« 矢倉沢往還①(大山街道追分→善波峠→十文字の渡し跡→関本宿) | トップページ | 矢倉沢往還③(南御殿場駅→東海道合流地点) »

2012年6月 3日 (日)

矢倉沢往還②(関本宿→矢倉沢関所跡→足柄峠→南御殿場駅)

2012年5月20日

新松田駅(箱根登山バス)→竜福寺前・・関本宿・・龍福寺・・県道78号(足柄街道)・・問屋跡・・高札場跡・・(お君塚入口)・・関本地蔵尊・・上宿の道祖神・・坂本駅跡・・・化粧坂・白地蔵・・旧道(足柄古道)・・・足柄神社・・観音堂・・・東山バス停(県道78号)・・・旅籠通り・・矢倉沢表関所跡・・・関場交差点(県道78号)・・・前田橋(内川)・・・矢倉沢裏関所跡・・・県道78号・・・家康陣馬の跡・・・足柄古道入口バス停・足柄古道・地蔵・・・矢倉沢定山城跡・・・源頼朝のひじ松(跡)・・・長者橋・・・夕日の滝・・・金太郎生家跡・・・地蔵堂・・・相ノ川橋・・・見晴台バス停・・・源頼光の腰掛石・・・足柄峠(首供養塚・足柄峠一里塚跡・足柄の関所跡・聖天堂・笛吹塚・足柄城址)・・金太郎富士見ライン・・・六地蔵・・・芭蕉句碑・足柄古道・・・赤坂・・馬頭観音・・・県道78号・・・竹之下合戦標柱・・伊勢宇橋(地蔵堂川)・・・唯念大名号塔・・・竹之下一里塚跡・・・浅間坂・・・嶽之下神社・・・馬喰坂・・・竹之下踏切(御殿場線)・足柄駅・・・千束橋(鮎沢川)・竹之下合戦跡碑・・・常唱院・・・足柄駅入口交差点・・有闘坂・・・有闘坂上一里塚跡・・県道78号(足柄街道)・・戦跡釜沢碑・・・戦跡陣場碑・・・足柄橋(東名高速道路)・・・(御殿場市)・・・唯念名号塔(宮沢橋バス停)・・・深沢城址入口碑(城入口バス停)・・・高根橋(抜川)・・・杉原交差点・・・御殿跡入口標柱・・・穂見神社・吾妻神社・御殿場発祥の地碑・・・二枚橋古墳・浅間神社・・・二枚橋(鮎沢川)・市役所北交差点(国道138号)・県道394号・・・秋葉神社・・・新橋浅間神社・・・永原大神宮・・・(東名高速道路)・・・カマド踏切(御殿場線)・・かまど(竈)地名由来碑・・・かまど神社踏切・・諏訪神社・・玄清寺・・南御殿場駅(JR御殿場線)→沼津駅

  【ル-ト地図

  関本宿を過ぎ、白地蔵の先で足柄古道に入り足柄神社に寄る。矢倉沢関所跡から上って、のどかな金太郎の里で夕日の滝を眺めて一息ついてから足柄峠へ向かう。車道をいくども横切って足柄古道が残っている。
 峠からはしばらく金太郎富士見ラインを下り、再び足柄古道の山道となって下って行くと竹之下地区で、竹之下合戦ゆかりの所が多い。
 有闘坂あたりまでが矢倉沢往還と足柄古道のハイライトだろう。後は南に御殿場線沿いの県道を緩やかに下るのみで見所は少ない。南御殿場駅まで進み沼津駅に向かった。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7998龍福寺 【ル-ト地図】の6

本尊は鎌倉時代の作の木造阿弥陀如来坐像。義民下田隼人の墓がある。

 

Img_8001 関本宿武蔵屋(問屋・旅籠・醤油醸造・脇本陣跡)跡

右の塀上に「関本宿を語る会」の説明板が立っている。

 

Img_8002 説明板

関本宿は「坂の下」にあったことから古代には坂本の名で呼ばれ、足柄関が設置されて以後、関本になったという。矢倉沢往還と小田原からの甲州道が合流する宿場として栄え、道了尊大雄山最乗寺の門前町としても繁栄した。旅籠などが立ち並ぶ街道の裏には水路があり、継ぎ立ての馬が水を飲んだり、馬を洗ったりしていたという。

 

Img_8006 高札場跡

右に「矢倉沢往還 関本宿」の標柱。

この先に小田原藩主が宿泊の時は本陣に指定された旅籠福田屋跡がある。殿様が泊まる時には、白砂糖を混ぜただんごを、4枚の奉書を敷いた白木の三方の上に置いて差し出したという。

 

Img_8011 お君塚案内板

お君とは旅籠の遊君(遊女)で、特定の個人名ではないようだ。「関下(関本)の宿をすぐれば、宅を並ぶる住民は人を宿して主とし、窓にうたふ君女は客をとどめて夫とす。あわれむべし」『海道記』より

 

Img_8016 関本地蔵(道路向うの小祠)

 

Img_8018関本地蔵(子育延命地蔵)

 

Img_8017 説明板

 

Img_8019 上宿の道祖神

双体道祖神が2体と五輪塔

 

Img_8022 坂本の駅跡 《地図

駅馬24匹を常備した古代の足柄道(古東海道)の駅跡。右の総合グランドが駅舎跡と推定される。

 

Img_8023 説明板

 

Img_8033 化粧坂

白地蔵(右)に由来する坂名。

 

Img_8034 白地蔵 【ル-ト地図】の7

うどん粉を塗りつけられ真っ白な化粧地蔵。

 

Img_8036 説明板

 

Img_8041 白地蔵の先で右へ足柄古道に入る。 《地図

 

Img_8193 説明板

足柄峠に近い見晴台バス停に設置のもの。

 

Img_8047 足柄神社近くから

 

Img_8049 足柄神社

足柄峠の「坂の神」で、「坂道散歩」の守護神だ。

 

Img_8052 説明板

 

Img_8051 石祠群

 

Img_8050 説明板

 

Img_8056 観音堂

足柄明神(現足柄神社)の本地仏堂だった。

 

Img_8055 説明板

 

Img_8065 起伏のある気分のいい道を行く。

県道はずっと左下を通っている。

 

Img_8067 東方の眺め

 

Img_8069 分岐には「足柄古道→」の標識が立ち、迷うことはない。

 

 

Img_8079 猪よけネットを開けて進む。

 

Img_8081 矢倉岳(870m)

 

Img_8088 県道へ下り、斜めに横切って関場の集落へ入って行く。

下は東山バス停。

 

Img_8192 矢倉沢関所跡→頼朝のひじ松→夕日の滝→地蔵堂→足柄峠→六地蔵から足柄駅へと進んで行く。

 

Img_8094 矢倉沢表関所跡末光家 【ル-ト地図】の8

前は関場の旅籠通りで、旅籠、米屋、油屋、豆腐屋などが軒を連ね、大和屋、江戸屋、立花屋、車屋、釜成屋などの屋号が残っているそうだ。

 

Img_8093 説明板

 

Img_8099 矢倉沢裏関所跡石村家 《地図

矢倉沢本村から矢倉岳の西尾根を越え、山北の谷峨関所へと抜ける裏道をおさえるための番所で、旅人を通すことはなく、村民が田畑や山へ行く時にだけ門を開けたという。

 

Img_8098 説明板

 

Img_8113 家康陣馬の跡

 

Img_8112 説明板

 

Img_8114 足柄古道入口バス停 《地図

左に上って行く。すぐ先に地蔵が立つ。

 

Img_8117 歩きにくい道となって、右へ車道に下りる。

 

Img_8119 遊歩道らしき所が所々に作られている。

 

Img_8120 矢倉沢定山(じょうやま)城跡(右)

大森信濃守氏頼の築城とされる。定山は城山の転訛で、矢倉沢城跡と呼ぶべきとも。

 

Img_8121 説明板

 

Img_8123 頼朝のひじ松

ガードの切れ目に説明板と標識があるので下って行ったが、道路の上からでも見られる。

 

Img_8122 説明板

 

Img_8126 ひじ松(2代目)

枝でなく、木全体が傾いてしまっている。

 

Img_8130 道路から

松は2本ある。その下に小祠がある。そこまで行ける。

 

Img_8137 夕日の滝へ向かう途中の鏡のような棚田

 

Img_8160 猪の毛皮

肉は猪鍋で食べられてしまったか。

 

Img_8142 ♪「金太郎」♪歌碑

 

Img_8152_2 夕日の滝 【ル-ト地図】の9

高さ23m、幅5m、金太郎の産湯の水という。

 

Img_8145 説明板

 

Img_8162 金太郎生家跡地

坂田金時は九州の賊を征伐するため築紫へ向かう途中、作州路美作の勝田壮(現在の岡山県勝央町)で熱病で死去したという。『出雲街道⑦』 隣の静岡県小山町も生誕地の一つで、生家跡に金時神社があり、勝央町と姉妹都市となっている。

 

Img_8165 地蔵堂(正面左)

木造地蔵菩薩立像は神奈川県の重文。

 

Img_8170 地蔵堂の所を左折し足柄峠へ 《地図

下は県道で車、バイク、自転車、ランナーも通る。

 

Img_8171 茶畑が広がる。静岡県に入ったようだ。

 

Img_8177 古道が所々に残っている。

 

Img_8196 石畳道もある。

 

Img_8200 源頼光の腰掛石の説明板だが消えていて読めない。

腰掛石はどれか?この小さな石ではあるまい。

 

 すぐ先で足柄峠に着く。

Img_8204 首供養塚

 

Img_8205 説明板

 

Img_8206 足柄峠一里塚跡

 

Img_8208 足柄関所跡

右端は「おじぎ石」で、旅人はこの石に手をついて、お辞儀をし手形を差し出した。甲州街道の小仏関所跡にも「手付石」・「手形石」がある。

 

Img_8209 説明板

 

Img_8215 標高759mだが、それほどの高さは感じない。

 

Img_8221 説明板

 

Img_8214 足柄峠年表

足柄峠を行き来した倭建命以下そうそうたる面々の中に、『更級日記』の菅原孝標の女(むすめ)もいる。彼女が足柄峠を越えて京に向かったのは13才の時か。「足柄山といふは、四、五日かねて恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つ麓のほどだに、空の気色、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり」と記す。

また年表には記さぬが、恋人、妻子、家族と別れ、筑紫へ防人として赴く、名も知れぬ東男(あずまおのこ)が越えて行った峠でもある。「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」(万葉集第二十巻)・「足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く・・・・・」(万葉集第二十巻

 

Img_8213 倭建命の伝承

 

Img_8217 聖天堂

日本三体聖天尊(浅草の待乳山聖天・奈良県の生駒聖天(宝山寺)の一つの足柄聖天で、本尊は弘法大師が自筆の「足柄峠」の額と共に奉納したといわれる大聖歓喜双身天石像(1.8m・秘仏)で、夫婦和合、商売繁盛、縁結び、厄除にご利益あり。

 

Img_8222 笛吹塚

新羅三郎義光が後三年の役で奥州へ赴いた時点では、豊原時秋はまだ生まれていない。まあ伝承、逸話なんかはいい加減なものが多いから、目くじらを立てることはないが。

 

Img_8223 説明板

 

Img_8227足柄城址から 【ル-ト地図】の10

ちょうど雲が切れかかった。「目にかゝる 時やことさら 五月富士」、芭蕉が見たのもこんな富士だったか。

 

しばらく車道(金太郎富士見ライン)を下る。

Img_8240 芭蕉句碑

「目にかゝる 時やことさら 五月富士」

 

Img_8241 説明板

 

 この向い側から足柄古道に入って下る。

Img_8242 足柄古道入口

 

Img_8248 歩きにくい所もある。途中、上って来る親子連れ、2組とすれ違った。

 

Img_8250倒木が道をふさぐ。

 

Img_8251 赤坂

この先の舗装道路に出る手前右に馬頭観音。

 

Img_8252 馬頭観音

 

Img_8253 説明板

この道は小田原から甲斐へ通ずる、「塩の道」、「甲州道」でもあった。

 

Img_8255 竹之下合戦標柱(右)・伊勢宇橋(先)

 

Img_8258 説明板

 

Img_8262 唯念名号塔(天保10年(1839))

高さ3m80cmで、一字に一斗の米が入るとか。

 

Img_8261 説明板

 

Img_8267 竹之下一里塚跡あたり

ここを直進する。 《地図

 

Img_8268 林間コースを行く。

もとは松並木だったが、戦時中に松根油(航空機燃料)を採ったため失われてしまったそうだ。

 

Img_8271 左に2体の馬頭観音(天保6年(1835))と宝暦?年)

 

Img_8275 浅間坂を下る。

途中の嶽之下神社は、合祀される以前は浅間神社だった。

別名を「自校坂」で、「昭和16年東京目黒の陸軍輜重兵学校の自動車隊が足柄峠越えを強行するため、急峻狭小の道路を拡張整備しながら、悪戦苦闘の末、25台の軍用トラックを四昼夜をかけて突破したことから、其の後地元の人々はその栄誉をたたえ、通称浅間坂を自校坂と云うようになった」(「足柄史跡を守る会」の説明。

 

Img_8279 嶽之下神社 《地図

足柄峠の下で「嶽の下」→「竹之下」だそうだ。

 

Img_8283 竹之下地区に下る。

 

Img_8284 双体道祖神が2基か?

 

Img_8285 馬頭観音など

左端の馬頭観音は道標になっている。

 

Img_8290 道標(文化?年)

「左 小田原 大山 道」か?

 

Img_8291 馬喰坂(ばくろうざか)となってさらに下る。

 

Img_8296 坂上方向を振り返る。

左に坂標と説明板

江戸時代の竹之下は物資の荷継場で牛や馬の需要が多く、その売買や周旋をする商人(馬喰)が住んでいた。

南に少し行くと古刹、大雄山宝鏡寺がある。

 

Img_8300 足柄駅

無人駅の駅舎で一休み。

 

Img_8303 千束橋(ちづかばし・鮎沢川)を渡る。《地図

新田軍が退く際に橋を落としたので、足利軍が薪を千束投げ入れて橋の代わりにして渡ったという。

 

Img_8310 竹之下合戦跡(建武2年(1335))碑(右端)

 

Img_8314 常唱院

庭の桜が見事らしい。日蓮も泊まった寺という。

 

Img_8316 道祖神?と馬頭観音の祠

ここは「宿」という地区名で、江戸時代には継立場だった。「港屋」・「よしのや」などの屋号が表示されている。源頼朝が上洛の時にこの地に泊まったという。

 

Img_8322 有闘坂の上りとなる。

 

Img_8344 分岐点 《地図

ここを折り返すように左折するのだが直進してしまい、東名高速に出てしまった。大きく回って再びここへ戻る。直進する道も甲州へ通ずる古い道という。この先で東名高速にぶつかり分断されているが。【ル-ト地図】も歩いたとおりに記載してある。

 

Img_8338 茶畑

ここは甲州へ通ずる道沿い。

 

Img_8341 東名高速上からの眺め

 

Img_8345 分岐点に戻る。

有闘坂は左に大きくカーブして上るのだった。 【ル-ト地図】の11

 

Img_8343「竹之下合戦有闘坂」の倒れた標柱

竹之下合戦で官軍(新田義貞軍)が大友・佐々木軍に挟撃され奮戦激闘したところと伝える。

 

Img_8353 有闘坂上一里塚跡 《地図

 

Img_8355 説明板

 

Img_8356 竹之下合戦戦跡釜沢

「湧き水があり、官軍が兵糧を置いた場所」? 

道を挟んで小山町の「あしがら温泉」がある。風呂に入りながら富士山を眺められるようだ。その先に官軍の先手が布陣した「陣馬跡」がある。

 

県道78号(足柄街道)を進み、足柄橋で東名高速を渡る。

Img_8365 御殿場市に入る。

 

Img_8379 唯念名号塔(宮沢橋バス停)

 

Img_8384深沢城跡入口碑 《地図

「これより300m」とあるが、けっこう疲れてきたのでパスした。

 

Img_8383 田んぼに雄姿を落とす富士

 

Img_8388 地蔵堂?

ここは下宿バス停

 

Img_8392 枡形の名残りか?

 

Img_8399 御殿跡入口標柱 《地図

 

Img_8401 吾妻神社

 

Img_8405 御殿場発祥の地碑(吾妻神社境内)

 

Img_8406 説明板

 

Img_8415 二枚橋古墳(御殿場小学校と浅間神社の境) 《地図

「古墳(前方後円型)二枚橋丘陵」の石柱が立つが、この古墳の詳細については分からず。

 

 この先で二枚橋(鮎沢川)、市役所北交差点(国道138号)を渡る。

Img_8431 広い間口の岩田金物店

 

Img_8436 新橋浅間神社 《地図

建久4年(1193)、源頼朝が富士の巻狩りの折、勧請したとも伝える。

 

Img_8447 馬頭観音・地蔵(カマド踏切を渡った所) 《地図

道路に背を向け、線路の方を向いて立っている。電車の安全を見守っているか。

すぐ先に地名由来碑がある。

 

Img_8445 かまど(竈)地名由来碑

 

Img_8444 源頼朝ゆかりのかまど跡の石?

 

Img_8446 諏訪神社

「かまど神社」と呼ばれているのか。いぼとりに霊験があるようだ。

無人駅の南御殿場駅から沼津駅に出てもう一泊する。

|

« 矢倉沢往還①(大山街道追分→善波峠→十文字の渡し跡→関本宿) | トップページ | 矢倉沢往還③(南御殿場駅→東海道合流地点) »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 矢倉沢往還②(関本宿→矢倉沢関所跡→足柄峠→南御殿場駅):

« 矢倉沢往還①(大山街道追分→善波峠→十文字の渡し跡→関本宿) | トップページ | 矢倉沢往還③(南御殿場駅→東海道合流地点) »