は前方の村山橋を渡るしかない。

Img_7134 説明板

Img_7141 千曲川河川敷・村山橋・斑尾山(1382m)

Img_7146 村山橋(838m)を渡る。《地図

長い橋で河川敷も広い。なかなか流れが見えて来ない。

Img_7143 長野電鉄長野線も通っている。

志賀高原へスキーに行く時は、長野から湯田中まで夜行電車に乗って行った。廃線になるなよ。

Img_7152 やっぱり千曲川は大河だ。

Img_7155 勝楽寺跡

慶長11年(1606)に福島宿に移転した。

Img_7160 村山神社 《地図

Img_7162 道標(文化?年・村山神社前)

線刻された地蔵の右に「東ハ北国ゑちご飯山水内郡」

Img_7163 左に「西ハ善光寺戸隠」

Img_7164 千曲川土手

Img_7166 名主小坂家

Img_7168

Img_7169 柳原駅から長野駅に戻った。

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2012年5月16日 (水)

北国街道⑧(新井宿→高田城下)

2012年5月3日

北新井駅(JR信越本線)・・・(上信バイパス)・・・諏訪神社・・・石沢踏切(信越本線)・・・越後出雲神社・・・北陸新幹線(建設中)ガード・・・根切松跡(明治天皇石沢小休所跡)・・・瀬渡橋(矢代川)・・・茶屋町交差点・旧道・・・大和神社・今泉城跡・・・願清寺・・・弘法の清水・・・荒町交差点・県道579号・・・高田城下・伊勢町口番所跡・一里塚跡碑・題目塔(高田新田交差点)・・雁木通り・・南本町2丁目交差点・・青田橋(青田川)・・神明宮・・最賢寺・・正輪寺・・高橋飴屋・・時の鐘(瑞泉寺)・・・春日神社・・胎蔵院・・札の辻・・旧師団長官舎・・旭橋(青田川)・・小栗美作邸跡・・榊神社・・高田公園・・高田城跡・・大手橋跡・・市之橋(青田川)・・本町通り・・町会所跡(雁木通りプラザ)・・町家交流館高田小町・・今井染物店・・・加賀道・奥州道追分(本町7丁目交差点)・・宇賀魂神社・・・高田駅(信越本線)

 昨日と一昨日は北国街道松代道を歩いた。朝まで降り続いた雨も上がり、晴れてきて蒸し暑い。高田城下を散策して加賀道(北陸道)と奥州道(北国街道)の追分まで行き、今回の街道歩きの終点とした。

  【ル-ト地図】(13.8km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7392 昨日の雨で雪解けが進んだ山肌。

Img_7406 越後出雲神社 【ル-ト地図】の①

江戸時代後期に出雲大社の分社として祀られ、大社参詣の案内をする御師の宿所もあったそうだ。

Img_7412 根切松碑・明治天皇小休所跡(左)

街道に張り出していた樹齢500年の松の根は明治天皇巡幸前に切られた。天皇が通るくらいで切ることはなかろうに。碑を建てても松の霊魂は浮かばれまい。

Img_7415 根切松碑

Img_7418 瀬渡橋(せわたりばし)を渡る。《地図

Img_7416 説明板

Img_7419 矢代川(瀬渡橋から)

早い流れで、浅くもないようだ。徒歩渡りの時は難儀したことだろう。正面は工事中の北陸新幹線。

茶屋町交差点を右折する。

Img_7423 大和神社 《地図

Img_7426 今泉城跡の土塁跡

南朝方の村山義信隆義親子の居城跡という。土塁といってもわずかな高さしか残っていない。右端は相撲の土俵に被されたブルーシート。

Img_7424 説明板

Img_7431 弘法の清水跡(願清寺の先の左側)

Img_7432 説明板

荒町交差点で右折し、県道を北行する。

Img_7434 伊勢町口番所跡碑・一里塚跡碑・題目塔(高田新田交差点) 【ル-ト地図】の②

ここが高田城下への南の入口

Img_7435 南東約30mの旧地から移設された題目塔など。

Img_7432 説明板

Img_7441 「雁木通り」が始まる。

雁木の総延長は16kmにも及び、日本一だそうだ。

Img_7452 旧家

Img_7459 屋根の雪下ろし用の梯子

今年は雪が多く大変な作業だったろう。

南本町2丁目交差点を左折し、青田橋(青田川)を渡って行く。

Img_7466 高橋飴屋 《地図

寛永年間(1624~43)の創業という老舗。十返舎一九も訪れ、笹飴は『坊ちゃん』(夏目漱石)にも登場する。左に「十返舎一九ゆかりの地」碑。

Img_7468 梁は高田城の廃材

2階を修理・改築する時に見つかったそうだ。美人の若女将が詳しく説明してくれた。

Img_7546 『坊ちゃん』(夏目漱石)でおなじみ笹飴。

みやげに買って帰宅して食べて思い出した。ずっと以前に高田出身の職場の同僚から貰って食べたことがある。食べてびっくり、入歯の人は食べないように。

Img_7471 時の鐘(瑞泉寺)

寛文9年(1669)に高田城主の松平光長の母、高田姫(勝姫)が造らさせたもので、呉服町の町年寄屋敷に設置された。昼夜12回の時を告げ、その音は遠く直江津まで響いたという。明治9年の大火以後、時報の役を終えて瑞泉寺の釣鐘になるまで「越後高田にすぎたるものは、大寺道心時の鐘」と唄われ町民に親しまれていた。♪『越後いたこ唄』♪ 
これを「・・・・犬、寺、道心、時の鐘」と書いたものが多いが「大寺」の間違いだ。

Img_7477 札の辻 【ル-ト地図】の③

Img_7502 案内図(南北が逆になっている)

上方の中央あたりの札の辻を右折して、旧師団長官舎から高田公園、高田城跡に向かう。

Img_7480 旧師団長官舎 《地図

Img_7481 説明板

Img_7486 小栗美作住居跡 【ル-ト地図】の④

御家騒動の越後騒動で切腹した高田藩家老。藩主松平光長は家中取り締まり不行届きであるとして伊予松山藩の松平定直に預けられて高田藩は改易となり、美作派・反美作派とも八丈島などに遠島などの処分となった。

八丈島に流罪となった者たちのその後】(八丈島歴史民俗資料館の伊藤宏氏から送って頂いた「資料解説№13」より):「越後騒動で八丈島に流されたのは永見大蔵(家老で糸魚川城代・反美作派)とその家来の浜口源治郎、荻田主馬(藩主松平光長の異母弟・反美作派)と家来の中川源八郎、渡辺大隅守綱貞(関与した大目付)と家来高松武兵衛、小栗甚之丞と倅兵右衛門の8人で、1681年(延宝9)6月のことです。
 氷見大蔵は中之郷村預かりとなり、在島21年1701年(元禄14)の大飢饉の時に千両箱を枕に餓死したと伝えられています。遺品の護持仏は空襲で焼失しましたが、「火を取る玉・水を取る玉」が長楽寺に伝えられています。(町教委が管理) 長い間不明とされていた墓は子孫の努力で2004年(平成16)末、中之郷粥倉墓地で発見されました。
 荻田主馬も同じ飢饉の犠牲者となりました。粥倉にあった墓は60余年後の明和年間には不明になっていましたが、流人の青山喜平治が24年を費やして探し出し、隣接地を買い求めそこに流人の霊を供養したことが伝わっています。(八丈島流人銘々伝)
 江戸町奉行渡辺大隅守綱貞(3千石)は1682年(天和2)2月病死と記録されています。
 三根村預りとなった小栗父子は父甚之丞が1693年(元禄6)5月に病死、倅兵右衛門は1710年(宝永7)赦免となりました」

Img_7500 高田公園から

Img_7508 高田城三重櫓 《地図

高田城は天守閣・石垣のない平城で、三重櫓は天守閣の代わりだった。

Img_7512 極楽橋(復元)

二の丸から本丸に通じる木橋。

Img_7518 町会所跡(雁木通りプラザ) 《地図

町年寄が集まり町政を決めた集会所跡。

Img_7523 高田小町(町家交流館) 《地図

Img_7524 今井染物店 《地図

江戸後期に建てられた商家。古い形式の雁木の上に部屋がある「造り込み式雁木」が残る。

Img_7526 雁木の下

Img_7529 右が「造り込み式雁木」で、左が庇だけを前に出す「落とし式雁木」

Img_7531 追分 【ル-ト地図】の⑤

加賀道(北陸道)は左に、奥州道(北国街道)は右へ。

Img_7537 追分道標(現在は少し北の宇賀魂神社に移設してある)

「右おゝ志う道 左かゝ道」

Img_7538 説明板

Img_7544_2 高田駅

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2012年5月14日 (月)

北国街道⑦(田切宿→新井宿)

2012年4月30日

妙高高原駅(JR信越本線)・・・県道39号・・・旧道・・毛祝坂・・・深沢橋(深沢川)・・・田切一里塚跡碑・・・小田切坂跡・第二白田切橋(白田切川)・・・馬頭観音・聖徳太子塔・・田切宿・・旧道入口(田切口)・・郷田切橋(郷田切川)・・・旧道入口(二俣口)・・二俣宿脇本陣跡・・馬寄場跡・・西蓮寺・・伏見稲荷社・・・御館の乱無名戦士の墓・・・国道18号・・旧道・・・大田切川・・大田切清水・・・坂口新田一里塚跡あたり・・旧庄屋家・・・国道18号・・妙高山麓直売センター・・旧道・・・国道18号・・・小野沢交差点・旧道・・・弥勒仏頭・・関山神社・妙高堂・・・慈雲寺・・・北沢一里塚跡・・・北沢の一本松・(国道18号)・・・稲荷山新田地区・・・覚願寺・・・(片貝縄文資料館)・・・片貝の筆塚・・・片貝橋(片貝川)・・・諏訪神社・・・馬洗い場・・・市屋一里塚跡あたり・・・若宮神社・・・北国街道踏切(信越本線12番)・・松崎宿・・安楽寺・・二本木宿・・明治天皇小休所跡・白山神社・ 二本木宿石柱・・・神明神社・・・北国街道踏切(16番)・・・(二本木駅)・・・藤沢一里塚跡・・・神明神社・・・馬頭観音・・立場茶屋跡・小出雲坂・・・賀茂神社・・・飯山道道標(小出雲交差点)・・・辻屋橋・・・上町延命地蔵堂・・新町宿・・極生寺・・市神社・・本陣跡あたり・・照光寺・・新井別院・・・石塚一里塚跡・・・康源寺・・・北新井駅(信越本線)

  【ル-ト地図】(26.0km)

 毛祝坂を下り、かつての難所の白田切川、郷田切川、大田切川の田切を越えて行く。合宿の松崎宿・二本木宿から小出雲坂を下り新井宿に入った。まだ時間に余裕があるので北新井駅まで進んだ。高田城下はもうすぐだ。

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Img_6679 毛祝坂(けわいざか)を下る。 【ル-ト地図】の①

越後方面から関川関所に向かう旅人にとって最後の上り坂で、①途中の泉で身なりを整えたことから、化粧(けわい)と名づけられたというが、江戸の吉原土手から吉原遊郭へ下る化粧坂とは違い、関川関所までは3km以上もある。身なりも化粧もくずれてしまうのでは。『江戸の坂 東京の坂』(横関英一)には、①の説と②「この地の人は、この坂の頂上、関川宿に近いところに、昔、遊女屋があったので、この坂を化粧坂と言ったと話していた」と記す。

Img_6685 田切一里塚跡標柱 《地図

塚は深沢川の北側にあったそうだ。

Img_6688 第二白田切橋(旧国道)で白田切川を渡る。《地図

雪でガードを川の方へ越えなければ通れない。ちょっと前までは雪で通行不能だっただろう。昔はつづら折り6回の小田切坂で川まで下りて越えた難所だった。今は上方を国道18号が直線に一気に越えている。

妙高火山の噴出物で台地が深く浸食され田切が生じた。妙高山麓の南地獄谷から流れて来る川で、温泉成分で白濁し田切川の名がある。昔は田切越えは街道の難所だった。

Img_6691 田切宿入口の馬頭観音(天明6年(1786))・聖徳太子塔

この先で左にカーブして行く。

Img_6690 田切宿の家並み

右側に問屋があったようだが、本陣・脇本陣などは不明。北隣の二俣宿との半月交代問屋業務の合宿だった。

Img_6693 ハルニレの木

この先で郷田切橋を渡れば二俣宿となる。

Img_6694 旧道入口(田切口)

右に標識が立つ。街道は右に下って郷田切川を渡っていた。近くの民家の人の話では渡る橋はないそうだ。

Img_6697 郷田切川

今は旧国道の郷田切橋で渡る。

Img_6700 旧道入口(二俣口)

旧道は郷田切川を渡ってここへ上って来ていた。

Img_6701 二俣宿脇本陣跡畑山家

問屋も兼ねていた。明治天皇小休所跡碑が立つ。

Img_6702 馬寄場跡

昔は宿の馬をすべて洗えるほど大きかったという。

Img_6705 御館の乱無名戦士の墓 【ル-ト地図】の②

上杉謙信の跡目相続の内乱。14基の五輪塔が並ぶ。正面に佇むには無名戦士の子孫ではなかろう。

Img_6709 大田切川へ下る。《地図

曲りながら旧国道を下る。まっすぐ渡っている国道をくぐって行く。その向こうは上越自動車道。昔はつづら折りの十三曲りの難所だった。

Img_6710 鉄板を継ぎ合わせた仮設のような橋で、大田切川を渡って上って行く。

Img_6713 大田切清水 【ル-ト地図】の③

冷たくて美味い水で喉を潤す。まさに甘露水だ。清水の上に馬頭観音が祀られている。昔は人も馬もここで一息ついたのだろう。

Img_6716 坂口新田一里塚跡あたり

塚跡の標識などもない。「有害無益の丘は総て廃棄し、人民へ払下候」(明治9年の内務省の通達)

東塚跡の民家は「一里塚の家」と呼ばれていたそうだ。

Img_6717 旧庄屋家

国道18号に出て、妙高山麓直売センターの先で右に旧道に入る。

Img_6719 旧道(右)

再び国道18号に出て進み、小野沢交差点から左に旧道に入る。

Img_6722_2 小野沢交差点で斜め左に入って行く。

Img_6726 興禅寺

この先の左にカーブする右側あたりが刑場跡らしい。

Img_6727 大日像の(右)

Img_6728 大日像

足を省略した「関山のいけ込み式石仏」というようだ。

Img_6732 泉地蔵(正面) 《地図

ここを右折する。

Img_6733 泉地蔵

2体の地蔵

Img_6740 弥勒菩薩の小祠

「県指定文化財」の標柱が立つ。

Img_6738 弥勒の頭だけだ。

もとからこの姿だったのか? これも「関山のいけ込み式石仏」なのか?

Img_6742 関山神社

毎年7月第3土日には1200年の伝統を誇る「火祭り」が催される。

北側に別当寺だった宝蔵院跡がある。

Img_6745 関山石仏群(妙高堂の隣の覆屋内)

26体の平安から鎌倉時代の「いけ込み式」の弥勒菩薩。顔はかなり風化し崩れているが、中には弥勒のようにも見える顔立ちの像もある。

Img_6746 慈運寺山門

Img_6751 北沢一里塚跡 【ル-ト地図】の④

西塚が残る。説明板などはない。

Img_6752 北沢の一本松

ここで妙高市から上越市に入る。

Img_6757 妙高の山並み

今日は少し雲が多くなってきたか。

Img_6764片貝縄文資料館(旧片貝小学校)

Img_6765 片貝の筆塚(嘉永3年(1850)・片貝集会所)

伊勢国津藩槍術指南役で、浪人中の公田権右衛門と和五郎親子が、当地で村民に文字や書、詩歌の手ほどきをした徳を讃え村民が造立した頌徳碑。

Img_6771 ちょっと曇ってはいるが、なかなかの風景だ。

Img_6778 馬洗い場

右の石上に馬頭観音が3体。「木曽義仲の太刀割石」との伝承もあるそうだ。

この先の右側に市屋一里塚があったようだが、塚跡・標示などはなかった。

Img_6781 右方を信越本線が行く。

Img_6782 若宮神社の社叢

神社の前を通り、北国街道踏切(信越本線12番)を渡り、松崎宿・二本木宿へと進む。《地図

Img_6788 松崎宿の家並み

二本木宿と連続した合宿で、問屋業務は半月交代で行った。消雪パイプが埋まり、散水する地下水の鉄分が酸化し、路面が褐色に染まっている。

Img_6790 安楽寺

松崎宿と二本木宿には本陣がなく、この寺が本陣役を担い、加賀藩の休息所になっていた。

Img_6792 明治天皇二本木小休所跡

明治天皇は安楽寺ではなく、ここ(元松原家)で休んだ。右隣は白山神社。

Img_6794 二本木宿石柱(白山神社境内)

「従是内 口附無之 小荷駄乗通るべからず 邑の内 咥きせる無用 二本木宿」(この二本木宿に入ったら綱を放すな。馬に荷物をつけて通る者は、馬に乗って通行してはいけない。村内はくわえ煙草で歩いてはいけない」

もとは130mほど北側の街道脇に立っていた。

Img_6795 高床山(528m) 《地図

東麓に飯山街道、西麓に北国街道、北東の城山(348m)には鳥坂城跡がある。

Img_6796 街道の右下(東側)には片貝川が流れる。

Img_6798 下って二本木駅の方へ向かう。

Img_6802 二本木駅 《地図

スイッチバック式の駅

Img_6804_2 藤沢一里塚跡(東塚・右)

戦後の食糧増産のため、西側の塚が崩されて畑となり、東塚も一部破損している。

Img_6808 右へ小出雲(おいずも)坂へ向かう。

Img_6810 神明神社

Img_6812 馬頭観音

Img_6819 立場茶屋跡

小出雲坂上の峠の茶屋で、加賀藩の休憩所になっていて、加州立場と呼ばれた。柏餅が名物だったそうだ。左は茶屋の石臼か。

Img_6817 小出雲坂を下る。 【ル-ト地図】の⑤

「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたを何時忘られよ」と里謡に歌われた。樹々の間に遥か高田城下、その向こうに日本海が見えたというが、今はその景観は望めない。

ここで再び上越市から妙高市に入る。

Img_6818 説明板

Img_6822 坂上方向を振り返る。

昔は松並木で、映画のロケ地にもなっていたという。今は桜並木だが、もうだいぶ色褪せてしまった。

Img_6825 賀茂神社の湧き水 《地図

これも冷たくて旨い水だった。蛇口からは絶えず水が流れている。

Img_6827 賀茂神社

背後が桜の名所の経塚山公園で、妙高連峰・日本海を遠望できるそうだ。

Img_6828 飯山道道標(明治5年)

小出雲交差点の右の「よしこし」前

Img_6831 「左 飯山道」・「右 善光寺道」

折れたのを継いだのだろう。

Img_6837 上町延命地蔵堂

Img_6838 説明板

Img_6839 延命というより子育地蔵のようだ。

Img_6845 新井宿宿場図

井」陣屋跡の方へも行ってみたが、どこか分からなかった。天領だった江戸中期に陣屋が置かれ五万石余を支配していたそうだ。

Img_6844 市神社 《地図

新井宿の六斎市の守り神。

Img_6846 右が本陣跡あたりか。

この先の左側が高札場跡。

Img_6851 酒屋のようだ。

Img_6854東本願寺新井別院 《地図

教義をめぐる異安心論争で敗れて牟礼に追放された願生寺跡に、東本願寺末寺や門徒を支配するための掛所(本山の出先機関)として再興された。

右は「明治天皇新井行在所」碑、本堂は修理中だった。

Img_6858 渡部豆腐店

Img_6860 石塚一里塚跡

西塚跡に碑のみ。

Img_6865 康源寺山門 《地図

元禄8年(1695)に建てられた、三間一戸、入母屋、金属板葺きの八脚鐘楼門。

Img_6868 大崎の石屋 《地図

矢代川の千草石(輝石安山岩)を利用して、村民の多くが石屋だったそうだ。

Img_6872 何の店だったか。

Img_6873 今日も予定通り無事に歩けたことを山々に感謝して北新井駅に向かった。

Img_6874 マッチ箱のような北新井の駅舎。

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2012年5月12日 (土)

北国街道⑥(牟礼宿→関川宿)

2012年4月29日

牟礼駅(JR信越本線)・・・牟礼宿碑・信越線ガード・牟礼橋(八蛇川)・・牟礼宿・東の枡形・・旧鎌問屋・・牟礼神社・・本陣跡・・上の酒屋跡・・徳満寺・・證念寺・西の枡形・十王坂・・十王堂・・(金附場跡)・・武州加州道中堺碑・・・牟礼橋(信越本線)・・・高札場跡・・・小玉坂・・観音平の石仏群・・小玉坂一里塚跡・・明治天皇清水窪小休所跡・・・庚申塔・・・池中開田記念碑・・・落影地区・・立場の家・・国道18号・・・旧道・・・高橋酒造・・・古間一里塚跡・・・古間宿・・古屋跡・・第4北国街道踏切(信越本線)・・・寿橋(鳥居川)・・・柏原宿・・諏訪神社・小林一茶旧宅・戸隠山道道標・・本陣跡・・明専寺・・旧中村家住宅・・村の鍛冶屋碑・・・柏原跨道橋(上越自動車道)・・・野尻一里塚跡・・・芭蕉句碑・・・飯山道川東道道標・・伝九郎神社・・・野尻湖・・中勘助詩碑・・野尻宿・・本陣跡・・安養寺・御金蔵跡・・真光寺・・・野尻坂・・・国道18号・・・野尻坂峠・・・旧道・・・スノーシェード赤川1号・・・2号・・・赤川一里塚跡・・赤川神社・・・信越本線ガード・・一ノ橋(関川)・・うば(姥)坂(五文坂)・関川関所跡・・浄善寺・・関川宿本陣跡・・・上原宿問屋跡・・・天神社(大杉・親鸞袈裟掛松)・・・スキー神社・・・神明神社・・・妙高高原駅(信越本線)

  【ル-ト地図】(21.1km)

 今日も歩くには絶好の気持ちのいい晴天だ。牟礼宿から古道の趣が残る小玉坂を上り、小林一茶の里の柏原宿を通り野尻湖へ下った。野尻宿から野尻坂峠を越えて、スノーシェードをくぐり関川関所で越後国に入った。

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Img_6341 牟礼宿の家並み

往時は街道の中央を徳満寺堰の水を取り入れた用水が流れていた。

Img_6343 古間鎌の旧問屋

薄刃の片刃草刈鎌で、軽くて切れ味がよく、古間の問屋が全国に広く流通させた

Img_6350 牟礼宿説明板

Img_6346 牟礼神社

北国街道が開かれ牟礼宿ができて、矢筒山から移された。

牟礼宿から善光寺宿を通らない長沼道(松代道)の通行を命じた制札、定書が保存されているそうだ。この間、善光寺宿は寂れてしまった。

Img_6351 本陣跡(JAながの中郷支店) 《地図

この先の右側が「上の酒屋跡」で、本陣より広い間口の屋敷を持ち、江戸後期には宿を二派に分ける対立関係にあったという。積雪地帯で信号機が縦型に変わっている。

Img_6358 徳満寺鐘楼門

境内を徳満寺堰が流れ、上流で分水し宿場用水としていた。

Img_6354 今も道の片側を流れる徳満寺堰の水。正面奥の證念寺の前が西の枡形で、左折して十王坂を上って行く。

Img_6361 證念寺

右に「北国街道牟礼宿 十王坂」碑

Img_6363 十王坂 【ル-ト地図】の①

目当てのシダレ桜に間に合った。なかなか風情がある坂だ。

Img_6367 坂下方向

Img_6369 坂上の十王堂(左)

Img_6370 居並ぶ閻魔大王ら十王

この先の右側に佐渡から運ばれた金銀荷を新しい馬の背に付け替えた広場の金附場跡があるのだが、一本西側の道を進んでしまったようで見落とした。

Img_6372 飯縄山(1917m)

北信五岳の一つ。

Img_6375 武州加州道中堺碑が移設されている小公園

ここに「北国街道小玉地区マップ」(小玉こどう会)が置いてある。

Img_6378 武州加州道中堺碑

このあたりが加賀藩の参勤交代道中の中間地点。文字はかすれていて読みにくい。

Img_6377 説明板

Img_6385 加賀藩小休所跡

安政3年(1856)から加賀藩の藩主の小休所になった黒栁家。その頃造園したという庭園が残るそうだ。

Img_6388 牟礼橋(跨線橋)を渡って右に入り小玉坂へと進む。

Img_6390 高札場跡

Img_6389 地区の掲示板に使われている。お上の威光も地に落ちたか。

Img_6398 小玉坂の途中から振り返る。

小玉坂は3kmにも及ぶ山道で、石洗い坂・観音坂・赤坂・金坂の総称。

Img_6393 「小玉こどう会」の案内板

Img_6401 この先の分岐を右に行くのが古道。

Img_6405 説明板

Img_6403 髻山城跡(正面左)

川中島合戦で武田軍が陣取った地で、上杉軍は小玉坂から偵察した。

Img_6402 説明板

Img_6408 小玉坂の古道 【ル-ト地図】の②

美しい日本の歩きたくなる道500選(一茶と歩く北国街道・野尻湖のみち)』に選ばれている。

傾斜の緩い峠越えの道といった感じだ。「小玉こどう会」が保存・整備に努めていて気分よく歩ける。

Img_6410 観音平の馬頭観音などの石仏群

Img_6409 説明板

Img_6411 倒木をくぐって。

Img_6414 小玉一里塚跡

清水が湧き、茶屋があり、前の崖(ジャガン崖)から昨日通った四ツ屋一里塚が見えたという。

大きな石碑は小玉の鎌鍛冶元祖のひとり、黒栁(くろやなぎ)清八郎の頌徳碑。

Img_6415 説明板

Img_6417 木々の間からの眺め。四ツ屋一里塚跡はどのあたりだったか。

Img_6418 木漏れ日の風情ある古道を行く。

このあたりに東山道支路の「ミサカ(御坂)」ゆかりの「見坂平」(みいざかだいら)の地名が残る。

Img_6421 道普請の負担軽減嘆願書

Img_6428 明治天皇清水窪小休所跡

奥に「野立之趾碑」が立つ。野立ての御膳水はこの清水の水ではなく、この先の落影集落から運んだそうだ。ここが小玉坂の最高地点で700m以上はある。緩やかに下り、小さな庚申塔の前を通り落影集落へ入る。

Img_6446 黒姫山(2053m)・妙高山(2454m)

左端に少し見えるのは戸隠山(1904m)。

Img_6451 落影地区に入る。《地図

右端は立場の家

Img_6465 落影地区説明板(北の出口に設置)

Img_6463 国道18号に出て北に進み、北国街道の標識で左へ旧道に入って行く。

Img_6467 黒姫山・戸隠山(左)

Img_6469 国道から標識に従い旧道に入る。《地図

Img_6472 妙高山

Img_6485 高橋酒造

「人情細やか古間の里は 鎌と酒とで名が高い」と古間音頭で唄われた。宿内に3軒の酒造があり、明治になって高橋酒造に受け継がれたそうだ。

Img_6491 古間一里塚跡

一茶の「ぬかるみに 尻もちつくな でかい蝶」(小古間の湿地が泥海になり、引き返した時の句)と、白飛の句が並んだ句碑が立つ。

Img_6492 説明板

Img_6496 古間宿に入る。

鳥居川を挟んで柏原宿との合宿(あいしゅく)だった。

Img_6498 街灯に古間音頭で踊る姿が。

毎年、古間盆踊りが開催されるようだ。

Img_6502 古間宿説明板

Img_6503 宿場図

Img_6499 信州古間鎌問屋の「油屋」小林与市商店(右)

Img_6504 古屋(本陣)跡

寿橋(鳥居川)を渡って柏原宿に入る。《地図

Img_6513 諏訪神社

Img_6515 一茶句碑

もとは柏原宿入口に建てられたが、松蔭(松平氏のお蔭)と詠んでいるので、北陸巡幸の明治天皇の目に留まらないようにと諏訪神社境内に移したとか。一茶の句碑で最古のものという。

Img_6516 説明板

Img_6514 諏訪神社前の旧家

Img_6540 柏原宿案内板

Img_6541 宿場図

Img_6519 一茶の弟の町家(整備・復元)

Img_6528 説明板

Img_6522 一茶の終(つい)の棲家の土蔵(整備・復元) 【ル-ト地図】の③

隣に一茶の子孫が営む「一茶茶屋」がある。

Img_6526 説明板

Img_6535 戸隠山道道標

戸隠神社への道

Img_6534 説明板

Img_6539 本陣跡

向い側が脇本陣の旅籠中村屋跡。

Img_6537 説明板

Img_6544 明専寺

小林家の菩提寺で、3歳で母を亡くした一茶の遊び場だった。

Img_6546 一茶句碑

「我と来て遊べや親のない雀」

一茶の真蹟を拡大した文字。

Img_6548 鍛冶屋跡中村家住宅

Img_6549 説明板

Img_6552 「しばしも休まず槌打つ響き・・・」の「村の鍛冶屋」も絶えてしまった。

Img_6554 「村の鍛冶屋」歌碑

右端は一茶句碑:「陽炎や きのふは見へぬ だんご茶屋」

Img_6553 説明板

Img_6556 打刃物展示場

ここの黒姫そばで昼食にしようと思ったが、休日でちょうど昼時で満杯であきらめた。

Img_6558 上越自動車道・妙高山(柏原跨道橋から) 《地図

連休中でも車の往来は少ないようだ。

Img_6562 野尻一里塚跡

両塚が残っている。

Img_6565 説明板

近くの手打そば屋で昼食とした。美味い蕎麦だった。

Img_6568 芭蕉句碑(右)

裏側にも一茶の門人の句を刻む。芭蕉句碑ならついでに裏も見てくれるか。うまい事を考えたものだ。

Img_6569 説明板

Img_6576 伝九郎神社 《地図

野尻宿の問屋伝九郎が開いた伝九郎用水が脇を流れている。

Img_6575 「飯山道・川東道」道標

川東道は柏原・古間・牟礼を通らないため3宿との間で争いもあったという。

Img_6573 説明板

Img_6580 ナウマンゾウ博物館

野尻湖といえばナウマンゾウか。休日で子ども連れの見学者たちが入って行く。

Img_6584 野尻湖(水面の標高657m)

正面は琵琶島の宇賀神社の鳥居。かつて上杉謙信に反抗した長尾政景を、野尻湖(異説あり)に誘い出し、共に湖底に沈んだという琵琶島(宇佐美)城主、宇佐美定行の墓がある。

Img_6593 野尻宿案内板

Img_6594 宿場図

Img_6596 本陣跡

右に標柱、少し先に「明治天皇野尻小休所跡」碑が立つ。

Img_6601 安養寺

Img_6603 御金蔵跡(太子堂)

佐渡からの金銀は3日でここに着いて保管され、翌日に牟礼の金附場へと運ばれた。

Img_6602 説明板

Img_6604 説明板

中勘助は知らず、むろん「銀の匙」・「島守」も読んでないが。野尻湖の公民館前には詩碑が建っていた。

Img_6606 真光寺

裏に野尻湖に沈んだ長尾政景の墓がある。墓は当初野尻湖畔に建てられたが、墓の前を乗馬で通ると必ず落馬するので、この地へ移されたと伝えられている。

Img_6608 野尻坂峠へ 《地図

曲がった坂で、曲坂(くまざか)から熊坂とも呼ばれた。峠の北方に伝説の大泥棒、熊坂長範の出身地とも、埋蔵金が眠るともいう長範山(768m)がある。

Img_6609 妙高山

Img_6615 野尻坂峠から下り右に入り、関川関所へ。 《地図

Img_6616 スノーシェード赤川1号をくぐる。

Img_6618 車の往来は少ない。

Img_6627 雪解け水の急流

Img_6629 赤川一里塚跡

近くに一茶の妻のきくの実家があった。

Img_6631 説明板

Img_6633 赤川神社

Img_6639関川関所跡(右)

ここから新潟県だ。今年はひなの誕生で「とき」の絵の標識は看板倒れにならずに済むか。

Img_6641_2 関川関所跡 【ル-ト地図】の④

一ノ橋(長寿橋)を渡って関所内へ。全国53関所のうちの25の重関所(重要な関所)の一つだった。

Img_6646 うば(姥)坂

勾配が急で人足が五文の駄賃で荷物を運んだことから「五文坂」とも。長い坂ではなくぼろ儲けだったろう。

Img_6650 関川宿本陣跡(大石家) 《地図》(関川関所を出て右折したすぐ先の右側)

「明治天皇関川行在所跡」碑のみ。新潟県に入ると案内板、説明板などは極度に少なくなる。

Img_6653 上原(うわはら)宿問屋跡

関川宿と隣接した合宿だった。

Img_6659 旧家

屋根の上に茅葺きの屋根を乗せているようだ。

Img_6666 天神社の大杉 《地図

境内にはひょろっとした親鸞袈裟掛松(3代目?)もある。越後の流罪生活後に、妻子を伴って関東に向かう途中、ここで休んだという伝承。この大杉は樹齢1000年以上だから親鸞が寄った時にはすでに大木だったか。

Img_6661 説明板

Img_6669 スキー神社 【ル-ト地図】の⑤

この種の神社としては日本一古く、「日本一の宮スキー神社」と称しているそうだ。雪が溶けて汚れているのが残念。

Img_6671 社殿の正面を飾るにスキー板。

Img_6676 妙高高原駅に向かう途中で、妙高山を振り返り、今日の道中もつつがなく予定通り終了したことを報告感謝だ。

好天で雪もどんどん溶けて行く。

Img_6677 妙高高原駅

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2012年5月10日 (木)

北国街道⑤(善光寺宿→牟礼宿)

2012年4月28日

長野駅(JR長野新幹線)・如是姫像・・・善光寺交差点・・・西宮神社・・・県道399号・・・時丸寺・・・円通寺・・・延命院・・・吉田神社・芭蕉と何丸句碑・・・県道60号・・善敬寺・・・吉田口留番所跡・・吉田3丁目交差点・道標・・・吉田のイチョウ・・・吉田3丁目交差点・・・他力橋(浅川)・・新町宿・・本陣跡あたり・・稲田神社・・円通庵・・飯山道道標・・徳間橋(徳間川)・・問屋場跡・・薬師堂・・原ノ坂・・十王堂・・・幸い清水碑・・・粟野神社・・・国胎寺・・・(土京川)・・・舟地蔵尊・・・旧飯山城裏門(旧池田家)・・・田子神社・田子清水・・・田子池・・・吉村坂・・・宇佐美沢一里塚跡・・・原池観音堂・・・明治天皇鍛冶ヶ窪野立所跡・・・庚申塚古墳・・・平出地区・・長沼道(北国街道松代道)追分・・高山寺・・・三本松・・・四ツ屋一里塚跡・・・前坂・・・牟礼宿碑・・・牟礼駅(JR信越本線)

 連休の前半は天気が良さそうなので、北国街道を善光寺宿から越後高田城下の加賀道(北陸道)との追分までと、北国街道松代道を歩く。好天に恵まれ、街道沿いの名残りの桜と、北信五岳の残雪の山並みを楽しみながらの6日間だった。 

  【ル-ト地図】(19.8km)

  善光寺街道(北国街道)④』の続きです。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6017 如是姫像(長野駅善光寺口)

Img_6018 由来

Img_6020 本陣藤屋跡(右のTheFujiyaGohonjin)の先の善光寺交差点を右折して行くのが北国街道。《地図

Img_6023 西宮神社

「およべっさん」と親しまれているそうだ。善光寺七福神の「恵比須」

Img_6027 横山城跡(正面の高台)

川中島合戦の拠点の一つ。

Img_6028 新町の旧家

一里塚跡に立つという柏崎地蔵を通り過ぎてしまったようだ。

Img_6030 旧家

Img_6033 時丸寺 《地図

大和国三輪の里の若者、時丸は死んで地獄に墜ちたが、善光寺如来の加護により蘇生し、その恩に報いるために庵を結んだという、これも「善光寺縁起」のお話。街道を東に進んだ円通寺には「時丸塚」がある。

Img_6031 時丸寺の六地蔵の一つは赤子を抱いている。

Img_6038 三輪地区の旧家

Img_6041 旧家

Img_6043 吉田神社

「吉田のイチョウ」の旧社地からここに遷座した。

Img_6045 全国68州の延喜の頃の一の宮の石祠。

Img_6047 芭蕉句碑(左) 「雲折ゝ 人を休むる 月見か那」

何丸句碑(右) 「只涼し 水ものほらす 月も来す」

Img_6050 街灯に「北国街道」

Img_6053 善敬寺

鐘楼門か?

Img_6055 角源人形店

Img_6056 「蕎麦 岡澤」の下に「北国街道吉田口留番所」(吉田3丁目交差点手前)

Img_6077 吉田3丁目交差点 《地図

電柱の右下に道標(明治7年)。この北西側に何丸の生誕地があるようだ。

Img_6076 「須坂 山田温泉 草津 長沼 小布施」

吉田3丁目交差点を右折して、「吉田のイチョウ」を見に行く。

Img_6067 吉田のイチョウ  【ル-ト地図】の①

ここが吉田神社の旧社地。旧北国街道はこの前を通り、稲積一里塚へ向かっていた。

Img_6065 説明板

吉田3丁目交差点に戻り、他力(たぢから)橋を渡って新町宿に入るが宿場の面影は薄い。本陣跡吉沢家も建て替えられて、どこか分からず通り過ぎた。

Img_6085 円通庵

村上義清の守護仏で、行基の作と伝える像が本尊だったそうだ。

Img_6084 説明板

Img_6086 北国往還・飯山道道標(正面の建物の前)

北国街道は直進。

Img_6088 道標(慶応元年(1865))

Img_6089 説明板

Img_6095 右のJAながの若槻支所が、徳間村の問屋場跡 《地図

この先の東条村にも問屋場があった。

Img_6099 旧家

Img_6102 原ノ坂を上る。 【ル-ト地図】の②

左は十王堂で、その前の石祠は万治3年(1660)の庚申塔。

北隣に蚊里田八幡宮参道鳥居が立っている。神体は神功皇后が朝鮮出兵の時に肌身につけていた 鎮懐石(男根石)だそうだ。ここからは1kmほどあるのでパス。

Img_6105 石像の中央が閻魔大王か。

Img_6103 説明板

Img_6107 原ノ坂(坂下方向を振り返る)

けっこう上って来ている。

Img_6111 幸清水碑

碑の下部に「是ヨリ西北 壱丁余・・」とある。そんなに近ければ今も清水が湧いているか見に行くべきだった。

Img_6109 説明板

Img_6113 粟野神社 《地図

Img_6115 幸神塔・猿田彦塔

幸神塔を祀る神社は長野県内でも珍しいそうだ。

Img_6114 説明板

Img_6116 国胎寺

Img_6119 六地蔵(明和4年(1767)建立)

Img_6117 説明板

Img_6123 土京川

これでもれっきとした一級河川よ。

Img_6132 「土京山城跡まで680m」の標識

この城の詳しいことは分かっていないそうだ。

Img_6138 正面奥の山頂の五重塔のように見える物は、三登山(923m)のアンテナ鉄塔か?

Img_6140 舟地蔵尊

雨乞いの地蔵さん。

Img_6139 説明板

Img_6142 旧池田家 《地図

表門は飯山城裏門を移築。

Img_6147 飯山城裏門

千曲川を舟で運んだそうだ。右に明治天皇田子小休所跡碑。

Img_6146 説明板

Img_6151 田子神社参道

Img_6152 畑の向うにぽつんと社殿。

Img_6159 田子清水

明治天皇の御膳水となった湧き水。街道沿いにはこの水を使った茶屋があり、造酒屋が8軒もあったという。

Img_6155 説明板

Img_6168 田子池

東山道の支路の多古駅は田子周辺ともいうようだ。

Img_6170 桜も見頃は過ぎたがまだ楽しめる。

観音山の標示がある。

Img_6182 吉村坂の上りとなる。 【ル-ト地図】の③

Img_6187 長い坂だ。

Img_6183 諏訪社(右端奥)か?

Img_6192 宇佐美沢一里塚跡

塚跡に地蔵と無縁仏碑が立つのみ。このあたりは上杉謙信の軍臣の宇佐美定行にゆかりがあるのか。

Img_6204 右に下って原池観音堂に寄る。

Img_6202 観音堂前から原池 《地図

華僑の観音堂だそうだ。

Img_6207 しだれ桜もまだ見頃だ。

Img_6209 色とりどりに競って咲いている。

Img_6216 明治天皇北陸巡幸野立所跡

御座所の石垣が残っている。

Img_6222 髻山(もとどりやま)城跡(正面・744m)

ここも川中島合戦の一拠点となった山城。

Img_6239 庚申塚古墳 【ル-ト地図】の④

まさに「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」(梶井基次郎)、「花の下にて春死なむ」(西行)だ。

Img_6230 説明板

Img_6237 横から見ると前方後円墳の形が何んとか分かる。

全長約52m、5世紀前半の築造。

Img_6231 後円部に庚申塔が祀られている。

Img_6240 平出地区に入る。

Img_6245 長沼道(北国街道松代道)との追分 【ル-ト地図】の⑤

右折した民家の敷地内に道標が移設されている。

Img_6246 長沼道(北国街道松代道)方向

白坂峠から神代宿・長沼宿松代宿へと続く北国街道の脇往還

Img_6243 追分道標

「左ながぬまみち」・「右善光寺みち」

Img_6258 高山寺

加賀藩の大名行列がここで休憩したそうだ。

Img_6254 名水の井戸跡か

Img_6261 三本松・行人塚 《地図

江戸に旅立つ15歳の小林一茶と父の別れの地あたり。

Img_6264 説明板

Img_6262 一茶句碑

「父ありて 明ぼの見たし 青田原」

Img_6265 北信五岳の黒姫山(左)・妙高山(右)

Img_6294 四ツ屋一里塚跡(東塚)

民家の柵内

Img_6293 西塚

Img_6308 前坂を下る。 《地図

Img_6311 左から庚申塔・馬頭観音・地蔵・筆塚

Img_6314矢筒城跡(左)

鎌倉時代から続く島津権八郎の平山城。カタクリの自生地だそうだ。正面奥は北信五岳の飯縄(綱)山(1917m)だろう。

Img_6316 牟礼宿碑 《地図

信越本線のガード手前。今日はここまでとして、右折して牟礼駅に向かった。

Img_6332 牟礼駅(標高487m)

その名を「飯綱三郎天狗」という、飯綱(縄)山の天狗伝説による一駅一名物の天狗像。以前は東京と金沢への運賃が同額で、「武州加州道中堺碑」(明日訪れる)が牟礼にあるのと一致していた。

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