北国街道松代道①(矢代宿→福島宿)
2012年5月1日
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【ル-ト地図】
矢代宿で北国街道と分かれ、神代宿の先で白坂峠を越え、平出の追分で再び北国街道に合流する北国街道松代道を2日で歩く。矢代の渡し、丹波島の渡しが川留めの時にも利用され、「雨降り街道」とも呼ばれていた。また、牟礼宿から善光寺へ行く道を禁じ、松代道の通行を命じられた時期もあり、この間善光寺門前はすっかり寂れてしまったという。
長野電鉄屋代線は3月末で廃線になってしまった。明日は雨らしく、交通の便も考えて今日は柳原駅まで行くことにする。けっこう距離もあるので、真田十万石の松代城下は街道を通過するだけにし、明日松代道を歩き終えた後にゆっくりと散策することにする。
*参考:『川中島の戦い』
写真をクリックすると拡大します。
谷街道合流地点(横町交差点) 《地図》
谷街道は稲荷山宿で善光寺西街道(北国西街道)と分かれ、ここ矢代宿で北国街道と合流し、すぐ先の北国街道松代道との追分で北国街道と分かれ、綿貫の追分で松代道と分かれ、飯山から十日町へと向かう街道。(矢代宿から川田宿までは松代道と重なる)
手前に矢代宿脇本陣跡、その先に本陣跡がある。
感じのいい造りの校舎だ。
創建は天正年間(1573~91年)だそうだ。
雨宮坐日吉神社 《地図》
近くの斎場橋で3年に一度、4人の獅子を逆さに吊り下げる「橋懸り」(はしがかり)の神事が行われる。
街道から離れ雨宮の渡し跡に向かう。
長野電鉄屋代線は今年の3月末限りで廃線になってしまった。それでも車は踏切を見ると徐行し、中には一時停止する車もある。廃線になったのを知らないのではなく、運転者の癖、性(さが)なのか。
川中島の戦いで上杉謙信軍が夜に千曲川を渡った所。正面は頼山陽の「鞭声粛々夜河を渡る……」の有名な詩碑。今の千曲川の流れからは1kmほど離れている。
校外学習の中学生?たちが先生の後に続いて、プリントされた教材の「鞭声粛々夜河を渡る……」を読み上げている。いい学習だ。
街道に戻り、斎場橋を渡ると謡坂の上りとなる。
傾斜は緩い。各地にある「うとう坂」(善知鳥・烏頭・宇都布・宇頭・有東・有藤・歌・唄・・・)坂の一つ。
千曲川の洪水に備えた石垣上の蔵(水屋)
古大穴神社 《地図》
背後の薬師山の尾根に土口将軍塚古墳がある。
戌の満水の水難者供養碑
謙信槍先の清水(手前)は飲めず、2代目の謙信鞍掛松(石段上の右)も細くて迫力がない。
妻女山方向
本来の妻女山山頂は、南西の斎場山古墳のあたりともいう。川中島合戦で上杉謙信が海津城(後の松代城)を見下ろすこの山一帯に布陣した。山頂の円墳(斎場山古墳)に謙信は床几を置いた伝わる。
線路の上に立っていても電車は来ない。轢かれる心配もないが自殺もできない。寂しいねえ。
信濃三十三観音札所の第4番。松代道は直進。
象山口(ぞうざんぐち)駅跡 《地図》
佐久間象山は地元では「しょうざん」ではなく「ぞうざん」
松代町などには、屋代線の線路を活用して次世代型路面電車 (LRT) を走らせる構想があるそうだが。
3体を縄でしばって千曲川に投げ込むそうだ。川から引き上げるのも大変だろう。
宿場には遊郭あり、遊郭ある所には「行こか、戻ろか」の思案橋ありだが、この橋の由来はちと違っていた。
ここ先を左折して行く。
松代藩の御用商人家
実際は少し先にあり、検断を兼ねた問屋が管理していた。
道標(荒神町交差点) 《地図》
「左西寺尾村ヲ経テ長野市ニ至ル」・「・・・松代町ヲ経テ篠ノ井町屋代町ニ至ル」
荒神町窯跡・千曲川通船船付場跡碑
松代焼の中の荒神町焼の窯跡か。
************松代城下散歩(5月2日)************
*参考:『ながの観光net(松代)』
松代城跡(旧海津城)
本丸裏口(搦手)の門
安政2年(1855)に松代藩が藩士の子弟の教育のために建てた藩校。
松代藩中級武士家の長屋門。
2代藩主信政の子の勘解由信就を始祖とする真田家の分家。
藩の目付役などを務めた上級武士の家。
藩重役の馬場家の表門
高義亭(象山神社境内に移築復元)
大英寺山門
小松姫(松代藩初代藩主信之の妻・本多忠勝の娘で徳川家康の養女)の菩提寺で、本堂はもとは御霊屋だが、小松姫の墓とする宝篋印塔は今も上田城下の芳泉寺にある。『北国街道②』に記載
松島藩鐘楼(保存修理工事中)
「日本電信発祥の地」でもある。
かなり腹が空いてきたが我慢、我慢。
松代藩真田家の菩提寺
鯱は松代城の大御門からの移築。
ここにも神出鬼没の左甚五郎の登場だ。
駅舎は今も開いていてちょうど下校時で、生徒たちがバスを待ち、迎えの車を待っていた。
**************ここからは松代道の続き****************
川中島合戦供養道標 《地図》
右へ鳥打峠への上りとなる。
「右川田駅 中柴弥陀道 左善光寺道」、裏に武田方の、高坂昌信・武田信繁・山本勘助の墓の場所を記すというが、見ることができず。
鳥打峠石塔群
右に髭題目碑などが建つ。ここは松代藩の刑場跡で、慶長7年(1602)領主の森忠政は検地に反対した一揆の600人を磔(はりつけ)に処したという。二斗八騒動の首謀者の高田村助弥もここで処刑されたそうだ。
大室地区に入る。《地図》
大室古墳群入口碑
往時は千曲川が山麓を洗っていたため、街道は正面の関崎峠を越えていた。
渡し場跡から土手を下り、川田宿へ入る。《地図》
宿の入口にある鎮守社。
右に道祖神
古城山城址入口碑
村上氏に属し、後に武田氏に降った川田氏の城跡で、「川田城」・「古城」とも呼ばれる。ここから1時間ほどで上れるようだ。川田小学校あたりがが川田氏の居館跡だが、遺構は残っていないそうだ。
行ってみたが池らしきものは見当たらず。
十王堂跡(右の川田駐在所)・松代藩口留番所跡(正面) 《地図》
ここを右折し、コの字形に宿場を通って行く。
宿駅制定から5度にわたり千曲川の水害に遭い、現在地に移ったという。かつては用水が中央を流れていて道幅は広くなっているが、家並みには往時の宿場風情を残している。
屋根下の屋号看板は健在だ。本陣前に3軒の旅籠があった。
国道に出て右に進んだ所。
向う側は千曲川の土手。
湯島天満宮信濃分社 《地図》
北野美術館の敷地内に、北野建設が奉納した湯島天満宮(東京文京区)の分霊社。
矢代宿で合流した谷街道はここで右に分かれ、飯山から十日町へと進む。
左は綿打西宮神社
広い河川敷では桃などの果樹栽培が盛んだ。かっては菜種栽培の一面の菜の花で、黄金島と呼ばれていたそうだ。
右下は養蚕神社か? 《地図》
屋島橋の東側で県道をくぐり、福島宿に入る。
浄国寺 《地図》
慶長7年(1602)の創建という。(文禄元年(1592)の説もあり) 本堂は天明年間(1781~88)の再建。
大笹街道の起点で江戸への近道が通じ、江戸後期には千曲川通船が許可され交通の要衝として栄えた。荷蔵を持つ家並みが残っている。本陣はここ宿の南口と北口に2軒あった。
大笹街道道標(寛政2年(1790・右)
右折して大笹街道を進むと、戦国時代の須田氏の居城の福島城跡が左側にある。川中島合戦当時、軍事上の要地だったことから弘治年間(1555~57)に武田氏によって築かれ、須田氏の居城となっていた。その後上杉勢の支配となり、天正13年(1585)に落城した。
仁礼道は仁礼宿から上州大笹宿を通り、中山道沓掛宿、高崎宿に至る江戸への近道で、北国街道より6里短く穀物や北信濃の菜種油が江戸に運ばれた。
天神社 《地図》
天徳4年(960)に京都の北野天満宮より勧請されたという、福島宿の産土神。当初は千曲川の洪水などの災難除けとして祀られた。
街道沿いの天神社の塀下に保管されている。
この先の枡形を左折して行く。
ここ先で右折して行く。
台座に「左北国街道布野船渡善光寺道」・「右中野小布施道」で、もとは堤防の西側の飯山道との分岐点にあったそうだ。
布野の渡し跡 【ル-ト地図】の⑤
めったに川留めにならず、松代道の発展を支えた。「雨降り街道」と呼ばれた所以だ。斜めに北西方向に村山神社の南側あたりに渡っていたようだ。今は前方の村山橋を渡るしかない。
村山橋(838m)を渡る。《地図》
長い橋で河川敷も広い。なかなか流れが見えて来ない。
志賀高原へスキーに行く時は、長野から湯田中まで夜行電車に乗って行った。廃線になるなよ。
慶長11年(1606)に福島宿に移転した。
村山神社 《地図》
線刻された地蔵の右に「東ハ北国ゑちご飯山水内郡」
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