雄踏街道①(浜松市の坂)
2012年7月26日
浜松駅(JR東海道新幹線)・・・合羽坂・・・金山神社・・木下恵介記念館・・・オルガン坂・・・成子坂下(菅原町交差点・旧東海道分岐地点)・・・監物坂・・・切通坂・・・賀茂神社・・・賀茂真淵誕生の地・灯籠坂・・・縣居神社・・・瑞生寺・・・西高坂下交差点・・・地獄坂・・・須佐之男神社・・・旧道・・西伊場町交差点・・不動橋(鴨江排水路)・・・矢田坂・・・六所神社・・・龍雲寺・・・佐鳴湖・・・佐鳴湖橋(旧新川)・・・臨江橋(新川)・・・作原坂・・・堂貫坂・・・入野中学校・・・三田稲荷・・・殿街道・・八柱神社・・草堂橋(東神田川)・・八剣の松跡・・・薬蔵坂・・・西見寺・馬頭観音堂・・・北の谷坂・・・池の谷坂・・神秀寺・・・志都呂八幡宮・・・志都呂東バス停→浜松駅
【ル-ト地図】
浜松駅から西へ、猛暑、酷暑の中を旧雄踏町(浜松市西区)の浜名湖まで、雄踏(ゆうとう)街道とその周辺の坂を歩く。
*参考:『浜松の道・坂・橋』(浜松市)
写真をクリックすると拡大します。
合羽坂(坂上方向) 《地図》 栄町交差点から北に上る坂。
坂下に合羽(かっぱ)を売る店があった。その頃は坂の両側に人家はなく斜面になっていて、晴れた日には合羽の材料の油紙がたくさん日に干してあり、風物詩の一つになっていた。『浜松の道・坂・橋』
油紙の合羽は見たことがある(ような気がするが)、使った記憶はない。半世紀以前にはすたれてしまったか。
この坂で歩いた坂が3000坂となる。
オルガン坂(坂下方向) 雄踏街道の菅原町交差点から北に上る坂。
このあたりをオルガン山と呼んだ。明治20年頃、この地で山葉風琴製造所(現ヤマハ株式会社)が、日本初のオルガン製造を始めたことに由来。
東京渋谷のオルガン坂よりはずっと坂らしい。
左上は割烹「いなんだ」のステーキ用の牛(像)。こんな暑い日は浜名湖の鰻か、ステーキでも食べてから坂道散歩とするべきだろう。
坂下の菅原町交差点が旧東海道分岐地点で、雄踏街道は西へ向かい、旧東海道は南西に進み、JR線を越えて行く。
監物坂 《地図》 雄踏街道から北西に上る坂。
徳川家康と武田信玄の戦いの時、織田信長の援軍の大将であった平手監物は、敵に追われこの付近に隠れたが、咳をして敵に見つかり斬られたという言い伝えがある。この平手監物の墓が坂の途中のお宮に祀られていることから、監物坂といわれている。それ以前は坂下に大鳥居があったことから鳥居坂ともいわれ、平手坂という人もある。 『浜松の道・坂・橋』
平田監物(久秀?)は伊勢長島一向一揆平定戦で討ち死にしたというが、史実や如何に?
坂の途中のお宮に祀られているという平手監物の墓を探したが、お宮らしき物は見当たらず。
切通坂 《地図》 雄踏街道の県居小西交差点から北方向に上る坂。
鴨江の台地から伊場の低地に通じる坂は灯籠坂だけで不便だった。大正末期にここの山を切り開き坂を通した。この坂の開通で農作業へ行くのが楽になった。『浜松の道・坂・橋』
右に坂標
賀茂真淵の父はこの神社の神官だった。
灯籠坂の由来となった秋葉灯籠の二代目か。
賀茂真淵と本居宣長の出会いの地、伊勢街道の松阪を思い出した。
昔はこの付近で台地と平地を結ぶ唯一の坂だった。雄踏・伊場方面からの鴨江寺への参拝道、平地への農作業の道だった。土地の人は「とーろん坂」と呼ぶそうだ。
祭神は賀茂真淵で、境内に賀茂真淵記念館がある。
鴨江小学校前から東に下り、坂下から北東に上って須佐之男神社へ通じる坂。坂の形は夫婦坂、相生坂、薬研坂。
前を行く女の子は、灼熱地獄の急坂で今にも倒れそうなふりをしながら上って来た。途中で私に気づき、すれ違いに「今日は」。「暑いね」と挨拶を返すと、うなづいて、照れ笑いをしながら上って行った。かわゆいねえ。
西伊場町交差点の手前で県道から右に入るのが旧道。【ル-ト地図】の3
矢田坂(やだざか・坂上方向) 《地図》
雄踏街道から北東に六所神社の東側に上る坂。昔、
昔はこの付近は寂しい所で、坂の両側には稲の苗田が作られていた。この苗田は細長く、ちょうど弓矢の矢の形に見えたので、矢田と名づけられたらしい。いまは住宅街になり、かつての面影はない。
東側に入野古墳があるのだが見逃した。
隣の龍雲寺と同じく木寺宮康仁親王の建立という。
開基の康仁親王の墓(五輪塔)がある。
佐鳴湖(さなるこ)
「さめいこ」とばかり思っていた。水浴びをしたアヒルが羽ばたいて水を飛ばしている。涼しそうでうらやましい。
作原坂(坂上方向) 《地図》 臨江橋(新川)の先から北へ上る坂。
小字名からの坂名。昔は坂の両側は雑木林と水田で人家はなかったそうだ。
堂貫坂(坂下方向) 《地図》 入野中学校の東側から北へ上る坂。
坂下あたりから台地へ農作業に行く道がなく不便だった。台地の中腹にあった廃寺の本堂を取り壊して坂を作った。『浜松の道・坂・橋』
室町時代の末期、南平県営団地の南側に「城山」という丘があり、大屋(大谷)様という豪族が住んでいて、土地の人からは「殿様」と呼ばれていた。この「殿様」が草堂の森に八王子社(八柱神社)を建て、そこへ参詣の時に通ったのでこう呼ばれているという。古雄踏街道の道筋だろう。
境内の日陰で一休みする。この暑さの中、男の子が休みもせずアゲハ蝶を追い回していた。拙者にもそんな時代があったっけ。夢のような昔の話だが。
戦国の頃、損傷した矢と剣を埋めて矢剣塚といった。その後、大洪水の際に上流から流れ着いた松がここに根付き、「八剣の松」といった。その枝葉は北を向き、周囲は5尺ばかりで、樹高は6間余、樹齢150年といわれていたが、落雷で枯れてしまった。
以前は隣に「角江遺跡」の標柱も立っていた。縄文時代後期から中世までの東神田川の谷の出口の砂州上の遺跡という。
雄踏街道から曲りながら北西に西見寺方向へ上る坂。
坂の途中に長光寺(廃寺)に薬師地蔵堂があった。
西見寺 【ル-ト地図】(旧道)の3
鐘楼仁王門
北の谷坂(坂下方向) 《地図》
雄踏街道から西見寺方向へ上る坂の一つ。
池の谷坂(坂下方向) 《地図》
これも雄踏街道から西見寺方向へ上る坂の一つで、一番西側の坂。
坂の途中に寺があり、寺の北側に池があった。池は埋め立てられ志都呂東団地の一部になってしまった。今も坂の途中に神秀寺がある。
観音石像の堂か。本堂は右に上った所にある。
もう4時近くだ。今日はここまでとし、バスで浜松駅に戻り、冷えた生ビールを飲んで明日に備えよう。
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