佐渡奉行街道①
2012年10月12日
新町駅(JR高崎線)・・・中山道分岐地点(新町郵便局交差点)・県道40号・・・諏訪神社①・・岩倉橋(烏川)・・・旧道・・角淵八幡宮・・・県道40号・・・錦野橋(境川)・・・観照寺・・・下新田交差点・日光例幣使街道合流地点・玉村宿・国道354号・・・大橋(滝川)・日光例幣使街道分岐地点・・滝川土手・・道路改修工事で行止り迂回・・・上滝橋(滝川)・・・諏訪神社②・利根川自転車道・利根川土手・(北関東道・横手大橋)・・善勝寺・・宝篋印塔(西横手町公民館)・・・諏訪神社③・・・利根川自転車道・・・萩原の道しるべ・・・(昭和大橋)・公田の渡し跡・・・徳蔵寺・・・萩原の大笠松・・・黒姫稲荷神社・・・道標・・・福徳寺・・八幡神社・・・道標・県道13号・・・地蔵・・・真正(実政)の渡し跡・・・小相木町交差点・・・大徳寺・・富士浅間宮・県道13号・・・菅原神社・・・(両毛線)・・・(国道17号)・・・石倉橋(滝川放水路)・・・石倉城二の丸公園・・・王山公園・・・大渡しの渡し跡・・・利根川河川敷・・・総社城南木戸跡・・野馬塚神明宮・・野馬の不動尊・・大渡橋西詰交差点・県道6号・・・総社宿問屋場跡・本陣跡(総社町交差点)・・蛇穴山古墳・五千石用水・・宝塔山古墳・光厳寺・・総社神明宮・・大手橋(五千石用水)・総社城址・・熊谷稲荷神社・・・元景寺・・・立石橋(天狗岩用水・群馬県水力発電発祥の地)・総社城西木戸跡・・・総社愛宕山古墳・・・総社二子山古墳・・・群馬総社駅(JR上越線)
【ル-ト地図】
中山道を本庄宿か、その先の新町宿で分かれて烏川を渡り、日光例幣使街道と合流して玉村宿を西進し、利根川沿いに北上して、総社宿、大久保宿、八木原宿を経て、渋川宿で三国街道と合流する佐渡奉行街道を行く。
もとは三国街道の古道で、高崎から渋川への道が整備され本道となってからも佐渡奉行はこの道筋を利用したので、佐渡奉行街道と呼ばれる。佐渡へ流人を運ぶ唐丸籠もこの道を通った。
中山道からの主な分岐点の3か所のうち、新町宿からの道筋を三国街道と合流する渋川宿までたどる。今日は北風の強い日だったが、「赤城おろし」の上州空っ風にはほど遠い、なま暖かな風だった。もう気温も25度には届かず歩き安く、久しぶりに30kmほど歩いた。
*参考:『群馬県歴史の道調査報告書 第7集』(群馬県教育委員会)
写真をクリックすると拡大します。
ここは中山道新町宿で直進は高崎方向、佐渡奉行街道は右折し北へ、烏川へと向かう。
諏訪神社① 《地図》
街道は下流約250mの地点を渡し船で渡っていた。対岸の角淵には河岸町の名が残る。
橋の名は岩倉具視に由来する。
橋のたもとにある上武大学の学生が土手を走っていた。今月20日が箱根駅伝の予選会だ。(予選会5位で正月の本大会出場を果たした)
角淵(つのぶち)八幡宮 《地図》
玉村八幡宮のもとの所在地。源頼朝の勧請という。
直径40mの円墳で、天正10年(1582)、厩橋城主滝川一益と小田原主北条氏直の神流川の戦いの際に、一益が墳丘上で軍配で指揮を取ったことからの名という。ちょっと離れているのでここから遠望のみ。
上毛野国(かみつけぬの国・群馬県)は古墳の宝庫だ、今日はこの後、5つの古墳を巡った。
観照寺 《地図》
死者の冥福、死後の安穏祈願の緑泥片岩製の板碑。中央の弘長2年(1262)の板碑は、整形板碑では群馬県で最も古いものの一つで、高さ128cm、幅40cm、厚さ5cm。右は弘安7年(1284)のもので、高さ85cm、幅36cm、厚さ4cm。左は文和2年(1353)のもので、高さ97.5cm、幅34cm、厚さ3cm。
左折して、日光例幣使街道を歩いた時とは逆方向(西方向)に進む。
右は角淵八幡宮が遷宮した玉村八幡宮。玉村宿は日光例幣使街道①に記載。
大橋(滝川)の手前で右折し土手沿いを行くのだが。
滝川土手を行くが 《地図》(道の標示はない)
刈った草が深く、北風も強く歩きにくい。今は道としては使われていないようだ。この次の橋から先は工事中で両岸とも遮断されている。左に迂回して関越自動車道をくぐった道を行こうとしたが、自動車道手前も深く掘り下げられて通行不能。仕方なく右から北へ大きく迂回するハメとなる。佐渡奉行が通る時なら、この不始末は手討ちものだぞ。
上滝橋でやっと本来の街道筋に戻る。 《地図》
諏訪神社② 《地図》
ここで利根川の堤防上に上がる。今は利根川自転車道として整備されている。ここから対岸の横手に渡る渡船場がカスリン台風の時まであったそうだ。
川からの吹きさらしの風が強いだろうと覚悟していたが、土手と樹木に防がれて風は弱く、平日で自転車も少なく歩きやすい。
明徳の宝篋印塔(西横手町公民館) 《地図》
もとは西横手町の西福寺(廃寺)にあったもの。
右の自然石に「之よりひだり江戸みち 之より右ち〃ぶみち」、左は大正4年の「御即位記念」の碑。
昭和47年まで続いた重要な交通手段だった。
ここは八木家の庭内。樹齢は400年以上、高さ約7メートル、枝張り約20メートル。
黒姫稲荷神社 《地図》
双体道祖神(文化12年(1815)・稲荷神社の敷地内の下新田公民館前)
仲の良い男女という感じの俗っぽい神さんだ。
「前橋市 新高尾村 玉村町」などの文字が読める。
八幡神社 《地図》
「佐渡奉行街道碑」が立つ。
道標(大正6年) 「右 小相木 経 前橋市 左 下新田 経 玉村町」
「前東村役場 ヨリ 新高尾村」
朝日が丘歩道橋の手前
対岸には元和2年(1616)に真正(実政)関所が置かれた。渡しは明治3年に船橋ができて廃止された。今では南部大橋が架かる。このあたりは浅瀬で流れは早いが徒歩でも渡れそうだ。
大徳寺総門 《地図》
菅原神社 《地図》
「旧佐渡奉行街道碑」(67代総理大臣福田赳夫書)
ここは「石倉」
奥に「石倉城址碑」と外郭図があるのみで遺構は残らず。手前の西側に外堀公園がある。
王山古墳公園
墳丘は川原石の「積石塚」
大渡しの渡し場跡あたり 《地図》
対岸には元和元年(1615)大渡関所が置かれた。
総社宿は慶長6年(1601)に秋元越中守長朝が着任以来、総社城の築城事業の一環として形成されてきた。慶長9年の町づくりの時には、元総社から多くの人々を移住させたという記録があるそうだ。
宿場は城下町としての機能も持ち、街道は3か所で直角に折れ曲がり、宿の南と西(北)には木戸が設けられていた。このすぐ先の大渡橋西詰交差点が1か所目の左折地点。
野馬塚地区の鎮守として南木戸の外に建立された。
神明宮前だが、隣の家の方が絵になるか。
神明宮前
野馬の不動尊 《地図》
総社宿問屋場跡・本陣跡 《地図》
総社町交差点の手前左側と、交差点を渡った北西角だが両者とも遺構は残っていない。ここが2か所目の右折地点。
本陣と問屋を備えた宿は玉村宿とこの宿で、大久保宿と八木原宿は荷物輸送の問屋だけだったようだ。
中古車販売店になっていてこの標柱のみ。
一辺約40mの方墳。
常時開口していて石室内に入れる。
みごとな石材加工技術だ。
一辺約55mの3段築成の方墳。
墳丘上には秋元氏歴代の墓がある。
全長12mもある。奥に家形石棺が見える。
光厳寺薬医門
秋元長朝が開基の秋元氏の菩提寺。
ここは総社城の大手門の西の地で、総社の総鎮守。鳥居前に総社町道路元標が立つ。
総社城の外堀の名残りで、城内の内堀の用水、宿場の防火用水、水田の用水ともなった。「大手橋」というには名前負けしている橋で写真は撮らず。
遠見山古墳(正面奥)に物見の櫓台があったという。北方の城川公園に説明板があるようだ。
熊谷稲荷神社 《地図》
宝永6年(1709)の総社騒動(安藤出雲守暴政訴訟事件)の際に農民達が江戸へ直訴に向かう途中、熊谷(埼玉県の中山道沿いか)の稲荷神社で落ち合い加護を祈った。そして首尾よく勝訴となり、この地へ熊谷稲荷神社として勧請したという。
天狗岩用水の由来の「天狗」を祀る「羽階権現」の祠があるようだ。
参道手前の交差点が3か所目の左折地点となる。
総社城西木戸跡 《地図》
秋元長朝が領内の水田開発のために開削した用水路。難工事を山伏姿の天狗が手伝ったとか。
光厳寺境内には秋元長朝の徳を讃えて農民達が建てた『力田遺愛碑』がある。
ここは群馬県水力発電発祥の地でもある。
一辺56mの2段築成の方墳
奥に家形石棺がある。
全長約90mの2段築成の前方後円墳。石室は2か所ある。
前方部の石室は崩落していてフェンスが張ってあり入れない。
諏訪神社の手前で右折し、群馬総社駅に向かった。もう5時近くで薄暗くなってきた。今日はよく歩けて満足した。
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