北国街道⑥(牟礼宿→関川宿)
2012年4月29日
牟礼駅(JR信越本線)・・・牟礼宿碑・信越線ガード・牟礼橋(八蛇川)・・牟礼宿・東の枡形・・旧鎌問屋・・牟礼神社・・本陣跡・・上の酒屋跡・・徳満寺・・證念寺・西の枡形・十王坂・・十王堂・・(金附場跡)・・武州加州道中堺碑・・・牟礼橋(信越本線)・・・高札場跡・・・小玉坂・・観音平の石仏群・・小玉坂一里塚跡・・明治天皇清水窪小休所跡・・・庚申塔・・・池中開田記念碑・・・落影地区・・立場の家・・国道18号・・・旧道・・・高橋酒造・・・古間一里塚跡・・・古間宿・・古屋跡・・第4北国街道踏切(信越本線)・・・寿橋(鳥居川)・・・柏原宿・・諏訪神社・小林一茶旧宅・戸隠山道道標・・本陣跡・・明専寺・・旧中村家住宅・・村の鍛冶屋碑・・・柏原跨道橋(上越自動車道)・・・野尻一里塚跡・・・芭蕉句碑・・・飯山道川東道道標・・伝九郎神社・・・野尻湖・・中勘助詩碑・・野尻宿・・本陣跡・・安養寺・御金蔵跡・・真光寺・・・野尻坂・・・国道18号・・・野尻坂峠・・・旧道・・・スノーシェード赤川1号・・・2号・・・赤川一里塚跡・・赤川神社・・・信越本線ガード・・一ノ橋(関川)・・うば(姥)坂(五文坂)・関川関所跡・・浄善寺・・関川宿本陣跡・・・上原宿問屋跡・・・天神社(大杉・親鸞袈裟掛松)・・・スキー神社・・・神明神社・・・妙高高原駅(信越本線)
【ル-ト地図】(21.1km)
今日も歩くには絶好の気持ちのいい晴天だ。牟礼宿から古道の趣が残る小玉坂を上り、小林一茶の里の柏原宿を通り野尻湖へ下った。野尻宿から野尻坂峠を越えて、スノーシェードをくぐり関川関所で越後国に入った。
写真をクリックすると拡大します。
往時は街道の中央を徳満寺堰の水を取り入れた用水が流れていた。
薄刃の片刃草刈鎌で、軽くて切れ味がよく、古間の問屋が全国に広く流通させた。
北国街道が開かれ牟礼宿ができて、矢筒山から移された。
牟礼宿から善光寺宿を通らない長沼道(松代道)の通行を命じた制札、定書が保存されているそうだ。この間、善光寺宿は寂れてしまった。
本陣跡(JAながの中郷支店) 《地図》
この先の右側が「上の酒屋跡」で、本陣より広い間口の屋敷を持ち、江戸後期には宿を二派に分ける対立関係にあったという。積雪地帯で信号機が縦型に変わっている。
境内を徳満寺堰が流れ、上流で分水し宿場用水としていた。
今も道の片側を流れる徳満寺堰の水。正面奥の證念寺の前が西の枡形で、左折して十王坂を上って行く。
右に「北国街道牟礼宿 十王坂」碑
目当てのシダレ桜に間に合った。なかなか風情がある坂だ。
この先の右側に佐渡から運ばれた金銀荷を新しい馬の背に付け替えた広場の金附場跡があるのだが、一本西側の道を進んでしまったようで見落とした。
北信五岳の一つ。
ここに「北国街道小玉地区マップ」(小玉こどう会)が置いてある。
このあたりが加賀藩の参勤交代道中の中間地点。文字はかすれていて読みにくい。
安政3年(1856)から加賀藩の藩主の小休所になった黒栁家。その頃造園したという庭園が残るそうだ。
小玉坂は3kmにも及ぶ山道で、石洗い坂・観音坂・赤坂・金坂の総称。
髻山城跡(正面左)
川中島合戦で武田軍が陣取った地で、上杉軍は小玉坂から偵察した。
『美しい日本の歩きたくなる道500選(一茶と歩く北国街道・野尻湖のみち)』に選ばれている。
傾斜の緩い峠越えの道といった感じだ。「小玉こどう会」が保存・整備に努めていて気分よく歩ける。
清水が湧き、茶屋があり、前の崖(ジャガン崖)から昨日通った四ツ屋一里塚が見えたという。
大きな石碑は小玉の鎌鍛冶元祖のひとり、黒栁(くろやなぎ)清八郎の頌徳碑。
このあたりに東山道支路の「ミサカ(御坂)」ゆかりの「見坂平」(みいざかだいら)の地名が残る。
奥に「野立之趾碑」が立つ。野立ての御膳水はこの清水の水ではなく、この先の落影集落から運んだそうだ。ここが小玉坂の最高地点で700m以上はある。緩やかに下り、小さな庚申塔の前を通り落影集落へ入る。
左端に少し見えるのは戸隠山(1904m)。
落影地区に入る。《地図》
右端は立場の家
国道18号に出て北に進み、北国街道の標識で左へ旧道に入って行く。
国道から標識に従い旧道に入る。《地図》
「人情細やか古間の里は 鎌と酒とで名が高い」と古間音頭で唄われた。宿内に3軒の酒造があり、明治になって高橋酒造に受け継がれたそうだ。
一茶の「ぬかるみに 尻もちつくな でかい蝶」(小古間の湿地が泥海になり、引き返した時の句)と、白飛の句が並んだ句碑が立つ。
鳥居川を挟んで柏原宿との合宿(あいしゅく)だった。
毎年、古間盆踊りが開催されるようだ。
信州古間鎌問屋の「油屋」小林与市商店(右)
寿橋(鳥居川)を渡って柏原宿に入る。《地図》
もとは柏原宿入口に建てられたが、松蔭(松平氏のお蔭)と詠んでいるので、北陸巡幸の明治天皇の目に留まらないようにと諏訪神社境内に移したとか。一茶の句碑で最古のものという。
一茶の終(つい)の棲家の土蔵(整備・復元) 【ル-ト地図】の③
隣に一茶の子孫が営む「一茶茶屋」がある。
戸隠神社への道
向い側が脇本陣の旅籠中村屋跡。
小林家の菩提寺で、3歳で母を亡くした一茶の遊び場だった。
「我と来て遊べや親のない雀」
一茶の真蹟を拡大した文字。
「しばしも休まず槌打つ響き・・・」の「村の鍛冶屋」も絶えてしまった。
右端は一茶句碑:「陽炎や きのふは見へぬ だんご茶屋」
ここの黒姫そばで昼食にしようと思ったが、休日でちょうど昼時で満杯であきらめた。
上越自動車道・妙高山(柏原跨道橋から) 《地図》
連休中でも車の往来は少ないようだ。
両塚が残っている。
近くの手打そば屋で昼食とした。美味い蕎麦だった。
裏側にも一茶の門人の句を刻む。芭蕉句碑ならついでに裏も見てくれるか。うまい事を考えたものだ。
伝九郎神社 《地図》
野尻宿の問屋伝九郎が開いた伝九郎用水が脇を流れている。
川東道は柏原・古間・牟礼を通らないため3宿との間で争いもあったという。
野尻湖といえばナウマンゾウか。休日で子ども連れの見学者たちが入って行く。
野尻湖(水面の標高657m)
正面は琵琶島の宇賀神社の鳥居。かつて上杉謙信に反抗した長尾政景を、野尻湖(異説あり)に誘い出し、共に湖底に沈んだという琵琶島(宇佐美)城主、宇佐美定行の墓がある。
右に標柱、少し先に「明治天皇野尻小休所跡」碑が立つ。
佐渡からの金銀は3日でここに着いて保管され、翌日に牟礼の金附場へと運ばれた。
中勘助は知らず、むろん「銀の匙」・「島守」も読んでないが。野尻湖の公民館前には詩碑が建っていた。
裏に野尻湖に沈んだ長尾政景の墓がある。墓は当初野尻湖畔に建てられたが、墓の前を乗馬で通ると必ず落馬するので、この地へ移されたと伝えられている。
野尻坂峠へ 《地図》
曲がった坂で、曲坂(くまざか)から熊坂とも呼ばれた。峠の北方に伝説の大泥棒、熊坂長範の出身地とも、埋蔵金が眠るともいう長範山(768m)がある。
野尻坂峠から下り右に入り、関川関所へ。 《地図》
近くに一茶の妻のきくの実家があった。
ここから新潟県だ。今年はひなの誕生で「とき」の絵の標識は看板倒れにならずに済むか。
一ノ橋(長寿橋)を渡って関所内へ。全国53関所のうちの25の重関所(重要な関所)の一つだった。
勾配が急で人足が五文の駄賃で荷物を運んだことから「五文坂」とも。長い坂ではなくぼろ儲けだったろう。
関川宿本陣跡(大石家) 《地図》(関川関所を出て右折したすぐ先の右側)
「明治天皇関川行在所跡」碑のみ。新潟県に入ると案内板、説明板などは極度に少なくなる。
関川宿と隣接した合宿だった。
屋根の上に茅葺きの屋根を乗せているようだ。
天神社の大杉 《地図》
境内にはひょろっとした親鸞袈裟掛松(3代目?)もある。越後の流罪生活後に、妻子を伴って関東に向かう途中、ここで休んだという伝承。この大杉は樹齢1000年以上だから親鸞が寄った時にはすでに大木だったか。
この種の神社としては日本一古く、「日本一の宮スキー神社」と称しているそうだ。雪が溶けて汚れているのが残念。
妙高高原駅に向かう途中で、妙高山を振り返り、今日の道中もつつがなく予定通り終了したことを報告感謝だ。
好天で雪もどんどん溶けて行く。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 日光街道(越谷宿→粕壁宿)(2009.11.17)
- 将門散歩(坂東市)(2019.02.11)
- 我孫子・柏散歩②(2019.02.09)
- 水戸街道(我孫子宿→取手宿→藤代宿)(2010.08.11)
- 我孫子・柏散歩①(2019.02.06)
コメント
関川関所跡を出て右折したすぐ先の右側です。
関川宿本陣跡の記事の所に《地図》をリンクしました。
投稿: ochiba様へ(坂道散歩) | 2012年8月15日 (水) 14:09
北国街道(新潟県)の明治天皇行在所および明治天皇御小休所の場所を探しています。
関川宿本陣跡の場所を教えてください。
投稿: ochiba | 2012年8月15日 (水) 09:34