千人同心日光道⑥(上新郷宿→川俣宿)
2012年9月14日
武州荒木駅(秩父鉄道)・・県道7号・・・天満宮・・・荒木交差点・・・(羽生市)・・・祥雲寺(西寺)・・南陽酒造・・上新郷交差点・新郷村道路元標・上新郷宿・・法性寺(東寺)・・・脇本陣跡須永家・・本陣跡須永家・・豊明橋・・・愛宕神社・・勘兵衛松並木跡・・・並木橋(埼玉用水路)・・塞神社跡・・・地蔵・庚申塔祠・・大石橋・・・利根川土手・川俣関所跡・富士見の渡し跡・・国道122号・昭和橋(利根川)・・(群馬県明和町)・・旧道・・川俣宿本陣跡塩谷家・・粟島神社・・・川俣事件衝突の地・邑楽用水路・・・(国道122号)・・・長良神社①・東光寺(佐貫氏館跡)・・・阿弥陀三尊板碑標柱・・・長良神社②・・・天神橋(利根加用水)・一里塚跡・富士山供養塔・・・青柳橋(谷田川)・・・(館林市)・・・麻疹地蔵・龍積寺(青柳城跡)・・・長良神社③・・・茂林寺入口交差点(国道122号)・・・(東武伊勢崎線踏切)・・・茂林寺・・・茂林寺前駅(東武伊勢崎線)
【ル-ト地図】
行田市から羽生市に入り、上新郷宿を抜け街道の片側に残る勘兵衛松並木を日除けにしながら川俣関所跡の利根川の土手に上る。富士見の渡し跡の昭和橋を渡れば群馬県明和町だ。
川俣宿を通り、青柳橋を渡ると館林市で暑さが増した感じがする。茂林寺入口交差点を今日の終点とし、分福茶釜の茂林寺に寄った。
次回はいよいよ日光例幣使街道と合流する天明宿(栃木県佐野市)まで行く予定だ。
写真をクリックすると拡大します。
右に旧道が少し残る。
祥雲寺(西寺) 《地図》
南陽酒造(左)の先の上新郷交差点で左折すると上新郷宿。
館林から行田へ向う時の片継場(宿場)だった。交差点の右に新郷村道路元標が立つ。
創業明治28年
もとは欅造りの門の中に総茅葺の母家だったそうだ。
推定樹齢400年
社殿は古墳上にある。この先の勘兵衛松並木沿いにあった塞神塔が合祀されているという。
ここが新郷宿のはずれ。
寛永5年(1628)の徳川家光の日光社参の折に、街道沿いに風趣を添えるために忍藩城主が家臣の勘兵衛に命じ、延長559mの間に黒松150本を植えた松並木の名残り。
本数は少なくなっているが、日を除けてくれて助かる。
「愛宕神社に合祀」とある。
庚申塔は両側面にも2体づつの観音が浮彫されている。
関所跡・渡船場跡は河川改修で、川底に眠ってしまった。
橋の上流側に新郷の渡船場、下流側に川俣の渡船場があったようだ。渡船場からは富士山の眺めがよく「富士見の渡し」と呼ばれていた。
下調べでは昭和橋には歩道がないというので覚悟はしていたが、しっかりと幅広い歩道がついていた。
少雨で流量が少ないのか。
昭和橋を渡れば群馬県明和町だ。
すぐ下に本陣塩谷家
鳥居の奥が粟島神社
川俣宿の鎮守
右側中央より少し下に脇本陣がある。
この右側に新しい記念碑もある。
すぐ後ろを邑楽(おうら)用水路が流れている。
長良神社①・東光寺 《地図》
あたり一帯は鎌倉時代の御家人、佐貫氏の館跡という。館林周辺は佐貫庄と呼ばれ、鎌倉時代の佐貫荘は秀郷流足利氏流の佐貫氏が勢力を持っていたそうだ。
秋野家の敷地内に永仁3年(1295)の高さ40cmほどの板碑があるそうだ。
富士山供養塔(安政4年(1857))は、富士参拝に向かう老人がこの地で力尽き、田の水面に映る富士を見て息絶えたのを、村人が弔ったものという。
「つつじのまち」なら涼しそうでいいが、館林と言えばやはりこの暑さだろう。
龍積寺(りゅうしゃくじ) 《地図》
麻疹地蔵(山門左)は、この先の青柳刑場にあって「首斬地蔵」と呼ばれていた。明治42年にここへ移設。
このあたり一帯が青柳城跡で、文明年間(1469~86)に大袋城築城まで赤井氏の居城だったという。(「群馬県歴史の道調査報告書」では、長良神社③の北側一帯を青柳城跡としている)
長良神社③ 《地図》
長良神社が多いのは古代の豪族、長柄氏と関連があるのか。
茂林寺入口交差点に出て茂林寺に向う。
ここは「分福茶釜の里」、分福町なのだ。
居並ぶ狸が出迎えてくれる。
紫金銅製・周囲4尺・口径八寸・重量約三貫目・容量一斗二升
ちなみに「童謡『証城寺の狸囃子』の證誠寺は、千葉県木更津市。『房総往還④』に記載。
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