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2012年7月29日 (日)

佐倉市の坂②

2012年7月23日

京成佐倉駅(京成線)・・・宮下歯医者の坂・・緑の坂・・・甚大寺・・・下長屋の坂・・勝寿寺・・・石渡家住宅・・・佐倉ゆうゆうの里・・へび坂・・・八幡様の坂・八幡神社・・・野道の坂・・妙隆寺・・・八軒町の坂・・・玉家の坂・料亭玉家・・・塚本美術館・・・権現坂・・権現神社・・・やかん坂・・・権現坂・・・みそべやの坂・・・麻賀多神社・・鍛冶作の坂・・佐倉藩刀剣細工所の地碑・・・市立美術館前・新明の坂・・・京成佐倉駅→京成臼井駅・・・臼井台交差点・・ハマトクの坂・・・臼井台青年館・・・(成田街道)・・・星神社(臼井妙見社)・・・太田図書の墓・・臼井城跡・・古峯神社・道祖神社・エンの坂・・・天満宮・・・オオツキの坂・・・円応寺・・・エンの坂下・・・中宿交差点・成田街道・・・新坂下稲荷台の坂・・稲荷神社・・・道祖神・・・京成臼井駅

  【ル-ト地図】①(佐倉駅周辺)・【ル-ト地図】②(臼井駅周辺)

  *参考:『佐倉市民ハイキングクラブ』・『佐倉市の坂①』にも記事あり。

 写真をクリックすると拡大します。

Img_0574 宮下歯医者の坂 《地図》 京成佐倉駅から成田街道まで、南東から南方向に上る坂。

以前、坂上に宮下歯医者があったことによる坂名。

Img_0586 坂下方向

Img_0575 緑の坂 《地図

宮下歯医者の坂の途中から南東方向に上る坂。途中は階段坂。

Img_0578 坂上方向

Img_0594 下長屋の坂 【ル-ト地図】①の①

南東方向に上る坂。坂下に長屋があったことによる坂名。

Img_0595 坂下方向

Img_0599 坂上方向

右は勝寿寺、左は検察庁。

Img_0602 石渡家の所で成田街道に出る。

Img_0608 へび坂 【ル-ト地図】①の②

曲りながら北東方向に上る坂。蛇のようにくねる坂からか。北側は野狐台町でこのあたりには蛇や狐などが出たのだろう。

Img_0610 坂下方向

Img_0612 坂下方向

Img_0617 地蔵さんがポツンと。

Img_0628 八幡様の坂 《地図

八幡神社の東側を北東に上る坂。

Img_0624 坂下方向

Img_0629 坂上方向

Img_0626 八幡神社

Img_0632 野道の坂 《地図

中央公民館脇から曲りながら北方向に上る坂。途中から階段坂になる。野草の溢れる道か。

Img_0635 坂上方向

Img_0642 坂上から

Img_0646 妙隆寺

佐倉七福神の大黒天

Img_0648 八軒町の坂(坂上近く) 《地図

東方向に上る坂。旧袋町を昔は八軒町といった。坂の途中に袋町集会所がある。

Img_0651 坂上の六角形?の家

Img_0650 坂下方向

Img_0653 坂上方向

Img_0657 玉家の坂 【ル-ト地図】①の③

料亭玉家前を北西に上る。坂上近くは階段坂。

Img_0661 坂上方向

右が玉家で、創業130年の川魚料亭。

Img_0663 坂下方向

Img_0667塚本美術館沿いを進む。

日本刀コレクションの美術館。

Img_0678 権現坂 《地図

北西方向に上る国道296号。坂途中に権現神社(写真の右上)がある。

Img_0680 権現神社

Img_0696 権現神社

社(やしろ)は小さい。

Img_0684 やかん坂 【ル-ト地図】①の④

曲りながら西方向に上る坂。人をだます「野干(やかん)」(野狐)が出るような寂しい坂だったか、「やかん」が転げ落ちるような急坂だったか。坂下にはかつて池があり、国道のガード下には「くもの井戸」という湧き水があるようだ。

Img_0685 坂上方向

途中から階段坂となる。

Img_0688 坂上方向

Img_0694 坂上から

Img_0700 権現坂(坂上方向)

右下は旧道の漆坂

Img_0709 みそべやの坂 《地図

南に上る急坂。昔、坂下に佐倉藩の味噌などの備蓄小屋があったという。

Img_0707 坂上方向

Img_0710 麻賀多神社

佐倉の鎮守

Img_0714 鍛冶作の坂 【ル-ト地図】①の⑤

麻賀多神社の東脇を入り、北西方向に下る坂。

坂下の小字「鍛冶作」にちなむ坂名。鍛冶作では、江戸時代から良質の水が湧き出ていたことから、刀剣鍛冶・鉄砲鍛冶などの鍛冶屋が集まっていたという。

Img_0716 坂下方向

Img_0717 坂下方向

Img_0718 佐倉藩刀剣細工所の地碑 《地図

Img_0720 成田街道を市立美術館前まで行く。

Img_0726 新明の坂(坂下方向) 《地図

京成佐倉駅から市立美術館まで南に上る坂。坂の途中にテーラー「新明」があったことによる坂名だそうだ。

Img_0730 坂下方向

京成佐倉駅から京成臼井駅まで電車に乗る。

Img_0734 ハマトクの坂 【ル-ト地図】②の①

国道296号を横切り北に上る坂。「ハマトク」は屋号だろうか?

Img_0736 坂上方向

Img_0741 臼井台青年館の先で、成田街道を横切る。

Img_0754 星神社(臼井妙見社) 【ル-ト地図】②の②

Img_0749 説明板

Img_0751 赤子を抱いた子安様

大正3年に「女人講中」が建立した観音像。

Img_0755 太田図書の墓 《地図

太田道灌の弟(甥とも)

Img_0756 説明板

Img_0765 臼井城跡 【ル-ト地図】②の③

空堀の土橋を渡って本丸跡へ。

Img_0759 説明板

Img_0774 印旛沼(本丸跡から)

臼井八景の「城嶺夕照」

Img_0758 説明板

Img_0781 エンの坂 《地図

カーブしながら北西方向に臼井城跡まで上る坂。左は古峯神社と道祖神社。「エン」とは?

Img_0783 坂下方向

Img_0811 坂上方向

Img_0788 天満宮 《地図

Img_0789 小さな社

Img_0792 オオツキの坂 【ル-ト地図】②の④

南に上る、途中は階段状の坂。「大槻家」、「大月家」だろうか?

Img_0793 坂下方向

Img_0794 坂下方向

Img_0796 坂上方向

Img_0799 円応寺に下る坂。 《地図

Img_0802 茅葺の廃屋

Img_0807 円応寺(えんのうじ)

Img_0806 説明板

Img_0817 稲荷台の坂 【ル-ト地図】②の⑤

南東方向に上る坂。この坂の反対側が成田街道の新坂。

Img_0819 坂の途中から稲荷社へ

Img_0822 稲荷社(中)・子安社(右)・三峯古峯社(左)

Img_0830 坂上方向

Img_0831 坂下方向

右に道祖神の小祠

Img_0833 臼井駅に向かう途中の坂

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2012年7月28日 (土)

東京坂道散歩(中野区・杉並区・世田谷区・渋谷区)

2012年7月22日

東高円寺駅(地下鉄丸ノ内線)・・・青梅街道・・・西町天神北野神社・・・水車坂・・大久保通り・・・鳥見坂・桃花小学校・・・天祖神社・・・桃園川緑道(三味線橋・・北裏橋・・仲園橋・・慈眼堂橋)・小笠原坂・・・青梅街道・・・中野坂上交差点・ハーモニータワー・中野坂・・相生一番坂・・・相生二番坂・・山手通り・・中野坂上駅(丸ノ内線)→方南町駅・・・堀之内橋(善福寺川)・・・地蔵坂・地蔵堂・・・環七通り・・・代田橋駅(京王線)→桜上水駅・・駅南坂・・細道坂・・そよ風坂・・タッピング坂・・花火坂・・桜上水駅(京王線・井の頭線)→渋谷駅・・道玄坂下・文化村通り・・円山坂・・道玄坂・・・渋谷駅

  【ル-ト地図】(中野区)

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Img_0479 西町天神北野神社

青梅街道を歩いた時は、大公孫樹(おおいちょう)は落葉していた。

Img_0483 水車坂 【ル-ト地図】の① 南方向に上る坂。

桃園川の支流が流れ、東側の崖の窪地に水車があったそうだ。

Img_0484 坂上方向

Img_0488 鳥見坂 【ル-ト地図】の② 

大久保通りから桃花小学校の南側沿いに緩やかに上る坂で、「お鳥見通り」と呼ばれ、坂下の桃園川(現在桃園川緑道)に鳥見橋が架かっていた。

Img_0489 坂上方向

この橋(跡)は「かう志んばし」(庚申橋?)

Img_0497 桃園川緑道を行く。

三味線橋→北裏橋→仲園橋→慈眼堂橋と進む。

Img_0496 三味線橋の由来

Img_0503 小笠原坂 【ル-ト地図】の③

慈眼堂橋から南方向に上る坂。

Img_0505 坂下方向

坂沿いに小笠原家があったのか? 探したが見当たらず。

Img_0507 中野坂上交差点

ハーモニースクエアの裏側(南側)の住宅街に向かう。

Img_0508 相生一番坂(坂下方向) 【ル-ト地図】の④

北方向に上る坂。

Img_0511 坂上方向

Img_0513 坂下から

左のブロック塀に「相生一番坂」のプレート。

Img_0519 相生二番坂 【ル-ト地図】の⑤

北西方向に山手通りに上る坂。

Img_0523 坂上方向

Img_0524 坂下方向

Img_0528 坂上の山手通りから

左が相生二番坂。

中野坂上駅から方南町駅まで地下鉄に乗る。

Img_0533 地蔵坂 《地図

北に上る坂。途中に地蔵・庚申堂がある。

Img_0540 地蔵・庚申堂

Img_0539 近辺から集められ安置されている地蔵と庚申塔か。

Img_0535 坂下方向

左の屋根が地蔵・庚申堂

環七通りに出て南下し、代田橋駅から桜上水駅に出る。

Img_0550 桜上水5丁目案内板

駅の南側に5本の坂が並んでいる。桜上水5丁目自治会で名づけた坂名。どれも緩やかな坂で、西へ行くほど傾斜がある。

Img_0544 駅南坂

Img_0545 坂標

Img_0547 細道坂

Img_0552 そよ風坂

Img_0556 タッピング坂

昭和15年頃より昭和32年頃まで5-37の角の3階建の洋館に賀川豊彦の通訳や翻訳をしていた ヘレン ・タッピング氏が住んでいた。

Img_0559 花火坂

坂上から二子玉川・川崎の花火がきれいに見え、毎年大勢の人が楽しんでいるそうだ。

桜上水駅から京王線、井の頭線で渋谷駅に向かう。

Img_0570 道玄坂下交差点

相変わらずの人混み、雑踏。まして夏休みで日曜だ。

Img_0565 円山坂 《地図》 南に上る坂

それに引き替えまるで人通りのない空間。坂沿いにラブホテルが立ち並ぶ。ここはかつては「円山花街」の一画だった。この街で生まれ育った三善英史の♪「円山・花町・母の町」

円山町は『滝坂道①』にも記載。

Img_0566 坂上方向

Img_0568 坂下方向

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2012年7月27日 (金)

東京坂道散歩(北区・豊島区・新宿区)

2012年7月21日

田端駅(JR山手線)・・・江戸坂・田端高台通り・・・(山手線)・・・庄内坂・・円勝寺・・・駒込駅(山手線)→池袋駅・・・祥雲寺・祥雲寺坂・・・池袋駅(山手線)→目白駅・・西坂(学習院椿の坂)・・・銀鈴の坂・・豊坂・豊坂稲荷神社・・・目白駅(山手線)→高田馬場駅(西武新宿線)→中井駅・・・二の坂(蘭塔坂)坂下~八の坂下・・・ごりょう(御霊)坂・・中井御霊神社・・・バッケの坂・・・山手通り・・一の坂・・・振り子坂・・山手坂・・・中井駅(西武新宿線)→高田馬場駅・・・源兵衛子育地蔵尊・地蔵坂・・地蔵横丁・・・諏訪通り・・・穴八幡宮・・八幡坂下・・夏目坂・・・若松町交差点・団子坂上・大久保通り・・・寶録稲荷神社・・・幸国寺・・・市谷柳町交差点・焼餅坂下・外苑東通り・・銀杏坂下・・・薬王寺坂・・長昌寺・・浄栄寺・・児玉坂・・・牛込柳町駅(都営大江戸線)

 梅雨は明けたが雨模様の涼しい日、久しぶりに東京の坂を歩く。

 *太字が新しい坂

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Img_0328 江戸坂を田端高台通りに上る。 《地図

左は田端文士村記念館

Img_0340 庄内坂 《地図》 北東に上る坂。

右の駒込学生会館(やまがた育英会)は、もとは「荘内館」という庄内出身の学生寮だった。

Img_0341 稲荷社の前に坂標(坂上近く)

今年の1月にやまがた育英会の立てた御影石の立派な新品。

Img_0344 坂上方向

右下はJR山手線

Img_0345 円勝寺(坂下)

石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓がある。

駒込駅から山手線で池袋駅に出る。

Img_0348 祥雲寺坂(坂上) 《地図

右が祥雲寺で、「首斬り浅右衛門之碑」があるようだ。説明板には墓とある。

Img_0349 説明板

Img_0351 坂下方向

池袋駅に戻り山手線で目白駅に。

Img_0355 西坂(学習院椿の坂) 《地図

山手線と学習院大学の間を南西に下る坂。

Img_0363 西坂門(学習院大学)

門を入った右方に、赤穂浪士の堀部安兵衛が「高田馬場の決闘」で仇を討った血刀をこの池で洗ったという「血洗いの池」があるが、大正時代の学習院高等科生徒による創作で史実ではない。
 元は湧水の用水池で、江戸時代には灌漑用の水門・水路があったそうだ。

Img_0359 学習院椿の坂とも呼ぶ。「学習院」は余計と思うが。

Img_0360 坂下近く

Img_0361 坂上方向

Img_0365 銀鈴の坂 《地図》 「く」の字に目白駅前交番へ上る階段坂。

坂名の由来は?

Img_0366 坂上方向

雨が本降りになってきた。

Img_0369 豊坂 《地図》 銀鈴の坂下から南西に豊坂稲荷神社に上る坂。

Img_0370 坂上近くに市来嶋神社の小祠と豊坂稲荷神社

Img_0372豊坂稲荷神社

Img_0374 坂下方向

目白駅(山手線)→高田馬場駅(西武新宿線)→中井駅

二の坂(蘭塔坂)下から西へ、八の坂下へと進む。『新宿区の坂⑦

Img_0379 ごりょう(御霊)坂 《地図》  東から北に上る坂。

坂の途中の右上に中井御霊神社がある。

Img_0380 坂上方向

坂上突当りは目白大学で、左にバッケの坂の下りとなる。

Img_0386 坂下方向

Img_0383中井御霊神社

Img_0390 バッケの坂 《地図》 東方向に上る坂。

この地域の斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のバッケが原への近道であったため、バッケの坂と呼ばれていた。「バッケ」は「ハケ」で崖のこと。

Img_0395 坂上方向

Img_0394 坂下から

八の坂下から二の坂下へ戻り、一の坂下へと進む。

Img_0412 山手坂(左)・振り子坂(右)

Img_0429 山手坂 《地図

山手通りから南西に上る坂。坂下は振り子坂と同じ所。

Img_0431 山手坂(坂下方向) 

Img_0410 振り子坂 《地図

山手通りから北西に上る坂。坂名の由来は?

Img_0414 坂上方向

Img_0416 旧家

Img_0417 坂下方向

中井駅から高田馬場駅に戻り、早稲田通りを東へ進む。

Img_0432 子育地蔵の西早稲田商店会。「地蔵で音楽」とある。

Img_0433 地蔵坂の坂下・源兵衛子育地蔵尊 《地図

南西方向に上る坂。

Img_0434 源兵衛子育地蔵(享保11年(1726))

元禄の末頃、小泉源兵衛がこの地に住みつき、周辺は源兵衛村と呼ばれるようになった。源兵衛の功績を記念し、この地蔵が建立され安置された。

Img_0437 坂下方向

Img_0439 地蔵横丁を諏訪通りに向かう。 《地図》

諏訪通りに出て、穴八幡宮に寄り、夏目坂を上り、若松町交差点で大久保通りに入る。

Img_0453 旧道、裏道っぽい左の坂を下る。 《地図

Img_0459 幸国寺山門

右側に番所が併設されている。

Img_0457 説明板

Img_0460 車も通らない静かな坂だ。

坂下で市谷柳町交差点に出て、外苑東通りに入る。

Img_0461 薬王寺坂 《地図》 西に上る坂。

江戸時代、坂下の現在の外苑東通り沿いに薬王寺があった。寺はなくなったが市谷薬王寺町にその名が残る。

Img_0464 浄栄寺山門

Img_0463 説明板

Img_0466 坂下方向

左は長昌寺

Img_0468 児玉坂 《地図》 西に上る坂。

この付近に日露戦争で活躍した陸軍大将、児玉源太郎の邸宅があった。

Img_0469 坂上方向

Img_0471 坂下方向

牛込柳町駅から帰途についた。

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2012年7月26日 (木)

上尾市の坂②

2012年7月20日

志久駅(ニューシャトル)・・・ドンドン坂・・・台の坂・・・庚申坂・原市新道・・・(県道5号)・・・氷川神社・長久寺(原市不動尊)・・・観音坂・・佐四郎稲荷神社・・宝蔵寺・・(原市駅)・・・国道16号・・・(吉野原駅)・・・宮原中学校・・旧中山道・・・第三原市踏切(JR高崎線)・・・中橋(鴨川)・秋葉道・・御嶽坂・・御嶽神社・・・第三原市踏切・・・旧中山道・・・(新大宮バイパス)・・・加茂神社・・・宮原駅(JR高崎線)

  【ル-ト地図】(12.8km)

 参考:『広報あげお』(№508(1988年7月1日))~(№558(1990年8月1日))

 今日は涼しい。昨日より10度以上も低く歩き安いが、今日はどれも坂と呼ぶにはおこがましいような傾斜のゆるい面白味のない坂だった。原市の通りに昔の家並みを見たのがせめてもの救いだった。

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Img_0186 志久駅(ニューシャトル

ここは伊奈忠次の名による北足立郡伊奈町。

Img_0191 このあたりは緑が残っている。

Img_0198 ドンドン坂 【ル-ト地図】の①

昔は道幅は狭く、両側は切り立った崖だった。付近の子どもたちはこの崖を駆け下り、道を横断して向かいの崖へはい上がる遊び場にしていたという。その時、ドンドンという勢いをつけて往来したことから何時とはなしに坂の呼び名となったという。『広報あげお№528 1989.5.1号』より

Img_0199 坂標

Img_0204 坂下方向

南西方向に緩やかに上る坂。

Img_0208 台の坂 【ル-ト地図】の②

北から南方向に曲がりながら上る坂。傾斜はほとんどない。昔は坂下に小川が流れ、子どもたちが小魚を追って遊んでいたという。今はそんな光景は想像もつかいない場所だ。

Img_0206 坂標

Img_0213 庚申坂 【ル-ト地図】の③

北西方向に緩やかに上る坂。

Img_0211 庚申塔(坂の途中の左側)

Img_0216 庚申塔(延享?年)

側面に「東原市道 西上尾道 北二宮道」

原市新道を進み、原市の通りに入る。

Img_0224 田中屋酒店 《地図

原市は戦国時代からの市場町で、江戸時代には六斎市が立ち、中山道の脇往還として機能していた。

Img_0233 創業は安政6年(1859))

Img_0239 氷川神社

Img_0242 縁起

Img_0244 長久寺(原市不動尊)

Img_0248 旧家

蔵の前に胸像が立つ。

Img_0250 旧家

Img_0253 旧家

Img_0255 山本屋又右衛門

江戸時代からの肥料商で、今はカフェ&ギャラリーになっている。

Img_0256

Img_0260 観音坂 【ル-ト地図】の④

西方向に上る坂。宝蔵寺の馬頭観音に由来するようだ。

Img_0261 坂下方向

上はニューシャトルの軌道。

Img_0263 佐四郎稲荷神社 《地図

Img_0265 由緒

Img_0271 宝蔵寺

Img_0268 説明板

Img_0274 ニューシャトルの下を進み、国道16号に出て西に旧中山道まで、車の往来の激しい味気ない道を行く。

Img_0284 宮原中学校の先で旧中山道にぶつかり、少し江戸方向に南下し右折し、高崎線の踏切を渡って行く。《地図

Img_0294 中橋(鴨川)を渡って御嶽坂の上りとなる。

Img_0298 御嶽(おんたけ)坂 【ル-ト地図】の⑤

西方向に上る坂。北側に御嶽神社があり、旧道が残る。

Img_0300 御嶽神社

昔、染井吉野と山桜の木があり、その周りを田と池が囲んでいた。田植えの頃まで花が咲き田が日陰になるので、木の幹に穴を開けカツオ節を埋め込み、虫を発生させて桜の木を枯らしてしまった。「御嶽の桜枯らすにカツオ節」の川柳が残るそうだ。『広報あげお№558 1990.8.1号』より

「背に腹は代えられぬ」とはいえ、むご過ぎやしないか。

Img_0305 神社前に旧道が残る。

Img_0312 稲荷坂(坂下方向)

新道(右)・旧道(左)が合流する。

中山道に戻り宮原駅に向かった。

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2012年7月25日 (水)

上尾市(埼玉県)の坂①

2012年7月19日

指扇駅(JR川越線)・・・(西大宮バイパス)・(滝沼川)・・宝来交差点・・・福寿庵百観音・八雲神社・・・市営峰岸団地・・・(上尾市)・・・天沼坂・・天沼橋・・雨沼坂・・・観音堂・・・開平橋交差点・・地蔵院・・・平方交差点・・亭家坂・・・馬蹄寺・・・橘神社・・・吾妻坂・・・丸山公園・・・寺坂・・小林寺・・・稲荷橋・・稲荷坂・・・諏訪神社・・・駒橋通り・・・地蔵像板石塔婆(畔吉東部共同墓地)・・・西上尾車庫バス停→上尾駅(JR高崎線)

  【ル-ト地図】(9.4km)

 参考:『広報あげお』(№508(1988年7月1日))~(№558(1990年8月1日))

 写真をクリックすると拡大します。

Img_0054 指扇(さしおうぎ)駅

指扇の由来は、①サシは日向地・傾斜地、オギは湿地の意味があり、湿地に続く日向地・傾斜地のこと。②足利一族の上野右馬助頼兼が恩賞として拝領した地域が扇の形だった。③江戸時代、旗本山内豊前守一唯(山内一豊の甥)の拝領地三千石の地域が扇の形だったなどだが、江戸時代にはすでに指扇という地名はあったのでは?

Img_0058福寿庵百観音(右)・八雲神社(左) 【ル-ト地図】の①

Img_0060 説明板

Img_0068 庚申塔(元禄10年(1697))

観音堂の後ろ。

Img_0073 稲穂もかなり伸びてきている。

県道に出て上尾市に入る。

Img_0077 西貝塚地区

貝塚があったのだろうか? 調べても分からず。

Img_0081 天沼坂を下る。 【ル-ト地図】の②

北西方向に下る坂。左側に坂標が立つ。

坂下の天沼橋からは、雨沼坂の上りとなる。昔は「あまぬま」と「あめぬま」と呼んだが、今はどちらも「あまぬま」坂。

Img_0083 雨沼坂を上る。

このあたりは低地で雨が降ると田は沼に化した。右に坂標。

Img_0093 観音堂

Img_0091 森朴斎碑(右端・観音堂境内)

Img_0090 説明板

Img_0100 亭家坂(坂上方向) 北方向に緩やかに上る坂。

「そうだ、まったくだ、テイカの坂だよ、上ればヤネソのうたの声」と歌われた。急な亭家坂を上ると、静かな風景に機織娘の声が聞こえて心が和んでくるよ、と言う意味。坂の上には、テイカの屋号を持つ家がある。 『広報あげお №538(1989.10.1号)』 

Img_0103 亭家坂(坂上方向) 【ル-ト地図】の③

坂上右側に今もテイカ園の民家がある。

Img_0105 テイカ園

Img_0116 馬蹄寺

Img_0113 モクコク

前に「鈴木荘丹俳諧歌碑」が立つ。

Img_0111 説明板(モクコク)

Img_0112 説明板(歌碑)

Img_0118 旧家

Img_0121 橘神社 《地図

Img_0131 大ケヤキ

Img_0128 説明板

Img_0130 平方村河岸出入商人衆奉納の石祠

中央の物か。

Img_0122 説明板

Img_0134 何の容器だったか?

Img_0136 吾妻坂を下る。 【ル-ト地図】の④

馬蹄寺の由来が書かれた略縁起の中に、「鎌倉時代、この里に長者あり、吾妻左衛門是好と言へり。(今に吾妻坂とて長者屋敷の旧跡あり)」とあり、この長者に関係があるらしい。『広報あげお №514(1988.10.1号)』 左の電柱脇に坂標が立つ。

Img_0138 北方向に下って上る坂。

Img_0140 坂上方向

左は橘高校

Img_0147 丸山公園

日陰で一休み。

Img_0149 寺坂の坂上 【ル-ト地図】の⑤

北西方向に下る坂。右に小林。電柱脇に坂標。

Img_0150 小林寺

Img_0153 寺坂を下り、稲荷橋を渡れば稲荷坂の上りとなる。

Img_0156 稲荷橋

右に旧道が残る。旧道沿いにあった稲荷社は明治40年に諏訪神社に合祀されたそうだ。

Img_0158 旧道 《地図

すぐに左折する道がある。

Img_0162 稲荷坂の坂上

右が新道、左が旧道。分岐に坂標が立つ。

Img_0164 稲荷坂

新道の坂下方向

Img_0166 地蔵を見ながら稲荷社が合祀されているという諏訪神社へ向う。

Img_0171 諏訪神社 《地図

稲荷社を探したが堂・祠などは見当たらず。あるのは左奥の愛宕社の小祠のみだった。

Img_0169 説明板(畔吉の万作踊り

Img_0170 説明板(畔吉ささら獅子舞

Img_0173 力石

Img_0172 説明板

Img_0184 畔吉東部共同墓地

Img_0181 地蔵像板石塔婆

地蔵が線刻されている。応安7年(1374)の紀年名があるそうだ。

Img_0179 説明板

Img_0182 説明板(木造阿弥陀如来立像)

西上尾車庫バス停から上尾駅に出た。梅雨が明けて暑い日だった。

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2012年7月16日 (月)

那覇市の坂④

2012年6月30日

旭橋駅(ゆいレール)・・・天使館跡・下天妃宮跡・那覇里主所跡・沖縄県電信電話発祥の地・・・薩摩藩在番奉行所跡・・・三重城跡・・・獅子屋御嶽(辻南公園)・・・辻遊郭街跡・・三文珠公園・・・花城御嶽(当間森)・・・久米至聖廟・・・波上宮・護国寺・・・小桜の塔・・対馬丸記念館・・・波の上ビーチ・那覇港・・・若狭海浜公園・・・夫婦橋(久茂地川)・・・泊港・・泊港橋・・・泊外人墓地・ペルリ提督上陸地碑・・・那覇新港(安謝港)・・・安謝交差点(国道58号)・ナナユヒービラ・・・上之屋交差点・・・沖縄県立博物館・・那覇メインプレイス・・・・おもろ町駅(ゆいレール)→那覇空港→羽田空港

 暑い那覇を4日間歩き終えた。羽田に降りた時の涼しさが身にしみた。 

  【ル-ト地図】(13.2km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9988 天使館跡・下天妃宮跡・那覇里主所跡 【ル-ト地図】の①

上天妃宮の石門が、すぐ北側の天妃小学校に残るのだがうっかり見落とした。暑さぼけだろう。

Img_9981 説明板(天使館)

Img_9984 説明板(下天妃宮跡・那覇里主所跡)

南側の薩摩藩在番奉行所跡を探したが分からず。東町交差点の南側あたりのようだが。

Img_9992 三重城跡 【ル-ト地図】の②

Img_9996 炎天下、男女2人が海に向かって線香をたいて熱心に拝んでいる。遥拝所だろう。

Img_0005 石垣跡

Img_9998 那覇港

三重城の対岸には屋良座森城があった。

Img_0007 獅子屋御嶽(辻南公園)

Img_0012 辻遊郭街跡 《地図

今もぎっしりと風俗店が立ち並ぶ。
小説『テンペスト』では、寧温(真鶴)の策略で首里城を追われた前の聞得大君(真牛)が、ここでジュリ(遊女)に身を落していた。NHKTVドラマでは、その店の女将の小林幸子が「はまり役」だった。

Img_0016 三文珠公園 【ル-ト地図】の③

Img_0015 説明板

Img_0019 花城御嶽 《地図

後ろは当間森か。

Img_0024 久米至聖廟

孔子を祀る廟

Img_0029 波上宮 《地図

Img_0033 小桜の塔

対馬丸事件犠牲者ら沖縄戦没学童の慰霊塔。

Img_0035対馬丸記念館

Img_0037波の上ビーチ・波の上橋

強い日差し紫外線で、10分も肌をさらせばやけどだろう。

Img_0043 泊港・泊大橋

Img_0048 泊外人墓地・ペルリ提督上陸地碑 【ル-ト地図】の④

ウランダ(方言でオランダ)墓ともいわれる。アメリカ人、中国人、イギリス人、フランス人、スウェーデン人などが眠る。最も古いのは、1718年に埋葬された中国人だそうだ。

ペルリ(ペリー)艦隊は、浦賀に帰港する3ヶ月前に那覇を訪れ、王府の抵抗を押し切って、約200人の兵隊や軍楽隊を率いて首里城を訪問した。その後も日米交渉の基地として数回寄港・滞在している。記念碑には米琉友好の挨拶が和文と英文で刻まれているそうだ。
 北側には外国人の宿泊所にもなった聖現寺と琉球八社の一つの天久宮(あめくぐう)がある。ここもうっかり忘れた。暑さぼけではなく、本物のボケか。

Img_0050 ナナユヒービラ 【ル-ト地図】の⑤

安謝交差点(国道58号)から南方向に上之屋交差点あたりまで上る長い坂。歴史散歩マップ『真和志まーい』に載る坂だが、坂名の由来などは分からず。

Img_0051 沖縄県立博物館

害虫駆除で7月3日まで休館だと。どっと汗が噴き出し、疲れが増した。仕方なく「おもろまち」の那覇メインプレイスで時間を潰し、那覇空港へ向かった。それにしても暑い4日間だった。

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2012年7月11日 (水)

那覇市の坂③

2012年6月29日

儀保駅(ゆいレール)・・・アダニガービラ(安谷川坂)・・・ヤマトガー(大和井戸)・・・綾門大道・・・玉陵・・タマウドゥンビラ(玉陵ビラ)・・・赤マルソウ通り・・・シマシービラ(島添坂)・・真珠道・真小路分岐・・・フトウキメヌビラ(仏の坂)・・・崎山遺跡・崎山御嶽(崎山公園)・・崎山馬場跡・・瑞泉酒造・・・崎山馬場御座敷跡・・・ウチャヌビラ(御茶屋之坂)・・・御茶屋御殿跡・・・・ウチャヌビラ・・・末衛増御嶽・・・御茶屋御殿石造獅子(移設)・雨乞御嶽・・・アマグイビラ(雨乞坂)・・国吉比屋の墓・・・儀間真常の墓・・・亀甲墓・・・ヒジガービラ(ヒジ川坂)・・ヒジガーあたり・・・ヒジ川橋(安里川)・金城ダム・・・病害虫防除技術センター・・・識名園・・県道222号・・・開南交差点・・太平通り・・サンライズなは通り・・・平和通り商店街・・・てんぷら坂・・・桜坂・桜坂劇場・・・(国際通り)・・・崇元寺橋(安里川)・・・崇元寺石門・・・長虹堤跡・・・七つ墓(跡)・十貫瀬・・・美栄橋駅(ゆいレール)

  【ル-ト地図】(13.0km)

 島添坂(シマシービラ)の坂上の真珠道との分岐から、真玉小路、ヒジガービラまーい(ヒジ川坂散歩道)、識名園から繁華街の国際通り付近に出て、崇元寺石門から長虹堤跡を通り七つ墓まで。たいした距離ではないが、今日も暑い暑い坂道散歩になるだろう。

  *参考:『沖縄県歴史の道調査報告書1』

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9759 玉陵(タマウドゥン)

琉球王国第二尚氏王統の陵墓。

Img_9758 説明板

Img_9762 3つの墓室

Img_9757 玉陵ビラ(タマウドゥンビラ)を下る。 《地図》 

東方向に回り込み、島添坂(真珠道)の途中に出て上る。

Img_9500 真珠道・真玉小路(まだますーじ)分岐点 《地図

真玉小路は左折し、フトウキメヌビラ(仏の坂)を下る。

Img_9793 「ヒジガービラまーい」案内図

分岐から東へ崎山遺跡までが真玉小路。

Img_9770 フトウキメヌビラ(仏の坂) 《地図

赤マルソウ通りとの交差点まで下る真玉小路の緩やかな坂。今は「小路」ではない。

『歴史の道調査報告書』によれば、第二尚氏革命時に尚巴志王の遺骨を隠した大日寺があり、また戦後まで道沿いに一字ずつ「南無阿弥陀仏」と書かれた岩があったという。「赤マルソウ」とは、道沿いにあった味噌・醤油醸造会社で、現在は糸満市西崎に移転したそうだ。

Img_9772 井戸跡(赤マルソウ通りとの交差点の左の信号下)

これが『歴史の道調査報告書』が言う大慈悲院の井戸(デーフィンガー)だろうか? 左側の崖に第一尚氏最後の国王の世子のクンダ(腓-こむら)の骨だけが葬られたクンダグスク(腓城)があったという。このあたりは首里城の下なので「グスクヌシチャー」とも呼ばれるそうだ。

Img_9773 「ヒジガービラまーい」説明板

Img_9778 崎山遺跡

旧跡時代の遺跡だが、採石によりほとんど破壊状態。

Img_9777 説明板

崎山公園からの展望は首里八景の一つなのだが、写真はぼやけてしまった。

Img_9784 崎山御嶽 《地図

崎山村の御嶽で、王府時代、高級女神官の首里大阿母志良礼が祀りを司った。境内は、察度王の子であった崎山子(サキヤマシー)の屋敷跡と伝えられ、境内には墓があるという。
拝殿に当たる門は、1865年に木造の瓦葺から石造切妻型のアーチ門に改造されたが、沖縄戦で破壊され、今ではコンクリート製で昔の姿を偲ぶことはできない。

Img_9787 崎山馬場跡 《地図

王家の御用馬場で、馬術訓練が行われた約230mの直線道路。崎山の人達が綱引きをした所でもある。

Img_9790 崎山馬場御座敷跡

王が馬術訓練を見学した御座敷(ウサンシチ)跡。奥に崎山村学校所(啓蒙館)があった。

Img_9788 瑞泉酒造

戦前は崎山馬場沿いに25ヶ所もの泡盛醸造所があったそうだ。今はここ一軒のみ。

Img_9805 ウチャヌビラ(御茶屋之坂)を上る。 【ル-ト地図】の①

昔は御茶屋御殿の関門の木の門があり、このあたりを木門之前(キージョーヌメー)といった。今は右の電柱下に「石敢當」が立つ。

Img_9799 坂上方向

左は城南小学校

Img_9803 御茶屋御殿跡(崎山御殿・東苑) 《地図

1677年に建られた王府の別邸で迎賓館。

Img_9802 説明板

Img_0053 御茶屋御殿

ここで中国からの冊封使や薩摩の使者をもてなした。

御茶屋之坂の坂下に戻り、「ヒジガービラまーい」を進む。

Img_9808 石畳の上り坂となる。 《地図

左に末衛増嶽

Img_9810 末衛増御嶽(しーまたき)

Img_9809 説明板

Img_9812 民家の間を緩やかに上る。

Img_9814 路面に琉球石灰岩の道しるべが埋めてある。

Img_9820 雨乞御嶽 

村を守る御嶽と違い、干ばつが続く時は、国王がみずから家臣たちを率いて、この御嶽で雨乞いの祈願をした。

Img_9816 説明板

今は「首里八景」の南西方向の眺望はない。

Img_9818 首里城方向の眺め

Img_9821 石造獅子

もとは御茶屋御殿跡の首里カトリック教会の敷地にあり、火難をもたらすと考えられていた東風平町富盛(こちんだちょうともり)の八重瀬岳に向けられていた。18世紀、文人として名高い程順則(テイジュンソク)が、御茶屋御殿を詠んだ漢詩「東苑八景」に「石洞獅蹲(セキドウシソン)」と記され、御殿を火災やその他の災厄から守る獅子(シーサー)が称えられている。がけ崩れの恐れが生じたのでここに移された。

Img_9824 アマグイビラ(雨乞坂)を下る。 【ル-ト地図】の②

Img_9828 国吉比屋の墓

Img_9827 説明板

Img_9829 儀間真常の墓

Img_9831 説明板

Img_9834 車道を横切る。

Img_9838 右側に亀甲墓

Img_9840 亀甲墓

Img_9841_2 説明板

Img_9842 路面の道しるべに従い左へ進む。

Img_9849 ヒジガービラ(ヒジ川坂・比地川坂)の下りとなる。 【ル-ト地図】の③

Img_9845 説明板①

Img_9866 説明板②(坂を下って車道に出た所に設置)

Img_9860 途中、右へ入り雑草を分けて名前の由来の湧き水「ヒジガー」に向かうが、この先は進めない状態で引き返す。ここでもやぶ蚊などにボコボコに喰われた。

Img_9853 「ヒジガー」説明板

Img_9862 金城ダムへと下って行く。

Img_9868 金城ダム

Img_9872 ヒジ川橋 《地図

Img_9873 説明板

Img_9870 ヒジ川橋

ここが「ヒジガービラまーい」の終点だが、橋を渡って識名園に向かう。

Img_9927 識名園正門

琉球王家の別邸。御茶屋御殿の「東苑」に対し、「南苑」とも呼ばれた。この門から国王一家や冊封使などが出入りした。

Img_9904 六角堂(右)・御殿(正面)

Img_9923 歓耕台から

南方を見晴らす展望所で海が見えない。冊封使などをここへ案内し、琉球はけっして小さな島でなく、国土は広大であることを知らしめたかったようだ。左の小高い丘は高津嘉山(87m)だろう。

県道222号を国際通りの方へ向かう。かなりの距離で暑さでバテてきた。太平通り前の沖縄そば屋で腹ごしらえして休憩した。

Img_9933 てんぷら坂 【ル-ト地図】の④

戦後、坂沿いに掘っ立て小屋のてんぷら屋が軒を連ねていたそうだ。今は「てんぷら坂」という店があるのみ。

Img_9934 坂上方向

Img_9935 坂下方向

Img_9937 坂上を進むと古い家が残っている。

Img_9940 桜坂 《地図

以前、桜並木があったからとか。

Img_9941 桜坂劇場

このあたりの全盛期は1960年代で、近くの壺屋や市場で働く人や買い物客が、帰りに遊んでいた歓楽街だったそうだ。

Img_9943 坂下方向

桜坂劇場から平和通り商店街へ下って行く。

賑やかな国際通りを横切り、崇元寺橋を渡る。

Img_9960 崇元寺石門 《地図

Img_9951 石門内

Img_9955 説明板

Img_9956 崇元寺下馬碑

Img_9961 長虹堤(ちょうこうてい)跡 《地図

浮島だった那覇から首里を結ぶ海中道路だったが、このあたりにその面影、名残りは見られなかった。

Img_9971 説明板

Img_9973 周辺案内図

Img_9962 七つ墓 【ル-ト地図】の⑤

「飴買い幽霊」・十貫瀬の由来の岩山

Img_9972 説明板

赤子を残し死んだ母親の幽霊が、飴を買い子を育てたという「飴買い幽霊」(子育て幽霊)の話は金沢の「飴屋坂」、長崎の「ゆうれい坂」、東京の港区の光福寺(ゆうれい地蔵)、京都ほか各地にある。

Img_9969 墓は少なくとも3つは並んでいるが、これが七つ墓なのかは分からず。

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2012年7月 7日 (土)

真珠道(那覇市の坂②)

2012年6月28日

首里駅(ゆいレール)・・・達磨寺・・・継世門(首里城)・・・木曳門・・・西のアザナ・・・真珠道・真小路分岐点・・シマシービラ(島添坂)・・金城町の石畳道・・・金城村学校所跡・・・内金城御嶽(大嶽・小嶽)・大アカギ・・・金城村屋・・金城大樋川・・・仲之川・・・金城橋・シチナンダビラ(識名坂)・・チョンチョンガー跡・・・繁多川公園・・メーミチー(前道)・・ハンタガー(繁多川)・・・ボージガー(坊主川)・・ウフカー(大川)・・識名宮・・神応寺跡・・・シードビラ(勢頭坂)・・・識名霊園・・・クバサビラ・・・尚徳王御陵跡碑・・・光明寺・・・真和志間切番所跡・・・アシンミ御嶽・・・ナンチチャービラ・・沖縄女子短大・・・(県道46号)・・・国道507号・・・真玉橋(国場川)・・・国道329号・・・爬龍橋(国場川・漫湖)・とよみ大橋東交差点(饒波川)・県道11号・・・(豊見城グスク跡)・・・高安橋(饒波川)・・・豊見城交差点・県道7号・・・ヒージャーガー・・・海軍濠公園・旧海軍司令部濠・・・アモールシガー・・真玉御嶽・・・(ゆいレール)・・・奥武山公園・・・がじゃんびら公園・・・国道331号・・鏡水交差点・ガジャンビラ(蚊坂)・・沖縄地方気象台跡(陸上自衛隊那覇駐屯地)・・・国道331号・・・明治橋(国場川)・・・旭橋駅(ゆいレール)

  【ル-ト地図】(20.0km)

 真珠道(まだまみち)は琉球王国の拠点中枢の首里城と那覇港を結ぶ軍用道路で、第二尚氏王朝の尚真王の時代に着手し、次の尚清王時代に那覇港まで通じた。
 首里城から真玉橋までは坂も見所も多いが、その先那覇港までは往時の面影を残す所は少ないようで、途中迂回、寄り道をしながら那覇港を目指した。

  *参考:『沖縄県歴史の道調査報告書1』・『首里城』・『「テンペスト」沖縄観光ガイド

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9483 継世門

首里城の東側の裏門で、普段は通用門だが、国王が亡くなると、城外に住む世継ぎの王子がこの門から入城し王位を継いだ。

Img_9485 木曳門

ここをくぐって物見台の「西のアザナ」へ上る。

Img_9493西(イリ)のアザナ(標高約130m)から那覇港方向

Img_9502 真珠道

シマシービラ(島添坂)の下りとなる。 【ル-ト地図】の①

坂一帯の小地域名の「島添」にちなむ。右に標柱。

Img_9508 坂下方向

Img_9512 この先の車道と交差する右側が金城村学校所跡

Img_9515 説明板

Img_9521石敢當」の所を左に入って内金城御嶽、大アカギへ寄る。

Img_9543 コダチヤハズカズラ(手前左))・オオバナアリアケカズラ(左先)

花の名が分かるのはむろん説明板が掛かっているからよ。

Img_9532 内金城御嶽(大嶽・東側) 《地図

Img_9533 大アカギ

Img_9531 説明板

Img_9540 内金城御嶽(小嶽・西側)

人畜を喰らう鬼と化した兄とバトルをくり広げる妹が活躍する沖縄民話『鬼餅の由来』がある。怖い話と言うよりも艶笑譚風だ。

幸い鬼には喰われなかったが、あちこちと虫に喰われ、帰京した後もまだかゆかった。

Img_9549 坂上方向を振り返る。

ゴミ袋が置いてなければもっといい景観なのだが。『日本の道100選』の「金城町の石畳道」で、途中の民家はNHNドラマ「ちゅらさん」の撮影に使われた。

Img_9558 金城村屋 《地図

地元の集会所兼観光客用の無料休憩所。

この前から北西方向に坂が分岐し上っている。(下の写真)

Img_9553 右は金城大樋川

この坂道は『歴史の道調査報告書』によれば、「琉球王府時代に国王が首里城から別荘の識名園に行く時に、島添ビラなどの急こう配をさけ、綾門大道から大きく迂回してこの坂を下り、真珠道に合流したと道」というが、かなりの遠回りで、しかも下りなのに。ちょっと合点が行かないが。

Img_9554 金城大樋川(金城村屋の隣)

石樋で地下水を導き出した共同井戸(樋川)

Img_9555 説明板

坂上近く右側に仲之川がある。

Img_9563 仲之川

東の金城大樋川と西の寒水川樋川の間の井戸。国王の世子を城王子と称することから「」は禁字で「」だそうだ。

Img_9561 説明板

Img_9564 今もきれいな水を湛えている。

Img_9557 真珠道との合流地点に戻って石畳道を金城橋まで下る。

Img_9573 金城橋(安里川・金城川)からは識名坂(シチナンダビラ)の上りとなる。《地図

Img_9576 説明板

Img_9580 石橋の彫刻模様に往時の風情が残るか。

Img_9579 シチナンダビラ(識名坂)を上る。【ル-ト地図】の②

昔話『識名坂の遺念火

Img_9582 坂上方向

かつては松並木の石畳道だったという。

Img_9585 チョンチョンガー跡

真珠道を往来した人々の喉を潤した井戸跡。あちこちに地域住民の飲料水、生活用水だった多くの井泉跡(カー(川))が残っている。

Img_9584 説明板

Img_9586 坂下方向を振り返る。

Img_9591 ハンタガー(繁多川)

Img_9593 説明板

Img_9600 ボージガー(坊主川)

神応寺に由来する名か。

Img_9599 説明板

繁多川豆腐」の再現の取り組み。

Img_9606 ウフカー(大川)

戦後まで使われていた井泉。

Img_9604 説明板

Img_9612 識名宮 《地図

琉球八社の一つ。東隣が神応寺跡

Img_9610 説明板

Img_9613 説明板

別名を識名寺で、識名宮の別当寺か。真言宗の前は禅宗の寺だったそうだ。

Img_9616 ンムドーニー

芋を洗うための琉球石灰岩製のたらい。水を入れて足で踏み洗いしたそうだ。底脇に水抜き用の穴がある。

Img_9619 シードビラ(勢頭坂)の緩やかな上りとなる。《地図

戦前は幅3mの急坂だったという。

Img_9623 識名霊園の間を通る。

屋根付き石造の破風墓、屋形墓ばかりで、我が棲家より立派だ。別に入りたいとは思わないが。

 ここから下りとなって再び識名交番あたりまで上って行く。

Img_9627 坂上方向

Img_9634 クバサビラの坂上

識名交番(左)から西方向へ下る坂。

『沖縄県歴史の道調査報告書』によれば、このあたりが真珠道の最高地点だそうだ。真珠道の入口の島添坂の坂上の方が高いような気もするが。「クバサ」とはどういう意味か?

Img_9630 クバサ坂(坂下方向) 《地図

戦前までは畑への農道だった。

Img_9635 尚徳王御陵跡碑(1959年建立)(交番の少し先の右側のマンション前)

このあたりは戦前はうっそうと樹木が茂り薄暗く、この西側に七門墓(ナナジョウバカ)があったという。

 真珠道を大井(ウフカー)、光明寺、樋川を見ながら下って行く。

Img_9641 真和志間切番所跡 《地図

前方左の上間郵便局あたり。

Img_9642 説明板

Img_9648 アシンミオ嶽

雨乞い祈願、旅立ちの見送りをし、航海安全を祈願した御嶽。

Img_9651 ナンチチャービラ(おこげ坂)を下る。 【ル-ト地図】の③

付近の土が鉄分を含み、ご飯のおこげのように茶褐色ゆえ、この名がついたという。

Img_9652 東方向の眺め

Img_9653 坂下方向

「おこげ」の土の名残か?

 沖縄女子短大前を通り、県道46号を横切り、国道507号を国場川(こくばがわ)沿いに西に進む。

Img_9660 真玉橋(まだんばし) 《地図

Img_9664 真玉橋遺構

現在の真玉橋の北詰と南詰に保存されている。

Img_9662 説明板

Img_9668 真玉橋

戦前の五連の石橋。

真玉橋から那覇港への真珠道は往時の姿をとどめている所は少ない。少し遠回りになるが国場川沿いを進み、爬龍橋から漫湖を眺め、西に豊見城グスク跡を見ながら饒波川沿いを南下した。

Img_9671 爬龍橋(はりゅうばし)(国場川・漫湖の間) 

爬龍船のレースと祭りの「豊見城ハーリー

Img_9677 豊見城ハーリー歌

Img_9673 漫湖 《地図

国場川が饒波川(のはがわ)と合流した所の干潟。左はとよみ大橋。

Img_9676 豊見城グスク跡 《地図

城跡公園になっているが、現在は閉鎖中とのこと。

豊見城交差点から県道7号を北上し、途中で左折し海軍濠公園に向かう。

Img_9688 海軍濠公園標識。

Img_9691 海軍濠公園から 【ル-ト地図】の④

地下壕で低い所にあると思っていたが、眺望のきく小高い丘にあった。この場所が選ばれたのは「海軍の小禄飛行場に近い高台で、見晴らしがよく肉眼でも敵・味方全体が掌握しやすく通信に障害が無い」などの理由からだそうだが、もう敵・味方の掌握、通信もままならず、敵からもまる見えで、上空から爆撃されればひとたまりもない袋小路の地下濠に頼るしかなかったのだろう。

Img_9694 旧海軍指令部濠

階段を下って行く。

Img_9695 枝分かれした通路には司令官室など並ぶ。

 地下壕を出ると晴れた空から雨が落ちて来た。相変わらず蒸し暑いが恵みの雨で、傘をささずに行軍した。

Img_9698 アモールシガー

小禄にあった18のカー(井泉)の一つのムラガー(村の共同井戸)

Img_9697 説明板

Img_9699 真玉御嶽 《地図

小禄星空公園内にあるようだが、ここからの遥拝ですました。

小禄交差点から小禄本通り(県道7号)を北上し、奥武山公園で一休みし、がじゃんびら公園に向かった。それにしても蒸し暑い。

Img_9706 がじゃんびら公園 《地図

細長い公園で入口もわかりづらく、公園の名も表示されていない(と思う)。「ガジャンビラ(蚊坂)」からもかなり離れている。

Img_9709 御物城(おものグスク)跡(正面) 《地図

那覇港内の琉球王国の交易品の倉庫、宝物庫跡で、戦前には料亭風月楼が建てられ、現在は米軍施設となっている。

Img_9710 美空ひばり歌碑

なぜ?

Img_9712 説明板

ここに「がじゃんびら公園」の記載があるだけか。

Img_9714 ガジャンビラ(蚊坂) 【ル-ト地図】の⑤

鏡水交差点から左前方に上って行く旧国道。坂名の由来は2つある。①坂付近に住む人名あるいは屋号をとって「ガジャヌビラ(我謝の坂)」からの転訛。②唐からを持ち込んだ男の民話から。小禄の昔話『ガジャンビラ(蚊坂)

Img_9717 上って下り再び国道331号に合流する。

渋滞しているのではなく、駐車しているのだ。左側の陸上自衛隊那覇駐屯地は沖縄地方気象台跡。

Img_9718 左に説明板が立つ。

Img_9720 説明板

坂名の由来も書かれている。

Img_9722 がじゅまる

この隣の沖縄そば店で、沖縄そばと生ビールで休憩した。冷房と冷えたビールで生き返った。

Img_9726 明治橋から那覇港

御物城跡(左前方)、屋良座森城跡(正面奥左)、三重城跡(右前方・《地図》)方向

屋良座森城(やらざもりぐすく)は那覇港口の南岸側に設けられていた防御砲台で真珠道の終点だが、米軍那覇軍港建設により破壊されて現存しない。三重城(みいぐすく)跡にはあさって行く予定。

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2012年7月 4日 (水)

那覇市の坂①

2012年6月27日

那覇空港駅(ゆいレール)→首里駅・・・城壁沿ルート・・首里城・・・守礼門・・・第32軍司令部濠跡・・・龍淵橋・円鑑池・天女橋・弁財天堂・龍潭池・・・円覚寺跡・・・中城御殿跡・・・アダニガービラ(安谷川坂)・・安谷川御嶽・・玉那覇味噌醤油(仲田殿内跡)・・下之橋(儀保川)・・・儀保駅(ゆいレール)

  【ル-ト地図】(3.0km)

 梅雨が明けた沖縄の那覇市の坂道散歩です。①首里城周辺、②真珠道、③玉陵→ヒジガービラまーい→識名園、④三重城跡→波之上宮→那覇港と4日間、小説『テンペスト』の舞台にも立ち寄りながら炎天下を歩く。
 まずは首里城だ。着いたのが4時過ぎ、汗を拭き拭きゆっくり回った。暑いのは覚悟していたが、思ったより湿気が多いのとあちこち虫に喰われたのには少々参った。

  参考:『首里城』・『テンペスト 沖縄観光ガイド

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9344 首里城の「東(あがり)のアザナ」あたりの城壁から那覇港方向。アザナとは物見台のこと。

Img_9347 城壁沿いを進む。

Img_9350久慶門(きゅうけいもん)

歓会門(かんかいもん)が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれている。

Img_9356歓会門

城郭内へ入る第一の正門で、見物客もここから入る。門の両側の「シーサー」が出迎えてくれる。

Img_9359瑞泉門

石段途中の右側に龍樋がある。

Img_9360龍樋

龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもの。

Img_9378奉神門・首里森御嶽(右)

ここは「下之御庭」で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る前の広場。

Img_9380正殿

前の広場が「御庭」(うなー)

Img_9390 正殿内部

Img_9389 説明板

Img_9395 玉座

Img_9402右液門

『テンペスト』の主要舞台の一つ正殿裏側の「御内原」に通じる門。ここが見物客の出口。

Img_9404 寒水川樋川(すんがーひーじゃー)

「樋(ひ)」は川や泉から水を導く長い管、または溝や屋根の雨水を受けて地上に流す装置(掛け樋)などのこと。一方、沖縄で井戸や泉のことをすべて川(カワまたはカー)と表現する。「ひかわ」とは、こうした表現を合わせた言葉で、ヒージャー(ガー)とも発音する。

Img_9403 説明板

Img_9413園比屋武御嶽石門(世界遺産)

王府の祈願所で、通る門ではなく拝殿にあたる。本殿の建物はなく、後ろの森がそれにあたる。

Img_9419守礼門 【ル-ト地図】の①

Img_9427 第32軍司令部濠跡 【ル-ト地図】の②

こんな袋小路の穴倉を掘って南西諸島を防衛しようなどと本気で考えていたとは・・・・。

Img_9423 説明板①

当初の文案では、「従軍慰安婦」と「住民虐殺」に関する記述があったそうだ。

Img_9424

Img_9425

Img_9428 濠の坑道は現在の道路を挟んでここへつながっている。中へは入れない。

Img_9433龍潭(りゅうたん)池

Img_9441 龍淵橋(円鑑池と龍潭(池)の間にある石橋)の上でくつろぐ鴨たち。 《地図

Img_9439 お母さんと一緒ならカメラを向けた変なおじさんが近づいても怖くないよ。

Img_9443円鑑池・天女橋・弁財天堂

Img_9446円覚寺総門(復元) 【ル-ト地図】の③

沖縄の臨済宗の総本山で、第二尚氏王統歴代国王の菩提寺だった。沖縄戦で破壊され、現在も復元整備中。

Img_9449 放生橋は往時のもの。

ここから先へは入れない。

Img_9457 中城御殿(なかぐすくうどぅん)跡 【ル-ト地図】の④

琉球王国の世子(世継・王子)が住んだ屋敷跡。ここにおもろ町に移転した県立博物館があった。昔話「耳チリボーズ」(耳切り坊主)の舞台の地でもある。

Img_9455 「耳チリボーズ」

Img_9459 アダニガービラ(安谷川坂)を下る。【ル-ト地図】の⑤

「ヒラ」は坂のこと。「平坂」は「坂の坂」、神話の坂の「黄泉比良」(よもつひらさか)もある。

この坂は首里城と浦添を結ぶ重要な宿道(西海道)の一部だった。

Img_9460_2 安谷川御嶽(アダニガーウタキ)

「嶽」・「御嶽」は礼拝所のこと。

Img_9461 説明板

Img_9463 坂下方向

左側が仲田殿内跡の玉那覇味噌醤油

Img_9465 玉那覇味噌醤油(仲田殿内跡)

安政年間創業の琉球王府御用達の店。もう7時近くで閉まっていた。

Img_9464 説明板

Img_9472 坂の途中で左に石畳を下るとアダニガー(安谷川)がある。

Img_9471 アダニガー(安谷川)

「カー」(川)は井戸・泉のこと。

Img_9468_2 説明板

Img_9475 下之橋(儀保川)から坂上方向

ここから見ると何の変哲もない橋だが、横から見ると野面積みの石垣が残っている。

Img_9474 説明板

Img_9476_2ゆいレール(沖縄都市モノレール)・久茂地川(旭橋駅から)

7時半近くというのにまだ明るい。

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