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2012年9月11日 (火)

千人同心日光道③(高萩宿→松山宿)

2012年9月7日

武蔵高萩駅(JR川越線)・・・国道407号・・・(川越線ガード)・・高萩宿・・旅籠鶴屋・亀屋跡・・・日高団地入口交差点・旧道・・北小畔川・・国道407号・・・旭ヶ丘交差点・高萩飛行場跡・・・日光街道杉並木・・安養寺・・河岸街道交差点・地蔵道標・(鶴ヶ島市)・・・高倉天神交差点・・・鶴ヶ島中学校・榜示杭・・川崎平右衛門陣屋跡・・桜並木・・才道木庚申塔・馬頭観音・・脚折才道木交差点・日光道道標・・・白髭神社・・・寿橋(飯盛川)・・・善能寺・・・針売庚申塔・・・(関越自動車道)・(坂戸市)・・(東武越生線踏切)・・・(東武東上線踏切)・坂戸神社・坂戸宿・・旅籠角屋跡・延命地蔵尊・・・坂戸小学校前交差点・日光道道標・・・薬師堂・・・旧道消滅地点・・跨線橋(東上線)・・・溝端公園・・北坂戸団地・・旧道復活地点・旧日光街道碑・・・上吉田の一本杉?・・・(東上線ガード)・・・国道407号・・高坂橋(越辺川)・・(東松山市)・・川越児玉往還合流地点・坂下橋(九十九川)・・・高坂神社・・高坂宿・・高済寺・・川越児玉往還分岐地点(塚田屋商店)・日光道道標・・・都幾川河原(高坂の渡し跡)・石橋・石橋供養塔・・・東松山橋(都幾川)・・・(国道407号)・・・下野本橋(新江川)・・野本村道路元標・・・無量寿寺(野本館跡)・・野本将軍塚古墳・利仁神社・・・(国道407号)・・・野本八幡神社・・・(国道254号)・・・若松町一交差点・国道254号・・・神明歩道橋・・旧道・・松山宿・・・東松山駅(東武東上線)

  【ル-ト地図

 日高市の旭ヶ丘交差点から鶴ヶ島市にかけて3kmほどの杉並木が続く。本場の日光街道杉並木と違い、全区間に歩道が分離していて歩き安く、強い陽射しを除けてくれて助かる。
 坂戸宿の先で途切れた旧道は旧日光街道碑あたりで復活するが、越辺川の手前でまた途切れる。越辺川を高坂橋で渡り、高坂宿を通り、都幾川の高坂の渡し跡あたりまで下る。引き返して東松山橋で都幾川を渡り大きく迂回し、国道407号の東側を北上し、松山宿までたどり着いた。迂回路もあり、途中で道を間違えたりもして、暑い中の20km以上の道のりはけっこうな消耗戦だった。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1688 高萩宿の家並み 《地図

右の金毘羅大権現の碑の所が旅籠鶴屋跡、道路の向い側が亀屋跡。

 

Img_1689 旧家

 

Img_1694_2 高萩飛行場跡 《地図

旭ヶ丘交差点の西側一帯

 

Img_1701 日光街道杉並木 【ル-ト地図】の11

歩道が分離し、日陰歩きなのでありがたい。右の地蔵道標(手前の石柱・天明6年(1786))は、「右 坂戸 左 高萩」で少し手前の河岸街道とのに立っていたもの。東の方から来る人のための道標だったようだ。

高倉天神交差点で左に進む。

   

Img_1718 榜示杭(鶴ヶ島中学校校庭前)

 

Img_1717 説明板

 

Img_1719 川崎平右衛門陣屋跡 【ル-ト地図】の12

左奥の小石祠は平右衛門の徳を追慕して農民達が建てた「川崎大明神」。悪代官が相場だが、中には名代官もいたようだ。玉川上水の『小金井桜』を植えたのも川崎平右衛門だ。『五日市街道①

 

Img_1720 説明板

 

Img_1722 陣屋図

 

Img_1725 ここは桜並木(鶴ヶ島中学校前)

 

Img_1724説明板

 

Img_1729 才道木庚申塔(宝暦10年(1760))・馬頭観音(安永10年(1781))

 

Img_1730 日光道道標(文政4年(1827)) 《地図

ここは脚折才道木(すねおりさいどぎ)交差点で、脚折は日本武尊が東征の際に、馬が脚を折ったという伝承からか?

 

Img_1731 説明板

 

Img_1735 「北 日光 さかと」に従い直進する。

 

Img_1747 白髭神社

脚折雨乞

 

Img_1739 説明板

 

Img_1746 脚折(すねおり)のケヤキ

樹齢900年以上だが、惜しいかな上部が折れている。

 

Img_1745 説明板

 

Img_1757 針売庚申塔 【ル-ト地図】の13

 

Img_1751 説明板

 

Img_1755 針売庚申塔(元禄6年(1693))

 

関越自動車道をくぐり坂戸市に入る。東武越生線踏切、東武東上線踏切を渡ると坂戸宿だ。

Img_1767 坂戸宿

坂戸神社の北側から坂戸小学校あたりまでの1kmほどが宿場だった。

 

Img_1769 坂戸神社

 

Img_1768 由緒

 

Img_1770 旅籠角屋跡(左)・延命地蔵尊(右) 《地図

坂戸宿は日光へ向かう八王子千人同心の1日目の宿泊地だった。高萩宿の数倍の規模だったというが、今はご覧の通りの「シャッター通り商店街」になってしまった。

 

Img_1777 突当りの坂戸小学校前に日光道の道標が立つ。《地図

 

Img_1779 「左 日光道」・「右 よしミみち」で、左に進む。

 

Img_1783 薬師堂

この先で旧道は消滅する。

 

Img_1782 説明板

 

Img_1785 旧道消滅地点 《地図

跨線橋で東上線を越え、溝端公園、北坂戸団地沿いを進む。

 

Img_1791 北坂戸団地(右)

 

Img_1792 旧道復活地点 【ル-ト地図】の14

正面右に旧日光街道碑・雨降山常夜灯・馬頭観音で、裏手の田んぼの水路が旧道の道筋だったようだ。

 

Img_1794 碑文

 

Img_1803 旧道は県道を横切って行く。

 

Img_1805 旧道は続くが。

 

Img_1806 上吉田の一本杉(正面右奥)あたりで県道に出る。《地図

越辺川の渡し場の位置は確定できないそうだ。東上線の鉄橋の上流100mの地点ともいう。

 

東上線のガードをくぐり国道407号に出る。

Img_1815高坂橋(越辺川(おっぺがわ))を渡る。

東上線が鉄橋を渡って行く。越辺川の語源にはアイヌ語に由来するという説もある。

 

Img<p> </p_1817 毛塚交差点

この先で島田橋(越辺川・島田の渡し跡)を渡ってきた「川越・児玉往還」と合流して九十九川を渡る。

 

Img_2733 九十九川(坂下橋)を渡って高坂宿へ。

橋のたもとの左手に「左 江戸道」・「右 八王子道」の道標(安永3年(1774))があるというが見当たらず。

 

Img_2734 地蔵・庚申塔祠(左)

 

Img_2737 六地蔵祠(右)

 

Img_2741 六地蔵

祠の右に馬頭観音(文政4年(1821))、左に回国供養塔・力石。

 

Img_1824 高坂神社 《地図

 

Img_1831 高坂宿の家並み 

宿場の面影は薄く、静かな家並みが続く。

 

Img_1833 旧家

 

Img_1834 川越児玉往還分岐地点(道標が2本立つ) 《地図

千人同心日光道は塚田屋手前の道標で右に入り、都幾川の高坂の渡しへ通じていた。

 

Img_1841 都幾川の河原へ進む。

左の道標(安永10年(1781))は「右 日光 よしみ いわどの 道」・ 「八王子道」・「左 ちゝぶ ひき いわどの 道」。
右の道標(嘉永?年)は、「右 松山 行田 熊谷 左 小川 八幡山 道」

 

Img_1849 石橋・石橋供養塔 《地図

「高坂の渡し跡」には旧国道407号の沈下橋(高坂橋)が平成の初めまで残っていたが、都幾川の流路改良により消滅したそうだ。

 

Img_1848 石橋供養塔

 

Img_1846 説明板

 

引き返して東松山橋を渡る。

Img_1853 東松山橋(都幾川) 《地図

 

Img_1856 土手沿いを新松山橋へと進む。暑くて参った。

 

Img_1860 国道407号の東側の道を北上する。《地図

野本将軍塚古墳(右前方)

 

Img_1872 無量寿寺 《地図

銅像誕生釈迦仏立像は県指定彫刻。
野本館跡地で、本堂の北側に土塁跡、堀跡が確認できるそうだ。

 

Img_1877 野本館跡説明板

 

Img_1871野本将軍塚古墳 【ル-ト地図】の15

前方部上から後円部方向。全長115mの前方後円墳。後円部上に利仁神社。

 

Img_1866 説明板

 

Img_1879 野本八幡神社

 

Img_1880 説明板

 

若松町一交差点で国道254号に出る。

Img_1890 神明歩道橋の先で右に旧道に入る。ここは松山宿の入口だ。《地図

駅前通りとの交差点で今日の打ち止めとし、左折して東松山駅に向かった。

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