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2012年5月16日 (水)

北国街道⑧(新井宿→高田城下)

2012年5月3日

北新井駅(JR信越本線)・・・(上信バイパス)・・・諏訪神社・・・石沢踏切(信越本線)・・・越後出雲神社・・・北陸新幹線(建設中)ガード・・・根切松跡(明治天皇石沢小休所跡)・・・瀬渡橋(矢代川)・・・茶屋町交差点・旧道・・・大和神社・今泉城跡・・・願清寺・・・弘法の清水・・・荒町交差点・県道579号・・・高田城下・伊勢町口番所跡・一里塚跡碑・題目塔(高田新田交差点)・・雁木通り・・南本町2丁目交差点・・青田橋(青田川)・・神明宮・・最賢寺・・正輪寺・・高橋飴屋・・時の鐘(瑞泉寺)・・・春日神社・・胎蔵院・・札の辻・・旧師団長官舎・・旭橋(青田川)・・小栗美作邸跡・・榊神社・・高田公園・・高田城跡・・大手橋跡・・市之橋(青田川)・・本町通り・・町会所跡(雁木通りプラザ)・・町家交流館高田小町・・今井染物店・・・加賀道・奥州道追分(本町7丁目交差点)・・宇賀魂神社・・・高田駅(信越本線)

 昨日と一昨日は北国街道松代道を歩いた。朝まで降り続いた雨も上がり、晴れてきて蒸し暑い。高田城下を散策して加賀道(北陸道)と奥州道(北国街道)の追分まで行き、今回の街道歩きの終点とした。

  【ル-ト地図】(13.8km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7392 昨日の雨で雪解けが進んだ山肌。

Img_7406 越後出雲神社 【ル-ト地図】の①

江戸時代後期に出雲大社の分社として祀られ、大社参詣の案内をする御師の宿所もあったそうだ。

Img_7412 根切松碑・明治天皇小休所跡(左)

街道に張り出していた樹齢500年の松の根は明治天皇巡幸前に切られた。天皇が通るくらいで切ることはなかろうに。碑を建てても松の霊魂は浮かばれまい。

Img_7415 根切松碑

Img_7418 瀬渡橋(せわたりばし)を渡る。《地図

Img_7416 説明板

Img_7419 矢代川(瀬渡橋から)

早い流れで、浅くもないようだ。徒歩渡りの時は難儀したことだろう。正面は工事中の北陸新幹線。

茶屋町交差点を右折する。

Img_7423 大和神社 《地図

Img_7426 今泉城跡の土塁跡

南朝方の村山義信隆義親子の居城跡という。土塁といってもわずかな高さしか残っていない。右端は相撲の土俵に被されたブルーシート。

Img_7424 説明板

Img_7431 弘法の清水跡(願清寺の先の左側)

Img_7432 説明板

荒町交差点で右折し、県道を北行する。

Img_7434 伊勢町口番所跡碑・一里塚跡碑・題目塔(高田新田交差点) 【ル-ト地図】の②

ここが高田城下への南の入口

Img_7435 南東約30mの旧地から移設された題目塔など。

Img_7432 説明板

Img_7441 「雁木通り」が始まる。

雁木の総延長は16kmにも及び、日本一だそうだ。

Img_7452 旧家

Img_7459 屋根の雪下ろし用の梯子

今年は雪が多く大変な作業だったろう。

南本町2丁目交差点を左折し、青田橋(青田川)を渡って行く。

Img_7466 高橋飴屋 《地図

寛永年間(1624~43)の創業という老舗。十返舎一九も訪れ、笹飴は『坊ちゃん』(夏目漱石)にも登場する。左に「十返舎一九ゆかりの地」碑。

Img_7468 梁は高田城の廃材

2階を修理・改築する時に見つかったそうだ。美人の若女将が詳しく説明してくれた。

Img_7546 『坊ちゃん』(夏目漱石)でおなじみ笹飴。

みやげに買って帰宅して食べて思い出した。ずっと以前に高田出身の職場の同僚から貰って食べたことがある。食べてびっくり、入歯の人は食べないように。

Img_7471 時の鐘(瑞泉寺)

寛文9年(1669)に高田城主の松平光長の母、高田姫(勝姫)が造らさせたもので、呉服町の町年寄屋敷に設置された。昼夜12回の時を告げ、その音は遠く直江津まで響いたという。明治9年の大火以後、時報の役を終えて瑞泉寺の釣鐘になるまで「越後高田にすぎたるものは、大寺道心時の鐘」と唄われ町民に親しまれていた。♪『越後いたこ唄』♪ 
これを「・・・・犬、寺、道心、時の鐘」と書いたものが多いが「大寺」の間違いだ。

Img_7477 札の辻 【ル-ト地図】の③

Img_7502 案内図(南北が逆になっている)

上方の中央あたりの札の辻を右折して、旧師団長官舎から高田公園、高田城跡に向かう。

Img_7480 旧師団長官舎 《地図

Img_7481 説明板

Img_7486 小栗美作住居跡 【ル-ト地図】の④

御家騒動の越後騒動で切腹した高田藩家老。藩主松平光長は家中取り締まり不行届きであるとして伊予松山藩の松平定直に預けられて高田藩は改易となり、美作派・反美作派とも八丈島などに遠島などの処分となった。

八丈島に流罪となった者たちのその後】(八丈島歴史民俗資料館の伊藤宏氏から送って頂いた「資料解説№13」より):「越後騒動で八丈島に流されたのは永見大蔵(家老で糸魚川城代・反美作派)とその家来の浜口源治郎、荻田主馬(藩主松平光長の異母弟・反美作派)と家来の中川源八郎、渡辺大隅守綱貞(関与した大目付)と家来高松武兵衛、小栗甚之丞と倅兵右衛門の8人で、1681年(延宝9)6月のことです。
 氷見大蔵は中之郷村預かりとなり、在島21年1701年(元禄14)の大飢饉の時に千両箱を枕に餓死したと伝えられています。遺品の護持仏は空襲で焼失しましたが、「火を取る玉・水を取る玉」が長楽寺に伝えられています。(町教委が管理) 長い間不明とされていた墓は子孫の努力で2004年(平成16)末、中之郷粥倉墓地で発見されました。
 荻田主馬も同じ飢饉の犠牲者となりました。粥倉にあった墓は60余年後の明和年間には不明になっていましたが、流人の青山喜平治が24年を費やして探し出し、隣接地を買い求めそこに流人の霊を供養したことが伝わっています。(八丈島流人銘々伝)
 江戸町奉行渡辺大隅守綱貞(3千石)は1682年(天和2)2月病死と記録されています。
 三根村預りとなった小栗父子は父甚之丞が1693年(元禄6)5月に病死、倅兵右衛門は1710年(宝永7)赦免となりました」

Img_7500 高田公園から

Img_7508 高田城三重櫓 《地図

高田城は天守閣・石垣のない平城で、三重櫓は天守閣の代わりだった。

Img_7512 極楽橋(復元)

二の丸から本丸に通じる木橋。

Img_7518 町会所跡(雁木通りプラザ) 《地図

町年寄が集まり町政を決めた集会所跡。

Img_7523 高田小町(町家交流館) 《地図

Img_7524 今井染物店 《地図

江戸後期に建てられた商家。古い形式の雁木の上に部屋がある「造り込み式雁木」が残る。

Img_7526 雁木の下

Img_7529 右が「造り込み式雁木」で、左が庇だけを前に出す「落とし式雁木」

Img_7531 追分 【ル-ト地図】の⑤

加賀道(北陸道)は左に、奥州道(北国街道)は右へ。

Img_7537 追分道標(現在は少し北の宇賀魂神社に移設してある)

「右おゝ志う道 左かゝ道」

Img_7538 説明板

Img_7544_2 高田駅

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