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2012年5月18日 (金)

北国街道松代道①(矢代宿→福島宿)

2012年5月1日

屋代駅(しなの鉄道)・・・北国街道(善光寺街道)・・・谷街道合流地点(横町交差点)・・・矢代宿脇本陣跡・矢代追分・・・旧松代街道踏切(しなの鉄道)・・・屋代高校・・・長野電鉄屋代線踏切跡・・・勝軍地蔵尊・・・法輪寺・・・市大神塔・・・雨宮坐日吉神社・・・雨宮の渡し跡・・・斎場橋(沢山川)・・・謡坂・・・土口地区・・土口の一里塚跡・・土口将軍塚古墳入口標柱・・古大穴神社・・・(上信越自動車道)・・・戌の満水水難供養碑・・・芭蕉句碑・・会津比売神社(謙信槍先の清水・鞍掛松)・・・(上信越自動車道)・・・風雲寺道標・・・象山口駅(長野電鉄屋代線)跡・・・松代城下・松代宿・・大信寺(雨乞い地蔵)・・神田川橋(神田川)・・思案橋跡(小鮒川)・・八田家住宅・・祝神社・・高札場跡・・・道標(荒神町交差点)・・荒神堂・・荒神町窯跡・千曲川通船船場跡碑・・・萬法寺・・・蛭川橋(蛭川)・・・地蔵堂・愛宕社(寺尾城址登り口)・・・川中島合戦供養道標・・・石塔群・・・鳥打峠・・・(上越自動車道)・・・大室地区・・・大室古墳群入口碑・・高井大室神社・・大室駅跡(長野電鉄屋代線)・・・関崎の渡し跡・・川田宿・・町川田神社・・道祖神・・古城山城址入口碑・・錦ヶ池入口碑・・十王堂跡・松代藩口留番所跡・・上組の秋葉社・・本陣問屋跡・高札場跡・旅籠和泉屋跡・・下組の秋葉社・・二十三夜塔・双体道祖神・・・古町宿庚申塔・・国道403号・・・町川田一里塚跡碑・・・瀬在橋(赤野田川)・・・保科川橋(保科川)・・・子育地蔵堂・・・湯島天満宮信濃分社・北野美術館・・・富士宮神社・・・松代道道標・・・稲荷社・・・正満寺・・・綿打西宮神社・綿打追分(谷街道分岐点・綿打駅入口交差点)・・・千曲川土手・・・(屋島橋・県道58号)・・・福島宿・・浄国寺・・本陣跡①・・勝楽寺・・大笹道道標・・天神社・・西福寺・・本陣跡②・・・馬頭観音道標・・布野の渡し跡・・・新百々川橋(百々川)・・村山橋(千曲川)・・(長野市)・・・勝楽寺跡・・・村山神社・道標・・・名主小坂家・・・柳原駅(長野電鉄長野線)

  【ル-ト地図

 矢代宿で北国街道と分かれ、神代宿の先で白坂峠を越え、平出の追分で再び北国街道に合流する北国街道松代道を2日で歩く。矢代の渡し、丹波島の渡しが川留めの時にも利用され、「雨降り街道」とも呼ばれていた。また、牟礼宿から善光寺へ行く道を禁じ、松代道の通行を命じられた時期もあり、この間善光寺門前はすっかり寂れてしまったという。

 長野電鉄屋代線は3月末で廃線になってしまった。明日は雨らしく、交通の便も考えて今日は柳原駅まで行くことにする。けっこう距離もあるので、真田十万石の松代城下は街道を通過するだけにし、明日松代道を歩き終えた後にゆっくりと散策することにする。

  参考:『川中島の戦い

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6880 谷街道合流地点(横町交差点) 《地図

谷街道は稲荷山宿で善光寺西街道(北国西街道)と分かれ、ここ矢代宿で北国街道と合流し、すぐ先の北国街道松代道との追分で北国街道と分かれ、綿貫の追分で松代道と分かれ、飯山から十日町へと向かう街道。(矢代宿から川田宿までは松代道と重なる)

 

Img_6881 北国街道(善光寺街道)追分 【ル-ト地図】の①

手前に矢代宿脇本陣跡、その先に本陣跡がある。

 

Img_6883 右に松代道に入る。

 

Img_6886 屋代高校

感じのいい造りの校舎だ。

 

Img_6889 勝軍地蔵尊・祠の隣に二十三夜塔

 

Img_6890 勝軍地蔵

 

Img_6892 法輪寺

創建は天正年間(1573~91年)だそうだ。

 

Img_6894 市大神塔・左は?

 

Img_6896 雨宮坐日吉神社 《地図

近くの斎場橋で3年に一度、4人の獅子を逆さに吊り下げる「橋懸り」(はしがかり)の神事が行われる。

街道から離れ雨宮の渡し跡に向かう。

 

Img_6898 長野電鉄屋代線は今年の3月末限りで廃線になってしまった。それでも車は踏切を見ると徐行し、中には一時停止する車もある。廃線になったのを知らないのではなく、運転者の癖、性(さが)なのか。

 

Img_6900雨宮の渡し跡 《地図

川中島の戦いで上杉謙信軍が夜に千曲川を渡った所。正面は頼山陽の「鞭声粛々夜河を渡る……」の有名な詩碑。今の千曲川の流れからは1kmほど離れている。

校外学習の中学生?たちが先生の後に続いて、プリントされた教材の「鞭声粛々夜河を渡る……」を読み上げている。いい学習だ。

 

Img_6902 説明板

 

街道に戻り、斎場橋を渡ると謡坂の上りとなる。

Img_6906謡坂(うたさか)を上る。 【ル-ト地図】の②

傾斜は緩い。各地にある「うとう坂」(善知鳥・烏頭・宇都布・宇頭・有東・有藤・歌・唄・・・)坂の一つ。

 

Img_6912 土口の一里塚跡・土口の水屋

千曲川の洪水に備えた石垣上の蔵(水屋)

 

Img_6916 古大穴神社 《地図

背後の薬師山の尾根に土口将軍塚古墳がある。

 

Img_6919 千曲川沿いを少し行く。

 

Img_6921 「川流溺死万霊」碑(寛保2年(1742)左端)

戌の満水の水難者供養碑

 

Img_6920 説明板

 

Img_6933会津比売神社 《地図

謙信槍先の清水(手前)は飲めず、2代目の謙信鞍掛松(石段上の右)も細くて迫力がない。

 

Img_6937妻女山方向

本来の妻女山山頂は、南西の斎場山古墳のあたりともいう。川中島合戦で上杉謙信が海津城(後の松代城)を見下ろすこの山一帯に布陣した。山頂の円墳(斎場山古墳)に謙信は床几を置いた伝わる。

線路の上に立っていても電車は来ない。轢かれる心配もないが自殺もできない。寂しいねえ。

 

Img_6943 風雲寺道標(ここを右折して500m)

信濃三十三観音札所の第4番。松代道は直進。

 

Img_6944 中道島交差点を右に進んで松代城下に入る。

 

Img_6947 象山口(ぞうざんぐち)駅跡 《地図

佐久間象山は地元では「しょうざん」ではなく「ぞうざん」

松代町などには、屋代線の線路を活用して次世代型路面電車 (LRT) を走らせる構想があるそうだが。

 

Img_6951 大信寺

 

Img_6954 雨乞い地蔵

3体を縄でしばって千曲川に投げ込むそうだ。川から引き上げるのも大変だろう。

 

Img_6953 説明板

 

Img_6961旅館定鑑堂

 

Img_6963 宮坂酒造

 

Img_6964 枡形跡

 

Img_6966 思案橋跡

宿場には遊郭あり、遊郭ある所には「行こか、戻ろか」の思案橋ありだが、この橋の由来はちと違っていた。

 

Img_6965 説明板

 

Img_6969 県信用組合(右)

ここ先を左折して行く。

 

Img_6971 八田家住宅

松代藩の御用商人家

 

Img_6972 説明板

 

Img_6974 高札場跡(復元)

実際は少し先にあり、検断を兼ねた問屋が管理していた。

 

Img_6976 説明板

 

Img_6977 周辺図

 

Img_6978 中町の旧家

 

Img_6979 道標(荒神町交差点) 《地図

 

Img_6980 道標(昭和9年)

「左西寺尾村ヲ経テ長野市ニ至ル」・「・・・松代町ヲ経テ篠ノ井町屋代町ニ至ル」

 

Img_6982 荒神堂

 

Img_6983 荒神町窯跡・千曲川通船場跡碑

松代焼の中の荒神町焼の窯跡か。

 

************松代城下散歩(5月2日)************

 *参考:『ながの観光net(松代)』

Img_7325 松代城跡(旧海津城)

 

Img_7326 説明板

 

Img_7318 北不明門

本丸裏口(搦手)の門

 

Img_7332文武学校

安政2年(1855)に松代藩が藩士の子弟の教育のために建てた藩校。

 

Img_7333_2 旧白井家表門(移築復元)

松代藩中級武士家の長屋門。

 

Img_7334 説明板

 

Img_7335 真田勘解由家

2代藩主信政の子の勘解由信就を始祖とする真田家の分家。

 

Img_7336 説明板

 

Img_7341旧樋口家住宅

藩の目付役などを務めた上級武士の家。

 

Img_7339 説明板

 

Img_7345真田邸(新御殿) 

 

Img_7342真田邸

 

Img_7344 説明板

 

Img_7350 赤沢家住宅

 

Img_7351 馬場家長屋門

藩重役の馬場家の表門

 

Img_7352 説明板

 

Img_7355 高義亭(象山神社境内に移築復元)

 

Img_7354 説明板

 

Img_7359 象山神社 

 

Img_7360 説明板

 

Img_7365旧横田家住宅 

 

Img_7366 郡奉行、表用人などを務めた中級藩士の横田家家

 

Img_7367 説明板

 

Img_7372大英寺山門 

小松姫(松代藩初代藩主信之の妻・本多忠勝の娘で徳川家康の養女)の菩提寺で、本堂はもとは御霊屋だが、小松姫の墓とする宝篋印塔は今も上田城下の芳泉寺にある。『北国街道②』に記載

 

Img_7373 説明板

 

Img_7379 松島藩鐘楼(保存修理工事中)

日本電信発祥の地」でもある。

 

Img_7380 説明板

 

Img_7386 「食いしんぼうかじや」

かなり腹が空いてきたが我慢、我慢。

 

Img_7382長国寺

松代藩真田家の菩提寺

 

Img_7385 鯱と六文銭が乗る本堂

鯱は松代城の大御門からの移築。

 

Img_7384 民話

ここにも神出鬼没の左甚五郎の登場だ。

 

Img_7387 矢沢家表門 

 

Img_7388 説明板

 

Img_7391 松代駅跡

駅舎は今も開いていてちょうど下校時で、生徒たちがバスを待ち、迎えの車を待っていた。

 

**************ここからは松代道の続き****************

Img_6996 地蔵堂・愛宕社(寺尾城址登り口) 《地図

 

Img_6997 川中島合戦供養道標 《地図

右へ鳥打峠への上りとなる。

 

Img_6998 道標

「右川田駅 中柴弥陀道 左善光寺道」、裏に武田方の、高坂昌信武田信繁山本勘助の墓の場所を記すというが、見ることができず。

 

Img_7001鳥打峠石塔群

右に髭題目碑などが建つ。ここは松代藩の刑場跡で、慶長7年(1602)領主の森忠政は検地に反対した一揆の600人を磔(はりつけ)に処したという。二斗八騒動の首謀者の高田村助弥もここで処刑されたそうだ。

 

Img_7008 大室地区に入る。《地図

 

Img_7010 大室古墳群入口碑

 

Img_7014 高井大室神社

 

Img_7017 仲良く並んで走っていた電車はもう通らない。

往時は千曲川が山麓を洗っていたため、街道は正面の関崎峠を越えていた。

 

Img_7019 関崎の渡し跡あたり 【ル-ト地図】の③

 

Img_7021 渡し跡の常夜灯など

 

Img_7020 説明板

 

Img_7024 渡し場跡から土手を下り、川田宿へ入る。《地図

 

Img_7026 町川田神社

宿の入口にある鎮守社。

 

Img_7028 枡形に曲がって行く。

右に道祖神

 

Img_7030 古城山城址入口碑

村上氏に属し、後に武田氏に降った川田氏の城跡で、「川田城」・「古城」とも呼ばれる。ここから1時間ほどで上れるようだ。川田小学校あたりがが川田氏の居館跡だが、遺構は残っていないそうだ。

 

Img_7032 錦ヶ池入口碑(右)

行ってみたが池らしきものは見当たらず。

 

Img_7048 宿場図(元文4年(1739))

 

Img_7047 説明板

 

Img_7034 十王堂跡(右の川田駐在所)・松代藩口留番所跡(正面) 《地図

ここを右折し、コの字形に宿場を通って行く。

 

Img_7039 上組の秋葉社(右奥)の所で左折して行く。

 

Img_7040 川田宿の家並み

宿駅制定から5度にわたり千曲川の水害に遭い、現在地に移ったという。かつては用水が中央を流れていて道幅は広くなっているが、家並みには往時の宿場風情を残している。

 

Img_7043 本陣兼問屋跡西沢家

 

Img_7052 高札場跡(本陣前)

 

Img_7050 旅籠和泉屋跡

屋根下の屋号看板は健在だ。本陣前に3軒の旅籠があった。

 

Img_7053 旧家

 

Img_7054 下組の秋葉社で左折して宿を抜けて行く。

 

Img_7058 二十三夜塔・双体道祖神

 

Img_7060 古町宿庚申塔(右)・双体道祖神

 

Img_7067 町川田一里塚跡

国道に出て右に進んだ所。

 

Img_7070_2 子育地蔵堂

向う側は千曲川の土手。

 

Img_7071 子育地蔵

 

Img_7076 湯島天満宮信濃分社 《地図

北野美術館の敷地内に、北野建設が奉納した湯島天満宮(東京文京区)の分霊社。

 

Img_7078 松代道道標(右)

 

Img_7081 「右ハ松代 左ハ保科 道」

 

Img_7083 旧家

 

Img_7086 和菓子店

 

Img_7089 正満寺山門

 

Img_7090 説明板

 

Img_7094 綿打追分 【ル-ト地図】の④

矢代宿で合流した谷街道はここで右に分かれ、飯山から十日町へと進む。

左は綿打西宮神社

 

Img_7101 手を付け直したようだが、ちょっとでか過ぎる。

 

Img_7102 千曲川の河川敷を行く。

広い河川敷では桃などの果樹栽培が盛んだ。かっては菜種栽培の一面の菜の花で、黄金島と呼ばれていたそうだ。

 

Img_7103 右下は養蚕神社か? 《地図

 

屋島橋の東側で県道をくぐり、福島宿に入る。

Img_7109 浄国寺 《地図

慶長7年(1602)の創建という。(文禄元年(1592)の説もあり) 本堂は天明年間(1781~88)の再建。

 

Img_7116 福島宿案内図

 

Img_7108 福島宿本陣跡①

大笹街道の起点で江戸への近道が通じ、江戸後期には千曲川通船が許可され交通の要衝として栄えた。荷蔵を持つ家並みが残っている。本陣はここ宿の南口と北口に2軒あった。

 

Img_7111 大笹街道道標(寛政2年(1790・右)

右折して大笹街道を進むと、戦国時代の須田氏の居城の福島城跡が左側にある。川中島合戦当時、軍事上の要地だったことから弘治年間(1555~57)に武田氏によって築かれ、須田氏の居城となっていた。その後上杉勢の支配となり、天正13年(1585)に落城した。

 

Img_7115 「右松代道」・「左草津仁札道

仁礼道は仁礼宿から上州大笹宿を通り、中山道沓掛宿、高崎宿に至る江戸への近道で、北国街道より6里短く穀物や北信濃の菜種油が江戸に運ばれた。

 

Img_7112 説明板

 

Img_7122 天神社 《地図

天徳4年(960)に京都の北野天満宮より勧請されたという、福島宿の産土神。当初は千曲川の洪水などの災難除けとして祀られた。

 

Img_7124 大幟

街道沿いの天神社の塀下に保管されている。

 

Img_7123説明板

 

この先の枡形を左折して行く。

Img_7128 本陣跡②

ここ先で右折して行く。

 

Img_7131 馬頭観音道標

台座に「左北国街道布野船渡善光寺道」・「右中野小布施道」で、もとは堤防の西側の飯山道との分岐点にあったそうだ。

 

Img_7133 説明板

 

Img_7132 馬にまたがる珍しい馬上馬頭観音

 

Img_7130布野の渡し跡 【ル-ト地図】の⑤

めったに川留めにならず、松代道の発展を支えた。「雨降り街道」と呼ばれた所以だ。斜めに北西方向に村山神社の南側あたりに渡っていたようだ。今は前方の村山橋を渡るしかない。

 

Img_7134 説明板

 

Img_7141 千曲川河川敷・村山橋・斑尾山(1382m)

 

Img_7146 村山橋(838m)を渡る。《地図

長い橋で河川敷も広い。なかなか流れが見えて来ない。

 

Img_7143 長野電鉄長野線も通っている。

志賀高原へスキーに行く時は、長野から湯田中まで夜行電車に乗って行った。廃線になるなよ。

 

Img_7152 やっぱり千曲川は大河だ。

 

Img_7155 勝楽寺跡

慶長11年(1606)に福島宿に移転した。

 

Img_7160 村山神社 《地図

 

Img_7162 道標(文化?年・村山神社前)

線刻された地蔵の右に「東ハ北国ゑちご飯山水内郡」

 

Img_7163 左に「西ハ善光寺戸隠」

 

Img_7164 千曲川土手

 

Img_7166 名主小坂家

 

Img_7168

 

Img_7169 柳原駅から長野駅に戻った。

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