真珠道(那覇市の坂②)
2012年6月28日
首里駅(ゆいレール)・・・達磨寺・・・継世門(首里城)・・・木曳門・・・西のアザナ・・・真珠道・真玉小路分岐点・・・シマシービラ(島添坂)・・金城町の石畳道・・・金城村学校所跡・・・内金城御嶽(大嶽・小嶽)・大アカギ・・・金城村屋・・金城大樋川・・・仲之川・・・金城橋・・・シチナンダビラ(識名坂)・・チョンチョンガー跡・・・繁多川公園・・メーミチー(前道)・・ハンタガー(繁多川)・・・ボージガー(坊主川)・・ウフカー(大川)・・識名宮・・神応寺跡・・・シードビラ(勢頭坂)・・・識名霊園・・・クバサビラ・・・尚徳王御陵跡碑・・・光明寺・・・真和志間切番所跡・・・アシンミ御嶽・・・ナンチチャービラ・・沖縄女子短大・・・(県道46号)・・・国道507号・・・真玉橋(国場川)・・・国道329号・・・爬龍橋(国場川・漫湖)・とよみ大橋東交差点(饒波川)・県道11号・・・(豊見城グスク跡)・・・高安橋(饒波川)・・・豊見城交差点・県道7号・・・ヒージャーガー・・・海軍濠公園・旧海軍司令部濠・・・アモールシガー・・真玉御嶽・・・(ゆいレール)・・・奥武山公園・・・がじゃんびら公園・・・国道331号・・鏡水交差点・ガジャンビラ(蚊坂)・・沖縄地方気象台跡(陸上自衛隊那覇駐屯地)・・・国道331号・・・明治橋(国場川)・・・旭橋駅(ゆいレール)
【ル-ト地図】 真珠道(まだまみち)は琉球王国の拠点中枢の首里城と那覇港を結ぶ軍用道路で、第二尚氏王朝の尚真王の時代に着手し、次の尚清王時代に那覇港まで通じた。
首里城から真玉橋までは坂も見所も多いが、その先那覇港までは往時の面影を残す所は少ないようで、途中迂回、寄り道をしながら那覇港を目指した。
首里城の東側の裏門で、普段は通用門だが、国王が亡くなると、城外に住む世継ぎの王子がこの門から入城し王位を継いだ。
ここをくぐって物見台の「西のアザナ」へ上る。
シマシービラ(島添坂)の下りとなる。 【ル-ト地図】の①
坂一帯の小地域名の「島添」にちなむ。右に標柱。
「石敢當」の所を左に入って内金城御嶽、大アカギへ寄る。
コダチヤハズカズラ(手前左))・オオバナアリアケカズラ(左先)
花の名が分かるのはむろん説明板が掛かっているからよ。
人畜を喰らう鬼と化した兄とバトルをくり広げる妹が活躍する沖縄民話『鬼餅の由来』がある。怖い話と言うよりも艶笑譚風だ。
幸い鬼には喰われなかったが、あちこちと虫に喰われ、帰京した後もまだかゆかった。
ゴミ袋が置いてなければもっといい景観なのだが。『日本の道100選』の「金城町の石畳道」で、途中の民家はNHNドラマ「ちゅらさん」の撮影に使われた。
金城村屋 《地図》
地元の集会所兼観光客用の無料休憩所。
この前から北西方向に坂が分岐し上っている。(下の写真)
この坂道は『歴史の道調査報告書』によれば、「琉球王府時代に国王が首里城から別荘の識名園に行く時に、島添ビラなどの急こう配をさけ、綾門大道から大きく迂回してこの坂を下り、真珠道に合流したと道」というが、かなりの遠回りで、しかも下りなのに。ちょっと合点が行かないが。
石樋で地下水を導き出した共同井戸(樋川)
坂上近く右側に仲之川がある。
東の金城大樋川と西の寒水川樋川の中間の井戸。国王の世子を中城王子と称することから「中」は禁字で「仲」だそうだ。
金城橋(安里川・金城川)からは識名坂(シチナンダビラ)の上りとなる。《地図》
昔話『識名坂の遺念火』
かつては松並木の石畳道だったという。
真珠道を往来した人々の喉を潤した井戸跡。あちこちに地域住民の飲料水、生活用水だった多くの井泉跡(カー(川))が残っている。
神応寺に由来する名か。
「繁多川豆腐」の再現の取り組み。
戦後まで使われていた井泉。
識名宮 《地図》
琉球八社の一つ。東隣が神応寺跡
別名を識名寺で、識名宮の別当寺か。真言宗の前は禅宗の寺だったそうだ。
芋を洗うための琉球石灰岩製のたらい。水を入れて足で踏み洗いしたそうだ。底脇に水抜き用の穴がある。
シードビラ(勢頭坂)の緩やかな上りとなる。《地図》
戦前は幅3mの急坂だったという。
屋根付き石造の破風墓、屋形墓ばかりで、我が棲家より立派だ。別に入りたいとは思わないが。
ここから下りとなって再び識名交番あたりまで上って行く。
識名交番(左)から西方向へ下る坂。
『沖縄県歴史の道調査報告書』によれば、このあたりが真珠道の最高地点だそうだ。真珠道の入口の島添坂の坂上の方が高いような気もするが。「クバサ」とはどういう意味か?
クバサ坂(坂下方向) 《地図》
戦前までは畑への農道だった。
尚徳王御陵跡碑(1959年建立)(交番の少し先の右側のマンション前)
このあたりは戦前はうっそうと樹木が茂り薄暗く、この西側に七門墓(ナナジョウバカ)があったという。
真珠道を大井(ウフカー)、光明寺、樋川を見ながら下って行く。
真和志間切番所跡 《地図》
前方左の上間郵便局あたり。
雨乞い祈願、旅立ちの見送りをし、航海安全を祈願した御嶽。
付近の土が鉄分を含み、ご飯のおこげのように茶褐色ゆえ、この名がついたという。
「おこげ」の土の名残か?
沖縄女子短大前を通り、県道46号を横切り、国道507号を国場川(こくばがわ)沿いに西に進む。
現在の真玉橋の北詰と南詰に保存されている。
戦前の五連の石橋。
真玉橋から那覇港への真珠道は往時の姿をとどめている所は少ない。少し遠回りになるが国場川沿いを進み、爬龍橋から漫湖を眺め、西に豊見城グスク跡を見ながら饒波川沿いを南下した。
爬龍船のレースと祭りの「豊見城ハーリー」
国場川が饒波川(のはがわ)と合流した所の干潟。左はとよみ大橋。
城跡公園になっているが、現在は閉鎖中とのこと。
豊見城交差点から県道7号を北上し、途中で左折し海軍濠公園に向かう。
地下壕で低い所にあると思っていたが、眺望のきく小高い丘にあった。この場所が選ばれたのは「海軍の小禄飛行場に近い高台で、見晴らしがよく肉眼でも敵・味方全体が掌握しやすく通信に障害が無い」などの理由からだそうだが、もう敵・味方の掌握、通信もままならず、敵からもまる見えで、上空から爆撃されればひとたまりもない袋小路の地下濠に頼るしかなかったのだろう。
階段を下って行く。
地下壕を出ると晴れた空から雨が落ちて来た。相変わらず蒸し暑いが恵みの雨で、傘をささずに行軍した。
小禄にあった18のカー(井泉)の一つのムラガー(村の共同井戸)
小禄星空公園内にあるようだが、ここからの遥拝ですました。
小禄交差点から小禄本通り(県道7号)を北上し、奥武山公園で一休みし、がじゃんびら公園に向かった。それにしても蒸し暑い。
細長い公園で入口もわかりづらく、公園の名も表示されていない(と思う)。「ガジャンビラ(蚊坂)」からもかなり離れている。
御物城(おものグスク)跡(正面) 《地図》
那覇港内の琉球王国の交易品の倉庫、宝物庫跡で、戦前には料亭風月楼が建てられ、現在は米軍施設となっている。
なぜ?
ここに「がじゃんびら公園」の記載があるだけか。
鏡水交差点から左前方に上って行く旧国道。坂名の由来は2つある。①坂付近に住む人名あるいは屋号をとって「ガジャヌビラ(我謝の坂)」からの転訛。②唐から蚊を持ち込んだ男の民話から。小禄の昔話『ガジャンビラ(蚊坂)』
渋滞しているのではなく、駐車しているのだ。左側の陸上自衛隊那覇駐屯地は沖縄地方気象台跡。
坂名の由来も書かれている。
この隣の沖縄そば店で、沖縄そばと生ビールで休憩した。冷房と冷えたビールで生き返った。
御物城跡(左前方)、屋良座森城跡(正面奥左)、三重城跡(右前方・《地図》)方向
屋良座森城(やらざもりぐすく)は那覇港口の南岸側に設けられていた防御砲台で真珠道の終点だが、米軍那覇軍港建設により破壊されて現存しない。三重城(みいぐすく)跡にはあさって行く予定。
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