那覇市の坂③
2012年6月29日
儀保駅(ゆいレール)・・・アダニガービラ(安谷川坂)・・・ヤマトガー(大和井戸)・・・綾門大道・・・玉陵・・タマウドゥンビラ(玉陵ビラ)・・・赤マルソウ通り・・・シマシービラ(島添坂)・・真珠道・真玉小路分岐・・・フトウキメヌビラ(仏の坂)・・・崎山遺跡・崎山御嶽(崎山公園)・・崎山馬場跡・・瑞泉酒造・・・崎山馬場御座敷跡・・・ウチャヌビラ(御茶屋之坂)・・・御茶屋御殿跡・・・・ウチャヌビラ・・・末衛増御嶽・・・御茶屋御殿石造獅子(移設)・雨乞御嶽・・・アマグイビラ(雨乞坂)・・国吉比屋の墓・・・儀間真常の墓・・・亀甲墓・・・ヒジガービラ(ヒジ川坂)・・ヒジガーあたり・・・ヒジ川橋(安里川)・金城ダム・・・病害虫防除技術センター・・・識名園・・県道222号・・・開南交差点・・太平通り・・サンライズなは通り・・・平和通り商店街・・・てんぷら坂・・・桜坂・桜坂劇場・・・(国際通り)・・・崇元寺橋(安里川)・・・崇元寺石門・・・長虹堤跡・・・七つ墓(跡)・十貫瀬・・・美栄橋駅(ゆいレール)
【地図】
島添坂(シマシービラ)の坂上の真珠道との分岐から、真玉小路、ヒジガービラまーい(ヒジ川坂散歩道)、識名園から繁華街の国際通り付近に出て、崇元寺石門から長虹堤跡を通り七つ墓まで。たいした距離ではないが、今日も暑い暑い坂道散歩になるだろう。
*参考:『沖縄県歴史の道調査報告書1』
写真をクリックすると拡大します。
玉陵(タマウドゥン)
琉球王国第二尚氏王統の陵墓。
玉陵ビラ(タマウドゥンビラ)を下る。 《地図》
東方向に回り込み、島添坂(真珠道)の途中に出て上る。
真玉小路は左折し、フトウキメヌビラ(仏の坂)を下る。
分岐から東へ崎山遺跡までが真玉小路。
フトウキメヌビラ(仏の坂) 《地図》
赤マルソウ通りとの交差点まで下る真玉小路の緩やかな坂。今は「小路」ではない。
『歴史の道調査報告書』によれば、第二尚氏革命時に尚巴志王の遺骨を隠した大日寺があり、また戦後まで道沿いに一字ずつ「南無阿弥陀仏」と書かれた岩があったという。「赤マルソウ」とは、道沿いにあった味噌・醤油醸造会社で、現在は糸満市西崎に移転したそうだ。
これが『歴史の道調査報告書』が言う大慈悲院の井戸(デーフィンガー)だろうか? 左側の崖に第一尚氏最後の国王の世子のクンダ(腓-こむら)の骨だけが葬られたクンダグスク(腓城)があったという。このあたりは首里城の下なので「グスクヌシチャー」とも呼ばれるそうだ。
旧跡時代の遺跡だが、採石によりほとんど破壊状態。
崎山公園からの展望は首里八景の一つなのだが、写真はぼやけてしまった。
崎山御嶽 《地図》
崎山村の御嶽で、王府時代、高級女神官の首里大阿母志良礼が祀りを司った。境内は、察度王の子であった崎山子(サキヤマシー)の屋敷跡と伝えられ、境内には墓があるという。
拝殿に当たる門は、1865年に木造の瓦葺から石造切妻型のアーチ門に改造されたが、沖縄戦で破壊され、今ではコンクリート製で昔の姿を偲ぶことはできない。
崎山馬場跡 《地図》
王家の御用馬場で、馬術訓練が行われた約230mの直線道路。崎山の人達が綱引きをした所でもある。
王が馬術訓練を見学した御座敷(ウサンシチ)跡。奥に崎山村学校所(啓蒙館)があった。
戦前は崎山馬場沿いに25ヶ所もの泡盛醸造所があったそうだ。今はここ一軒のみ。
昔は御茶屋御殿の関門の木の門があり、このあたりを木門之前(キージョーヌメー)といった。今は右の電柱下に「石敢當」が立つ。
左は城南小学校
御茶屋御殿跡(崎山御殿・東苑) 《地図》
1677年に建られた王府の別邸で迎賓館。
ここで中国からの冊封使や薩摩の使者をもてなした。
御茶屋之坂の坂下に戻り、「ヒジガービラまーい」を進む。
石畳の上り坂となる。 《地図》
左に末衛増嶽
村を守る御嶽と違い、干ばつが続く時は、国王がみずから家臣たちを率いて、この御嶽で雨乞いの祈願をした。
今は「首里八景」の南西方向の眺望はない。
もとは御茶屋御殿跡の首里カトリック教会の敷地にあり、火難をもたらすと考えられていた東風平町富盛(こちんだちょうともり)の八重瀬岳に向けられていた。18世紀、文人として名高い程順則(テイジュンソク)が、御茶屋御殿を詠んだ漢詩「東苑八景」に「石洞獅蹲(セキドウシソン)」と記され、御殿を火災やその他の災厄から守る獅子(シーサー)が称えられている。がけ崩れの恐れが生じたのでここに移された。
途中、右へ入り雑草を分けて名前の由来の湧き水「ヒジガー」に向かうが、この先は進めない状態で引き返す。ここでもやぶ蚊などにボコボコに喰われた。
ヒジ川橋 《地図》
ここが「ヒジガービラまーい」の終点だが、橋を渡って識名園に向かう。
識名園正門
琉球王家の別邸。御茶屋御殿の「東苑」に対し、「南苑」とも呼ばれた。この門から国王一家や冊封使などが出入りした。
南方を見晴らす展望所で海が見えない。冊封使などをここへ案内し、琉球はけっして小さな島でなく、国土は広大であることを知らしめたかったようだ。左の小高い丘は高津嘉山(87m)だろう。
県道222号を国際通りの方へ向かう。かなりの距離で暑さでバテてきた。太平通り前の沖縄そば屋で腹ごしらえして休憩した。
戦後、坂沿いに掘っ立て小屋のてんぷら屋が軒を連ねていたそうだ。今は「てんぷら坂」という店があるのみ。
桜坂 《地図》
以前、桜並木があったからとか。
このあたりの全盛期は1960年代で、近くの壺屋や市場で働く人や買い物客が、帰りに遊んでいた歓楽街だったそうだ。
桜坂劇場から平和通り商店街へ下って行く。
賑やかな国際通りを横切り、崇元寺橋を渡る。
浮島だった那覇から首里を結ぶ海中道路だったが、このあたりにその面影、名残りは見られなかった。
「飴買い幽霊」・十貫瀬の由来の岩山
赤子を残し死んだ母親の幽霊が、飴を買い子を育てたという「飴買い幽霊」(子育て幽霊)の話は金沢の「飴屋坂」、長崎の「ゆうれい坂」、東京の港区の光福寺(ゆうれい地蔵)、京都ほか各地にある。
落語『幽霊飴』
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