北国街道⑦(田切宿→新井宿)
2012年4月30日
妙高高原駅(JR信越本線)・・・県道39号・・・旧道・・毛祝坂・・・深沢橋(深沢川)・・・田切一里塚跡碑・・・小田切坂跡・第二白田切橋(白田切川)・・・馬頭観音・聖徳太子塔・・田切宿・・旧道入口(田切口)・・郷田切橋(郷田切川)・・・旧道入口(二俣口)・・二俣宿脇本陣跡・・馬寄場跡・・西蓮寺・・伏見稲荷社・・・御館の乱無名戦士の墓・・・国道18号・・旧道・・・大田切川・・大田切清水・・・坂口新田一里塚跡あたり・・旧庄屋家・・・国道18号・・妙高山麓直売センター・・旧道・・・国道18号・・・小野沢交差点・旧道・・・弥勒仏頭・・関山神社・妙高堂・・・慈雲寺・・・北沢一里塚跡・・・北沢の一本松・(国道18号)・・・稲荷山新田地区・・・覚願寺・・・(片貝縄文資料館)・・・片貝の筆塚・・・片貝橋(片貝川)・・・諏訪神社・・・馬洗い場・・・市屋一里塚跡あたり・・・若宮神社・・・北国街道踏切(信越本線12番)・・松崎宿・・安楽寺・・二本木宿・・明治天皇小休所跡・白山神社・ 二本木宿石柱・・・神明神社・・・北国街道踏切(16番)・・・(二本木駅)・・・藤沢一里塚跡・・・神明神社・・・馬頭観音・・立場茶屋跡・小出雲坂・・・賀茂神社・・・飯山道道標(小出雲交差点)・・・辻屋橋・・・上町延命地蔵堂・・新町宿・・極生寺・・市神社・・本陣跡あたり・・照光寺・・新井別院・・・石塚一里塚跡・・・康源寺・・・北新井駅(信越本線)
【ル-ト地図】
毛祝坂を下り、かつての難所の白田切川、郷田切川、大田切川の田切を越えて行く。合宿の松崎宿・二本木宿から小出雲坂を下り新井宿に入った。まだ時間に余裕があるので北新井駅まで進んだ。高田城下はもうすぐだ。
写真をクリックすると拡大します。
越後方面から関川関所に向かう旅人にとって最後の上り坂で、①途中の泉で身なりを整えたことから、化粧(けわい)と名づけられたというが、江戸の吉原土手から吉原遊郭へ下る化粧坂とは違い、関川関所までは3km以上もある。身なりも化粧もくずれてしまうのでは。『江戸の坂 東京の坂』(横関英一)には、①の説と②「この地の人は、この坂の頂上、関川宿に近いところに、昔、遊女屋があったので、この坂を化粧坂と言ったと話していた」と記す。
田切一里塚跡標柱 《地図》
塚は深沢川の北側にあったそうだ。
第二白田切橋(旧国道)で白田切川を渡る。《地図》
雪でガードを川の方へ越えなければ通れない。ちょっと前までは雪で通行不能だっただろう。昔はつづら折り6回の小田切坂で川まで下りて越えた難所だった。今は上方を国道18号が直線に一気に越えている。
妙高火山の噴出物で台地が深く浸食され田切が生じた。妙高山麓の南地獄谷から流れて来る川で、温泉成分で白濁し白田切川の名がある。昔は田切越えは街道の難所だった。
この先で左にカーブして行く。
右側に問屋があったようだが、本陣・脇本陣などは不明。北隣の二俣宿との半月交代問屋業務の合宿だった。
この先で郷田切橋を渡れば二俣宿となる。
右に標識が立つ。街道は右に下って郷田切川を渡っていた。近くの民家の人の話では渡る橋はないそうだ。
今は旧国道の郷田切橋で渡る。
旧道は郷田切川を渡ってここへ上って来ていた。
問屋も兼ねていた。明治天皇小休所跡碑が立つ。
昔は宿の馬をすべて洗えるほど大きかったという。
御館の乱無名戦士の墓
上杉謙信の跡目相続の内乱。14基の五輪塔が並ぶ。正面に佇むには無名戦士の子孫ではなかろう。
大田切川へ下る。《地図》
曲りながら旧国道を下る。まっすぐ渡っている国道をくぐって行く。その向こうは上越自動車道。昔はつづら折りの十三曲りの難所だった。
鉄板を継ぎ合わせた仮設のような橋で、大田切川を渡って上って行く。
冷たくて美味い水で喉を潤す。まさに甘露水だ。清水の上に馬頭観音が祀られている。昔は人も馬もここで一息ついたのだろう。
塚跡の標識などもない。「有害無益の塚丘は総て廃棄し、人民へ払下候」(明治9年の内務省の通達)
東塚跡の民家は「一里塚の家」と呼ばれていたそうだ。
国道18号に出て、妙高山麓直売センターの先で右に旧道に入る。
再び国道18号に出て進み、小野沢交差点から左に旧道に入る。
この先の左にカーブする右側あたりが刑場跡らしい。
足を省略した「関山のいけ込み式石仏」というようだ。
泉地蔵(正面) 《地図》
ここを右折する。
2体の地蔵
「県指定文化財」の標柱が立つ。
もとからこの姿だったのか? これも「関山のいけ込み式石仏」なのか?
毎年7月第3土日には1200年の伝統を誇る「火祭り」が催される。
北側に別当寺だった宝蔵院跡がある。
26体の平安から鎌倉時代の「いけ込み式」の弥勒菩薩。顔はかなり風化し崩れているが、中には弥勒のようにも見える顔立ちの像もある。
西塚が残る。説明板などはない。
ここで妙高市から上越市に入る。
今日は少し雲が多くなってきたか。
片貝縄文資料館(旧片貝小学校) 【ル-ト地図】の13
伊勢国津藩槍術指南役で、浪人中の公田権右衛門と和五郎親子が、当地で村民に文字や書、詩歌の手ほどきをした徳を讃え村民が造立した頌徳碑。
右の石上に馬頭観音が3体。「木曽義仲の太刀割石」との伝承もあるそうだ。
この先の右側に市屋一里塚があったようだが、塚跡・標示などはなかった。
神社の前を通り、北国街道踏切(信越本線12番)を渡り、松崎宿・二本木宿へと進む。《地図》
二本木宿と連続した合宿で、問屋業務は半月交代で行った。消雪パイプが埋まり、散水する地下水の鉄分が酸化し、路面が褐色に染まっている。
松崎宿と二本木宿には本陣がなく、この寺が本陣役を担い、加賀藩の休息所になっていた。
明治天皇は安楽寺ではなく、ここ(元松原家)で休んだ。右隣は白山神社。
「従是内 口附無之 小荷駄乗通るべからず 邑の内 咥きせる無用 二本木宿」(この二本木宿に入ったら綱を放すな。馬に荷物をつけて通る者は、馬に乗って通行してはいけない。村内はくわえ煙草で歩いてはいけない」
もとは130mほど北側の街道脇に立っていた。
高床山(528m) 《地図》
東麓に飯山街道、西麓に北国街道、北東の城山(348m)には鳥坂城跡がある。
スイッチバック式の駅
戦後の食糧増産のため、西側の塚が崩されて畑となり、東塚も一部破損している。
小出雲坂上の峠の茶屋で、加賀藩の休憩所になっていて、加州立場と呼ばれた。柏餅が名物だったそうだ。左は茶屋の石臼か。
「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたを何時忘られよ」と里謡に歌われた。樹々の間に遥か高田城下、その向こうに日本海が見えたというが、今はその景観は望めない。
ここで再び上越市から妙高市に入る。
昔は松並木で、映画のロケ地にもなっていたという。今は桜並木だが、もうだいぶ色褪せてしまった。
賀茂神社の湧き水 《地図》
これも冷たくて旨い水だった。蛇口からは絶えず水が流れている。
背後が桜の名所の経塚山公園で、妙高連峰・日本海を遠望できるそうだ。
小出雲交差点の右の「よしこし」前
折れたのを継いだのだろう。
「荒井」陣屋跡の方へも行ってみたが、どこか分からなかった。天領だった江戸中期に陣屋が置かれ五万石余を支配していたそうだ。
市神社 《地図》
新井宿の六斎市の守り神。
この先の左側が高札場跡。
教義をめぐる異安心論争で敗れて牟礼に追放された願生寺跡に、東本願寺末寺や門徒を支配するための掛所(本山の出先機関)として再興された。
右は「明治天皇新井行在所」碑、本堂は修理中だった。
西塚跡に碑のみ。
康源寺山門 《地図》
元禄8年(1695)に建てられた、三間一戸、入母屋、金属板葺きの八脚鐘楼門。
大崎の石屋 《地図》
矢代川の千草石(輝石安山岩)を利用して、村民の多くが石屋だったそうだ。
今日も予定通り無事に歩けたことを山々に感謝して北新井駅に向かった。
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