鳥羽街道
2012年6月17日
京都駅・・・九条通り・・・東寺・西国街道・・・羅城門跡・鳥羽街道(千本通り)・・・吉祥院天満宮常夜灯・北向地蔵(十条通り交差点)・・・恋塚浄禅寺・・・(名神高速道路)・・・小枝橋(鴨川)・・道標・鳥羽伏見戦跡碑・・新城南宮道・・・城南宮・・・城南宮道・・・鳥羽離宮跡公園・・・恋塚寺・・・鴨川堤・・・鳥羽の大石・・・龍門橋跡・・・法傳寺・・・鳥羽伏見の戦跡碑・・・一念寺・・・鴨川・桂川合流地点・・・楽水庵・・田中神社御旅所・・羽束師橋(桂川)・草津湊跡・魚市場跡碑・・・西光寺・・・浄徳寺・・・阿弥陀寺・・・戊辰役東軍戦死者埋骨地碑・・・念仏寺・・妙経寺・・・五番橋・・・納所村道路元標・・・唐人雁木旧址碑・・納所交差点(京街道合流地点)・・・淀競馬場・・淀駅(京阪本線)
京から南に川の字のように並ぶ3本の街道(西から鳥羽、竹田、伏見街道)を歩く。
まずは平安京を南北に貫いた朱雀大路南端の羅城門から真南に延び、鳥羽から淀に通じる「鳥羽の作り道」の鳥羽街道を行く。
淀まではたいした距離ではないが、台風が近づく梅雨の間の、晴れて非常に蒸し暑い日で、淀に着く頃にはかなりへばってしまった。淀競馬場で馬券を買いながら涼んで休憩したが、高い納涼代になってしまったことは言うまでもない。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
羅城門跡 【ル-ト地図】の①
ここで西国街道から分かれ南進する。
平安京の中心朱雀大路は船岡山が正面に来るように決められたとも言われ、 一説には、船岡山西麓の葬送地への道に千本の卒塔婆を建て供養したのが、「千本通り」の名の由来とする。
吉祥院天満宮常夜灯・北向地蔵(十条通交差点)
交差点手前にも常夜灯と、梅鉢紋の入った道標(正徳6年(1716))が立っている。ここから西へ1kmほどだが寄らなかった。
街道沿いには簾(すだれ)をかけている家が多い。陽射しはともかく、この蒸し暑さ除けにはなるまい。
袈裟御前ゆかり恋塚と、京都六地蔵の「鳥羽地蔵」の寺。
北面の武士、遠藤盛遠が人妻の袈裟御前に横恋慕する話で、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した『地獄門』のもとになった。右隣に「恋塚碑」も立つ。また一説には、寺の近くの池に棲んでいた大鯉が、夜毎に妖怪として現われたので退治して埋めた「鯉塚」ともいわれる。落語『袈裟御前』
後ろの地蔵堂の小野篁の作という「鳥羽地蔵」は「京都六地蔵」の一つ。
小枝橋(鴨川)を渡った左側に道標(安政6年(1859))と「鳥羽伏見戦跡碑」 《地図》
直進する新城南宮道を城南宮に向かう。
城(平安京)の南にあることから「城南神」と呼ばれた。白河天皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからはその一部となった。また白河上皇らの「熊野御幸」の出立の地でもあった。
このあたりは左側(東側)は道路より一段下に家が建っている。西側の家並みの裏は鴨川の土手が近い。
さっきの恋塚浄禅寺と同じ袈裟御前の物語の寺。
「月の桂」醸造元の増田徳兵衛商店
延宝3年(1675)の創業。今日は閉まっているようだが。
この先で鴨川の土手に上る。
二条城修理のために運ぶ途中で、川に沈んだ石らしい。
この付近で西高瀬川が合流して来る。
鴨川・桂川合流地点 《地図》
向うの羽束師橋あたりに草津湊があった。
「藤田権十郎邸 藤田四郎エ門邸 跡」の標柱が立っている。
ここで陸揚げされた魚は鳥羽街道を走って京へ運ばれた。「走り」の由来という。川を遡るよりも陸送の方が早く、鮮度を保てたのだろう。
紙製で下の部分は消えている。
土手はサイクリングロードになっていて、日曜で自転車の往来も多い。
妙経寺 《地図》
境内には「史跡 淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡碑」、「戊辰之役東軍戦死者之碑」のほか、戦犯として処刑された「木村久夫歌碑」がある。
「遺書」
ここから先は『京街道②』で歩いている。
「納所」は京へ運ぶ物資の倉庫が立ち並んでいたことに由来するという。江戸時代には宇治川と桂川とこのあたりで合流していた。右の電柱脇に船着場跡を示す「唐人雁木旧趾」碑が立つ。
ここを鳥羽街道歩きの終点とし、淀競馬場に向かった。
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