川越・児玉往還①
2012年9月20日
川越駅(東武東上線)・・・川越城大手門跡・・・札の辻・・・(菓子屋横丁)・・・六塚稲荷神社・・・高沢橋(新河岸川)・・・本応寺・・・石原町北交差点・・・寺山橋・・・八咫神社・・入間川土手・・・県道256号・平塚橋(入間川)・・・天満宮・・・莿橋(小坂橋・小畔川)・・・馬頭観音・・(坂戸市)・・・東坂戸団地入口交差点・・・大穴橋(大谷川)・・(川越市)・旧道・・県道256号・・・本応寺別院・・(圏央道)・・・(坂戸市)・・・八坂神社・・・大宮住吉神社標石・・・義家塚(塚越神社)・・・谷治川橋(谷治川)・・・石井下宿交差点・・宗福寺・・・須賀神社・・・注連松橋(飯盛川)・・・〆松地蔵・・・石井水処理センター・・・島田橋標識・・・島田橋(越辺川)・島田の渡し跡・・・千人同心日光道合流地点・(国道407号)・坂下橋(九十九川)・・・地蔵・庚申塔祠・・・地蔵祠・・・長松寺・・・高坂宿・・・高坂駅(東武東上線)
川越・児玉往還は、川越城下から坂戸市、嵐山町、小川町、寄居町、児玉町(本庄市)を経由し、神流川を渡り上州の藤岡へ通じる街道で、中山道のバイパス的機能を果たしていた。途中には鎌倉街道上道と一致する部分もある。
大名等の大きな行列は中山道を通ったが、将軍の代替わりごとに派遣される巡見使や諸役人などはこの街道を通行した。
街道の北方では「江戸道」・「川越道」で、南方では「上州道」・「八幡山道」などと記すという。
継ぎ場(宿)は、石井・塚越(坂戸市)、高坂(東松山市)、菅谷・志賀(嵐山町)、奈良梨(小川町)、今市・赤浜(寄居町)、小前田・原宿(深谷市(旧花園町))、広木(美里町)、児玉・八幡山(本庄市)にあった。
今日は千人同心日光道との合流地点の高坂の宿まで行く。
【ル-ト地図】
*参考:『川越・児玉往還』(歴史の道調査報告書・埼玉県教育委員会)
写真をクリックすると拡大します。
川越城大手門跡碑と太田道灌像が立つ川越市役所前。ここを川越・児玉往還の出発地点とした。
いつもながら川越は車の往来が激しく、おまけに道路工事中でなおさら歩きにくい。そしてこの蒸し暑さには参る。
高札場があった所。
江戸時代には、養寿院の門前町として栄えたところで、明治の初めから菓子を製造し、関東大震災で被害を受けた東京に代わり駄菓子を製造し供給するようになった。最盛期の昭和初め頃には70軒程の店が軒を連ねていたという。
六塚稲荷神社本殿
太田道真が、この地にあった6つの塚を崩した代わりに、6つの稲荷社を建立し、後に5社を廃し1社に合祀したという。
明治時代には石造のアーチ橋で、「めがね橋」と呼ばれていたそうだ。
川越藩国家老の高田繁文の墓がある。
石原町は城下への入口で、明石屋・山形屋など町の半数以上が旅館だったという。
硝子戸に「鋸一式」とある。
石原町北交差点を直進して行く。
八咫(やた)神社 【ル-ト地図】の3
「まんぐり」・「上寺山の獅子舞」は川越市の無形民俗文化財。
現在の平塚橋の下流100mほどの所の旧橋があったそうだ。冠水橋で大雨の時などは取り外したという。
入間川を渡った旧道はこの神社前に通じていた。
莿橋(とげばし)(小坂橋・小畔川) 《地図》
大男(でえだらぼう・ダイダラボッチ)に刺さった「とげ」の伝説に由来。『川越の伝説』
宮坂米菓敷地。
丸彫りで、三面か。
この手間に左に観音堂があるはずだが、何故かみつからなかった。観音堂バス停もあるのだが。
八坂神社 《地図》
蔵造りの祠で「天王さま」と呼ばれ親しまれている。「塚越ばやし」は坂戸市の無形民俗文化財。
古い標石には「川越江二里」とあるそうだ。
このあたりは塚越の宿(継ぎ場)だが、その面影はない。
塚越の地名の由来ともいう。もとは円墳か。
この先に大宮住吉神社・西光寺があるが割愛した。
もとは石橋で、鬼が置き去りにした大石を橋桁にしたという伝説から「鬼橋」といったそうだ。
宗福寺 《地図》
文和5年(1356)銘の「南無阿弥陀仏」と刻まれた坂戸市内最大の六字名号板碑があるのだが見逃した。ここは勝呂氏館跡の一画で、勝呂公民館分館敷地が勝呂廃寺跡という。
ここは石井の上宿だがその景観は残らず。
もとは手前の注連松(しめまつ)橋脇にあったもの。注連縄をかけた大きな松があったそうだ。
兄弟地蔵の伝説:「大智寺の兄弟地蔵が喧嘩をし、弟地蔵が兄地蔵から投げられ2kmも離れたこの地へ飛ばされてきて泣いていた。そこへ通りかかった大日様が、「寺にいる兄さん地蔵には死んだ人を守ってもらう。お前はここで旅人や村の人を守りなさい」と慰め諭した。その後、弟地蔵はいつもにこにこして旅人や村人を見守り、慕われたという」
継ぎ場(宿)ではなかったが、下宿・上宿の名が残る。
島田には、明治40年頃に開通した。「テトーテトー」とラッパを鳴らす「テト馬車」という乗合馬車が川越の江戸町から一日二往復走っていた。大正5年に東上線が坂戸駅まで開通した後もしばらくは走っていたそうだ。突当りは越辺川。
水神宮・地蔵・庚申塔など
島田の渡し跡で常備2艙で渡していた。
上流の高坂橋(国道407号)と違い、人の渡る木橋でいい気分だ。
この先の高坂宿から千人同心日光道との分岐までは、『千人同心日光道③』に記載。
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